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新田義貞

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新田義貞
稲村ヶ崎の新田義貞/月岡芳年画(明治時代
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 正安3年(1301年
(正安2年(1300年)説あり)
死没 延元3年/建武5年閏7月2日1338年8月17日
改名 小太郎、義貞
戒名 源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位
金龍寺殿眞山良悟大禅定門
墓所 福井県坂井市長林山称念寺
茨城県龍ケ崎市太田山金竜寺
官位 正四位下左馬助上野介、播磨守、越後
左衛門佐左兵衛督左近衛中将
正二位大納言のち正一位
氏族 河内源氏新田氏
父母 父:新田朝氏、母:不詳(朝氏の項を参照)
兄弟 義貞脇屋義助大舘宗氏
小田真知女、天野時宣女ほか
義顕義興義宗千葉氏胤室、
嶋田義央(義峰)[1]
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新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した御家人武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。

河内源氏義国新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり)。官位正四位下左近衛中将明治15年(1882年)8月7日正一位

生涯

新田氏(上野源氏)は、河内源氏3代目である源義家の四男・義国の長子である新田義重に始まり、上野国新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)を開発した。

だが、義貞が家督を継承した頃の、新田宗家の地位は低かった。義貞の時代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。文保2年(1318年)10月に義貞が所領の一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して北条高時が発給した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、幕府での新田本宗家の地位の低さを表している。

世良田満義や新田頼親など、一門の面々も義貞同様に所領の一部を売却していたが、本来であれば、手続きの折は宗家の承諾を得なければならないところだが、宗家の当主である義貞の承諾があった形跡はない。また、大舘宗氏岩松政経が水の利権を巡って控訴沙汰になった際は、両者は義貞を無視して幕府に裁定を仰ぎ、幕府は裁許状を下している。

義貞の生年については判然としていない[2]。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ[3]、生年は正安2年(1300年)前後と考えられている。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は39歳没説を採用している。

また『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている[4]

義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証は難しい。 義貞の出生地には三つの説がある。

  • 宝泉村由良(太田市):『新田義貞正伝』 より
  • 生品村反町館(新田郡新田町): 『新田氏根本資料』「筑後佐田・新田氏系図」より 
  • 碓氷郡里見郷(榛名町):『新田正伝記』「里見氏系譜」より

とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。 正和3年(1314年)、13歳で元服したことが『筑後佐田系図』に示されているが、この史料は信頼性に乏しいとされる[5]。文保2年(1318年)には、義貞が長楽寺再建の為、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。

義貞の育った新田荘は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、笠懸野という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている[6]

挙兵から鎌倉攻略まで

元弘元年(1331年)から始まった元弘の乱では、大番役として上洛していたが、河内国楠木正成の挙兵が起こり、鎌倉幕府に従って正成討伐に向かい、千早城の戦いに参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。『太平記』には、元弘の乱で出兵中、義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している。奥富敬之は、護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい、文章の体裁が綸旨の形式ではない、などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない[7]。山本隆志も、『太平記』の記述にある、義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している[8]。 また義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる[9]。ただし『太平記』には後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はない。

義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、幕府の徴税の使いとのトラブルであった。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。新田荘には、金沢出雲介親連(幕府引付奉行北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎御内人)が赴いた。親連と黒沼は、六万貫文の軍資金を、わずか5日の間という期限を設けて納税を迫ってきた。これだけ高額の軍資金を、短期間で納入するよう要請した理由は、世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである[10]

両者の行動はエスカレートし、譴責の様相を呈して来た。義貞の館の門前に、泣訴してくるものもあった。また、黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺した。彦四郎の首は、世良田の宿に晒された。親連は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると幕府を刺激すると義貞が懸念したとも考えられている[11]

得宗・北条高時は、これに対して、新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。義貞は得宗被官安東聖秀の姪を妻としており、彼女を経由して情報を取得したと推測される[12]。義貞は一門、郎党を集め評定を行っていたが、幕府による新田討伐の情報を得るに至って、幕府との対決の戦略を講じるようになる。最初は防戦を方針とした消極的な戦略が練られていたが、弟・脇屋義助の演説が一同を奮励し、積極的な戦略へと方針を転換した。

元弘3年 / 正慶2年(1333年)5月、義貞は挙兵した。挙兵の日時については史料によって若干隔たりがある。『太平記』は5月8日、『梅松論』は5月中旬、『神明鏡』は5月5日と記述している。千々和実は、幕府による平塚郷の長楽寺への寄進が5月8日であることを鑑み5月5日説を支持し、奥富敬之は徴税使殺害など前後の事象から5月8日説を支持している[13]。『太平記』には、挙兵に際して、新田荘にある生品明神社頭に義貞はじめ新田一族が参集して決起するエピソードが描かれているが、義貞決起の経緯の記述構成が太平記と類似している『神明鏡』には神社で決起する描写がないことから、神社での決起は太平記における創作ではないかという指摘がある[14]。この時点で集まった主なメンバーは、義貞に義助、大舘宗氏とその息子達、堀口貞満、岩松経家らであった。兵の数はわずか150騎であったが、これは騎馬武者のみを考慮した数であり、雑兵も計算に入れると数倍はいたと考えられる[15]

挙兵した義貞は笠懸野に布陣した。これは『太平記』『神明鏡』による叙述で、『梅松論』は世良田に打って出たと叙述しており、矛盾が生ずる。しかし、矛盾を指摘した山本隆志は、当時は『笠懸野』が示す範囲が今よりも広く、世良田も笠懸野の一部であったと推量し、史料の齟齬を埋め合わせている[16]

義貞は、まず後顧の憂いを絶つべく、進路を北西へ向け、幕府方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所に攻め入って壊滅させた。幸先の良い快勝を収めた義貞は八幡荘で体勢を整えた。そこに利根川を越えて越後国信濃国甲斐国の新田一族や、里見・鳥山田中・大井田・羽川などの氏族が合流した。『太平記』によれば、彼らは山伏から義貞決起の情報を聞かされ馳せ参じたとされる。各地から参集した軍勢と合流して義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、態勢を整えると鎌倉を目指し一気呵成に進撃した。さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、鎌倉を脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と合流した。千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は膨大なものとなった。その数について『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎と言及している。

小手指原・分倍河原の戦い

ファイル:NittaYoshisadaStatue.jpg
分倍河原駅前の新田義貞像

さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。幕府軍は、義貞が入間川を渡りきる前に迎撃する算段であったが、義貞の方が動きが迅速であった[17]

両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなかった。戦闘は30回を越える激戦となった。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、一旦撤退して軍勢を立て直した。

翌日、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した。桜田貞国は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は成功しなかった。幕府軍は鶴翼の陣を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、この戦法を義貞は看破し、戦法にかかったような芝居を見せ、陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。桜田貞国は軍勢を纏め、分倍河原まで退却した。

退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始する(分倍河原の戦い)。先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢が加わり、士気が高まった。一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突するが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き撤退した。もし、幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている[18]。しかし、幕府軍は、過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した。『太平記』には、この合戦における両軍の軍勢の構成や、採用した戦法について、詳らかに記述されている。

敗走した義貞は、退却も検討していた[19]。しかし堀兼に敗走した日の夜、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥渋谷本間相模国の氏族を統率して義貞に加勢した。大多和氏は北条と親しい氏族であったが、北条に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている[20]

義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる為、忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌日早朝、義勝を先鋒として義貞は虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け、大勝した。義勝の加勢の背景には、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている(関戸の戦い)。

稲村ヶ崎突破

藤沢(神奈川県藤沢市)まで兵を進めた義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂(けわいざか)切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨副呂坂(こぶくろざか)切通しから鎌倉を総攻撃した。しかし、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は、波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとしたが、北条軍の迎撃によって討死した。宗氏の戦死によって指揮系統が失われたため、義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った。

5月21日、義貞は稲村ヶ崎を突破する。現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している[21]。『太平記』では、義貞が太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。

5月21日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学者小川清彦の検証によって証明されている[22]。義貞は幕府御家人として鎌倉に在住することも多く、さらに結果として失敗したが先立って大舘宗氏が突破を敢行しており、干潮については把握していてもおかしくは無いと指摘される。一方で、稲村ヶ崎を守備する幕府軍も、当然そのことは知悉していたと考えられる[23]

久米邦武は、稲村ヶ崎徒渉を虚偽であると断定した。これに影響を受け、三上参次も、干潮虚構説を支持した。久米は、『和田系図裏書』に所収されている軍忠状を援用して、河内の武士三木俊連が、霊山をよじ登り、背後から幕府軍を奇襲し、義貞らが鎌倉に突入する道を開いた、という見解を示した。これに対して、大森金五郎は、徒渉説を支持した。峰岸純夫は、突発的な地殻変動や自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した[24]高柳光寿は、『梅松論』にある「石高く道細し」という記述に着目して、干潟を通ったのではなく、山道を通って鎌倉に突入したと解釈した。

いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させ、鎌倉を蹂躙した。最後の戦場は葛西谷に推移し、北条高時ら北条一族は菩提寺の東勝寺にて自害(東勝寺合戦)、鎌倉幕府は滅亡した。挙兵から2週間という迅速さであった。

『太平記』は、幕府滅亡にあたって、義貞と舅安東聖秀のエピソードを収録している。それによると、義貞の妻は、父である聖秀に勧告状を贈ったが、これを受け取った聖秀は「娘の真意であったとしても、義貞が真の勇士であれば、このようなことをすべきではない」と、憤然としてその書状で太刀を握り、割腹して果てたという。安東聖秀という人物の実在については明確な典拠はないが、実在したと充分想定できる人物であるという。[要出典]太平記は、義貞を勇将として描く一方、義貞に親族の縁を利用して敵を懐柔する狡猾な一面があったことを指摘するためにこのようなエピソードを収録したとされる[25]

鎌倉占拠と足利氏との確執

鎌倉を陥落させた義貞は、勝長寿院に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣した。

鎌倉を占拠してしばらく、義貞は戦後処理に奔走した。各々の武将が義貞へ軍忠状着到状を提出し、義貞はそれに対して証判を書いた。諸将への宿の割り当てや、兵卒の喧嘩の仲裁、北条残党の追捕にも尽力した。5月28日には執事船田義昌が高時の嫡男、北条邦時を捕らえ斬首している。

7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、着到状が突然途絶える。後醍醐天皇が京都に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。更に、無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利高氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく高氏の子である千寿王の下へ集った。更に、高氏は我が子を支援する為、細川和氏頼春師氏の三兄弟を派遣した。鎌倉では、新田と足利が、互いに手柄を争って角逐する情勢を呈してきた。

『梅松論』は、義貞が細川三兄弟と諍いを起こし、鎌倉を去って上洛するまでの経緯を記述している。鎌倉の街中で武士同士の騒擾が起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文を提出した。事態が収束して程なく、義貞は軍勢を引き連れ鎌倉を去り、上洛したというのが、梅松論が伝える義貞上洛の顛末である。

奥富敬之は、この騒動の為、義貞は鎌倉に逗留したくてもいられなくなってしまい上洛した[26]、峰岸純夫は義貞が対立の激化を回避する為に譲歩して鎌倉を去った[27]と指摘する。だが、『梅松論』は足利寄りの記述が多い為、尊氏を擁護するための潤色と推測される[28]。また、鎌倉で起こった騒擾については検証できる一次史料は存在しない。

契機こそ定かではないが、元弘3年(1333年)8月初頭、義貞は鎌倉を去り、上洛した。義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。これは武家政権である幕府再興の伏線の一つともなった。

建武政権下の義貞

上洛後の8月5日、叙位、除目が行われ、義貞は従四位上に叙され、左馬助に任官した。さらに上野、越後、10月には、播磨介国司となった[29]。弟の脇屋義助は駿河国司となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上に叙された[30]。同時に義貞兄弟はじめ新田一族は多くの所領を拝領したものと思われるが、それを明示する史料は現存していない[31]。既に義貞は30代半ばの年齢に達していたと思われるが、この時期の義貞の行動を観察すると、あまり思慮深い行動が見られず、政治の世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている[32]

一方、ライバルの足利尊氏は、従三位に叙され、武蔵守に任官された上、鎮守府将軍に任ぜられた。弟の直義は、相模守となった。義貞が叙任された四位と三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて得宗が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった[33]

同年、武者所の長たる頭人となる。義顕、脇屋義治、江田行義ら、一族の多くも武者所に配された。また、上野・越後両国守護を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、左衛門佐左兵衛督などの官職を歴任。なお、上洛の時期から義貞の使用する花押の形に変化が生じている。

この頃、建武政権では足利尊氏と護良親王による政争が起こっていた。『梅松論』は、義貞が親王、楠木正成、名和長年らと結託して、尊氏に対して軍事行動に及ぼうとすることが度々あったと記する。義貞や親王が尊氏に対して軍事行動を起こそうとした旨の記述は梅松論以外の史料には見られないが、実際にそのような動きがあったかもしれないと考えられている[34]

親王は、やがて尊氏の策略によって父の命令により拘束、幽閉される。この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導した[35]。天皇の命令であったとはいえ、政治的に接近していた親王の捕縛に関与したことは、義貞の政治的な力量の未熟さ、また宿敵尊氏との差を示すポイントとして指摘されている。

親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。源氏の血族であること、鎌倉幕府打倒の武功などの要素から、義貞に尊氏の新たな対抗馬として白羽の矢が立った。背景には、親王の代わりに義貞を使って尊氏を牽制しようとする後醍醐天皇の意図もあった可能性もある[36]。この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図の傍証となっている。

建武2年(1335年)に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起こる。この戦乱の中で新田の傍流であり義貞と共に倒幕に功績のあった岩松経家が戦死した。他、新田一族の鳥山氏盛、宗兼、氏綱、そして大舘時成の4人が、足利の与党として合戦に参戦し散華している。新田と足利の政争が中央で行われている折、新田一族から4人もの武士が足利の与党として戦い死んだことは、新田一族が分裂していたことを暗示している[37]。また戦死した岩松経家に至っては、後継者(代官)に尊氏から所領が交付され、それによって岩松氏は足利と主従の関係となった。元より足利寄りであった岩松氏だが、完全に足利氏の傘下となったことで、義貞は新田氏総領としての面子を損なった[38]。新田と足利の対立は、これらの要素によって一層顕在化してゆくこととなる。

時行蜂起に対し、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。更に、尊氏は新田一族やその与党の所領を、時行撃退に武功のあった自分の与党への褒美として分給した。義貞が国司を担当した上野国の守護職が上杉憲房に与えられたほか、『宇都宮文書』によると、新田氏の本領である上野新田荘までもが、三浦高継に与えられた。尊氏は朝廷の帰京命令に従わず、「義貞や公家が策謀して自分を陥れようとしている」と主張した。尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐天皇に上奏するが、逆に天皇は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。義貞は弟・脇屋義助とともに矢作川の戦い愛知県岡崎市)、手越河原の戦い静岡県静岡市駿河区)で足利直義高師泰の軍を破るが、鎌倉から出撃した尊氏に箱根・竹ノ下の戦い(静岡県駿東郡小山町)で撃破され、尾張国に敗走した後、京へ逃げ帰る。

建武3年(1336年)正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より上ってきた北畠顕家と連絡し、京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原(大阪府池田市箕面市)で破る(豊島河原合戦)。この功により2月、正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任。播磨守を兼任。さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の白旗城で篭城した赤松則村(円心)に阻まれて断念。尊氏は九州を平定し海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を空費する。楠木正成らと共同して戦った湊川の戦い兵庫県神戸市)において義貞は和田岬に陣を構えて戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗して破れ、西宮(兵庫県西宮市)で再起を図るが京へ敗走する。

北陸落ちと最期

新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町)

湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、新田一門の堀口貞満が天皇に、「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、直前に阻止した。後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、折からの猛吹雪で凍死者を出したり足利方の執拗な攻撃に大迂回を余儀なくされたりしながらも越前国金ヶ崎城福井県敦賀市)に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主・瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。金ヶ崎城は延元2年 / 建武4年(1337年)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。

夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、『史記』の項羽の最期や『平家物語』の源義仲の最期の記述にヒントを得た『太平記』の作者による創作であると思われる(義仲の最期も『平家物語』の作者による創作である可能性が高い)。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。年月日不明ながら、正二位を贈位。大納言の贈官を受ける。

なお、江戸時代明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、福井藩松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社が創建された際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。兜は、明治33年(1900年)の旧国宝指定を受けた後、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定し直されている[39]。ただし、兜の実際に製作された時期については、甲冑研究家の山上八郎らによって、室町時代末期との鑑定が下されている(詳細は藤島神社の該当項を参照のこと)。

人物

評価

新田義貞(菊池容斎画/明治時代)

同時代では、南朝を主導していた北畠親房との確執があったとも言われ、親房の『神皇正統記』では「上野国に源義貞と云ふ者あり。高氏が一族也」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている[40]。 また、『増鏡』には、「高氏の末の一族なる、新田小四郎義貞といふ者、今の高氏の子四つになりけるを大将軍にして、武蔵国よりいくさを起してけり」と書かれており、通称の小太郎を小四郎と、挙兵地の上野国を武蔵国と、それぞれ誤って述べられているばかりか、足利千寿王を鎌倉攻めの大将に立てたことにされてしまっている。

これは、新田氏の祖である新田義重源頼朝の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、幕府成立後には源義国の系統を束ねる棟梁としての地位が義重の弟足利義康の子足利義兼の系統に変移し、新田氏のみならず源氏の系譜を持った武士をその支配下に置くという慣例が定着したためであるという説がある。実際に新田一族の中でも足利氏を武家の棟梁と考える者もおり、新田一族でも本宗家から遠い山名氏などは、義貞が挙兵した際、足利千寿王(義詮)の指揮下に入ってその後も足利方に就いている。

また、室町時代に成立した軍記物である『太平記』では、知略を巡らす智将として装飾的に描かれる楠木正成に対して、義貞には作者の共感が薄く、優柔不断で足利尊氏との棟梁争いに敗れる人物として描かれていると指摘される。その一例として、義貞が摂津豊島河原で尊氏を破り九州へ敗走させた後、勾当内侍との別れを惜しんで追撃を怠ったため、尊氏が勢力を盛り返し湊川で官軍を破って入京したという、義貞のだらしなさを強調する記述がある。しかし、別の部分では病気により追撃が遅れたとの記述もあり、実態は不明である。

その一方、『梅松論』には箱根の戦いに負けた新田軍の兵士が天竜川にかかる橋を切り落とそうとした際、「橋を落としてもまた架けるのはたやすい。新田軍は橋を切り落とし慌てて逃げたと言われるのは末代までの恥となる」と言って、土地の者に橋の番を頼んで兵を引いた。その後追撃してきた足利軍の将兵がこの発言を聞き「弓矢取る家に生まれたものは誰でも義貞のようにありたいものだ」と賞賛したという記述がある。

明治維新から戦前にかけては、皇国史観のもと、「逆賊」足利尊氏に対して後醍醐天皇に従った忠臣として楠木正成に次ぐ英傑として好意的に評価され、講談などで物語化された。戦後になると、東国の一武将に過ぎなかった者が能力以上の大任を与えられた凡将との見方が現れ、戦略家としては凡庸であり愚将であると評価する意見もある。しかし、『太平記』の物語描写のみからの評価を疑問視し、尊氏との人望の差はそもそも先祖からの家格の差が大きいことや、短期間で鎌倉を陥落させ、圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破するなどの点から、武将としての資質を評価する意見もある。

また、群馬県の郷土かるたである上毛カルタでは「歴史に名高い新田義貞」で親しまれている。

勾当内侍

軍記物の『太平記』では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れを惜しみ時機を逸したとのエピソードが記されている。勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた一条経尹の娘をさす。年代などから実在は疑わしく架空の人物と考えられている[要出典]。太平記では天皇の許しを得て義貞の妻となり、義貞は内侍との別れを惜しみ尊氏追討の機会を逃したと記されており、この事から義貞は皇国史観などでは南朝に殉じた武将として称えられる一方で、忠臣の楠木正成を死に追いやった張本人として厳しい評価もなされた。内侍は義貞の戦死を聞いて琵琶湖に投身した、あるいは京都または堅田(滋賀県大津市)で義貞の菩提を弔ったなどの伝説が残されており、墓所と伝えられるものも複数存在する。

稲村ヶ崎の太刀

新田義貞と稲村ヶ崎

鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が『太平記』などに見られ、文部省唱歌にも唄われた。

なお、『太平記』では、この日を元弘3年(1333年)5月21日としているが、大正4年(1915年)に小川清彦がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を計算したところ、同日は干潮でなく、実際には新田軍は稲村ヶ崎を渡ることができないと幕府軍が油断していたところを義貞が海水を冒して稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。これに対して、平成5年(1993年)になって石井進が小川の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を発表している[41]

銅像・遺品・碑

義貞所用と伝わる四十二間筋兜。藤島神社蔵。

子孫

室町時代を通じて新田氏は「朝敵」「逆賊」(いずれも北朝から見て)として討伐の対象となった。

義貞の直系では、応永年間に義宗の子・新田貞方(義邦)が捕縛され、長子の貞邦と共に鎌倉で処刑されて断絶したという。しかし、貞方の諸子の内堀江貞政堀江氏と称し、武蔵国稲毛に逃れた。貞政の子孫は後北条氏に仕えた。さらに、もうひとりの子の中村貞長陸奥に逃れ、中村氏と称し、伊達氏に仕えた。庶家は藤沢氏などが出て現存している。さらに、義宗の庶子とする新田宗親(親季)もひっそりと在続しているという。

その一方、一族の岩松満純(『系図纂要』等では義宗と岩松満国の妹との間の子とするほか、出自に諸説ある)も義宗の子と自称して、岩松氏養子に迎えられたと自称した。満純の子孫である岩松氏礼部家は、岩松氏の別流京兆家との争いを勝ち抜き、新田氏の故地である新田金山城を本拠とした。しかし、戦国時代には岩松氏は重臣の横瀬氏由良氏)に下克上されて没落した。新田一族の世良田得川氏の後裔と称する徳川家康が関東に入部したとき、岩松氏の当主守純が召し出されて新田氏の系図を求められたが拒否したため、守純は家康の直臣となるも禄高はわずか20石を与えられただけであった。岩松氏は守純の孫秀純の代に、表面上は新田宗家として交代寄合の格式を与えられながら、新田氏を姓とすることは許されず、禄高もわずか100石加増されただけで、交代寄合としては最低レベルの120石を与えられただけであった。江戸時代、岩松氏は交代寄合に準ずる家(交代寄合衆四州に準ずる家)として細々と続いた。

また、岩松氏の執権で戦国時代に主家を下克上した横瀬氏も政義・義貞・義宗の子孫と自称し、明治維新後に新田氏に復姓している。

明治維新後に岩松氏、由良氏ともに明治政府に義貞の子孫として認定され、新田氏に復姓した。いずれが新田氏の嫡流かを巡って争った末、岩松氏が嫡流と認められ、華族として男爵に叙されている。

女系では千葉氏胤室となった娘が氏胤との間に満胤を儲けており、満胤以降の千葉氏宗家にその血統を伝えている。

熊谷家伝記』の伝承によれば、坂部熊谷家の初代熊谷直貞は、三河熊谷氏の祖である熊谷直重の娘、常盤と新田義貞との間の子であるとされている。

脚注

  1. ^ 浅田晃彦著『児島高徳と新田一族』によると、義貞には越前国河合庄の豪族・嶋田勘右衛門の娘との間に産まれた義央(別名:義峰、嶋田家の祖)という庶子がいたとする。また、義央は異母兄・義興と共に南朝方として活動し、兄が謀殺されると、多摩川矢口渡付近の住民の頓兵衛の娘・お舟に匿われたという。
  2. ^ 奥富・65項
  3. ^ 奥富・66項、峰岸・13項、山本・45項
  4. ^ 奥富・66-68項
  5. ^ 奥富・70
  6. ^ 峰岸・32項
  7. ^ 奥富・77項
  8. ^ 山本・60-65項
  9. ^ 山本・65項
  10. ^ 奥富・85、峰岸・34-35項
  11. ^ 峰岸・36項
  12. ^ 奥富・88項
  13. ^ 奥富・90項
  14. ^ 山本・69項
  15. ^ 峰岸・34項
  16. ^ 山本・69項目
  17. ^ 奥富・98項
  18. ^ 奥富・100項
  19. ^ 奥富・101項
  20. ^ 峰岸・56項
  21. ^ 峰岸・66項
  22. ^ 天文月報第八巻「太平記・稲村ケ崎長干のこと」
  23. ^ 峰岸・66項目
  24. ^ 峰岸・67項
  25. ^ 山本・111項
  26. ^ 奥富・120項
  27. ^ 峰岸・76項
  28. ^ 山本・131項
  29. ^ 山本・137項、峰岸・77項
  30. ^ ただし義助、義顕の国司任命については疑問も呈されている(峰岸・77項)
  31. ^ 奥富・127項
  32. ^ 山本・137項
  33. ^ 奥富・128項
  34. ^ 山本・165項
  35. ^ 山本・169-170、武者所の役目なども考慮して、義貞が親王捕縛に関与したとみなすのは妥当であると山本は判断している。
  36. ^ 奥富・131項
  37. ^ 奥富・138-139項
  38. ^ 山本・180-181項
  39. ^ 山上八郎『日本甲冑100選』p. 269 - 271(秋田書店、1974年)。
  40. ^ 親房が「(義貞は)高氏が一族也」という表現を用いたのは、河内源氏義国流の嫡流を足利尊氏であると認識していたからであると取れる。清和源氏のうち、兄筋の摂津源氏平安時代末に以仁王の挙兵に従って敗亡し、次に事実上の嫡流となった河内源氏義朝流も鎌倉時代初期に実朝暗殺されて断絶したため、清和源氏の筆頭格は河内源氏義国流となった。義国流の代表格は、義国の長子義重を祖とする新田氏と義国の次子義康を祖とする足利氏であったが、義貞が挙兵した当時は、足利氏は三河国をはじめ全国に所領を持つ一大御家人であり当主の高氏(尊氏)も従五位下治部大輔に任官していたのに対して、足利氏の兄筋に当たる新田氏は上野国新田荘のごく一部を領するに過ぎない無位無官の弱小御家人でしかなかった。なお、『神皇正統記』は足利高氏が尊氏と改名した後も「高氏」と表記している。
  41. ^ 細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4

参考文献

関連作品

関連項目

先代
新田朝氏
新田氏歴代当主
-
次代
新田義宗