ジョルジオ・パンターノ

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ジョルジョ・パンターノ
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・ヴェネト州パドヴァ
生年月日 (1979-02-04) 1979年2月4日(45歳)
F1での経歴
活動時期 2004
所属チーム '04 ジョーダン
出走回数 14
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終戦 2004年イタリアGP
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ジョルジオ・パンターノGiorgio Pantano, 1979年2月4日 - )はイタリア人のレーシングドライバー・元F1ドライバー。2004年からF1に参戦するが、シーズン途中でティモ・グロックと交代。それ以来GP2で活躍し、最多出走記録、最多勝利記録を保持している。

プロフィール

9歳で始めたカートでの勝利数は現在でも破られておらず、1994年にジュニアカテゴリーでイタリアと世界選手権でチャンピオンになる。また1995年と1996年に15歳以上の世界のトップドライバーが参戦するヨーロッパ・フォーミュラーAシリーズでチャンピオンに輝く。1996年にAMGと契約を結ぶ。

2000年にはドイツF3選手権のチャンピオンを獲得。1999年にF3000のテスト走行を行い、その甲斐があって国際F3000選手権には2001年から2003年まで参戦し、2002年にコローニに所属した年には年間ランキング2位に輝いている。

2000年にベネトンマクラーレンをテストするが契約までには至らなかった。2002年にはミナルディウィリアムズをテストするがこの際もF1チームと契約するまでには至らなかった。このため2003年も下位カテゴリーの国際3000選手権に参戦し、シリーズ3位を獲得した。

2004年についにジョーダンからF1デビューを飾るが、トラブルの多いシーズンであった。開幕戦オーストラリアGPでは最下位に終わった。その後も下位集団でレースをすることが続き、またリタイアも多かった。第8戦のカナダGPでは、契約上の問題(真相については現在も不明のまま)からテストドライバーであったティモ・グロックがパンターノの代わりに出走。続く第9戦アメリカGPでは再びレギュラードライバーに復帰したものの、同GPでは1周目の第1コーナーで他のドライバーとクラッシュしリタイアに終わる。その後の第10戦から15戦も目立った活躍ができず、第16戦の中国GPから残りの3レースはグロックが出走した。

これによりパンターノはF1から離れることとなり、2005年にはGP2インディカー・シリーズチップ・ガナッシ・レーシングよりスポット参戦。2006年もインディーカー・シリーズでの参戦を目標にシーズン前にテスト走行を行うが契約に至らず、この年の上半期はレースさえもできなかった。同年途中にジャンカルロ・フィジケラが代表を務めるGP2チーム、フィジケラ・モーター・スポーツ (FMS) と契約を結び第7戦から出走。シーズン後半からの参戦にもかかわらず3勝し、年間ランキング5位を獲得した。

2007年には元F1ドライバーのエイドリアン・カンポスがチーム運営をするカンポス・グランプリから出走。同年6月30日に行われたマニ=クールのレースでチームに初勝利をもたらし、シリーズ2位を記録。

2008年もGP2シリーズにレーシング・エンジニアリングから参戦して3勝し、ブルーノ・セナを押さえ念願のGP2チャンピオンに輝いた。

2009年は5年ぶりのF1復帰を目指したが、シートを獲得できず実現しなかった。このことによって、GP2のチャンピオンを獲得した翌年にF1に参戦しなかった初のドライバーとなってしまった。その後、スーパーリーグ・フォーミュラACミランから参戦した。

2010年はAuto GPに参戦している。また、2011年よりF1とGP2のタイヤのサプライヤーとなるピレリのGP2マシンでのテスト走行をしたほか、インディカー・シリーズにも再びスポット参戦している。

エピソード

  • マイク・サックウェルの持つF2及びF3000での通算勝利数14およびヨッヘン・リントの持つF2通算勝利数12を超えたため、現在パンターノはF1より下のカテゴリー (F2,F3000,GP2) で最も成功したドライバーといわれている。
  • ニコ・ロズベルグはカート時代の憧れとして、自室にパンターノのポスターを貼っていた。
  • フェルナンド・アロンソは2007年のインタビューで一番のライバルとしてミハエル・シューマッハではなくパンターノを挙げ、「一緒に走ったどのレースでも彼は優れていた。自分は表彰台止まりで、いつもパンターノが勝っていた。彼には敵わなかったよ」と語った[1]
  • 4シーズンに渡るGP2での高成績やF1出走の経験から、F1へのステップアップを望む若いGP2ドライバーにとっては超えるべき存在として認識されている。
  • 1998年ワールドカップ カートレース鈴鹿において豪雨の中30秒遅れで激戦の2位に入るも自身が優勝だと勘違いし喜びを爆発させたが車検場にて勘違いから激怒する。なおこの年の下位カテゴリー(FA)にフェルナンド・アロンソが出走していた(決勝は豪雨のため中止)。

F1での年度別成績

所属チーム 車番 獲得ポイント ランキング 決勝最高位・回数 表彰台回数
2004年 ジョーダン 19 0 24位 13位・2回 0回

脚注

外部リンク