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「三遊亭圓彌」の版間の差分

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*[[1958年]][[10月]]∶[[春風亭柳枝 (8代目)|8代目春風亭柳枝]]に入門。「'''枝吉'''」と名乗る。
*[[1958年]][[10月]]∶[[春風亭柳枝 (8代目)|8代目春風亭柳枝]]に入門。「'''枝吉'''」と名乗る。
*[[1959年]]∶師匠柳枝が死去。それに伴い弟弟子[[三遊亭圓窓#6代目|春風亭枝女吉]]と共に[[三遊亭圓生_(6代目)|6代目三遊亭圓生]]門下に移籍し、「'''舌生{{efn2|「舌」は噺家の命である。}}'''」と改名。*[[1961年]][[9月]]∶二ツ目昇進。「'''円弥'''」と改名。[[日本放送協会|NHK]]『[[笑いがいちばん|お好み演芸会]]』の噺家横丁([[大喜利]])では「幻の噺家」(『[[笑点]]』の前身番組『[[金曜夜席]]』に短期出演していたことが由来)をキャッチフレーズにしていた。
*[[1959年]]∶師匠柳枝が死去。それに伴い弟弟子[[三遊亭圓窓#6代目|春風亭枝女吉]]と共に[[三遊亭圓生_(6代目)|6代目三遊亭圓生]]門下に移籍し、「'''舌生{{efn2|「舌」は噺家の命である。}}'''」と改名。*[[1961年]][[9月]]∶二ツ目昇進。「'''円弥'''」と改名。[[日本放送協会|NHK]]『[[笑いがいちばん|お好み演芸会]]』の噺家横丁([[大喜利]])では「幻の噺家」(『[[笑点]]』の前身番組『[[金曜夜席]]』に短期出演していたことが由来)をキャッチフレーズにしていた。
*[[1972年]]9月∶[[林家]]とともに真打昇進。名を「'''圓彌'''」に改めた。[[日本舞踊|舞踊]]が趣味で日舞は[[藤間流]]の名取りでもあり、『[[七段目]]』は彼ならでは。
*[[1972年]]9月∶[[春風亭一柳]]、[[柳亭左楽#6代目|6代目柳亭左楽]]、[[三遊亭歌笑#4代目|4代目三遊亭歌笑]]、[[三遊亭圓彌]]、[[三遊亭生之助]]、[[橘家三蔵]]、[[柳家つば女 (6代目)|6代目柳家つば女]]、[[三遊亭歌奴#3代目|3代目三遊亭歌奴]]、[[柳家小はん#2代目|2代目柳家小はん]]、[[林家木久扇]]、[[金原亭伯楽]]、[[はやし家林蔵]]、[[柳家小満ん#3代目|柳家小満ん]]とともに真打昇進。名を「'''圓彌'''」に改めた。[[日本舞踊|舞踊]]が趣味で日舞は[[藤間流]]の名取りでもあり、『[[七段目]]』は彼ならでは。


師匠圓生のレコード『圓生百席』では[[出囃子 (落語)|出囃子]]、送り囃子の鳴り物([[寄席]]では前座が行う)を担当した。また通常、出囃子で唄入の曲が使われることはないが、この全集では使われておりこの唄も担当した。当初は圓生と二人で歌っていたが、収録が進むにつれ、一人で歌うようになった。
師匠圓生のレコード『圓生百席』では[[出囃子 (落語)|出囃子]]、送り囃子の鳴り物([[寄席]]では前座が行う)を担当した。また通常、出囃子で唄入の曲が使われることはないが、この全集では使われておりこの唄も担当した。当初は圓生と二人で歌っていたが、収録が進むにつれ、一人で歌うようになった。

2020年9月6日 (日) 04:30時点における版

三遊亭 圓彌(さんゆうてい えんや)は、落語家の名跡。圓弥とも表記する。過去に5人確認されている。


三遊亭さんゆうてい えん
三遊亭(さんゆうてい) 圓(えん)彌(や)
三遊亭圓彌定紋の三ツ組橘。
本名 はやし 光男みつお
別名 三遊亭圓弥
生年月日 1936年7月20日
没年月日 (2006-04-29) 2006年4月29日(69歳没)
出身地 日本の旗 日本・東京
師匠 8代目春風亭柳枝
6代目三遊亭圓生
弟子 三遊亭圓王
名跡 1. 春風亭枝吉(1958年 - 1959年)
2. 三遊亭舌生(1959年 - 1961年)
3. 三遊亭円弥(1961年 - 1972年)
4. 三遊亭圓彌(1972年 - 2006年)
出囃子 四季の寿
正札附
活動期間 1958年 - 2006年
所属 落語協会(1958年 - 1978年)
落語三遊協会(1978年 - 1980年)
落語協会(1980年 - 2006年)

三遊亭 圓彌(さんゆうてい えんや、1936年7月20日 - 2006年4月29日)は、東京府(現・東京都東京市四谷区(現:新宿区四谷)出身の落語家。本名、はやし 光男みつお。生前は落語協会所属。

来歴・人物

師匠圓生のレコード『圓生百席』では出囃子、送り囃子の鳴り物(寄席では前座が行う)を担当した。また通常、出囃子で唄入の曲が使われることはないが、この全集では使われておりこの唄も担当した。当初は圓生と二人で歌っていたが、収録が進むにつれ、一人で歌うようになった。

9代目春風亭柳枝襲名を期待する声もあったが、8代目遺族の出した条件が飲めず、襲名は叶わなかったという[1]。その後の圓彌は圓生の正当な後継者を自負していた節があり、晩年には出囃子を『四季の寿』から(圓生と同じ)『正札附』に変えていた。

2006年4月29日、肝臓がんのため、都内の病院で死去。69歳没。最後の高座は、3月20日、新宿末廣亭昼の部主任で「子別れ[2]

書籍

弟子

  • 三遊亭圓王(元は兄弟弟子圓窓の弟子であったが、後に圓彌門下に移籍した)
  • 三遊亭小生(師匠圓生門下から移籍、後に廃業した)

脚注

注釈

  1. ^ 「舌」は噺家の命である。

出典

  1. ^ フジポッド つか金フライデー (2010年9月24日). “川柳師匠が明言「七代目圓生にふさわしいのは・・・」”. 2010年9月24日閲覧。
  2. ^ 『落語ファン倶楽部』白夜書房 、2007年2月7日、125頁。ISBN 9784861912368 

参考文献

外部リンク