赤川元保

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赤川 元保(あかがわ もとやす、生年不詳 - 永禄10年(1567年)3月)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。家系桓武平氏の一家系土肥氏の一門小早川氏庶流赤川房信の四男。兄に赤川元光赤川就秀、弟は赤川元久。養子に赤川又三郎。初名は元助。官途は左京亮。

生涯[編集]

毛利元就が家督相続した際に、起請文に署名した宿老15人の中の一人として、兄就秀とともに元就を支えた。天文19年(1550年)、五奉行制度が始まると、毛利隆元の直属奉行人筆頭に任命された。隆元側近の重臣として活躍するも、親隆元派として驕慢な振る舞いが多く、親元就派の重臣であった児玉就忠桂元忠達としばしば対立した。

永禄6年(1563年)、毛利隆元が和智誠春の饗応を受けた直後、安芸国佐々部で急死する事件が起きた。隆元の死を元保の謀略と考えた毛利元就は、元保の責任を追及し、弟・元久、養子の又三郎共々、蟄居謹慎処分の後、4年後の永禄10年(1567年)に自刃に追い込まれた。

その死後に、元保は和智誠春の饗応を受ける事に反対していたことが判明し、その潔白が確認された。毛利元就は自身の行いを深く恥じ、元保の兄・赤川就秀の次男・赤川元通と甥の赤川元之に赤川家を再興させた。

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