川口憲史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
憲史から転送)
川口 憲史
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県八女市
生年月日 (1976-06-28) 1976年6月28日(47歳)
身長
体重
176 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1994年 ドラフト4位
初出場 1996年9月10日
最終出場 2010年6月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

川口 憲史(かわぐち けんし、1976年6月28日 - )は、福岡県八女市出身の元プロ野球選手外野手内野手)。右投左打。2006年から2010年の引退までの登録名は憲史(けんし)。現在は野球解説者タレント製パン店オーナー。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

八女市立上妻小学校4年の時に野球を始め、八女南中学校時代は硬式野球チームの「筑後ドジャース」で活躍した[1]。中学までポジションは捕手。中学3年時に右打者から左打者に転身。また同年に九州硬式少年野球連盟(フレッシュリーグ)大会で優勝する。

柳川高校普通科に進学し、1年時に2打席連続本塁打を放って内野のレギュラーをつかむ[1]。1年・2年時は二塁手・三塁手としてプレーしたが、3年時には中堅手としてプレーした[1]。3年夏の県大会は4回戦敗退となったが、通算打率.430、48本塁打を記録し、走攻守三拍子揃った高校球界を代表する長距離打者として知られた[1]。また同校野球部の1年先輩である大畑裕勝読売ジャイアンツ(巨人)からドラフト3位指名を受けて入団して以来、プロ野球選手になることを目標としていた[1]

1994年のドラフト会議前に九州三菱自動車の内定を得ていたが、同会議で近鉄バファローズに4位指名され[1]、内野手として入団。ドラフト指名を受けた時点では身長176 cm、体重76 kgだった[1]

近鉄時代[編集]

1997年に外野手へ転向。当時の監督佐々木恭介からの評価を貰うも右ひじ故障でオフに手術を施し、後にリハビリテーション生活を送った[2]

1999年大村直之の不振や鈴木貴久村上嵩幸らの衰えもあり、外野の準レギュラーとして一軍に定着。また、8月20日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)で小林雅英からプロ初本塁打を記録した[3]

2000年は前年に続く大村の不振や、礒部公一の捕手再転向の影響もあって出場機会が大幅に増加。しかし、後半はルーキーの鷹野史寿がスタメン出場することが多くなり、レギュラー獲得には至らなかった。

2001年は外野がシーズン通して右翼・礒部、中堅・大村、左翼・タフィ・ローズで固定されたため、主に7番・指名打者として出場。わずかながら規定打席に及ばなかったが、打率.316、21本塁打、72打点の自己最高成績を残し、リーグ優勝に貢献した[4]。9月26日の対オリックス・ブルーウェーブ戦では、9回裏無死一塁で迎えた打席で一塁線を破る二塁打を放ち、北川博敏の打った「史上初・代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」のお膳立てをした(なお、この試合では自身も7回裏にソロ本塁打を放っている)。しかし、この年をピークに年々成績が低下する。

2002年日本ハムファイターズからナイジェル・ウィルソンが加入し出場機会の減少が危惧されたが、ウィルソンが不振で5月に二軍落ちしたため、最終的には前年に続いて安定した成績を残した。また、前年に礒部の外野専任が決定したことや、元々外野守備がそれほど上手ではなかったこともあり、この頃から一塁手の守備練習をすることが増えた。

2003年は開幕スタメンを勝ち取り、4月は好調を維持していたが、5月に肉離れで戦線を離脱したことが影響し、平凡な成績で終わった。また、不動の4番だった中村紀洋が半月板を痛めたため、中村がスタメンを外れたときは、ローズが4番に座り、川口が3番に座ることがあった。

2004年にローズが退団したため、首脳陣からの期待は膨らんだが、極度の打撃不振に陥り、成績が低迷。シーズン終了後、選手分配ドラフト東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。

楽天時代[編集]

2005年の開幕戦、3番・一塁でスタメン出場。楽天球団史上初となる打点を挙げる。4月は打率.280だったが、5月は打率.148の絶不調で6月半ばに登録抹消。一軍復帰した8月31日の対北海道日本ハムファイターズ戦で奮起、2安打3打点の活躍をみせ楽天移籍後初のヒーローインタビューを受ける。その後閉幕まで打率好調を維持した。しかし、出場数67試合、0本塁打だった。シーズン後フェニックスリーグに参加した。

2006年に登録名を「憲史」に変更。85試合の出場で打率.233、2本塁打、15打点を記録した。

2007年は開幕を一軍で迎えたが、二軍落ちも味わった。5月4日の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で、6回表に清水直行からプロ入り初となる満塁本塁打を放つ[5]。二軍では59打数30安打で打率.508を記録したが、一軍では安定した打撃内容を残せず、左翼手、右翼手での出場が多い中、リック・ショート牧田明久、礒部公一などの活躍によりレギュラーを勝ち取るまでには至らなかった。76試合の出場で打率.238、6本塁打、25打点を記録した。

2008年6月7日、横浜ベイスターズとの交流戦で代打決勝3ランなどで逆転勝ち。チームは貯金を球団史上最多の5に伸ばし、交流戦単独首位に躍り出た[6]。創設メンバーの一人として、チームの着実な成長を見届けてきた監督の野村克也が「一瞬、見失ったわ」と驚くほどの鋭い打球で、右翼席上段まで飛んでいった。しかし目立った活躍はできず、本塁打もこの1本のみに終わった。

2009年は開幕メンバーに名を連ねたが序盤は結果を出せず二軍落ちする。その後の一軍復帰からは代打でそこそこ結果を出し、中盤からはその勝負強さを買われて代打の切り札もしくはフェルナンド・セギノールと中村紀洋の不振によって一塁手でのスタメン起用が増えた。その後は一軍に残り続け打率は規定不足ながら.306を記録。特に得点圏打率は.419と勝負強さを見せた。

2010年は開幕時から不振に苦しみ、6月29日の対オリックス・バファローズ戦を最後に出場できず。28試合の出場で36打数6安打と低迷し、10月1日付で球団から戦力外通告を受けた。現役続行を希望し、11月10日に西武ドームで行われた12球団合同トライアウトに参加したが、獲得球団は現れず、現役を引退した。

引退後[編集]

2011年からは野球解説者となり、主に楽天主催・球団制作試合の中継で解説を担当している(2011年はスカイ・A sports+、2012年はJ SPORTS)。2016年8月16日放送のTOKYO MXのソフトバンク対埼玉西武戦に副音声のゲスト解説者として出演。

また、2012年4月には妻とともに福岡市内にパン屋「hands hands」をオープンした[4]。2015年春からは閉店後の時間を使い、九州六大学リーグ西南学院大学硬式野球部の選抜チーム打撃コーチも務めていたほか、社会人野球九州三菱自動車硬式野球部(現・KMGホールディングス硬式野球部)のコーチも務めた[7]

人物[編集]

野球を始めたきっかけはダイエットのため。小学生のころ、相撲部屋からスカウトがくるほどに太っていた。父親からも運動するように勧められ、相撲、柔道剣道のどれかに入るよう言われたが、どれも格闘技系でなので躊躇。当時好きだった漫画『タッチ』の影響で、野球をすることにした。太っているから動くのも苦手で、ポジションは捕手だった[8]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1996 近鉄 9 8 8 1 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .250 .250 .375 .625
1997 1 1 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1999 52 123 115 12 27 3 0 6 48 12 1 0 1 1 5 0 1 16 1 .235 .270 .417 .688
2000 96 295 263 24 66 13 1 5 96 28 3 3 2 0 29 1 1 43 5 .251 .328 .365 .693
2001 124 421 358 45 113 21 3 21 203 72 0 1 1 2 55 4 5 61 7 .316 .412 .567 .979
2002 119 398 351 46 101 18 0 13 158 46 1 2 0 2 40 2 5 70 10 .288 .367 .450 .817
2003 93 289 252 41 71 20 2 9 122 37 1 2 2 2 31 2 2 53 5 .282 .362 .484 .846
2004 86 221 189 21 38 10 0 3 57 28 1 0 0 5 27 1 0 35 5 .201 .294 .302 .596
2005 楽天 67 197 175 18 46 14 1 0 62 18 0 1 0 1 16 0 5 36 3 .263 .340 .354 .694
2006 85 203 180 14 42 13 0 2 61 15 2 2 0 1 17 2 5 38 7 .233 .315 .339 .654
2007 76 211 189 18 45 9 3 6 78 25 0 2 0 2 14 0 6 35 4 .238 .308 .413 .721
2008 63 108 94 7 19 2 1 1 26 9 0 0 0 0 12 0 2 18 3 .202 .306 .277 .582
2009 77 139 121 7 37 8 0 3 54 21 0 0 0 2 15 0 1 18 4 .306 .381 .446 .828
2010 28 39 36 3 6 0 0 0 6 2 0 0 0 0 2 0 1 8 1 .167 .231 .167 .397
通算:14年 976 2653 2332 257 613 132 11 69 974 314 9 13 6 18 263 12 34 434 55 .263 .344 .418 .762

年度別守備成績[編集]



一塁 外野
























1996 近鉄 - 1 1 0 0 0 1.000
1997 - 1 0 0 0 0 ----
1999 - 39 46 2 0 0 1.000
2000 - 60 95 2 1 0 .990
2001 - 7 1 0 0 0 1.000
2002 8 37 1 0 1 1.000 17 16 2 0 0 1.000
2003 2 17 0 0 2 1.000 2 5 0 0 0 1.000
2004 - 6 7 0 1 0 .875
2005 楽天 13 106 7 2 9 .983 39 51 2 0 0 1.000
2006 27 141 8 2 13 .987 32 51 3 0 1 1.000
2007 11 12 0 0 1 1.000 55 68 2 2 1 .972
2008 1 1 0 0 0 1.000 23 20 0 0 0 1.000
2009 27 133 9 1 12 .993 12 7 0 0 0 1.000
2010 4 32 0 0 0 1.000 -
通算 93 479 25 5 38 .990 294 368 13 4 2 .990

記録[編集]

背番号[編集]

  • 61 (1995年 - 2010年)

登録名[編集]

  • 川口 憲史 (かわぐち けんし、1995年 - 2005年)
  • 憲史 (けんし、2006年 - 2010年)

関連情報[編集]

CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 有明新報』平成6年(1994年)11月19日付6頁「ドラフト 柳川高野球部の川口君 近鉄が4位指名 「叫びたいくらいうれしい」」(有明新報社)
  2. ^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  3. ^ この試合では、プロ初本塁打を含む2本塁打を放っている。
  4. ^ a b バットを生地に持ち替えた元近鉄・川口 “つながり”が導いた第2の人生”. スポーツナビ (yahoo.co.jp). p. 2 (2015年8月14日). 2022年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月10日閲覧。
  5. ^ 元近鉄・楽天の川口憲史さん、地元福岡でパン職人に いてまえ戦士は黙って味で勝負”. スポーツ報知 (hochi.news). 報知新聞社. p. 2 (2019年2月27日). 2022年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月10日閲覧。
  6. ^ 代打・憲史が呼んだ楽天交流戦単独トップ”. スポニチ Sponichi Annex 野球. 株式会社スポーツニッポン新聞社 (2008年6月7日). 2022年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月10日閲覧。
  7. ^ “元近鉄・楽天の川口憲史さん、地元福岡でパン職人に いてまえ戦士は黙って味で勝負”. スポーツ報知: p. 3. (2019年2月27日). https://hochi.news/articles/20190226-OHT1T50208.html?page=3 2020年4月30日閲覧。 
  8. ^ 参照:楽天野球団発行「ホームゲームプログラムvol.9 渡邉恒樹、憲史特集」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]