梶山季之

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梶山 季之(かじやま としゆき、1930年1月2日 - 1975年5月11日)は、日本の小説家ジャーナリスト週刊誌創刊ブーム期にトップ屋として活躍、その後『黒の試走車』『赤いダイヤ』などの産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となり、推理小説時代小説、風俗小説などを量産するが45歳で死去。ルポライターとして梶季彦、少年向け冒険小説として梶謙介のペンネームがある。

人物

生い立ち

土木技師の父が朝鮮総督府に勤務していたため、朝鮮京城で生まれた。五木寛之は南大門小学校の後輩である。子供の時から作家志望で、小学3年頃には科学冒険小説を書いて級友に読ませていた。1942年京城中学校入学。敗戦後引き揚げ両親の郷里、広島県佐伯郡地御前村(現廿日市市)で育つ。広島二中(現広島観音高)を経て広島高等師範学校国語科に入学。在学中に同人誌『天邪鬼』を創刊、後に地元の同人誌を糾合し広島文学協会を設立、同人誌『広島文学』に参加するなど精力的に活動した。また「中国新聞」学芸部の金井利博と知り合い、広島ペンクラブの設立、運営にも加わった。『天邪鬼』に一文を寄せていた作家原民喜の自殺に衝撃を受け、金井とともに原を記念する詩碑の建立に奔走した。

卒業後の1953年、家出同然にして上京。後を追って上京した同人誌仲間と8月に結婚。横浜鶴見工業高校の国語教師を務めた後、喫茶店の経営をしながら『新早稲田文学』『希望』などの同人誌で活動。1955年村上兵衛の紹介で三浦朱門らのいた『新思潮』(第15次)同人になり小説を書き、1956年『新潮』に同人雑誌推薦作品として「合わぬ貝」が掲載され、これが初めての商業誌掲載となった。一方、1958年にフリーライター専業となって『文藝春秋』『週刊新潮』などに記事を書くようになり、東京阿佐ヶ谷で喫茶店のあと経営していたバーをたたんで文筆一本でいくことを決意する。

週刊明星』の創刊から関わり、また「大宅壮一ノンフィクションクラブ」にも参加。1959年週刊文春』創刊に際しトップ屋グループ「梶山軍団」を作り名を売った。またこの時期「梶謙介」のペンネームで小学館の学年誌などに多くの冒険小説を書き、三谷晴美(瀬戸内寂聴)と双璧の人気と言われる。1958年には朝日放送にいた阪田寛夫の依頼でラジオドラマ脚本「ヒロシマの霧」「才女ブーム異変」「恋愛作法(吉行淳之介原作)」「外貨ブローカー(原作「振興外貨」)」を執筆し、「ヒロシマの霧」で1959年民放連盟賞優秀賞、同「蛸が茶碗を抱いていた」で1960年文部省芸術祭参加、1961年-62年の連続ドラマ「愛の渦潮」など64年頃まで執筆していた。

流行作家へ

1961年結核を患い約3ヶ月間の入院生活を余儀なくされるが、これを機にトップ屋をやめ本格的に小説の執筆に乗り出し、翌1962年、自動車企業間の苛烈な競争を背景にした経済小説『黒の試走車』がヒット。「企業情報小説」、「産業スパイ小説」という新分野を開拓した。多くのベストセラー小説やルポを書き、高度成長期の潮流に乗った流行作家になった。1966年、『週刊新潮』連載の小説「女の警察」により、刑法175条(猥褻物頒布)の容疑で略式起訴され、同誌編集長野平健一と共に罰金5万円の有罪判決を受ける。1969年には文壇長者番付第1位となった。

ジャーナリストの世界において、記事執筆のためのデータ収集を専門とする「データマン」、そしてデータマンの集めた情報を元に記事を執筆する「アンカーマン」という分業体制を確立したのは、日本では梶山が最初であると言われている。

1969年、夫人を社長として株式会社季節社を設立。1971年文壇マスコミ界の埋もれた逸話を記録するため月刊『噂』を自費創刊するが、赤字により1974年終刊。

1972年に結核が再発し、北里研究所付属病院に入院後、伊豆の別荘で療養。この時別荘に書斎を増築し、27日で完成したため「二十七日庵」と名付け、今東光に扁額と表札を書いてもらって掛けた。また土地を借りて畑仕事も行う。同年、国際会議の運営をめぐり日本ペンクラブを脱退。1973年、今東光の文壇野良犬会に参加。1974年には自民党から参議院全国区での立候補を要請されたが辞退している。

あらゆるジャンルの作品を手掛けたが、生涯のテーマは、朝鮮移民原爆とも言われ、日韓併合期の朝鮮を題材にした「族譜」「李朝残影」などの作品も残している。

死とその後

1975年5月7日、ライフワークである長編小説『積乱雲』の取材のために訪れた香港のホテルで突如吐血。一時は容態が安定するもののその後急変、5月11日早朝、食道静脈瘤破裂肝硬変で死去。今東光が命名した戒名は「文麗院梶葉浄心大居士」、棺には愛飲していたサントリーオールドを注がれ、缶入りピース、原稿用紙とモンブランの万年筆、『李朝残影』が納められて、大宅壮一と同じ鎌倉瑞泉寺に葬られた。毎年5月11日は梶葉忌として偲ばれている。またこの直前に出席していたNHKテレビ市民大学講座「大衆文学をこう書く」の座談会の録画は、5月12、13日に放送された。

収集していた蔵書1万7千点のうち、朝鮮・原爆・移民関係の7千点は1977年ハワイ大学図書館に寄贈され、「梶山季之記念文庫」となった。その他、雑誌類4千点と書籍2千点が大宅壮一文庫に寄贈された。1977年12月には、生前描き溜めていた油絵やスケッチを展示する「梶山季之遺作展」を京橋東京近代美術クラブで開催。33回忌にあたる2007年、広島大学文書館に自筆原稿、蔵書などが寄贈された(梶山季之文庫)。

十数年の作家活動であったが作品数は多く、死後も人気は衰えずに12年後までに120冊の文庫が出版され、1300万部の売り上げをあげた[1]。サービス精神の旺盛な作家という評に加え、編集者や周囲の人々への気配りについてもしばしば語られている。17回忌となる1991年5月、広島市の中区加古町5・アステールプラザ裏に6百数十名の出資による梶山季之文学碑が建立された。碑文には直筆の「花不語(花は語らず)」が刻まれている。これは本人がよく揮毫に用いた言葉である。1992年には夫人の拠出による「梶山季之文学碑建立記念基金」が設立され、研究振興に充てられている。近年は雑誌などの特集により、その膨大な作品群を再評価する動きが出ている。

作家活動

小説の分野としては、生地である朝鮮をテーマにしたもの、トップ屋としての視点と情報収集力を活かした企業小説、推理小説、風俗小説、時代小説などがある。在学中の1952年に『広島文学』に日韓併合による創氏改名を扱った「族譜」を発表、同年本作を収めた短編集で、友人の坂田稔との共著『買っちくんねえ』を自費出版、「族譜」は後に加筆されて1961年に『文学界』に発表される。1958年『新思潮』に終戦の日を描いた「性欲のある風景」を掲載、1963年には提岩里事件を取り上げた「李朝残影」を『別冊文藝春秋』に発表し、直木賞候補となる。

1958年、『新潮』に「地面師」発表。1960年『週刊文春』で推理小説『朝は死んでいた』を連載。1961年に北里研究所付属病院に入院中に、『スポーツニッポン』の連載小説の作家が急病のため新連載を依頼され、あずき相場を扱った『赤いダイヤ』を載開始し大いに好評となった。続いて酒場で見知っていた当時光文社種村季弘後藤明生から紹介されて書き始めた、書き下し長編『黒の試走車』を1962年にカッパ・ノベルスで出版。同年には『青いサファイヤ』『影の凶器』『夜の配当』『男の階段』『女の斜塔』と連載を開始、月産1000枚と言われる執筆量となり、数年後には1300枚を記録した。ルポライターとしての視点、情報収集力を活かした『黒の船渠』『夢の超特急』『小説GHQ』などを発表。1967年から翌年に『中間小説誌や娯楽雑誌の発刊が相次いだ際には、その創刊号の多くに小説、エッセイ、ノンフィクションを執筆、「創刊号男」「突破口」と称された。執筆誌は『月刊現代』『月刊タウン』『別冊アサヒ芸能』『ビッグコミック』『PocketパンチOh!』『プレイコミック』『小説セブン』『マイウェイ』『別冊サンデー毎日 読物専科』『小説エース』『小説宝石』。1971年には休筆を宣言し、1972年1年間は月刊誌への小説を休んだが他の執筆は続け、仕事量が減るにとどまり、翌年は元に戻った。

またルポライター時代の1960年、金井利博の依頼で「中国新聞」に頼山陽の青春時代を描いた「雲耶山耶」(くもかやまか)を連載。また時代小説として、1970年以降『彫辰捕物帖』シリーズ全6巻、「辻斬り秘帖」などを発表。

鉄道弘済会のベストセラー作家」とも呼ばれ、作品は常に新鮮な時代感覚に溢れ読書サービスに徹した。サービス精神の赴くまま材料の仕込みには惜しげもなく金を注ぎ込んだ。天性のストーリー・テラーで筆力抜群、印刷屋への発注ミスで8万枚の原稿用紙を購入する羽目になったが10年足らずで使い切ってしまった[2]、三日二晩で300枚の長編を書き上げる(『ミスターエロチスト』)、短編小説を電話で頼めばすぐに取りに行っても原稿が出来上がっている、原稿を取るために出版社がヘリを飛ばす[3]、といった伝説まで生まれた。一文ごとに改行するスタイルは、時に原稿料目当ての枚数稼ぎとも揶揄された。

後年はエロティシズムへの傾斜を深め、ポルノ作家、性豪作家とも呼ばれるようになる。1968年に『別冊文藝春秋』に『ミスターエロチスト』252枚を一挙掲載。当時は「なにもあそこまで書かなくても」「サービス精神のいきすぎ」などと言われ、1972年まで単行本化もされなかったが、後に「先駆的作品」「現在の、性を扱った小説の、あらゆる原型がここにある」などと評される。これは元々有馬頼義に原稿を依頼していたのが締切一週間前に病に倒れたため、急遽梶山に依頼され二日半で書き上げたものだが、以前から構想を温めていことがその後取材ノートから伺われている[4]。また女性の名器を指す「ミミズ千匹」を一般に知らしめたのは『女の警察』と言われる。

朝鮮、内地に帰って育った広島の原爆、母の経験したハワイ移民という三つのテーマをライフワークとしようとしており、それぞれで3本の長篇小説を書くと山口瞳に言ったところ、「三つのテーマがあるなら、それを一つにして大河小説を書くべき」の言われ、1974年に題を『積乱雲』として資料収集、取材を進めながら執筆を開始していた。

原爆に関わるテーマの作品としては、1970年「憑かれた女」、1971年「ケロイド心中」がある。「ケロイド心中」を『小説現代』に発表した時には、広島県原水協、同被団協、原爆文献を読む会などから、被爆者差別を助長するとの抗議が寄せられた。これに対して梶山は、被爆者の立場で、実話をモデルにして書いたというコメントを『中国新聞』に掲載。何度か抗議の手紙が届いたが、それ以上のことにはならなかった。1969年に金井利博が原爆被災資料研究会から『原爆被災資料総目録』を刊行していたのに資金援助をしていたことが、死後明かされた。

文学論として残されている言葉に、「文学といえばすぐに愛だの恋だのを書く。(略)金の動きにもロマンはある」(1966年広島大学懇談会)、「私の小説は、文章はカサカサに乾いていて、手垢がついているけれども、材料にだけは自信がある−−と自慢しておく」(「私の小説作法」)などがある。徹底した調査を元にした作品は「調べた小説」などとも言われ、自身ではジャーナリズムとして報道できる限界があるため、事実を小説に仮託して書くという方法としても考えていたという。

現代の女岩窟王というべき復讐譚『罪の夜想曲』を1973年から『週刊明星』に連載していたが、急死によって72回で絶筆となり、残されたメモを頼りに夫人が結末を加筆して完結された。書きかけていた長編『積乱雲』は、10年間に1万2千枚の予定で新潮社から書き下ろしで出版の予定だったが、書き出し部分の遺稿30数枚分が『別冊新評 梶山季之の世界』(1975年)に掲載された。

ジャーナリスト活動

1958年に『文藝春秋』の編集長田川博一に自薦の手紙を出し、ルポライターとして採用。続いて同年創刊の『週刊明星』にも起用され、無署名で書いた警職法改正案に関する「またコワくなる警察官-デートも邪魔する警職法!」と題した記事は、自民党幹事長田中角栄が編集部に抗議に来るほどの大きな反響を呼んで法案は撤回に追い込まれた。また同年の皇太子妃決定に際しては梶謙介名義で話題小説「皇太子の恋」を掲載、新聞社間のスクープ禁止の協定を破り、他社に先駆けてすっぱ抜いた。

1959年の『週刊文春』創刊では、岩川隆、中田建夫、有馬將祠、加藤憲作、恩田貢の5人で梶山グループを作り、「週刊文春特派員」として特集記事作りに2年間参加。東京都知事選挙立候補者の有田八郎を落選に追い込んだ怪文書「般若苑マダム物語」の作者を突き止めるスクープなどを書いた。

1961年に『週刊文春』から撤退して小説に専念するが、その後もノンフィクションの依頼を受け、1963年には『小説現代』で「実力経営者伝」として、本田宗一郎小佐野賢治ら8人の評伝を掲載。1965年に創刊した『宝石』で「日本の内幕」連載、創刊号での防衛庁の日米共同実戦計画などをルポ、翌年に猥褻容疑で逮捕されたのはこれらが目障りになったために梶山の信用失墜を狙ってのこととも言われた。1968年にも『かんぷらちんき』『スリラーの街』で同容疑の取り調べを受け、これも「小説防衛庁」での内幕暴露のしっぺ返しと言われた。

1965年に「小説・創価学会」を『婦人生活』誌に連載すると抗議が殺到、その後大規模な言論出版妨害事件に発展し、1970年には連名で創価学会系雑誌への執筆拒否宣言をする。

1967年に大宅壮一マスコミ塾が開講した際には、実践教育編の講師も務めた。

トップ屋の呼称は、扇谷正造に新宿の飲み屋で「おいトップ屋」と肩を叩かれたことから付いた。この言葉がテレビドラマなどで使われて広く知られるようになり、梶山自身は後に『週刊公論』で「トップ屋自身が語る」を書いた。

月刊『噂』

梶山と講演会で一緒になった伊藤整と、作家の裏話を集めて活字にしようという相談をし、梶山の担当編集者が毎月第三土曜に集まる「三土会」を編集母体、その中で高橋呉郎を編集長として1971年8月『月刊噂』を創刊した。創刊号記事は特集「知られざる大宅壮一」、「内田百閒を偲ぶ座談会」、「阿部定坂口安吾対談」(再録)など。発行当初は政財界人の購読申し込みが多かったともいう[5]。1974年3月まで全32冊を出して、5000万円の赤字を出して終刊。

また噂賞を制定し、受賞者は以下:

第1回の賞金は10万円で、贈呈者は今東光が務めた。

1972年には噂発行所から第15次新思潮同人の自選作品集『愛と死と青春と』を刊行。

作品

経済小説

同人誌時代から行動力旺盛だった梶山は、『新思潮』でも営業部長を自任して広告取りなど金策に奔走し、輸出振興外貨資金制度やあずき相場も利用しようと情報を集めた。この過程で小説化の思いが浮かび、1956年に「振興外貨(リテンション)」を『新思潮』に発表、1958年『新潮』に企業乗っ取りを扱った「地面師」を発表。続いてルポライター時代を経て小説に専念しようとした1961年に「赤いダイヤ」連載。同年に書き貯めた、自動車業界の産業スパイを扱った『黒の試走車』を1962年に書き下ろしで出版し、産業スパイという題材の新しさや、従来の小説とは異なった情報の詰まった小説として注目されてベストセラーとなり、産業界にも大きな反響をもたらして「産業スパイ」は流行語になった。また映画化もされて、大映の「黒シリーズ」の元となった。これで一躍人気作家となり、引き続き高度成長期の産業界を描いた経済小説を続々と発表する。

産業スパイものとして、家電業界もの『影の凶器』(講談社、1964年)、造船業界を舞台にした『海の薔薇は紅くない』、腕利きの産業スパイシリーズ『白い廃液 産業ミステリー調査資料(秘)』、『赤い妖精』などがある。

また企業の裏側を描く経済小説として、『赤いダイヤ』の続編『青いサファイヤ』、新幹線汚職を扱った『夢の超特急』、1964年東京オリンピックを巡る土地開発を描く『のるかそるか』、広告業界を舞台にした『罠のある季節』、黒の試走車の続編にあたるサスペンスタッチの『傷だらけの競走車』及び自動車販売合戦を描く中編「黒の燃焼室」(1965年)、株相場を扱った『見切り千両』『みんな黙れ』、中東紛争による石油危機を扱った『血と油と運河』、化粧品業界を扱った『狂った脂粉』などがある。『てやんでぇ』では『赤いダイヤ』の主人公木塚慶太がアメリカに乗り出す。

  • 『黒の試走車』光文社 1962年
  • 赤いダイヤ(上)(下)』集英社 1962、63年
  • 『SEXスパイ』集英社 1963年(1,2話は『小説中央公論』、3話は『別冊週刊漫画TIMES』)
  • 『青いサファイア』講談社 1963年(『スポーツニッポン』連載)
  • 『夢の超特急』光文社 1963年
  • 『のるかそるか』文藝春秋新社 1964年(1963年5月-64年2月、地方紙掲載)
  • 『海の薔薇は紅くない』集英社 1964年(『週刊明星』連載、1965年『黒い船渠』と改題)
  • 『虚栄の館 産業ミステリー調査資料㊙』サンケイ新聞出版局 1964年(短編集、『週刊サンケイ』連載「調査資料(秘)」シリーズ)
  • 『影の凶器』講談社 1964年(『新週刊』連載13回で中断のち大幅加筆)
  • 『甘い樹液』サンケイ新聞出版局 1964年(短編集、「調査資料(秘)」シリーズ)
  • 『白い廃液』サンケイ新聞出版局 1965年(短編集、「調査資料(秘)」シリーズ)
  • 『罠のある季節』文藝春秋新社 1965年(『週刊文春』連載)
  • 『てやんでぇ』光文社 1966年(『北国新聞』『愛媛新聞』他1964-65年連載)
  • 『狂った脂粉』光文社 1966年(『時』1964年連載)
  • 『赤い妖精』桃源社 1967年(表題作は『小説中央公論」1962/7月号掲載、他)
  • 『傷だらけの競走車(ラリー・カー)』光文社 1967年(『別冊宝石』連作)
  • 『見切り千両』講談社 1971年(『別冊小説現代』1970年)- 1970年第2回小説現代ゴールデン読者賞受賞
  • 『みんな黙れ(天の章)(地の章)』徳間書店 1971-72年(『アサヒ芸能』連載<小説総会屋>)
  • 『血と油と運河』集英社 1975年(『週刊読売』1974年連載)

企業人物誌

企業や経済を舞台した作品の中でも、実在の人物をモデルにしたものも含め、高度成長期を背景に活躍する人物の生き様に焦点を当てたものも多い。特に戦後の混乱期を生き抜いて企業経営に成功するまで、その後の挫折や私生活までを包括的に描いている。国会の爆弾男の異名を取った代議士をモデルにした長編『色魔』、短編「"火消し"新八」、またルポライター時代から東急グループ創設者五島慶太西武グループ創設者堤康次郎に注目しており、堤をモデルにした『悪人志願』や、電力業界の松永安左エ門を題材にした「小説 松永安左衛門」がある。『どないしたろか』は義弟をモデルにした薬品業界での「ど根性出世譚」だが、夜の部分はまったくの脚色という。『虹を掴む』は素人百姓から立身出世した男が主人公で、モデルは三好興産社長の三好淳之。

  • 『悪人志願』講談社 1966年
  • 『色魔(青春篇)(怒濤篇)(完結篇)』徳間書店 1968-70(『アサヒ芸能』連載)
  • 『どないしたろか』徳間書店 1974年(『アサヒ芸能』1973年連載)
  • 『虹を掴む』講談社 1976年

痛快小説

政界、経済界における成功者の他に、一匹狼的な立場で金と女を獲得する人物や、任侠界の人物を描く、サラリーマンにとってのファンタジー的作品も多い。『夜の配当』と続編『非常階段』では一流企業を退職してトラブルコンサルタント業を開いて違法合法すれすれのアイデアで成功する人物、『野望の青春』は観光業界で活躍する若者3人組、『濡れた銭』では「脱税の鬼」と呼ばれる男が主人公。『銀座遊侠伝』ではヤクザの異端児、祐天のテルを描いた。『うぶい奴ら』は浮世絵ブーム、『お待ちなせえ』も絵画業界が舞台。『と金紳士』は文庫版では最も売れて、4巻で85万5千部、次いで『野望の青春』(2巻)が40万4千部。『と金紳士』『色魔』などは後に漫画化されてアダルト漫画の先駆となった。

海外を舞台にした作品として、アメリカを舞台にした「カポネ大いに泣く」「ルーズベルト大いに笑う」「めりけん無宿」の三部作、メキシコを舞台にした「甘い廃坑」、アメリカでビジネスを成功する男を描いた『日本人ここにあり』、南米開墾を題材にした『稲妻よ、奔れ』がある。これらの執筆のために、当時は珍しかった海外への取材旅行もしばしば行った。

  • 『夜の配当』光文社 1963年(『週刊朝日』連載)
  • 『非常階段』光文社 1965年(『週刊漫画サンデー』連載)
  • 『どんと来い』桃源社 1965年(『大和ニュース』連載)
  • 『野望の青春』実業之日本社 1969年(『週刊漫画サンデー』連載「出世三羽烏」改題)
  • 『濡れた銭』サンケイ新聞出版局 1969年(『週刊サンケイ』連載)
  • 『と金紳士』文藝春秋 1969-71年(『週刊文春』1968-71年連載)
  • 『銀座遊侠伝』文藝春秋 1970年(『オール讀物』1970/4-9月号、同誌初の連載小説)
  • 『びかたん(鼻下短・受け唇・片えくぼ)』光文社 1970年(『小説宝石』掲載、1982年角川文庫化時に『びかたん・うけくち』に改題)
  • 『すけこまし(大望篇)(完結篇)』徳間書店 1970-71年(『アサヒ芸能』連載)
  • 『うぶい奴ら』祥伝社 1971年(『週刊ポスト』連載)
  • 『やらずぶったくり(やらずの巻)(ぶったくりの巻)』集英社 1970-1971年(『週刊明星』連載)
  • 『流れ星の唄』桃源社 1971年(「週刊実話」連載)
  • 『カポネ大いに泣く』講談社 1971年(中編集)
  • 『にぎにぎ人生(疾風怒濤篇)(獅子奮迅篇)(猪突猛進篇)(大願成就篇)』集英社 1971-73年(『プレイボーイ』連載)
  • 『かんぷらちんき』徳間書店 1972年(『週刊現代』連載)
  • 『日本人ここにあり(立志編)(成功編)』実業之日本社 1974年(『週刊小説』連載)
  • 『稲妻よ、奔れ』新潮社 1975年(『小説新潮』1973-74年掲載、題は単行本化時に夫人が付けた)

風俗小説

戦後の混乱期、高度成長に翻弄され、多様化するモラルの中に色と欲に生きた男女の有り様を描いた作品群。直接的な性描写を用いた作品はポルノ小説とも呼ばれ、「かならず新しいセックスの知識とか性行為における技術などを紹介してある」と述べていた。また猥褻罪で3度検挙され、自身も「どこまで書いたらワイセツ文書になるか実験中だ」と話したとも言われる。

『男を飼う』は、SM女装、様々なフェティシズムを扱っている。『苦い旋律』はレズビアンニューハーフ物の実質的嚆矢で、女性誌『女性セブン』に連載されて大反響を呼び、続いてエッセイ「浮世さまざま」、小説『青い旋律』を連載。他にも『薔薇の咲く道』など、女性を主人公にした風俗小説も多く書いた。

  • 『女の踏絵』講談社 1965年(短編集、『小説現代』1965年掲載)
「やどかりの詩」/「憑かれた女」/「夜のプリズム」/「白い炎の女」の中短編を収録した女と男の物語
  • 『紫の火花』1965年 主婦と生活社(『週刊女性』1965年連載)
刷毛で顔に化粧したり口紅を塗ると女に化身したような恍惚を感じ、異性や同性から刷毛や羽根で体じゅうくすぐられると快感を覚える女装者が両性具有をめざす。
  • 『薔薇の咲く道』集英社 1968年(『婦人生活』1967-68年連載)
  • 『苦い旋律』集英社 1968年(『女性セブン』1967-68年連載)
女装趣味の社長やレズビアン和装女性に影響を受け官能の虜となるヒロイン。
女物の靴・コート・ハンドバッグで女装している会社社長がガールフレンドとデートする。
  • 『男を飼う』集英社 1969年(『週刊明星』1968-69年掲載)
ビバリーヒルズの邸宅に住む髪を長く伸ばしているアメリカの女装美少年が、レズ女から胸の膨らみが無いと言われブラジャーの中に丸めたストッキングを入れられたり、やはり髪が長く女言葉で話す日本人の女装美少年と女装デートする。
  • 『人妻だから』光文社 1969年(ラジオドラマ「愛の渦潮」の小説化)
  • 『美男奴隷』光文社 1969年(『女性自身』連載)
男に捨てられたヒロインが異常性愛を通して男を征服していく。
女装美少年がレズ女から顔を撫でられ快感を感じる。ストッキングと白いハイヒールを履いた女装美少年の美脚に女も恍惚となる。そして女からはレズビアンごっこしましょうと誘惑される。
  • 『青い旋律』集英社 1970年(『女性セブン』1969年連載、集英社文庫) The Melody in Blue
赤とか青、白、黄色など鮮やかな色の女物のピカピカの長靴を履くのが大好きな女装美青年が、レズビアンで「長靴姿の美女」が好きでたまらないレズ女性と女装レズプレイをする。
連載当時に流行った「ハイレイン」という丈が長めできれいな色のピカピカした女性用ゴム長靴を、色ちがいで何足も持っている女装の美形男子が女性とのプレイをする部屋で履くと、「長靴女」を愛するレズ女性も興奮した。
父の性遍歴を綴った日記を盗み見る父とマンションで2人暮らしのファザーコンプレックス気味の女性。などがくりひろげる変態性癖の集大成ともいうべき風俗ロマン小説。
前作『苦い旋律』に寄せられた女性読者からの要望に応え、美少年、女装、レズ、長靴フェチ、ゴムマニア、くすぐりプレイ、女王様などいわば倒錯の世界を描いた当時としてはかなり反響をよんだ話題作である。連載時の内容で単行本化では割愛された箇所や読者からの投稿およびそれに筆者がコメントしたエッセイなどの一部は『性科学XYZ』に載せられた。
  • 『現代悪妻伝』新潮社 1971年(『小説新潮』連載)
  • 『梶山源氏(いろは・の巻)(ほへと・の巻)』文藝春秋 1972年(『週刊文春』連載、1983年角川文庫版で『好色源氏物語』に改題)
コンツェルンの御曹司の愛人遍歴ストーリー。章題にも「桐壺」「帚木」など「源氏物語」の巻名が付けられている。
  • 『銀座ナミダ通り』徳間書店 1974年(『問題小説』1974/1-9月号連載)
銀座ホステスの会社を作り風俗業界に新風を起こそうとするアイデア企業家の痛快ストーリー。
  • 『ミスターエロチスト』光文社 1977年(『別冊文藝春秋』1968年掲載)
  • 『ああ、性戦』角川書店 1984年(『夕刊フジ』1974/2/7-9/5、「やめてよ、あなた」の題で連載)
  • 『すたらまんち 艶笑小説傑作集』1987年 光文社文庫(短編集、『小説宝石』1974/9-1975/5月号、「日本縦断艶笑千一夜」の題で掲載、「四国の女」は生前未発表)

推理・サスペンス

1960年に『週刊文春』の「新鋭作家五人による競作推理小説シリーズ」第三弾として『朝は死んでいた』を連載、当時の実際の梶山グループを彷彿とさせる記者チームによる犯人調査を描いた。現実に起きた事件を題材にした作品集『知能犯』、山陽新幹線の用地買収に絡む疑獄事件を扱った『女の警察』、架空の国での経済成長の影にある陰謀を描く『大統領の殺し屋』、下山事件を題材にした「俺が殺した」、防衛庁の不祥事を題材にした「小説 防衛庁」、建築学会を舞台にした復讐物語『女の斜塔』などがある。返還直後の沖縄を舞台にした「那覇心中」、GHQ報道統制化の「スワッピング心中事件」など、世情に深く関わる作品もある。『女の斜塔』を『女性明星』に連載するにあたっては、全国の貸本屋でどういうメロドラマが受けているかを調査し、さらい若い女性を集めてマーケッティング・リサーチしてストーリー、登場人物を決めた。

  • 『朝は死んでいた』文藝春秋新社 1962年
  • 『知能犯』桃源社 1964年(『別冊漫画サンデー』連載「知能犯シリーズ」)
  • 『暗い花道』文藝春秋社 1965年(1964年1-11月『オール讀物』連載、1976年廣済堂出版で『黒の花道』に改題)
  • 『女の警察』新潮社 1967年(『週刊新潮』1967年連載)
  • 『大統領の殺し屋』光文社 1974年(『オール讀物』、『小説宝石』1974/1月号)
  • 『女の斜塔(愛欲篇)(復讐篇)』集英社 1964、66年(『女性明星』1964年連載)
  • 『罪の夜想曲(上)(下)』集英社 1975年(『週刊明星』1973-75年連載)
  • 『那覇心中』講談社 1976年(短編集、表題作、「スワッピング心中事件」など。1989年講談社文庫版では「ケロイド心中」収録)
  • 『汚職 さんずい』角川文庫 1987年(短編集、「俺が殺した」「小説 防衛庁」収録)

時代小説

  • 「合わぬ貝」1956年(河出文庫『合わぬ貝』所収) - 架空の伝書『小鍋夫人覚書』を元に松尾芭蕉の性向と武家を廃したいきさつを描いたもの。
  • 『彫辰捕物帖(一)-(六)』読売新聞社 1972-74年(『週刊読売』1970/10/23-1973/10/27号連載)
  • 「おとこおんな」1972年2月(読売新聞社のちに徳間書店、論創社) - ずっと女として育てられた女装の美少年たちが、女の格好をしたまま江戸城大奥に入り、女の姿で大奥の女たちの相手をする。手によって男性器を愛撫されて快感に悦び、絶頂に達する女装美少年たちの話。という女装マニア垂涎の作品。
  • 「若衆道」1972年4月(読売新聞社のちに徳間書店、論創社) - 妻のある両替商の旦那が歌舞伎役者に熱をあげるが、世間体を気にし表向きは役者に夢中になっているのは妻だということにしておく。
  • 『雲か山か-若き日の頼山陽』集英社 1974年(「中国新聞」1960/1/11-7/9連載「雲耶山耶」を改題、光文社文庫化時に『頼山陽 雲か山か』に改題)

実録小説・モデル小説

当時の事件や世相、話題の人物などをモデルにした小説を多く発表。ただし内容は虚実入り交ぜたものもあった。 『小説GHQ』は戦後の占領政策、財閥解体の内実を大衆小説として書いたもので、『週刊朝日』連載中には河盛好蔵から「大デュマ」にも喩えられた。連載終了後に改稿しようとしていたが果たせず、単行本化はされたのは死後の1976年だった[6]

  • 『生贄』徳間書店 1967年(『アサヒ芸能』1966/5/29-67/1/23日号) - インドネシアへの賠償汚職を描く。モデルとなったデヴィ夫人から名誉毀損で訴えられたため絶版。ただし仮処分までの間に10万部ほど出たと言う[7]
  • 「実名小説 カルーセル麻紀」(『小説セブン』1968/7月創刊号)
  • 「小説三億円事件」(『オール讀物』1969/5月号)
  • 「青い群像-小説・全学連-」(『小説セブン』1969/6-11月号)
  • 「炎は流れる-小説大宅壮一」(『別冊文藝春秋』1971年115号、前年に死去した大宅壮一について)
  • 『小説GHQ』光文社 1976年(『週刊朝日』1964-65年)

ノンフィクション・エッセイ

  • 『実力経営社伝』講談社 1963年
  • 『成功者の椅子』アサヒ芸能出版 1964年(村島健一と共著)
  • 『松田重次郎 一業一人伝』時事通信社 1966年 - マツダ創業者松田重次郎の伝記。
  • 『浮気心の旅』文藝春秋 1966年(エッセイ、『週刊文春』1966/3-連載)
  • 『性科学XYZ』集英社 1970年(『ビッグコミック』『女性セブン』など各誌に発表したエッセイをまとめたもの)
  • 『梶山季之の あたりちらす』サンケイ新聞社 1972年(エッセイ、『夕刊フジ』1971年連載)
  • 『ぽるの日本史』桃源社 1973年(歴史上の逸話集、『週刊新潮』連載)
  • 『人間裸に生まれ来て - わが人生観シリーズ』大和出版 1977年
  • 『旅とその世界』山と渓谷社 1977年
  • 『「トップ屋戦士」の記録 無署名ノン・フィクション』季節社・祥伝社 1983年
  • 今東光との対談「何が彼らを残忍な殺人に追い立てたか」(『週刊小説』1972/3/31号、あさま山荘事件について)
  • 徳間文庫「梶山季之 ノンフィクション選集」(全5巻)
1『日本の内幕』1985年 - 1965-66年に『宝石』掲載
2『実力経営者伝』1985年(1963年講談社版の再刊) - 1963年に『小説現代』連載の11名のうち8名収録。
3『日本事件列島』1986年
4『昭和人物伝』1986年
5『ルポ戦後縦断』1986年 - 1958-68年に『文藝春秋』、『週刊読売』、『中央公論』、『週刊文春』、『文芸朝日』に掲載。2007年岩波現代文庫版で『週刊明星』掲載「皇太子の恋」収録。

その他の作品

  • 『李朝残影』は、朝鮮物の中編集、表題作は第49回直木賞候補。『わが鎮魂歌』は自伝的長編小説で、高等師範時代から『新思潮』の時期が舞台。ただし死後に夫人により、多くの"換骨奪胎"があったことが明かされている。これと同じ中山俊吉を主人公にした自伝的作品に「髪結いの亭主」(1970年)、「負け犬」(1975年)、「人生至る所に」(1975年)、「小説・梶山交友録 孟宗竹」(1975年)がある。『根ピューだあ』は、当時日本でも導入され始めたコンピューターを巡る人間模様の作品集。『せどり男爵数奇譚』は古書マニアの世界を描いた連作小説集。
作品リスト
  • 『李朝残影』文藝春秋新社 1963年(短編集)
  • 『常陽銀行事件』アサヒ芸能出版 1963年(短編集)
  • 『都会の湖』角川書店 1964年
  • 『囮』サンケイ新聞社 1964年
  • 『四つの性』冬樹社 1964年
  • 『小説浮気考』サンケイ新聞社 1965年
  • 『虹を掴む』光文社 1966年
  • 『ある秘書官の死』光文社 1967年(短編集)
  • 『遊戯の報酬』講談社 1967年(短編集)
  • 『離婚請負業』秋田書店 1967年(短編集)
  • 『五年まえの女』桃源社 1967年(短編集)
  • 『虚像の女』桃源社 1967年(短編集)
  • 『作戦-青』文藝春秋 1967年(短編集)
  • 『敵はどいつだ(愛欲編)(復讐編)』集英社 1967-68年
  • 『一押し二金』桃源社 1967年(短編集)
  • 『一匹狼の唄』実業之日本社 1967年
  • 『蜜の味』光文社 1968年(短編集)
  • 『わがおんな考』徳間書店 1968年
  • 『ペテン師物語』桃源社 1968年(短編集)
  • 『快楽の実験』カワデベストセラーズ 1968年
  • 『夜のGHQ』桃源社 1968年(短編集)
  • 『鱶のような紳士』桃源社 1968年
  • 『ハレンチな女』徳間書店 1968年
  • 『小説浮気考』廣済堂出版 1968年(短編集)
  • 『夜の専務』講談社 1968年(短編集)
  • 『女豹』報知新聞社 1968年(短編集)
  • 『わが鎮魂歌』講談社 1968年(『月刊現代』1968/3-8月号)
  • 『はれんち作戦』桃源社 1968年(短編集)
  • 『現代悪女伝』講談社 1968年(短編集)
  • 『新説・色くらべ』集英社 1968年(短編集)
  • 『京城昭和十一年』桃源社 1969年(短編集)
  • 『京都の女(日本女地図1西日本編)』:徳間書店 1969年(短編集)
  • 『銀座の女(日本女地図2首都圏・東海編)』徳間書店 1969年(短編集)
  • 『札幌の女(日本女地図3北日本・北陸編)』徳間書店 1969年(短編集)
  • 『博多の女(日本女地図4九州・南海編)』徳間書店 1969年(短編集)
男と部屋に入るなり全裸になって、逆立ちして脚を広げる女。など博多から高知まで南国各地で繰り広げられる性に奔放な女たちを描く。
  • 『海の殺戮』文藝春秋 1969年(短編集)
  • 『ほいほいほい』桃源社 1969年(短編集)
  • 『お待ちなせえ(日本脱出編)(さらばパリ編)』光文社 1969年
  • 『性欲のある風景』光風社出版 1969年(短編集)
  • 『人間の探険』KKベストセラーズ 1969年(短編集、『宝石』掲載)
  • 『偽装結婚』講談社 1969年(短編集)
  • 『モーレツな女』徳間書店 1969年(短編集、『問題小説』掲載)
  • 『昭和元禄女文学(青い渦の章)(紅い焰の章)』集英社 1969-70年(『プレイボーイ』連載)
  • 『密閉集団』光文社 1969年
  • 『青い群像・小説全学連』集英社 1969年
  • 『メロメロの女』徳間書店 1970年
  • 『犯罪日誌』新潮社 1970年(短編集)
  • 『くんずほぐれつ(前編)(後編)』集英社 1970年
  • 『遊びの冒険』桃源社 1970年
  • 『えろぐろ軟扇子』講談社 1970年(短編集)
  • 『賭ける男』桃源社 1970年(短編集)
  • 『名人にて候』徳間書店 1970年(短編集)
  • 『奇妙な人たち』講談社 1970年
  • 『バツグンの女』徳間書店 1970年
  • 『エアー(前編)(後編)』集英社 1970-71年(1972年『関白亭主・志願』に改題)
  • 『梶山好色機械学・根ピューだあ』徳間書店 1971年(短編集)
  • 『逃げるが勝ち』実業之日本社 1971年
  • 『罠の淑女』桃源社 1971年(短編集)
  • 『巷談名人列伝』徳間書店 1971年
  • 『鞭をふるう女』桃源社 1971年(短編集)
  • 『妖しい花園』集英社 1972年
  • 『ぽるの聖談』祥伝社 1972年
  • 『ぴらめんねェ』光文社 1972年
  • 『許して、あなた』徳間書店 1972年(短編集)
  • 『青の執行人』桃源社 1972年(短編集)
  • 『甘い道草』中央公論社 1972年
  • 『イッパツ勝負』桃源社 1972年(短編集)
  • 『女房訓』祥伝社 1972年
  • 『頭に来たぜ俺だって』桃源社 1974年
  • 『涙は拭かずに』講談社 1974年(1987年ノン・ポシェット版で『女の螺旋階段』に改題)
  • 『せどり男爵数奇譚』桃源社 1974年(『オール讀物』1974/1-6月号)
  • 『その名は娼婦』桃源社 1974年(短編集)
  • 『寝業師』講談社 1975年(短編集)
  • 『明日考えよう』桃源社 1975年
  • 『虎と狼と』実業之日本社 1975年
  • 『怪女赤頭巾譚』文藝春秋 1975年

また、生前出版された短編を再編集した文庫版も多く出ている。

作品集

  • 『梶山季之傑作シリーズ(全7巻)』講談社 1965-66年
(『ある復讐』『SEXスパイ』『詰め腹』『風変わりな代償』『歪んだ栄光』『冷酷な報酬』『暗闇の女』)
  • 『梶山季之自選作品集(全16巻』集英社 1972-73年
  • 『梶山季之集成(全30巻)』桃源社 1972-75年
  • 『現代調編文学全集 48・梶山季之(「虹を掴む」「影の凶器」)』講談社 1969年
  • 『梶山季之の快美感覚(「非常階段」「囮」)』KKベストセラーズ 1971年

交友・行動録

友人関係

親しかった友人としては、心友と呼んだ山口瞳はルポライター時代(山口はサントリー宣伝部)からの付き合いで、講演旅行でもしばしば同行した。[8]。自民党の出馬要請を止めたのは結城昌治で、『噂』編集顧問に結城への依頼を考えていた。また義兄弟の契りを結んだという黒岩重吾、ソウル中学の同学年で後に電通最高顧問成田豊など。[9]

同じ広島出身で同年生れの、雑誌『酒』編集者佐々木久子は公私ともに親しく、また毎年同誌正月号での「文壇酒徒番附」では西の横綱を張り続けた。1957年に広島県出身者の阿川弘之藤原弘達木村功、桂芳久、杉村春子で「7の会」を結成(または毎年故郷の銘酒「賀茂鶴」を呑む「カモツル会」)。また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し、毎年激励会を開いた。広島カープは梶山の没した1975年秋に初優勝を果たす。

1962年から都市センターホテルの一室を借り切って仕事場にし、死去まで続いていた。当時そこでフロントクラークとして勤めていたのが森村誠一で、原稿を預かって編集者に渡す時に盗み読みしていたという[10]

『漫画サンデー』に『非常階段』など4本を連載した縁で、編集長だった峯島正行が1972年に『週刊小説』を創刊する際にも『日本人ここにあり』を連載するとともに、先輩の柴田錬三郎、黒岩重吾も紹介し、また広告面で京城中学からの友人である電通成田豊を紹介した。1975年に『週刊小説』に連載中だった「渡り鳥のジョー・北投の椿事」が最後の発表原稿となり、死後発売された掲載号では柴田、黒岩の対談も掲載された。

柴田錬三郎の『大将』のモデルになった坪内寿夫奥道後温泉に建てたホテルの開業記念式典に来賓として招かれたが、前夜柴田にドボンで負け続けて多額の借金を作ってしまい、挨拶で「××××(女性器の卑語)と言ったら借金を帳消しにしてやる」と言われ、「私はポルノ作家の梶山季之であります。人生は、××××であります」と挨拶した[11][12]

青地晨がある猥褻本出版の裁判で学識経験者として証人として出廷した際に、勉強にと地下出版の春本十数冊を貸した。返却された時、本は2冊多かった。[13]

その他の行動

生年について当時の資料には、大正生まれ、昭和2年、3年、4年など諸説が記載されており、これは当人が曖昧にしていたためでだが、その理由は明かさないままだった。

1963年に直木賞候補となって落選した夜、銀座で飲んでいると、選考委員の一人が近づいて来て「あんたと瀬戸内には、賞はやらんよ」と言われ、直木賞には縁が無いと振っきれたと語っている[14]

『女の警察』執筆は、中国地方で400万円のマンションを建てた温泉芸者に会いに行ったことがきっかけ。某有名人が毎月30万を送ってくれ、他にもいろいろ旦那がいて、その訳は「私のはミミズ千匹らしいのです」と答えた。さらに「30秒我慢できたら、私のマンションを差し上げます」とまで言われたが梶山は17秒フラットでダウンし、「お強い方ですわ」と言われた。女に対してもバイタリティー旺盛で、講演旅行4日間のうち3晩は女を変え、一晩に2人相手にすることもあったという。その体験は読者への情報とサービスになった。しかし律儀型浮気と言われ、生活の乱れも人に恨まれることもなかったという[15]

1971年に渋谷税務署の一日署長を務めた。1974年6-8月にはクイズ番組「ほんものは誰だ?!」(日本テレビ)のレギュラー回答者として出演した。

再評価

死後30年が経ち、『赤いダイヤ』(2004年)『見切り千両』(2005年)がパンローリングから再刊。2007年には広島で、シンポジウム「時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す」開催。続いて同年、岩波現代文庫で『黒の試走車』『族譜・李朝残影』『ルポ・戦後縦断』が相次いで刊行、2008年には論創社から『彫辰捕物帖』が再刊された。

原作作品

映画

  • 『愛の渦潮』東宝 1962年(ラジオドラマの映画化)
  • 『黒の試走車(テストカー)』大映東京 1962年
  • 『やくざの勲章』大映 1962年(原作は『週刊文春』の同名ルポ)
  • 『夜の配当』大映東京 1963年
  • 『結婚の設計』松竹 1963年(ラジオドラマの映画化)
  • 『のるかそるか』東宝 1963年
  • 『黒い凶器』大映 1964年
  • 『赤いダイヤ』東映 1964年
  • 『夢の超特急』大映東京 1964年
  • 『李朝残影』1967年(初の日韓合作映画)
  • 『女の警察』日活 1969年
  • 『族譜』貨泉公社 1978年(文化広報部優秀映画賞受賞)
  • カポネ大いに泣く』ケイエンタープライズ 1985年

ラジオドラマ

主題歌の松尾和子「人妻だから」の作詞も梶山。

テレビドラマ

  • 『赤いダイヤ』TBS 1963年
  • 『のるかそるか』日本テレビ 1964年 - 自身も流行作家の役でドラマ初出演した。

マンガ

横山まさみちによるマンガ化作品は電子書籍で購入可能。

  1. ^ 加藤憲作「解説」(『鱶のような紳士』集英社文庫 1987年)
  2. ^ 高橋吾郎「解説」(『狂った脂粉』光文社文庫 1987年)
  3. ^ 1968年に大森実の太平洋大学講師で渡米した際に台風で帰国が遅れ、『小説・太平洋大学』の連載第1回の原稿を間に合わせるために船上からヘリコプターで吊り上げて運んだ。(橋本健午「解説」(『日本一匹狼』角川文庫 1980年))
  4. ^ 野坂昭如「解説」(『ミスター・エロチスト』徳間文庫 1983年)
  5. ^ 「作家の芸談」(尾崎秀樹対談集)
  6. ^ 山口瞳解説(『小説GHQ』集英社文庫 1981年)
  7. ^ 佐高信『経済小説の読み方』光文社 2004年
  8. ^ 山口の『男性自身』でも梶山が幾度か題材にされている。(山口瞳『男性自身 英雄の死』新潮文庫 1987年)
  9. ^ 成田とは中学時代にはエロ小説を肉感的な挿絵付きでノートに手書きで書き、みんなで回し読みをしていたという(「京城落第点中学入学に奮起、猛勉強」私の履歴書 成田豊③日本経済新聞2008年8月3日)
  10. ^ 森村誠一「解説」(『夜の配当』角川文庫 1979年)
  11. ^ 立川談志『酔人 田辺茂一伝』講談社 1994年 p.187
  12. ^ 三好淳之「解説」(『虹を掴む』角川文庫 1983年)
  13. ^ 青地晨「梶山季之とノンフィクションクラブ」(『別冊新評 梶山季之の世界』)
  14. ^ 高橋吾郎「解説」(山口瞳『男性自身 英雄の死』新潮文庫 1987年)
  15. ^ 有栖川寧「日本性豪列伝」東京スポーツ、2007年7月11日

参考文献

  • 『別冊新評 梶山季之の世界 追悼特集号』新評社 1975年夏号
  • 橋本健午『梶山季之 20世紀の群像1』日本経済評論社 1997年
  • 梶山美那江編『積乱雲-梶山季之 その軌跡と周辺』季節社 1998年
  • 梶山季之資料室『梶山季之と月刊「噂」』松籟社 2007年

関連項目

外部リンク