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伊達氏

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伊達氏
家紋
竹に雀
本姓 藤原北家山蔭流
家祖 伊達朝宗
種別 武家
華族伯爵) - 宗家
華族(侯爵) - 宇和島
華族(子爵) - 吉田
華族(男爵) - 仙台分家
華族(男爵) - 宇和島分家
華族(男爵) - 亘理
華族(男爵) - 当別
出身地 陸奥国伊達郡
主な根拠地 陸奥国
東京都
宮城県
著名な人物 伊達政宗(9代)
伊達政宗(17代)
伊達綱宗
伊達慶邦
伊達泰宗(現当主)
支流、分家 伊達氏族武家
凡例 / Category:日本の氏族

伊達氏(だてうじ/いだてうじ)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国但馬国駿河国などに庶流家がある。通字は「」。

「伊達」の読み

伊達の名は陸奥国伊達郡に由来する。この地は古代には「いだて」または「いだち」、中世以降は「いだて」と呼ばれた。伊達氏の読みも本来は「いだて」であり、暦応2年(1339年)の文書には「いたてのかもんのすけ為景」、慶長18年(1613年)に支倉常長ローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡には Idate Masamune とある。15世紀に「だて」という読み方が畿内で発生し、江戸時代を通じて「いだて」と「だて」が混用された。

伊達家略史

鎌倉時代から室町時代まで

出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられる。魚名藤原山蔭の子孫である。鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝より伊達郡の地を与えられ、伊佐あるいは中村に変わり伊達朝宗(ともむね)を名乗った。

ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。例えば太田亮は「山蔭の裔とする事については、何等確実徴証あるなく、且つ世数長きに失す」と指摘し「桓武平氏常陸大掾平維幹の子為賢の末」説を挙げている。また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石元禄15年(1702年)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。

鎌倉時代には陸奥下野常陸の他にも出雲但馬伊勢駿河備中上野出羽越後などでも地頭職を得ており、これにともにない各地に庶流家が生まれている。

南北朝時代伊達行朝の代には、義良親王を奉じて奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属し、行朝は結城宗広らとともに式評定衆となった。北条氏残党の中先代の乱では、連動して蜂起した北条方の与党を討った。建武2年(1335年)に顕家が足利尊氏討伐のために上京すると行宗も従い、足利方と戦う。興国年間には南朝方(後醍醐天皇方)として同族の伊佐氏とともに常陸国伊佐郡伊佐城に拠り、北朝方(足利方)の高師冬等と戦う。南朝方は破れて伊佐城は落城、行朝は城から脱出した[1]

なお、正中の変元弘の乱では分流(雲但伊達氏系)の伊達遊雅(三位房、祐雅法師)が連座し処罰されている。また雲但伊達氏や駿河伊達氏は足利方であった事がこの時代の各史料に見て取れる。

しかし伊達宗遠の代には北朝方に降伏。宗遠は出羽国長井郡を攻め、領主である長井氏を滅ぼして領有した。宗遠の子伊達政宗の時代に鎌倉公方足利満兼が領土の割譲を求めると、満兼や会津の蘆名満盛と争った。政宗氏は応永9年(1402年)までに3度にわたり鎌倉府に反旗を翻している(伊達政宗の乱)。

初め奥羽は鎌倉府の管轄ではあったが、のちに斯波氏が奥州・羽州探題を世襲するようになると、伊達氏はさらに形式上その配下となる。また幕府と鎌倉府の対立が次第に深まると伊達氏は幕府に接近して京都扶持衆となり、応永20年(1413年)の応永の乱では鎌倉を牽制し(伊達松犬丸の乱)、永享10年(1438年)の永享の乱では幕府より鎌倉公方の討伐命令を下されるなど、南北朝時代に南朝方であった伊達氏は幕府との接近によって、その地位と勢力を高めていった。

文明15年(1483年)には伊達成宗上洛将軍足利義政日野富子らに砂金太刀などを献じた。献上物の数は当時としては随一のものであったと伝わる[2]

室町戦国〜安土桃山時代

幕府は陸奥には奥州探題職を置き、守護は置かない方針であったが伊達稙宗は陸奥守護を望み補任された、勢いを得た稙宗は主筋にあたり奥州探題を世襲する名門の大崎氏の内紛に介入して二男の義宣を大崎氏の養子に送り込んだ。さらに羽州探題最上氏も勢力圏に組みこんだ。稙宗は天文5年(1536年)には分国法塵芥集を制定するなどして家中統制の強化に努めた。

しかし稙宗の専制を快く思わない家臣団の一部は、稙宗の子・伊達実元越後守護上杉氏に入嗣計画に反対する嫡男・伊達晴宗を擁立して稙宗の追放を図った。こうして稙宗・晴宗父子の間で天文の乱が勃発。この争乱は姻戚関係を結んだ奥羽の諸大名を巻き込む大乱へと発展した。乱は晴宗方の勝利に終わったが、長期の内戦により伊達家は疲弊し、勢力下に収めていた諸大名の独立を許すことになった。

晴宗は居城を米沢城に移して態勢の立て直しにとりかかり、幕府に奥州探題への補任を求めた。すでに天文15年(1546年)に大崎義直が探題に補任されていたが、晴宗は陸奥守護職と奥州探題職は同一のものであり、稙宗が守護職を得た時点で伊達氏が探題職に補任される権利を得ていると主張した。

天正12年(1584年)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めた。国人間の重層的な姻戚関係により奥州国人すべて親族血縁の誼を通じていたため、領土紛争も互いの存亡をかける争いには発展しなかったが、政宗はそうした親族血縁や幕府の旧権威を良しとせず、伊達氏の勢力拡大を推し進め、足利一門の畠山氏嫡流の流れを汲む二本松氏を打倒し、蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589年会津守護を称して南奥州の覇者であった蘆名氏と雌雄を決し、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大となった。

この間、室町幕府を打倒しこれにとってかわった織田信長の後継者たる地位を得た豊臣秀吉関白となり、その権威を以って天下に惣無事令を発し、諸国の戦乱を禁じられ当初、政宗はその布令を無視して領土拡大を進めたが、天正18年(1590年)に秀吉が後北条氏を攻撃するのをみてこれに服属した。秀吉からは布令無視を詰問されたが、徳川家康らの周旋もあり窮地を脱し、奥州仕置で蘆名領であった会津・岩瀬・安積は没収。それ以外の72万石は旧領扱いとされ、安堵となった。その為居城を米沢に戻す。その年に起きた葛西大崎一揆の戦後処理で翌天正19年(1591年)、秀吉に米沢などを更に没収され国替を命じられ、旧大崎葛西領など58万石の領主として岩出山城(現大崎市岩出山)に移った。

なお、秀吉の小田原征伐の頃、後北条氏の家臣に岩付城代として分流の伊達房実がおり、この子孫が旗本の伊達氏である。

江戸時代以降

伊達政宗は関ヶ原の戦い徳川家康に味方し、その恩賞として62万石に加増された。翌年には仙台城を築いて岩出山城から移り、江戸時代を通じて国持大名の家格を維持し、仙台藩62万石の大藩として繁栄した。伊達宗家の当主は家督相続時権少将に任ぜられ、極官は従四位上権中将に昇った。外様大名の中では別格の扱いを受け、将軍家から降嫁がある数少ない家のひとつとされ、松平の姓を与えられて松平陸奥守を称した[3]江戸時代には、大名家及び仙台藩士の他に旗本(駿河伊達氏系)、紀州藩士(駿河伊達氏系)、津山藩士(駿河伊達氏系)、秋田藩士(伊達盛重の系統)にも伊達氏が確認できる。

江戸時代において、伊達宗家の仙台藩以外に大名として取り立てられたのは以下の4家である。

  • 慶長19年(1614年)、政宗の庶長子・秀宗が、伊予国宇和島藩10万石を拝領。
  • 明暦3年(1657年)、宇和島藩初代藩主秀宗の五男・宗純が、宇和島藩より3万石を分知され伊予吉田藩を立藩。
  • 万治3年(1660年)、政宗の十男・宗勝が、仙台藩より3万石を分知され一関藩を立藩。(寛文11年(1671年)伊達騒動により改易)
  • 元禄8年(1695年)、仙台藩3代藩主綱宗の二男・村和が仙台藩より3万石を分知され陸奥中津山藩を立藩。(元禄12年(1699年)改易、のちに長男・村詮が仙台藩一門・川崎伊達氏を興す)

仙台藩の実高は新田開発により100万石余に達したが、4代藩主綱村がこしらえた莫大な借金や、買米制による米相場依存の財政体質、7代藩主重村の失政などが祟って次第に苦しい藩政運営を強いられるようになる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で仙台藩は会津藩に味方して薩長軍に敗北した。そのため朝敵として処分され、いったん領地を没収された後、28万石を与えられた。このため、仙台藩の直臣7千人余のうち、仙台藩領内に留まった地域の家臣団の家禄を大幅に削減するとともに、仙台藩から没収された地域に居住する在郷家臣団は帰農を命じられた。また陪臣(主に仙台藩重臣の家来)2万人余に至っては士族籍すら与えられず、一方的に解雇された。このため、伊達邦直伊達邦成片倉邦憲ら万石級の所領を知行していた領主たちは、自らの家臣団を救済するため北海道に自費で移住し、開拓に従事した。


華族令施行により、仙台の伊達宗基と宇和島の伊達宗徳はともに伯爵(宇和島は明治24年(1891年)侯爵に昇格)に叙された。また、吉田の伊達宗定子爵に叙された。宇和島からは伊達宗敦大陸浪人馬賊として著名な伊達順之助は宗敦の六男)が明治22年(1889年)に、伊達宗倫がそれぞれ明治25年(1892年)にそれぞれ分家し男爵を授爵。また、北海道開拓の功績により明治25年(1892年)に亘理の伊達邦成・当別の伊達正人(岩出山の伊達邦直の孫)が男爵を授爵。

1912年、活動写真「伊達政宗」(M・パテー商会)公開。伊達氏を扱った初の映像作品となる。

昭和時代には、伊達興宗没後に夫人が伊達家所有の山林を勝手に売却するなどしたため、他の親族との争いに発展した。世間ではこの争いを新伊達騒動などと称した。

平成13年(2001年)、仙台市仙台開府四百年祭の一事業として伊達交流サミットを開催した。伊達氏と関連を持つ23市町(仙台市除く)が参加した。

伊達氏族

宗家歴代当主

(仙台藩主→伯爵

  1. 伊達朝宗
  2. 伊達宗村
  3. 伊達義広
  4. 伊達政依
  5. 伊達宗綱
  6. 伊達基宗
  7. 伊達行朝
  8. 伊達宗遠
  9. 伊達政宗
  10. 伊達氏宗
  11. 伊達持宗
  12. 伊達成宗
  13. 伊達尚宗
  14. 伊達稙宗
  15. 伊達晴宗
  16. 伊達輝宗
  17. 伊達政宗 - 初代仙台藩主
  18. 伊達忠宗
  19. 伊達綱宗
  20. 伊達綱村
  21. 伊達吉村
  22. 伊達宗村
  23. 伊達重村
  24. 伊達斉村
  25. 伊達周宗
  26. 伊達斉宗
  27. 伊達斉義
  28. 伊達斉邦
  29. 伊達慶邦
  30. 伊達宗基 - 最後の仙台藩主
  31. 伊達邦宗
  32. 伊達興宗
  33. 伊達貞宗
  34. 伊達泰宗

伊達氏庶流家

陸奥国内
陸奥国外


派生氏族


なお、上記派生氏族および家臣のうち、半田・飯坂・八幡(やわた)・梁川・徳江(得江:とくえ)・万城目・伊達崎(だんざき)・舟生(ふにゅう)・粟野・大立目・桑折・小梁川・大條(大枝:おおえだ)・懸田(掛田:かけだ)・鬼庭(後に改名して茂庭)などは、いずれも旧陸奥国伊達郡(現伊達郡・伊達市・福島市)に現存する地名であり、瀬上・杉目・中野も伊達郡の隣で同じ福島盆地の旧信夫郡(現福島市)北部に現存する地名。白石(しろいし)・柴田も伊達郡の近隣である刈田郡(現宮城県白石市)や柴田郡に現存する地名。伊達氏家臣団が、伊達氏の伊達郡、福島盆地支配時代に形成されていったことを覗わせる。


系譜

太字は当主、実線は実子、点線は養子。

宗家(仙台藩主家)

宇和島藩・吉田藩系

仙台藩一門

仙台藩一家(伊達姓復姓)

各系図による初期系図の差異

  • 『伊達正統世次考』『寛政重修諸家譜』『永禄伊達系図』『福島県史』『福島市史』
    伊達氏初代も常陸入道念西も朝宗とし、2代を為重=宗村としている。
  • 寛永諸家系図伝(寛永諸家譜)』『南豫史』
    伊達氏初代は朝宗とし常陸入道念西は宗村としている。
  • 『伊佐早本系図』
    伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、2代を義広としている。
  • 『駿河伊達文書』[29]藩翰譜
    伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、2代は資宗=義広とし、3代に時綱を挙げる。
  • 『雲但伊達家系図』[30]
    伊達初代も常陸入道念西も為宗(念西の長子も為宗となっているので誤記か?)とし、時綱・義広の兄弟を念西の子とする。
  • 『藤氏飯田系譜』
    伊達初代も常陸入道念西も宗村とし、宗村の前名を頼宗とする。また、宗村を中村常陸二郎としている。
  • 「当午山満勝寺の比丘知恩の文」
    常陸入道念西を朝宗としているが、有宗が早世したから宗村が襲封したとある。
  • 『会津史』(巻之二・第三篇伊達氏の項)
    朝宗と宗村は従兄弟の関係で、朝宗の嗣子有宗が早世したので宗村が継いだとある。
  • 中村城中村八幡宮の伝承」
    伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、朝宗と宗村は親子で、中村氏は朝宗の次男の朝定が継いだとある。
  • 小林清治作成
    伊達初代も常陸入道念西も宗村とし、2代は為重、3代はその子義広とする。

主要家臣

関連城砦

家紋

  1. 竪三引両 - 文治5年(1189年)、奥州藤原氏討伐の際に朝宗が源頼朝より拝領した。もとは「幕紋二引両」だったが、のちに竪三引両に改めた。仙台市章(昭和8年(1933年)9月5日制定)のモデル。
  2. 竹に雀(仙台笹) - 上杉定実より養子縁組の引き出物として伊達実元に贈られたものが原型であり、現行の紋は伊達宗家がこれを変形したものである。本来の所有者である亘理伊達家をはじめとする伊達各家が用いる「竹に雀」の紋は、宗家の紋より竹の葉や節の数などが少なくなっている。笹かまぼこすずめ踊りなどはこの家紋に因んで命名されたものである。伊達泰宗が商標登録した。
  3. 雪に薄 - 伊達氏独自の紋で輝宗、政宗が使用。
  4. 十六葉菊 - 政宗が豊臣秀吉より拝領(天皇より下賜されたとの説もある)
  5. 五七桐 - 政宗が豊臣秀吉より拝領
  6. 九曜 - 政宗が細川忠興より貰い受ける
  7. 鴛鴦の丸 - 政宗が近衛家より拝領
  8. 牡丹 - 綱村が近衛家(関白)より拝領
  9. 蟹牡丹 - 吉村が牡丹紋を変形
  10. 日の丸 - 「伊達家兵器巻」に伊達家の軍旗として日の丸に酷似した日之丸大龍が描かれ、また、狩野探幽筆「伊達政宗甲冑像」にも伊達政宗の背にはためく日の丸に酷似した日之丸大龍の軍旗が描かれている。

史料

  • 『伊達治家記録』
輝宗から慶邦まで(1564年〜1868年)の伊達家の編年体公式記録。全529巻578冊。
  • 『伊達世臣家譜』、『伊達世臣家譜続編』、『伊達世臣家譜略記』
  • 『仙台藩家臣録』、『元禄補遺仙台藩家臣録』
  • 『伊達家史叢談』
  • 『東藩史稿』

脚注

  1. ^ 茨城県指定史跡の伊佐城跡(茨城県筑西市中館)に行朝の供養塔がある。
  2. ^ 『駿河伊達家文書』では、この時に成宗が奥州探題職を得たとしているが、当時の探題は依然として成宗正室の実家・大崎氏である
  3. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』
  4. ^ 明治期に大條道徳(伊達道徳)が伊達氏に復姓。サンドウィッチマンの伊達みきおはこの系統
  5. ^ 明治期に小梁川盛之(伊達邦盛)が伊達氏に復姓。
  6. ^ 伊達氏の連枝に中村姓を与えた例があった。
  7. ^ 涌谷伊達氏・村元の次男。
  8. ^ 一関藩主・田村邦行の長男。
  9. ^ 宇和島藩主・宗城の次男。
  10. ^ 宗家・政依の子。
  11. ^ 梁川宗清の子。
  12. ^ 宗家・忠宗の四男。
  13. ^ 宗家・忠宗の五男。
  14. ^ 中津山藩主村和の三男。
  15. ^ 宗家・吉村の五男、一関藩主へ転出。
  16. ^ 宗家・吉村の八男。
  17. ^ 宗家・忠宗の八男。
  18. ^ 川崎伊達氏・村敏の子。
  19. ^ 涌谷伊達氏・伊達宗元の子。
  20. ^ 長尾石川氏・石川景光の子。
  21. ^ 宮床伊達氏・宗房の子。
  22. ^ 長尾石川氏・石川宗程の次男。
  23. ^ 仙台藩一家・村田宗門の子。
  24. ^ 金ヶ崎大町氏・大町頼直の次男。
  25. ^ 角田石川氏・石川村弘の子。
  26. ^ 岩谷堂伊達氏・村富の四男。
  27. ^ 留守景宗の三男。
  28. ^ 仙台藩一族・佐藤易信の子。
  29. ^ 参考文献:『駿河伊達家文書 京都大学文学部・博物館の古文書』
  30. ^ 参考文献:『大日本古文書 家わけ第三 伊達家文書之一』
  31. ^ 元亀の変で討ち死に。
  32. ^ 伊達稙宗の娘婿で天文の大乱では稙宗方。
  33. ^ 国分盛重の子。伊達忠宗の側近として活躍し、忠宗に殉死。
  34. ^ 伊達忠宗の臨終に際し伊達綱宗擁立を推進。伊達騒動では反兵部派として奔走した。
  35. ^ 白河結城氏の末で、一門十席白河家の祖。伊達綱村の乳兄弟にあたる。
  36. ^ 『伊達世臣家譜』の編纂を行った。
  37. ^ 北海道開拓の功により男爵を授爵
  38. ^ 西山城と同一とする説が有力視されている。

関連項目

外部リンク