イェンス・バイスフロク

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獲得メダル

イェンス・バイスフロク
東ドイツの旗 東ドイツドイツの旗 ドイツ
スキージャンプ
オリンピック
1984 サラエボ 70m級個人
1994 リレハンメル LH個人
1994 リレハンメル LH団体
1984 サラエボ 90m級個人
ノルディックスキー世界選手権
1985 Seefeld NH個人
1989 Lahti NH個人
1984 Engelberg LH団体
1989 Lahti LH個人
1995 Thunder Bay LH団体
1985 Seefeld LH団体
1991 Val di Fiemme LH個人
1991 Val di Fiemme LH団体
1993 Falun LH個人
スキーフライング世界選手権
1985 Planica 個人
1990 Vikersund 個人

イェンス・バイスフロク(Jens Weißflog, 1964年7月21日 - )は、東ドイツカール=マルクス=シュタット県(現在のザクセン州ケムニッツ行政管区ブライテンブルンErlabrunn出身の元スキージャンプ選手である。1980年代から1990年代にかけて東ドイツおよびドイツ代表として活躍した。

プロフィール[編集]

1982-1983シーズンのジャンプ週間では第4戦ビショフスホーフェンスキージャンプ・ワールドカップ初勝利をあげるなどマッチ・ニッカネンに次いで総合2位となり注目された。

翌1983-1984シーズン、19歳の時にジャンプ週間で総合優勝、同じシーズンのサラエボオリンピックでは70m級で金メダル、90m級で銀メダルを獲得し、ワールドカップでも総合優勝した[1]。 次のシーズン、バイスフロクはジャンプ週間で2連覇を果たし、1985年ノルディックスキー世界選手権70m級で金メダル、団体で銅メダルを獲得した。

しかし1985-1986シーズンからやや成績が下向きとなり1987年ノルディックスキー世界選手権、1988年カルガリーオリンピックでもメダルには届かなかった。

1988-89シーズンは復調し、1989年ノルディックスキー世界選手権のラージヒルで銀メダル、ノーマルヒルでは金メダルを獲得、ワールドカップでは5勝をあげて総合2位となった。

1990-1991シーズンにジャンプ週間3度目の総合優勝、1991年ノルディックスキー世界選手権で2個のメダルを獲得した後はドイツ統一やジャンプ界のV字スタイルへの移行などにより再び成績が低迷。20代後半という年齢もあって彼の時代は終わったともささやかれた。

しかし1993-1994シーズンにV字スタイルをマスターして復活、アンドレアス・ゴルトベルガーエスペン・ブレーデセンとの三強として臨んだ1994年のリレハンメルオリンピックで個人ラージヒルと団体ラージヒルの2つの金メダルを獲得、これは最初のオリンピックでの優勝から10年経っていた。 団体戦では日本の原田雅彦が飛ぶ前に135.5mという大ジャンプを見せた。そのジャンプを持ってしても、原田が最後に大失敗しない限り日本の金メダルは揺るがなかったのだが原田は大失敗、ドイツに金メダルがもたらされた。原田がジャンプする前にバイスフロクが「おめでとう」と言って(悪気があってではないよう)、そのため原田が失敗したのではという報道もあったが、原田はそのことを否定している。 このシーズンのワールドカップでは7勝をあげて2度目の総合2位となった。

30代となっても活躍を続け、1995-1996シーズンに4度目のジャンプ週間総合優勝を果たしたのちこのシーズン限りで引退した[2]

ワールドカップ通算33勝(2位19回、3位21回)。総合優勝1回。ノルディックスキー世界選手権では合計9個のメダルを獲得している。

東ドイツ選手権[3] ではラージヒルで1985年と1989年、ノーマルヒルで1986年と1989年に優勝。1989年、1990年にはホルメンコーレン国際スキー大会で優勝、1991年ホルメンコーレン・メダル受章。またドイツ選手権でもノーマルヒルで3回、ラージヒルで2回優勝した。

現在は、地元ザクセン州のオーベルヴィーゼンタルでホテルを経営するかたわら、ドイツのZDF TVのスポーツ解説者を務めている。

脚注[編集]

  1. ^ この年、バイスフロクはミズノのジャンプスーツを着ていたことが一部で話題を呼んだ。
  2. ^ フィンランドのヤンネ・アホネンは通算5度総合優勝した。
  3. ^ スキージャンプ東ドイツ選手権

外部リンク[編集]