フィオレロ・ラガーディア

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フィオレロ・ラガーディア


任期
1934年1月1日 – 1945年12月31日
前任者 ジョン・P・オブライエン
後任者 ウィリアム・オドワイヤー

任期
1923年3月4日 – 1933年3月3日
前任者 アイザック・シーゲル
後任者 ジェームズ・J・ランゼッタ

第10代 ニューヨーク市議会議長
任期
1920年1月1日 – 1921年12月31日
前任者 ロバート・L・モラン
後任者 マレー・ハルバート

任期
1917年3月4日 – 1919年12月31日
前任者 マイケル・F・ファーレイ
後任者 ネイサン・D・パールマン

出生 1882年12月11日
ニューヨーク州グリニッジ・ヴィレッジ
死亡 1947年09月20日(64歳)
ブロンクス区
本名 Fiorello Enrico La Guardia
政党 共和党
信仰 米国聖公会
署名

フィオレロ・ヘンリー・ラガーディアFiorello Henry La Guardia、出生時はFiorello Enrico La Guardia1882年12月11日 - 1947年9月20日)はアメリカ合衆国政治家共和党に属するリベラル派であり、1934年~1945年の 3期に渡りニューヨーク市長を務めた。それ以前は 1916年と 1918年、及び 1922年~1930年に米国議会に選出された。短気かつエネルギッシュでカリスマ性に富み出世欲が強く、米国史上最も偉大な市長を 3~4人挙げるとすればその中に入ると言われている。身長は 150cm しかなく「小さな花」と呼ばれた(「フィオレロ」はイタリア語で「小さな花」の意。イタリア語で「花」を意味する "fiore" の指小語)。

ラガーディアは名目上は共和党員だったが党派を超えて支持を集め、1930年代のニューヨークにおいて大変人気があった。ニューディール政策の支持者として民主党フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領を支え、替りにルーズベルトはニューヨーク市に多額の資金援助を行うと共にラガーディアの政敵による同市への資金提供を遮断した。1941年には現職市長のまま民間防衛の全米指導者になったが、業績は凡庸だった。国政への参画は果たせず、1946年初めに市長職を離れ、連合国救済復興機関で短期間だが事務総長を務めた。

ラガーディアはニューヨーク市を再生させ、民衆による役所への信頼を取り戻した。彼は交通網を統合し、安価な公共住宅、公共の運動場および公園の建設を指導し、空港を建設し、警察機構を建て直し、同市を牛耳っていた政治的マシーン(集票組織)であるタマニー・ホールを打破し、公務員職が金で買われていた状況を正して能力本位の雇用を再確立した。彼は連邦から多額の資金を同市に引き出した[2]

ラガーディアは独裁的な指導者であり専制政治に近い傾向があったが、彼の改革政策は気紛れな有権者たちの感性を巧みに反映し利用していた。彼は腐敗した集票組織を打破し、恐慌と第二次世界大戦の時代を通じて市政を司り、同市をニューディール政策の福祉と公共事業計画のモデル都市にして、そして移民と少数民族を擁護した。彼の成功は大統領の理解に支えられていた。彼は強い意志を持つ改革派市長として腐敗を一掃し、有能な専門家を登用し、市民のための広い責任を負う市政を取り戻したことで歴史に名を残している。彼の統治下ではそれまで政治システムから疎外されていた人々の集団に手が差し伸べられ、ニューヨークに近代的なインフラが整備され、都市が持つ可能性を新たな段階に引き上げた。彼はタマニー・ホールの縁故で結びついた一派と、良き政府改革者たちの誠実さと能率性とを調和させた。

歯に衣着せぬ市長であり側近に対しては手荒に接し、誰が上司かを思い知らせるという具合だった。戦時中に連邦からの資金提供が途絶えると彼は直観の冴えを失い、自分が整備したインフラが同市だけでは到底賄い切れないほど過大だったことを遂に理解できなかった。ラガーディアの伝記を書いたトーマス・ケスナーによれば、「ラガーディアは並外れた目標に向けて専制的な統治を行うという危険な流儀の権化だった」という。「今日なら、あのような権力を誰かが振るうなど、人々は恐れて許さないだろう」[2][3]

生い立ち[編集]

チェリニョーラ出身でイタリアカトリック教徒アキル・ラ・ガーディアとトリエステ出身でユダヤ系ハンガリー人[4]イレーヌ・コーエン・ルツァートとの間にグリニッジ・ヴィレッジで生まれる。ハラーハーからユダヤ人の宣告を受けるも自身は聖公会信者として育ち、幼少時にはミドルネームのエンリコ (Enrico) を英語表記のヘンリー (Henry) に改めた。1898年、父が陸軍解雇されたのに伴い母の郷里であるトリエステに移住[5]1901年から1906年にかけて同地のほかブダペストリエカのアメリカ領事館に勤務。その後帰国しニューヨーク大学に籍を置きながら、1907年から1910年までニューヨーク児童虐待防止協会員としてエリス島にある移民局の通訳を務めた。

結婚と家族[編集]

2度の結婚歴があり、最初のテア・アルメニゴッティとは1919年3月8日に結婚。しかし1921年10月29日肺結核のため26歳で夭逝したため[6]1929年にマリー・フィッシャーと結婚、2人の子ども養子に迎え入れた。

政治家としての初期の経歴[編集]

連邦議会への選出[編集]

Ca.44の前で二人のイタリア軍士官の間に立つフィオレロ・ラガーディア、1918年頃

1914年ニューヨーク州法務長官に就任した。1916年には下院議員に初当選を果たし、情熱的かつ献身的な改革派政治家との評価を得た。議員としては、ラガーディアは様々な民族が暮らすスラム街のある東ハーレムから選出されており、無所属の身上から重要な委員会ポストには就けなかったものの、進歩主義的信条の疲れ知らずで雄弁な闘志だった[7]

ラガーディアが議員に就任したのは1917年3月4日だったが、間もなくアメリカ陸軍航空隊少佐に任官し、第一次世界大戦イタリア―オーストリア戦線に赴いてカプロニCa.44爆撃機の一隊を率いた。1919年12月31日をもって下院議員の職を辞し、翌年から1922年までニューヨーク市議会議長を務めた。

1922年、ラガーディアは下院議員に再選され、翌年3月4日から1933年3月4日まで5期連続で務めた[8]

市議会議長[編集]

1919年、ラガーディアはニューヨーク市議会議長選で共和党の候補に選ばれた。民主党の対抗馬は、アルフレッド・スミス(1917年に議長に選出されたのち州知事に転出した)の後を継いで議長を務めていたブロンクス区選出のロバート・L・モランだった[9]。 ニューヨーク第三「シャムロック」大隊指揮官のマイケル・"ダイナマイト・マイク"・ケリーも自由党から出馬を表明した。タマニー・ホールはケリーの出馬を見て危機感を抱き、立候補を取り止めてモラン支持に回るよう説得を試みた。ケリーがこれを拒否すると、タマニーはニューヨーク州最高裁 (en) に訴えてケリーを候補から外すことに成功した[10]。しかし投票日には 3,500名を超える支持者がケリーに投票した[10]。この数字はモランが敗北するには十分であり、彼は僅か 1,363票差でラガーディアに敗れた[11]

下院への復帰[編集]

ラガーディアは、共和党員として、1922年の下院議員選でイタリア人が強固な地盤を持つ東ハーレム地区から当選し、以後 1933年3月3日まで議員を務めた[12]

ノリス=ラ・ガーディア法[編集]

リベラルな改革派の指導的政治家として、ラガーディアは労働法制の整備を後援すると共に、移民制限に反対した。主な業績として1932年ネブラスカ州選出の上院議員ジョージ・ノリスと共同提出したノリス=ラガーディア法がある。これはクレイトン反トラスト法が1914年に発効して以後1920年代末まで続いた最高裁による労働組合活動に対する制限を回避するものだった。同法は下級裁判所憲法ではなく議会によって生成されるという理論に基づいており、そうである以上は議会は司法権を定義し制限する広い権限を持つとして、以下のような目的に向けた差止め命令の発行を禁止した。すなわち、反組合的な雇用契約の維持、罷業または雇用関係拒絶に対する妨害、またはストライキボイコット、およびピケッティングなどの活動の根拠となる法律の制限、などである。また、これにより被雇用者が組合に加入するのを禁ずる所謂黄犬契約裁判所が強制することも出来なくなった[13][14]

外交政策[編集]

孤立主義の立場を採ることは無く、国外における民主主義、民族独立や反独裁政治のために、アメリカが影響力を行使することを支持した。それ故アイルランド独立運動や反ツァーリ主義者による1917年のロシア革命を支持したが、レーニンには賛同しなかった。例えばノリスのような殆どの進歩主義者たちとは異なり、ラガーディアは一貫して国際主義に立ち、国際連盟列国議会同盟を支持し、各種の平和会議や軍縮会議にも賛意を表明している。内政に関しては社会主義に傾倒して国有化規制強化を望んだが、社会主義政党に接近することはなく、カール・マルクスの著作を読もうとはしなかった[15]

進歩主義運動の擁護者[編集]

議員としては、移民の積極的な受け入れとニカラグアからの米軍撤退[16]からスト中の鉱山労働者の権利や暮らし、貧農、抑圧された少数民族のほか窮乏世帯に対する支援に至るまで、ラガーディアは進歩主義的信条の疲れ知らずで雄弁な擁護者として活躍した。同時代の富裕層政府内の取り巻きにも舌鋒鋭く、所得税への累進課税導入、ウォール街に対する政府の監督強化、および世界恐慌による失業者のための雇用保険設立を訴えた[17]

1929年と1932年の敗北[編集]

1929年、彼はニューヨーク市長選に立候補したが、現職のジミー・ウォーカーに大敗した。1932年には下院議員選でも民主党候補のジェイムス・J・ランツェッタに敗れた。1932年の選挙ではラガーディアに限らず共和党候補は軒並み苦戦を強いられた。また、(ラガーディアが出馬した)議院選第20選挙区の人口構成も、従来のユダヤ系及びイタリア系アメリカ人中心からプエルトリコ系中心へと移り変わりつつあった。

ニューヨーク市長[編集]

1920年は共和党員としてウォレン・ハーディングを支持せねばならなかった。1928年の市長選では民主党のアル・スミスを好感していたが、表向きは沈黙を守った。1929年、ラガーティアは市長選に出馬したが、現職のジミー・ウォーカーに地滑り的敗北を喫した[18]。1933年、ウォーカー及びアイルランド系の仕切るタマニー・ホールはスキャンダルにより市政を追われ、ラ・ガーディアが改革派の候補になった。

マニフェスト[編集]

1934年1月、以下の5つの主目標を掲げ市長選に当選した[19]

  • 財政健全化と銀行家による支配からの脱却
  • 連邦の資金による失業者救済計画を拡充
  • 政治腐敗の一掃と経済の主要分野における強請・たかりの排除
  • 公職を金で買う風潮を廃し、能力本位で民間人を登用
  • 社会基盤とりわけ交通機関や公園の近代化

最初の 4つの目標は就任から100日間のうちに大方達成されたが、これはルーズベルト大統領が民間土木工事局 ((en)CWA) の全米予算のうち 20% をラガーディアに回したためだった。その後ロバート・モーゼス (en) や民主党のハーバート・レーマン (en) ニューヨーク州知事と密接に連携して老朽化が進む社会基盤の更新に当たった。ニューヨーク市は公共事業計画への予算手当ての面でニューディール政策の恩恵を受けた。

移民からの支持[編集]

1933年に反政治腐敗の「連合」候補としてニューヨーク市長に当選を果たしたラガーディアであったが、選挙中は共和党員(殆どが外に居住する中産階級ドイツ系市民)や少数ながら民主党の改革派党員のほか、社会主義者、少なくない中産階級のユダヤ系市民や、大多数のイタリア系市民らの支持を取り付けることで勝利に繋がった。特にイタリア系市民については、これまでタマニー・ホールの支持基盤とされてきただけに決定的な勝因となった[20]。こうして、市内のイタリア系及びドイツ系市民のみならずユダヤ系市民やリベラル派(ワスプ)との変則的な共闘を実現するに至った[21]

正統な共和党員ではなかったのは、現職のルーズベルト大統領を支持する革新勢力で、反タマニー・ホール派にして労組を支持基盤とするアメリカ労働党から、1936年初頭に推薦を受けたことからも伺えよう。1940年の大統領選挙においては当然のことながらルーズベルトを支え、ジョージ・ノリス上院議員と共同で、ルーズベルト・ウォーラス独立委員会の議長を務めてもいる。

また、市始まって以来のイタリア系市長ではあったが、典型的なイタリア系ニューヨーカーの範疇に収まらなかった。イタリア系アメリカ人と言えば通常カトリック教徒が大半を占めるものの、当時アリゾナ州で勃興しつつあった聖公会に属しており、母親はハンガリー系ユダヤ人[22]、父に至ってはカトリックから無神論者へと転向を図る。このことは後述する一連の犯罪対策にも影響を色濃く残すこととなる。

ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるラ・ガーディア像

犯罪対策[編集]

ラガーディアはイタリア系コミュニティに悪いイメージと恥辱をもたらしたギャングを嫌っていた[23]。市長として最初の行動は、罪の大小を問わずマフィアの大ボスラッキー・ルチアーノをとにかく逮捕するよう警察署長に命じたことだった。爾来彼はギャングを目の仇にし、ラジオ演説の中でもニューヨーク市民に向けて甲高く耳障りな声で「あの怠け者どもを街から追い出そう」と呼びかけた。1934年、ラガーディアはギャングのボスであるフランク・コステロが仕切るスロットマシンの一斉捜索・破壊作戦を実行したが、ラガーディア自身嬉々としてこれを行い、何千台ものスロットマシンを押収して、新聞やメディアの前でスレッジハンマーを振り回してそれらを艀(はしけ)から水中に叩き込んだ。1936年、ラガーディアは特別検察官としてトーマス・デューイ(後に大統領候補)を任命し、特にラッキー・ルチアーノの検挙に当たらせた。デューイはルチアーノの資金源だった売春事業について捜査を進め、最終的にルチアーノを 30~50年の禁固刑に服させるという成果を挙げた。この出来事は1937年に『札つき女』(ベティ・デイヴィス主演)という題名で映画化された。

ラガーディアはストリップ劇場も閉鎖に追いやった。これはショーの内容が彼の厳格な性格にそぐわなかったためである[24]

ニューヨーク版「ニューディール政策」[編集]

世界恐慌の最中及び以後、経済立て直しに辣腕を奮った。のちに「ニューヨークのマスタービルダー」と呼ばれるロバート・モーゼスが牛耳る多くの大型公共事業を一任されると、連邦からの資金を得るべくロビー活動を地道に行った結果、経済社会基盤の整備が成った。当然、多額の連邦資金を手中に納めるためルーズベルトやニューディール政策と密なる関係を構築、1934年から1939年までに11億ドルを注ぎ込むことに成功した。その代わりにルーズベルトをニューディール政策の権化へと祭り上げると共に、彼の政敵であるタマニー・ホール(マンハッタンに拠点を置く民主党のマシーン組織)を打倒するに至った。この間、高速道路トンネル空港を矢継ぎ早に建設することでニューヨークの景観は一変することになる。特にウェストサイド高速道やイーストリバー自動車道、ブルックリン・バッテリー・トンネル、トライボロ橋、ラガーディア空港は、ラガーディアが市長在任中に完成した施設である。

改革[編集]

腐敗により市民から軽蔑の眼差しが向けられがちであった市議会の改革に乗り出し、1938年には強力な新しいニューヨーク市予算承認委員会 (en)(企業における理事会に似たもの)の設立を盛り込んだ市憲章改正を提議し成立させた。

ドイツ[編集]

アドルフ・ヒトラー及びナチ政権には早くから批判を行っていた。1934年には「ヒトラーの計画の一部はドイツ国内のユダヤ人を完全に絶滅すること」だと警告した。1937年に行われた米国ユダヤ人議会 (en) の女性部会に際しては、当時開会間近のニューヨーク万博でナチズム関連の特別パビリオンとして「あの褐色シャツの狂信者たち」のために「恐怖の部屋」を設置せよと訴えた[25]

ラガーディアのであるジェンマ・ラガーディア・グラックは、1944年にハンガリーにてユダヤ人一斉検挙に巻き込まれて逮捕された。彼女はラーフェンスブリュック強制収容所に送られたが特別な扱いを受け、戦後釈放された[26]

法廷[編集]

ベネット・サーフ(en) によれば、ラガーディアは市の法廷に出向いて指揮を執ることが良くあった。彼が扱ったのは在り来たりの軽犯罪で、サーフによればその中に、飢えた家族のために一斤のパンを盗んだある婦人のケースがあった。ラガーディアは罰金として 10ドルを徴収せよと主張した。それから彼は「私はここに居る全員に対し、食べるためにパンを盗まねばならない市に住んでいる咎で 50セントの罰金を科す!」と言った。そうして彼は帽子を人々に回して集めた金を被告に渡し、被告は 47ドル50セントを持って法廷から放免された[27]

第二次世界大戦[編集]

第二次世界大戦にアメリカが参戦していた最中の1941年、ルーズベルト大統領の命を受け新設された市民防衛局(OCD)の初代局長に就任する。OCDはドイツ軍による空襲に備え、サイレンシェルターなどの準備を請け負う官庁で、時の政府はこうした空襲が不可能と察知していたものの、数千にも上る中産階級有志を心理面で動員し、戦時体制に組み入れんとした。ラガーディアはニューヨーク市長の籍を置いたまま、一週間のうち3日はワシントンD.C.に滞在するという非常に困難な任務を見事やってのけた。1941年12月真珠湾攻撃以後は常勤の局長であるジェイムス・J・ランディスに任務を引き継ぐ。1945年の市長選の頃には、世論調査でも芳しくない結果が出るなど人気も翳りを見せ始め、案の定4選はならなかった[28]

この時代失業状態に終止符が打たれ、街はヨーロッパ向けの軍事物資兵士の窓口となり、ブルックリン海軍工廠は多くの軍艦のほか軍服を鬻(ひさ)ぐ衣類商で溢れかえっていた。しかしながら市内の大資本家はワシントンの政策決定者ほど重要視されず、極めて高率の戦時税制をもってしても鰻登りを続ける戦費は賄えなかった。ニューヨークは最早産業集積地ではなく、至る所で造られる武器工場を戦時ブームととる者は誰一人とて居なくなった[29]。ルーズベルト大統領は遂に市への資金提供中止を決断し、1944年までには市の手形支払いにおける粉飾決算が常態化した。ラガーディア以後の市長は1975年の財政破綻まで、負債を増やさず社会基盤の大盤振舞のほか教師警察市役所職員に対する厚遇が行えなくなったことが悩みの種であった[30]

晩年[編集]

ラガーディアの墓

市長退任後の1946年、国際連合連合国救済復興機関(UNRRA)の事務局長に就任したほか、音楽同好会であるファイ・ミュー・アルファ・シンフォニアの会員となった。1947年9月20日、膵臓癌のためニューヨークブロンクス区の自宅で死去。64歳。葬儀は同区のウッドローン墓地で執り行われた[31]

没後[編集]

歴史学者の間ではニューヨークはもとよりアメリカ史上最も偉大な市長と認識されることが多いものの、ルドルフ・ジュリアーニと互角とする専門家も少なからず存在する[32]

エピソード[編集]

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

  1. ^ "The Green Book: Mayors of the City of New York" on the official NYC website]
  2. ^ a b Thomas Kessner, Fiorello H. LaGuardia and the Making of Modern New York (1989)
  3. ^ Sam Roberts, "The Giuliani Years: History; La Guardia's Legacy Is Formidable, but it May Be Surpassed," New York Times New York Times April 18, 2008
  4. ^ ref name="Il Piccolo"
  5. ^ 父アキルについてはhttp://www.territorialbrass.com/LaGuardia.htmlに詳しい
  6. ^ この間1920年に1女をもうけたが翌年死去 http://istrianet.org/istria/illustri/non-istrian/la_guardia/family-album2.htm
  7. ^ Howard Zinn, LaGuardia in Congress (1959)
  8. ^ Howard Zinn, La Guardia in Congress, (1959)
  9. ^ R.L. Moran Led City Alderman, The New York Times, August 19, 1954.
  10. ^ a b Major Kelly Killed by his Own Pistol, The New York Times, July 23, 1930.
  11. ^ This Election Near A Collapse for Tammany, The New York Times, November 6, 1919.
  12. ^ Howard Zinn, LaGuardia in Congress (1959)
  13. ^ Zinn, LaGuardia in Congress pp. 226-30
  14. ^ Irving Bernstein, The Lean Years: A History of the American Worker, 1920-1933 (1966), pp 406-9
  15. ^ Zinn, LaGuardia in Congress pp. 267-70
  16. ^ サンディーノ戦争(1927年 - 1933年)のこと。詳細はニカラグアを参照のこと
  17. ^ Zinn, La Guardia in Congress, (1959)
  18. ^ Joseph McGoldrick, "The New York City Election of 1929," The American Political Science Review, Vol. 24, No. 3 (Aug., 1930), pp. 688-690 in JSTOR
  19. ^ Thomas Kessner, Fiorello H. LaGuardia and the Making of Modern New York (1989) ch 8-9
  20. ^ Arthur H. Mann, La Guardia Comes to Power 1933 (1969)
  21. ^ Ronald H. Bayor, Fiorello La Guardia: Ethnicity and Reform (1993)
  22. ^ Gross, Daniela. “Le radici triestine di Fiorello LaGuardia leggendario sindaco di New York City” (Italian). Newspaper article. Il Piccolo. pp. 1. 2010年4月23日閲覧。
  23. ^ Thomas Kessner, Fiorello H. LaGuardia and the Making of Modern New York (1989) pp 350-68
  24. ^ Andrea Friedman, "'The Habitats of Sex-Crazed Perverts': Campaigns against Burlesque in Depression-Era New York City," Journal of the History of Sexuality, Vol. 7, No. 2, (Oct., 1996), pp. 203-238 in JSTOR
  25. ^ David M. Esposito, and Jackie R. Esposito, "La Guardia and the Nazis, 1933-1938." American Jewish History 1988 78(1): 38-53. ISSN: 0164-0178; quote from H. Paul Jeffers, The Napoleon of New York (2002) p. 233.
  26. ^ Times Online, "Adolf Eichmann's List"
  27. ^ Mikkelson, Barbara and David; (January 1, 2008). LaGuardian Angel. Snopes. Retrieved on January 31, 2008.
  28. ^ Erwin Hargrove, "The Dramas of Reform," in James D. Barber, ed. Political Leadership in American Government (1964), p. 94.)
  29. ^ Karl Drew Hartzell, The Empire State At War, World War II (1949)
  30. ^ Thomas Kessner, "Fiorello H. LaGuardia." History Teacher 1993 26(2): 151-159
  31. ^ Jackson, Nancy Beth. "If You're Thinking of Living In/Fieldston; A Leafy Enclave in the Hills of the Bronx", The New York Times, February 17, 2002, accessed May 3, 2008. "Fiorello H. La Guardia, a three-time mayor of New York, lived and died at 5020 Goodridge Avenue."
  32. ^ He was first in Melvin G. Holli, The American Mayor (1993); Sam Roberts, "The Giuliani Years: History; La Guardia's Legacy Is Formidable, but it May Be Surpassed," New York Times New York Times April 18, 2008
  33. ^ Sewell Chan (2006年12月4日). “The Empire Zone: The Mayor's Tall Tales”. New York Times. http://empirezone.blogs.nytimes.com/2006/12/04/the-mayors-tall-tales/ 2008年8月14日閲覧。 
  34. ^ Steigman, Benjamin: Accent on Talent – New York's High School of Music & Art Wayne State University Press, 1984 ISBN 0-686-87975-9

参考文献[編集]

  • Bayor, Ronald H. Fiorello La Guardia: Ethnicity and Reform. (1993). 213 pp.
  • Brodsky, Alyn. The Great Mayor: Fiorello La Guardia and the Making of the City of New York. (2003). 530 pp. popular biography; excerpt and text search
  • Capeci, Dominic J. "From Different Liberal Perspectives: Fiorello H. La Guardia, Adam Clayton Powell, Jr., and Civil Rights in New York City, 1941-1943," The Journal of Negro History, Vol. 62, No. 2 (Apr., 1977), pp. 160-173 in JSTOR
  • Caro, Robert. The Power Broker: Robert Moses and the Fall of New York. (1973) excerpt and text search
  • Garrett, Charles. The La Guardia Years: Machine and Reform Politics in New York City. (1961).
  • Hecksher, August III. When La Guardia Was Mayor: New York's Legendary Years. (1978).
  • Jeffers, H. Paul. The Napoleon of New York: Mayor Fiorello La Guardia 392 pp. popular biography online edition; also excerpt and text search
  • Kaufman, Herbert. "Fiorello H. La Guardia, Political Maverick" Political Science Quarterly 1990 105(1): 113-122. Issn: 0032-3195 in Jstor
  • Kessner, Thomas. "Fiorello H. LaGuardia." History Teacher 1993 26(2): 151-159. Issn: 0018-2745 in Jstor
  • Kessner, Thomas. Fiorello H. LaGuardia and the Making of Modern New York (1989) the most detailed standard scholarly biography
  • La Guardia, Fiorello H. The Making of an Insurgent: An Autobiography. (1948)
  • Mann, Arthur H. La Guardia: A Fighter Against His Times 1882-1933 (1959)
  • Mann, Arthur H. La Guardia Comes to Power 1933 (1969)
  • Zinn, Howard. LaGuardia in Congress (1959) online edition

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


議会
先代:
マイケル・F・ファーレイ
ニューヨーク州選出下院議員
ニューヨーク州第14選挙区

1917年3月4日 - 1919年12月31日(辞職)
次代:
ネイサン・D・パールマン
先代:
アイザック・シーゲル
ニューヨーク州選出下院議員
ニューヨーク州第20選挙区

1923年3月4日 - 1933年3月3日
次代:
ジェームズ・J・ランゼッタ
党職
先代:
フランク・D・ウォーターマン
共和党ニューヨーク市長候補
1929年
次代:
ルイス・H・ポンズ
公職
先代:
ジョン・P・オブライエン
ニューヨーク市長
1934年 - 1945年
次代:
ウィリアム・オドワイヤー
官職
先代:
-
市民防衛局局長
1941年 - 1942年
次代:
ジェームズ・M・ランディス
非営利団体
先代:
ハーバート・H・リーマン
連合国救済復興機関事務局長
1946年
次代:
ローウェル・ルークス