原田雅彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
原田雅彦
基本情報
誕生日 1968年5月9日(43歳)
出身地 日本の旗 日本
北海道上川町
選手情報
クラブ 雪印
ワールドカップ
シーズン 1986年-2006年
優勝回数 9回
他の表彰台 12回
表彰台獲得数 21回
最終更新日:
テンプレートを表示

原田 雅彦(はらだ まさひこ、1968年5月9日 - )は、北海道上川町出身、雪印乳業所属の元スキージャンプ選手。身長174cm、血液型A型。

目次

[編集] プロフィール

小学校3年の時からスキージャンプを始め、上川中学時代に全国優勝。東海大学付属第四高等学校卒業後雪印乳業に入社。1990年代以降、日本を代表するスキージャンプ選手となる。1992年アルベールビル、1994年リレハンメル、1998年長野、2002年ソルトレイクシティ、2006年トリノの計5回の冬季オリンピックに出場。

オリンピック、世界選手権を通して9個のメダルを獲得しているが、これは日本人最多である。

2006年3月20日、現役引退を表明。3月25日伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会で現役を引退。長野オリンピックで金メダルを取って注目された選手のうち、船木や清水宏保(スピードスケート)が所属企業から独立してプロ選手への道を歩んだのに対し、原田はサラリーマンとして所属する雪印乳業への愛社精神が強く、現役引退後も引き続き会社に残った。その愛社精神は、雪印主催のオリンピック祝勝会での「金メダルを取れたのは、わが社の牛乳のおかげです。」という冗談まじりの発言にもその一端が現れている(原田以外の雪印の選手もこのような場で自社製品を宣伝することは多く、チームを通して愛社精神は強い)。全国の同社工場や営業所を激励訪問した原田の活躍は雪印グループ社員の士気を高めたが、2000年に発生した雪印集団食中毒事件では原田も謝罪会見を行い、同社によるスポーツ活動の自粛は原田自身にも悪影響を及ぼした。経営再建の一環で雪印乳業は各スポーツ活動から撤退をしたが(参照:札幌アイスホッケークラブ)、スキージャンプ部のみは存続させ、原田は引き続き同社の社員として競技に携わる事になった。

現在は、雪印乳業スキージャンプ部コーチの傍ら、スキージャンプ解説者としても活躍している。

[編集] 競技成績・評価

リレハンメルオリンピック団体での大失敗ジャンプ以降、マスコミ・一般人からのバッシングもあり、また船木和喜の台頭により彼のフォームを意識するあまりスランプに陥ったが、95-96シーズンに本来のフォームに戻したことで調子を取り戻し、度々ワールドカップで優勝するようになる。長野オリンピックの前年である96-97シーズンは一時不振に陥るも、トロンハイム世界選手権で優勝。五輪、世界選手権を通じてラージヒルの優勝は日本人初の快挙。ノーマルヒル、団体で準優勝に輝いている。

現役の世界チャンピオンとして再び地元長野オリンピックに臨むこととなったが、国内マスコミは「本番に弱い原田」「失速男」との論調も見られ、「世界王者」に対する扱いとは言えないものもあった。

長野オリンピックでも、ノーマルヒルでは2回目に失敗しメダルを逃し、また団体競技当日の悪天候もあいまって1回目は79.5mのジャンプとなるが、2回目は当時のバッケンレコードとなる137メートルの大ジャンプで見事に巻き返した。この時の大ジャンプを、当時の実況の和田源二は『別の世界へ飛んでいった原田!』と評した。

[編集] リレハンメルオリンピック

リレハンメルオリンピック・ジャンプ団体で7人が飛び、よほどの大失敗ジャンプでもない限り金メダルが確定している場面で原田は最後の一本を飛ぶことになった。しかし原田の前に飛んだドイツのエース、イェンス・バイスフロクが135.5mのスーパージャンプをマークする。この時点でも105m以上飛べば日本の優勝が決まるはずであったが、(原田本人は否定しているが)これが大きな重圧になったのか、97.5mの結果に終わり銀メダルとなった。原田はこのことで一部から「へらへら笑うな」「お前のせいで負けた」等と大バッシングを受け、1年以上自宅などへの嫌がらせもあった。 なお、原田はこの大会、ノーマルヒル2回目に54.5mという記録も残している。

[編集] 長野オリンピック

[編集] 団体

長野オリンピック・ジャンプ団体で、日本の3番手となった原田の1回目は運悪くほとんど前も見えないような大雪の中で行われた。このため、このグループの選手は、軒並み距離を落としたが、その中でも原田のジャンプは、80mに及ばない大失敗ジャンプ(グループ最下位)となった。確かに、降りしきる雪でアプローチの速度が著しく落ち、直前に飛んだドイツの選手より1.8 km/h、このグループで一番早かった選手より3km/h以上も遅い87.1 km/hのスピードで飛び出した(速度計測地点からカンテの先まででさらに85km/h近くまで減速した可能性もあるとこの時ヘッドコーチだった小野学は自著の中で指摘している。1本目終了直後、小野学はこの速度差に関して競技委員会に抗議したが却下されてしまった)とは言え、国民の多くが4年前の悪夢を思い浮かべた。ちなみに岡部孝信は「第3グループのあの悪天候は…原田さんでなくて僕や斎藤、船木なら(もっと上で落ちてしまって、金には)届かなかった」と擁護するコメントを残している。岡部・船木は原田のように高く強く飛び出すジャンプではなく、低く鋭く飛び出すジャンプだからだという。

2人目までトップだった日本の順位はこの時点で2位に下がり、さらに他国の4人目が大ジャンプ続出の中、船木和喜が1人だけ悪天候に泣かされ飛距離が伸びず、1本目終了時点で日本は4位まで後退してしまったが、1位との差はわずか13.6点、日本の力を持ってすれば一人でも逆転の可能性のある点差であった(実際に2本目の1人目、岡部孝信のジャンプで1位に浮上した)。

1本目終了時点で悪天候により打ち切りの可能性もあった。2本目が行われるかどうかは、テストジャンプの結果次第であった。西方仁也高橋竜二葛西賀子ら25名のテストジャンパー達は、悪天候の中で一人の転倒者も出すことなく試技を続け、競技再開が可能な事を証明した。この結果を見た競技委員は2本目の実施を決断する。

原田は2本目「両足を複雑骨折してもいい」との覚悟で137mの大ジャンプを決め(決して飛型点の高い美しいジャンプではなかったが)、金メダルへの立役者となった。ジャンプ後自失したように嗚咽しながらも、次のジャンパーである船木和喜への声援「ふなき~ふなき~」や、また金メダル決定直後のインタビューで「(リレハンメルオリンピック団体戦での事を聞かれ)でもね、今日は長野だから」「4人たすきをさ、渡しあったんだよ」「(1本目後の気持ちを聞かれ)辛かったよもぅ・・。またね、みんな迷惑かけてんのかなと思ってた・・辛かった・・」「でもね・・屋根ついてないからしょうがないよね」などと、号泣しながら答える姿もみせた(心理学的にこの時の原田の精神状況は「破壊」と呼ばれている)。なお、「ふなき~ふなき~」に関してはインタビュアーに「今は船木が飛ぶから待ってくれ」と言いたかったらしい。

[編集] 個人

長野オリンピックでは個人でもラージヒルで銅メダルを獲得している。それも、1本目に6位から、2本目に一時は測定不能となるほどの大ジャンプを見せての大逆転であった。この時世界一低速に強いといわれていた原田は1本目、早い順番で飛んだ選手さえK点を軽々超えるほどの超オーバースピードによる飛び過ぎへの不安とノーマルヒルから引きずった固さから踏み切りに失敗するも、強い向かい風に助けられて120mを記録。1本目のジャンプで吹っ切れた原田は2本目に日本中を驚かせる超特大ジャンプを見せる。飛距離が自動計測できる135mを超えて着地したため飛距離がすぐ表示されず、飛距離が発表されたのは最後のアンドレアス・ビドヘルツルが飛んでからしばらくたってからだった。4位のビドヘルツルをわずか0.1ポイント上回る逆転3位というドラマチックな展開は、NHK工藤三郎アナウンサーによる「因縁の2回目」、「立て! 立て! 立て! 立ってくれ!! 立った!!!」という実況にあらわされている。

ノーマルヒルでも2本目に風と不可解な中断による不運で自分のジャンプが出来ずに5位に終わったが、1本目に91.5mの最長不倒を記録、ラージヒル、団体と合わせて3種目全てで最長不倒を記録している。

[編集] トリノオリンピック

ジャンプ競技について強風の為に出場枠を減らすというオリンピック運営側の通告があったが、原田は最後の出場枠に入ることが出来た。出場した個人ノーマルヒル予選で95mの記録を残すが、ジャンプ終了後の抜き打ち検査によりスキー板が国際スキー連盟(FIS)の定めた規定に違反していた事が発覚、失格となった。

2005年に「身長に対し体重が軽すぎる選手のスキー板を短くする」というBMIルールが導入されており、規定によると原田の登録身長174cmで使用できる板の長さは「身長の146%(254 cm)まで」で、且つこの場合は「スーツとブーツを着用した体重が61.0kg以上」なくてはならない(この体重に足りない場合、使用できる板の長さは最長でも251cmとなる)。実際にジャンプで使用したスキー板の長さは253cmだったが、検査による原田の体重は60.8kgと、僅か200g不足していた。しかし、雪印スキー部や全日本スキー連盟に公式登録されている当シーズンの原田の身長は173cmであり、過去4度出場したオリンピックでの登録身長も全て173cmであった。173cmの場合は体重が60.0kg以上であれば丁度253cmまでのスキー板を使用することができる。

この失格について原田は「自分の勘違い。選んで頂いたのに申し訳ありません」という旨を述べたが、この大会においてなぜ原田の身長が1cm高く登録されたのかは不明である。失格のような事態が起こらないために行うべき確認やフォローをコーチ・スタッフが怠り、選手任せにしたことが真の原因であるとの指摘もあったが、原田が不平不満や言い訳を一切言わない性格ということもあり、真相は未だに不明である。

[編集] ジャンプスタイル

原田のジャンプスタイルは他の選手と比べ独特で、踏切りの際に上に高くジャンプし、飛行曲線が他の選手に比べ高い軌道から落下するスタイルであった。これは、原田の並外れた高い跳躍力があるからこそのスタイルだが、踏切りのタイミングが合わない場合、大失敗ジャンプにつながりやすいという欠点があった。それが後のリレハンメルオリンピックの失敗ジャンプの要因の1つになった。その後のスランプ時は船木和喜のような低いジャンプスタイルに挑戦するも泥沼にはまってしまう。

しかしサンダーベイ世界選手権で惨敗した後の1995年夏頃から原点に立ち返り高いジャンプを心がけるようになると、それまで船木型を目指して得た良い部分と合わさり、インパクトをつける高いジャンプでありながらタイミングが多少合わなくても飛距離を落とさない「原田型」というスタイルを会得(踏切のタイミングの許容範囲は一流選手でも80cm程度というが、この頃の原田は1m近くあったと言われていた)、1996-97年シーズンに軽い不調に陥るも同年のトロンハイム世界選手権までに復活を遂げると、その夏からは他の選手より2m近く短い助走でK点を大きく超えるジャンプを見せるほど圧倒的な強さを見せるようになった。しかし他の選手に比べて飛びすぎてしまうため、他の選手が軽々大ジャンプを見せるようなアプローチ速度の速い試合運営が続いた時に実力を抑えざるを得なくなって順位に結びつかないケースが増えたが、この技術が長野五輪の団体戦1本目の大雪の中で飛距離には現れなかったが最大限のジャンプが出来る要因となった。

後に原田は、当時活躍していた日本人選手の主流だった、出来るだけ踏み切りの動作を抑えたスタイルに移行する。その後、長い間スランプに陥った原田はトリノオリンピックの直前に、助走姿勢でのひざの角度をこれまでより鋭角にするようにした。このスタイルは、従来の立ち幅跳びで中腰で飛ぶ場合に比べ、より多くひざを曲げることが出きパワーを得られるが、方向性、タイミングの取り方が難しくなる。つまり、このスタイルは方向性よりもインパクトを重視した姿勢である。

皮肉にもこの頃より世界のジャンプスタイルの主流はかつて原田が実践していた「低速でも距離を伸ばす高いジャンプ」に移行、世界の技術が当時の原田にやっと追いついたと言える。

[編集] 人物

今でこそ明るく笑顔を絶やさないイメージがあるが、幼少時は泣き虫で人見知りであった。それがジャンプを始めたことで精神的にも成長し、今の笑顔につながっているが、さすがに長年の重圧から解放された長野オリンピックの団体戦直後は幼い頃の「泣き虫原田」に戻ってしまった。

豪快なジャンプスタイルと、いかなる苦境でも悲壮感を見せないそのユーモアとウィットに富んだ人柄から、欧州では「Happy Harada(ハッピー・ハラダ)」と呼ばれ、オーストリアアンドレアス・ゴルトベルガーと人気を二分するほどの人気を誇った。なお、両者とも競技者としては引退しているが、飛ぶこと自体は辞めていない。(なお、2007年8月3日大倉山でのイベントで「ミスターX」と言うジャンパーが男子の部で2位に入っているが、このジャンパーが原田であったという証言がされている。)

その反面、内面はいたって真面目で、言い訳や不平不満は絶対に言わず、悩みも自分で抱え込んでしまう性格である。しかしそれが裏目に出てスランプ時に適切な指導を受けられなかったり、トリノ五輪の失格時にはコーチやスタッフにも非があったとの指摘もあった中すべての責任を自分で背負おうとしたなどと言うこともあった。

長年日本ジャンプ界を支え、多くの失敗と多くの大ジャンプからジャンプの豪快さ、難しさ、すばらしさ、切なさを余すところ無く自らのジャンプでファンに伝えてきたこともあり、「ミスタージャンプ」の呼び声もある。

また、その人柄と国際的知名度から2007年札幌市で行われた2007年ノルディックスキー世界選手権札幌大会の特別広報大使に任命されている。

[編集] 主な競技成績

[編集] 受賞

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語