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'''サー・ジョン・メージャー'''('''Sir John Roy Major''' [[ガーター勲章|KG]], CH, ACIB、[[1943年]][[3月29日]] - )は、[[イギリス]]の[[政治家]]。
'''サー・ジョン・メージャー'''({{lang-en-short|'''Sir John Major, {{Post-nominals|post-noms= [[ガーター勲章|KG]], [[コンパニオン・オブ・オナー勲章|CH]]}}'''}}、[[1943年]][[3月29日]] - )は、[[イギリス]]の[[政治家]]。


[[保守党_(イギリス)|保守党]]に所属し、[[マーガレット・サッチャー]]内閣で[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]や[[外務英連邦大臣]]を務めた後、[[1990年]]のサッチャーの辞任で代わって[[イギリスの首相|首相]](在職[[1990年]][[11月28日]] - [[1997年]][[5月2日]])に就任した。[[1992年]]の[[1992年イギリス総選挙|総選挙]]に辛勝して長期政権の基盤を築き、6年半に渡って首相を務めた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との協調を維持しつつ、[[ヨーロッパ]]との関係改善に努め、[[マーストリヒト条約]]の締結と[[欧州連合]](EU)発足に大きな功績を果たした。しかし中間色の政策が多かったため、「理念なき政治家」との批判が高まり、また相次ぐ政治家のスキャンダルなどで徐々に人気が下降し、[[1997年]]の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で[[トニー・ブレア]]率いる[[労働党 (イギリス)|労働党]]に大敗を喫して退陣に追い込まれた。
[[英国]][[首相]](第72代)、[[保守党_(イギリス)|保守党]][[党首]](第14代)、[[庶民院|庶民院(下院)議員]]を歴任。


==人物==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
サーカスのブランコ乗り(団長という説もある)の父親の長男として生まれ、[[高等学校|高校]][[中退]]後様々な職業(時には[[失業]]も経験)を経験した後、[[スタンダードチャータード銀行]]に入行、銀行マンとして成功を収めた後、政界入りした。
[[1943年]][[3月29日]]、[[イングランド]]・[[サリー州]]・{{仮リンク|カーショールトン|en|Carshalton}}・{{仮リンク|聖ヘラー病院|en|St Helier Hospital}}で生まれた<ref name="英政府">{{cite web|url=https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/john-major |title=Past Prime Ministers Sir John Major|work=[https://www.gov.uk/ Welcome to GOV.UK]|publisher=[[イギリス政府]] |language=英語 |accessdate=2014年10月19日}}</ref>。父は俳優・庭園装飾物職人{{仮リンク|トム・メージャー・ベル|label=アブラハム・トマス・ベル|en|Tom Major-Ball}}、母はその妻グウェンドリン・ミニー(旧姓コーツ)<ref>{{cite web|url=http://www.sole.org.uk/johnmajor.htm |title=Ex Prime Minister Sir John Major and his Sewell Ancestors|work= [http://www.sole.org.uk/ The Sole Society]|publisher=Sole.org.uk |date= |accessdate=2014年10月19日}}</ref><ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://www.thepeerage.com/p18326.htm#i183254|title=Rt. Hon. Sir John Major|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2014年10月19日}}</ref>。


[[ランベス・ロンドン特別区‎]][[ブリクストン]]で育つ。[[グラマー・スクール]]の{{仮リンク|ラトリッシュ・スクール|en|Rutlish School}}に入学したが<ref name="thepeerage"/>、16歳で学校を退学し、大学には進学していない<ref name="英政府"/>。
約12年の長きにわたってイギリスを指導した[[マーガレット・サッチャー]]の後継者として、党首選で対立候補の[[マイケル・ヘーゼルタイン]]元国防相を破って、首相に就任。戦後の保守党の首相としては異色の経歴であった。


=== 政界に進出 ===
==首相在任時==
彼は若い頃から[[保守党_(イギリス)|保守党]]青年活動に参加しており、21歳の時には{{仮リンク|ランベス・ロンドン特別区議会|en|Lambeth London Borough Council}}選挙で当選を果たした。同地方議会において彼は住宅供給委員会の議長を務めた<ref name="英政府"/>。


二度の落選を経て、[[1979年]]に{{仮リンク|ハンティンドンシャー選挙区|en|Huntingdonshire (UK Parliament constituency)}}から保守党候補として立候補し、[[庶民院]]議員に初当選した<ref name="thepeerage"/><ref name="英政府"/>。[[1983年]]に同選挙が廃止されると新設された{{仮リンク|ハンティンドン選挙区|en|Huntingdon (UK Parliament constituency)}}から選出されるようになった<ref name="thepeerage"/>。
政策面でもマーガレット・サッチャーの構造改革を引き継ぎ、公共施設の建設や運営を民間に委ねる政策を打ち出した。この政策に基づき1992年にプライベート・ファイナンス・イニシアティブ ([[PFI]]) と呼ばれる政策手法を実施した。


=== サッチャー内閣の閣僚として ===
現在ではこの政策方法は英国のみには留まらず、米国や日本といった世界の国々で構造改革の手法として実施されている。
[[1985年]]の[[マーガレット・サッチャー]]内閣の内閣改造の際に保健社会保障省関連の役職に就いた<ref name="小川(2005)114">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.114</ref>。ついで[[1987年]]に{{仮リンク|財務首席政務次官 (イギリス)|label=財務首席政務次官|en|Chief Secretary to the Treasury}}として初入閣。閣内では予算削減継続の管理能力を高く評価された<ref name="英政府"/>。


[[1989年]]7月、サッチャーと対立した{{仮リンク|ジェフリー・ハウ (ハウ男爵)|label=ジェフリー・ハウ|en|Geoffrey Howe}}外相の辞職に伴い、代わって[[外務英連邦大臣]]に就任した<ref name="小川(2005)250">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.250</ref>。
==退陣とその後==
1997年の[[1997年英国下院議会総選挙|総選挙]]で歴史的大敗を喫し退陣。サッチャー首相以来18年に及んだ保守党長期政権は終わりを告げ、その後は好景気を背景に労働党[[トニー・ブレア|ブレア]]政権が3期続けて政権を担当した。


ところが外相就任から3カ月後の同年10月に{{仮リンク|ナイジェル・ローソン (ローソン男爵)|label=ナイジェル・ローソン|en|Nigel Lawson}}財相がサッチャーの経済問題アドバイザー[[アラン・ウォルターズ]]と対立して辞職したため、代わって[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に転任することになった<ref name="小川(2005)250">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.250</ref>。サッチャーはメージャーを財務大臣に任じるにあたって「ナイジェルほど経済に精通していないが、少なくとも過去の政策の失敗に囚われて身動きできなくなるようなことはない。彼は心理的には、政策の失敗から引き起こされた結果にははるかに容易に対応できたはずだから」と彼のことを論評している<ref name="小川(2005)251">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.251</ref>。
メージャー自身は1997年に保守党党首をウィリアム・ヘイグに譲ったが、2001年の総選挙で引退するまで下院議員にとどまった。2002年には、首相時代に女性議員エドウィナ・カリーと4年間に渡って不倫関係にあったことが判明。実直なイメージがあっただけに、このような話が退陣後に暴露されたことは、英国民やメディアを騒がせた。


メージャーが財務大臣になった頃の景気は悪く、経常収支が大幅赤字で、[[インフレ]]が急速に進行し、金利が上昇していた。メージャーはサッチャーに[[欧州為替相場メカニズム]](ERM)加盟を進言し、消極的だった彼女を説得して実現にこぎつけた<ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.251-252</ref>。
2012年4月29日付をもって[[日本政府]]から[[旭日大綬章]]が伝達された(平成24年度春季叙勲における外国人受章者はメージャーを含め5人)。


=== 首相として ===
==備考==
[[File:John Major-1.JPEG|250px|thumb|1996年5月24日、[[ボスニア]]・[[サラエボ]]を訪問したメージャー首相。[[和平履行部隊]]として派遣された[[連合緊急対応軍団]]司令官{{仮リンク|マイケル・ウォーカー (ウォーカー男爵)|label=マイケル・ウォーカー|en|Michael Walker, Baron Walker of Aldringham}}中将とともに。]]
[[1990年]]秋に行われた保守党所属庶民院議員による保守党党首選挙においてサッチャーは多数を得たが、当選票には足りず、第二回党首選挙が行われることになった。党内の支持を広げられそうにないと判断したサッチャーは、第二回党首選挙への立候補を断念した。第二回党首選挙にはメージャー、{{仮リンク|マイケル・ヘーゼルタイン (へーゼルタイン男爵)|label=マイケル・ヘーゼルタイン|en|Michael Heseltine}}元国防相、[[ダグラス・ハード]]外相らが出馬したが、それぞれ185票、131票、56票という結果になった。メージャーも当選票には達していなかったが、ヘーゼルタインとハードが辞退したため、メージャーが保守党党首・首相に就任することになった<ref name="小川(2005)251">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.253</ref>。当時メージャーは47歳であり、短期間で首相に上り詰めたことから「[[シンデレラ・ボーイ]]」と呼ばれた<ref name="村岡(1991)438">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.438</ref>。

[[1992年]]4月の[[1992年イギリス総選挙|庶民院選挙]]に事前の予想を覆す形で辛勝したことで長期政権の基盤を築き、[[1997年]]5月の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で労働党に敗れるまで政権を担当することになった<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.439</ref><ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240/249</ref>。

==== 外交 ====
イギリスの外交観は親米か親欧かという二つの路線があるが、サッチャー前首相は前者であり、アメリカ大統領[[ロナルド・レーガン]]と親密な関係を築きつつ、[[欧州共同体]](EC)に対しては強硬姿勢で臨んだ<ref name="佐々木(2005)238">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.238</ref>。それに対してメージャーは首相就任直後の演説で「欧州共同体(EC)の中のイギリスについての私の目的は、簡単に述べることができる。私は我が国が本来の位置に就くことを望んでいる。それはヨーロッパの中心部である。そこでパートナーたちとともに未来を築き上げていくのだ」と述べたため、親欧路線に転換するのかと注目された<ref name="佐々木(2005)238"/>。

他方メージャーはアメリカとの関係を外交上の最優先事項とするイギリス外交の基本方針は維持すべきと考えており、「(アメリカかヨーロッパか)何故選ぶ必要があるのか。わが国の国益はアメリカ・ヨーロッパという二つの大きなブロックにほぼ均等に分かたれている中で何故こうした選択をわざわざしなければならないのか。私に言わせればそれは狂気の沙汰である」と論じて極端な二者択一を迫る者を批判した<ref name="佐々木(2005)238"/>。

===== 対ヨーロッパ外交 =====
メージャーはサッチャーよりはヨーロッパ寄りだが、それでもイギリスがヨーロッパに吸収されて消滅する恐れがある動きには抵抗した<ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.271-272</ref>。

[[1991年]]12月、[[オランダ]]の[[マーストリヒト]]でEC理事会が開かれ、[[マーストリヒト条約]]が締結された。メージャーも基本的にその内容に賛成したものの、通貨条項(通貨の統一)と社会条項(社会政策の共通化)についてイギリスを対象外(Opt-out)とすることを明記するよう要求し、外交交渉の末にそれを条文に盛り込むことに成功した。またECの連邦化につながる表現を入れないことも要求し、それについても成功した<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.239-240</ref><ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.253-254</ref>。

マーストリヒト条約批准をめぐっては国内でも意見が分かれていたが(特に与党保守党内)、[[1992年]]5月の庶民院第二読会は、[[労働党 (イギリス)|労働党]]棄権、[[自由党 (イギリス)|自由党]]賛成で可決された。ところがこの直後に[[デンマーク議会]]においてマーストリヒト条約批准が否決され、また[[1992年]]9月に「[[ポンド危機|ブラック・ウェンズデイ]]」事件{{#tag:ref|投機筋のポンドへの攻勢が強まり、イギリス政府はERMの束縛のために利子率の引き上げを行うも効果がなかったため、同年9月16日にERMからポンドを脱退させた事件<ref name="佐々木(2005)240">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240</ref><ref name="小川(2005)254">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.254</ref>。|group=注釈}}があったことで、条約反対派が勢いを増し、その結果、デンマークでの国民投票の結果が出るまでイギリスも条約批准を延期することを余儀なくされた。しかし最終的には[[1993年]][[5月18日]]のデンマーク国民投票でデンマークのマーストリヒト条約批准が決まったので、メージャーにとってもそれが追い風となり、同年5月30日に46人の保守党議員の造反に合いながらも何とかマーストリヒト条約の庶民院第三読会通過を達成することができた<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240-241</ref>{{#tag:ref|しかし僅差での通過であり、この直後に政府が出したマーストリヒト条約の社会条項のオプトアウトを確認する動議は8票差で否決されている。また労働党が提出した社会条項オプトアウトを無効とする修正動議は賛否同数で庶民院議長裁定によってかろうじて否決されるという事態となった。そのためメージャーは議会での求心力を回復すべく、自らの政権への信任投票を実施して政権信任を得ている(保守党造反組は解散総選挙になって保守党が敗れることを恐れていたため、メージャー政権に信任票を投じた)<ref name="佐々木(2005)241">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.241</ref>。|group=注釈}}。

マーストリヒト条約は[[1993年]]11月に発効され、これに基づいてECは[[欧州連合]](EU)に改組された<ref name="佐々木(2005)240">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.241-242</ref>。

しかしこの後も保守党内では欧州統合派と反対派の争いがくすぶり続けた。メージャーは通貨統合に参加しないことを求める党内反対派の動きを牽制しながらも、[[1995年]]の[[マドリード]]でのEU首脳会議では通貨統合を急ぐべきではないとの見解を示した<ref name="佐々木(2005)242">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.242</ref>
{{-}}

===== 対アメリカ外交 =====
[[File:Arcbushmaj.jpg|250px|thumb|[[1992年]][[6月7日]]、アメリカの[[キャンプ・デービッド]]で記者会見するメージャー英首相(左)と[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]米大統領(右)。]]
アメリカとの関係では、サッチャー政権から引き続いて[[湾岸戦争]]に協力した<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.439</ref>。湾岸戦争の戦友である[[共和党 (アメリカ)|共和党]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領とは親密な関係を保ったが、[[1992年]]11月の[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]の際にメージャーが公然とブッシュを応援したことがきっかけとなり、[[1993年]]1月に[[民主党 (アメリカ)|民主党]][[ビル・クリントン]]が大統領に就任すると英米の齟齬が増えた<ref name="佐々木(2005)246">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.246</ref>。

[[ボスニア紛争]]をめぐってはクリントンが明確な反[[セルビア]]の立場を取ったのに対してメージャーは対米協力を基本としながらも反セルビアの立場を明確にしようとしなかった<ref name="佐々木(2005)246"/>。また[[キューバ]]に投資している会社に法的措置を求めるクリントンに対してメージャーは協力しようとしなかった<ref name="佐々木(2005)246"/>。[[北アイルランド問題]]をめぐっては[[アイルランド人]]移民が多いアメリカは親アイルランド的態度をとってイギリスを苛立たせた<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.246-247</ref>。

このような小さな対立を内在しつつも、アメリカとの関係が最重要事項であるというイギリス外交の基本方針は維持した。[[1993年]]6月と[[1996年]]にクリントン政権が行ったイラク空爆についても、他の国が批判的にみることが多かった中、メージャーは明確にアメリカ支持を表明した<ref name="佐々木(2005)247">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.247</ref>。
{{-}}
==== 内政 ====
サッチャーの構造改革を引き継ぎ、公共施設の建設や運営を民間に委ねる政策を打ち出した<ref name="村岡(1991)438">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.438</ref>。この政策に基づき1992年にプライベート・ファイナンス・イニシアティブ ([[PFI]]) と呼ばれる政策手法を実施した。現在ではこの政策方法は英国のみには留まらず、米国や日本といった世界の国々で構造改革の手法として実施されている。

他方サッチャー政権期に制定されたが、「[[人頭税]]」との批判が高まっていた{{仮リンク|コミュニティ・チャージ (イギリス)|label=コミュニティ・チャージ|en|Community Charge}}は就任早々に廃止した<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.437/439</ref><ref name="小川(2005)232">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.232</ref>。

==== 退陣 ====
メージャーは内政においても外交においても、右翼路線か左翼路線か、サッチャー政権の方針を継承するのかしないのか明確でない政治家であり、そのため両陣営から「理念なき政治家」と看做されて人気を落としていった<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.439</ref>。

また[[1993年]]から[[1994年]]に相次いだ政治家の金銭・セックススキャンダルで政権への信頼が失墜した。さらに[[1996年]]に一時停戦状態だった[[アイルランド共和軍]](IRA)が反英テロを再開したことや、同年に「[[狂牛病]]」問題が発生したことも政権支持率を一層低迷させた<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.439</ref>。

一方労働党は1994年7月に41歳の[[トニー・ブレア]]を党首に立てた。ブレアは党の労働組合優位体質を改革して一党員一票制度を確立し、党規約も改正して国有化方針を破棄した。こうした労働党に新風を吹き込む改革で人気を高めていった<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.439</ref><ref name="小川(2005)254">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.254</ref>。

その結果、[[1997年]]5月の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で労働党が254議席の大差をつけて保守党に圧勝した<ref name="村岡(1991)439"/>。保守党は165議席しか取れず、この数字は保守党の長い歴史の中でも[[アーサー・バルフォア]]党首時代の[[1906年]]以来の惨敗であった<ref name="小川(2005)255">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.255</ref>。これを受けてメージャー内閣はただちに総辞職した。サッチャー首相以来18年に及んだ保守党長期政権は終わりを告げ、代わってブレア労働党政権が発足することとなった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.440</ref>。

=== その後 ===
[[File:John Major Chatham House Prize 2010.jpg|250px|thumb|[[2010年]][[11月9日]]、[[王立国際問題研究所]]で演説するサー・ジョン・メージャー。]]
メージャー自身は1997年に保守党党首を[[ウィリアム・ヘイグ]]に譲ったが、2001年の総選挙で引退するまで庶民院議員にとどまった。2002年には、首相時代に女性議員{{仮リンク|エドウィナ・カリー|en|Edwina Currie}}と4年間に渡って不倫関係にあったことが判明。実直なイメージがあっただけに、このような話が退陣後に暴露されたことは、英国民やメディアを騒がせた<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/2286008.stm |title=Major and Currie had four-year affair |publisher=BBC News |language=英語|date=28 September 2002 |accessdate=2014年10月19日}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,801852,00.html |title=The Major-Currie affair – what the papers say |work=The Guardian|language=英語 |location=London |date= 30 September 2002|accessdate=2014年10月19日}}</ref>。

[[2005年]][[4月23日]]に女王[[エリザベス2世]]より[[ガーター勲章|ガーター騎士団]]ナイト(KG)に叙せられ、「[[サー]]」の称号を得た。これは閣僚からの助言によるものではなく、女王の好意によりメージャーに贈られたものであった。これについてメージャーは「私はとても興奮し、嬉しく、光栄に思いました」と述べている<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/4475235.stm |title=Former PM Major becomes Sir John |language=英語|publisher=BBC News |date=22 April 2005 |accessdate=2014年10月19日}}</ref>。

一方、[[一代貴族]]については受けるつもりがないことを明言している<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/962335.stm |title=Major to turn down peerage |publisher=BBC News|language=英語 |date=15 August 2006 |accessdate=2014年10月19日}}</ref>。
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== 逸話 ==
*メージャーが党首選挙に出た際には、彼が当選するとはマスコミは考えず報道もほとんど行われなかった。ところが、[[ブックメーカー]]における党首選挙の勝者予想において彼が有力候補者とほぼ横並びの第3位の賭け率設定が行われ、世間を驚かせた。メージャーの当選後、ある人がブックメーカーの担当者になぜ、誰も注目していなかった彼に注目したのか尋ねた。すると、担当者は「金が懸っていれば、他人より真剣に考えるものさ」と答えたと言う<ref>[[本村凌二]]「ギャンブル」(『歴史学事典 2 <small>からだとくらし</small>』(弘文堂、1994年) ISBN 978-4-335-21032-7)</ref>。
*メージャーが党首選挙に出た際には、彼が当選するとはマスコミは考えず報道もほとんど行われなかった。ところが、[[ブックメーカー]]における党首選挙の勝者予想において彼が有力候補者とほぼ横並びの第3位の賭け率設定が行われ、世間を驚かせた。メージャーの当選後、ある人がブックメーカーの担当者になぜ、誰も注目していなかった彼に注目したのか尋ねた。すると、担当者は「金が懸っていれば、他人より真剣に考えるものさ」と答えたと言う<ref>[[本村凌二]]「ギャンブル」(『歴史学事典 2 <small>からだとくらし</small>』(弘文堂、1994年) ISBN 978-4-335-21032-7)</ref>。


==脚注==
== 栄典 ==
[[File:John Major in Garter procession.jpg|180px|thumb|[[2006年]][[6月19日]]、[[ガーター勲章#ガーターセレモニー|ガーター・セレモニー]]で{{仮リンク|セント・ジョージ・チャペル (ウィンザー城)|label=セント・ジョージ・チャペル|en|St George's Chapel, Windsor Castle}}まで行進するガーター騎士団員サー・ジョン・メージャー。]]
<references />
*[[1987年]] - [[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="thepeerage"/>
*[[1999年]] - {{仮リンク|コンパニオン・オブ・オナー勲章|en|Order of the Companions of Honour}}コンパニオン(CH)<ref name="thepeerage"/><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/special_report/1998/12/98/new_year_honours/245096.stm |title=Major leads honours list for peace |publisher=BBC News |language=英語 |date=31 December 1998 |accessdate=2014年10月19日}}</ref>
*[[2005年]][[4月23日]] - [[ガーター勲章]]勲章士(KG)<ref name="英王室">{{Cite web |url=http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/Honours/OrderoftheGarter/MembersoftheOrderoftheGarter.aspx|title=Members of the Order of the Garter|accessdate= 2014-10-18 |author= [[イギリス王室]]|language=英語|accessdate=2014年10月19日|work= [http://www.royal.gov.uk/Home.aspx The official website of the British Monarchy]|language= 英語 }}</ref>
*[[2012年]](平成24年)[[5月8日]] - [[旭日大綬章]]([[勲章 (日本)|日本勲章]])<ref>{{cite news|url=http://www.uk.emb-japan.go.jp/en/webmagazine/2012/aug/major.html|title=Japanese Government honours The Rt. Hon Sir John Major|publisher=在イギリス日本大使館|language=英語|accessdate=2014年10月19日}}</ref>
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[小川晃一]]|date=2005年(平成17年)|title=サッチャー主義|publisher=[[木鐸社]]|isbn=978-4833223690|ref=小川(2005)}}
*{{Cite book|和書|author=[[佐々木雄太]](編)、[[木畑洋一]](編)|date=2005年(平成17年)|title=イギリス外交史|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641122536|ref=佐々木(2005)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[村岡健次 (歴史学者)|村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}


==外部リンク==
==外部リンク==
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* {{hansard-contribs | mr-john-major | John Major }}
* [http://www.johnmajor.co.uk/ John Major] Web-Site''
* [http://www.johnmajor.co.uk/ John Major] Web-Site''
* [http://politics.guardian.co.uk/news/story/0,9174,534415,00.html John Major's "bastard" quote] from ''The Observer''
* [http://politics.guardian.co.uk/news/story/0,9174,534415,00.html John Major's "bastard" quote] from ''The Observer''
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2014年11月6日 (木) 21:47時点における版

ジョン・メージャー
John Major
1996年5月24日のメージャー首相
生年月日 (1943-03-29) 1943年3月29日(81歳)
出生地 イギリスの旗 イギリスイングランドサリー州カーショールトン英語版聖ヘラー病院英語版
出身校 ラトリッシュ・スクール英語版
所属政党 保守党
称号 ガーター勲章勲章士(KG)、コンパニオン・オブ・オナー勲章コンパニオン(CH)、枢密顧問官(PC)、旭日大綬章
配偶者 ノーマ英語版[1]
公式サイト The Rt Hon Sir John Major KG CH

在任期間 1990年11月28日 - 1997年5月2日[2]
女王 エリザベス2世

内閣 サッチャー内閣
在任期間 1989年7月24日 - 1989年10月26日[2]

内閣 サッチャー内閣
在任期間 1989年10月26日 - 1990年11月[3]

選挙区 ハンティンドンシャー選挙区英語版
ハンティンドン選挙区英語版
在任期間 1979年5月3日 - 1983年6月9日
1983年6月9日 - 2001年6月7日[4]
テンプレートを表示

サー・ジョン・メージャー: Sir John Major, KG, CH1943年3月29日 - )は、イギリス政治家

保守党に所属し、マーガレット・サッチャー内閣で財務大臣外務英連邦大臣を務めた後、1990年のサッチャーの辞任で代わって首相(在職1990年11月28日 - 1997年5月2日)に就任した。1992年総選挙に辛勝して長期政権の基盤を築き、6年半に渡って首相を務めた。アメリカとの協調を維持しつつ、ヨーロッパとの関係改善に努め、マーストリヒト条約の締結と欧州連合(EU)発足に大きな功績を果たした。しかし中間色の政策が多かったため、「理念なき政治家」との批判が高まり、また相次ぐ政治家のスキャンダルなどで徐々に人気が下降し、1997年総選挙トニー・ブレア率いる労働党に大敗を喫して退陣に追い込まれた。

経歴

生い立ち

1943年3月29日イングランドサリー州カーショールトン英語版聖ヘラー病院英語版で生まれた[5]。父は俳優・庭園装飾物職人アブラハム・トマス・ベル英語版、母はその妻グウェンドリン・ミニー(旧姓コーツ)[6][1]

ランベス・ロンドン特別区‎ブリクストンで育つ。グラマー・スクールラトリッシュ・スクール英語版に入学したが[1]、16歳で学校を退学し、大学には進学していない[5]

政界に進出

彼は若い頃から保守党青年活動に参加しており、21歳の時にはランベス・ロンドン特別区議会英語版選挙で当選を果たした。同地方議会において彼は住宅供給委員会の議長を務めた[5]

二度の落選を経て、1979年ハンティンドンシャー選挙区英語版から保守党候補として立候補し、庶民院議員に初当選した[1][5]1983年に同選挙が廃止されると新設されたハンティンドン選挙区英語版から選出されるようになった[1]

サッチャー内閣の閣僚として

1985年マーガレット・サッチャー内閣の内閣改造の際に保健社会保障省関連の役職に就いた[7]。ついで1987年財務首席政務次官英語版として初入閣。閣内では予算削減継続の管理能力を高く評価された[5]

1989年7月、サッチャーと対立したジェフリー・ハウ英語版外相の辞職に伴い、代わって外務英連邦大臣に就任した[8]

ところが外相就任から3カ月後の同年10月にナイジェル・ローソン英語版財相がサッチャーの経済問題アドバイザーアラン・ウォルターズと対立して辞職したため、代わって財務大臣に転任することになった[8]。サッチャーはメージャーを財務大臣に任じるにあたって「ナイジェルほど経済に精通していないが、少なくとも過去の政策の失敗に囚われて身動きできなくなるようなことはない。彼は心理的には、政策の失敗から引き起こされた結果にははるかに容易に対応できたはずだから」と彼のことを論評している[9]

メージャーが財務大臣になった頃の景気は悪く、経常収支が大幅赤字で、インフレが急速に進行し、金利が上昇していた。メージャーはサッチャーに欧州為替相場メカニズム(ERM)加盟を進言し、消極的だった彼女を説得して実現にこぎつけた[10]

首相として

1996年5月24日、ボスニアサラエボを訪問したメージャー首相。和平履行部隊として派遣された連合緊急対応軍団司令官マイケル・ウォーカー英語版中将とともに。

1990年秋に行われた保守党所属庶民院議員による保守党党首選挙においてサッチャーは多数を得たが、当選票には足りず、第二回党首選挙が行われることになった。党内の支持を広げられそうにないと判断したサッチャーは、第二回党首選挙への立候補を断念した。第二回党首選挙にはメージャー、マイケル・ヘーゼルタイン英語版元国防相、ダグラス・ハード外相らが出馬したが、それぞれ185票、131票、56票という結果になった。メージャーも当選票には達していなかったが、ヘーゼルタインとハードが辞退したため、メージャーが保守党党首・首相に就任することになった[9]。当時メージャーは47歳であり、短期間で首相に上り詰めたことから「シンデレラ・ボーイ」と呼ばれた[11]

1992年4月の庶民院選挙に事前の予想を覆す形で辛勝したことで長期政権の基盤を築き、1997年5月の総選挙で労働党に敗れるまで政権を担当することになった[12][13]

外交

イギリスの外交観は親米か親欧かという二つの路線があるが、サッチャー前首相は前者であり、アメリカ大統領ロナルド・レーガンと親密な関係を築きつつ、欧州共同体(EC)に対しては強硬姿勢で臨んだ[14]。それに対してメージャーは首相就任直後の演説で「欧州共同体(EC)の中のイギリスについての私の目的は、簡単に述べることができる。私は我が国が本来の位置に就くことを望んでいる。それはヨーロッパの中心部である。そこでパートナーたちとともに未来を築き上げていくのだ」と述べたため、親欧路線に転換するのかと注目された[14]

他方メージャーはアメリカとの関係を外交上の最優先事項とするイギリス外交の基本方針は維持すべきと考えており、「(アメリカかヨーロッパか)何故選ぶ必要があるのか。わが国の国益はアメリカ・ヨーロッパという二つの大きなブロックにほぼ均等に分かたれている中で何故こうした選択をわざわざしなければならないのか。私に言わせればそれは狂気の沙汰である」と論じて極端な二者択一を迫る者を批判した[14]

対ヨーロッパ外交

メージャーはサッチャーよりはヨーロッパ寄りだが、それでもイギリスがヨーロッパに吸収されて消滅する恐れがある動きには抵抗した[15]

1991年12月、オランダマーストリヒトでEC理事会が開かれ、マーストリヒト条約が締結された。メージャーも基本的にその内容に賛成したものの、通貨条項(通貨の統一)と社会条項(社会政策の共通化)についてイギリスを対象外(Opt-out)とすることを明記するよう要求し、外交交渉の末にそれを条文に盛り込むことに成功した。またECの連邦化につながる表現を入れないことも要求し、それについても成功した[16][17]

マーストリヒト条約批准をめぐっては国内でも意見が分かれていたが(特に与党保守党内)、1992年5月の庶民院第二読会は、労働党棄権、自由党賛成で可決された。ところがこの直後にデンマーク議会においてマーストリヒト条約批准が否決され、また1992年9月に「ブラック・ウェンズデイ」事件[注釈 1]があったことで、条約反対派が勢いを増し、その結果、デンマークでの国民投票の結果が出るまでイギリスも条約批准を延期することを余儀なくされた。しかし最終的には1993年5月18日のデンマーク国民投票でデンマークのマーストリヒト条約批准が決まったので、メージャーにとってもそれが追い風となり、同年5月30日に46人の保守党議員の造反に合いながらも何とかマーストリヒト条約の庶民院第三読会通過を達成することができた[20][注釈 2]

マーストリヒト条約は1993年11月に発効され、これに基づいてECは欧州連合(EU)に改組された[18]

しかしこの後も保守党内では欧州統合派と反対派の争いがくすぶり続けた。メージャーは通貨統合に参加しないことを求める党内反対派の動きを牽制しながらも、1995年マドリードでのEU首脳会議では通貨統合を急ぐべきではないとの見解を示した[22]

対アメリカ外交
1992年6月7日、アメリカのキャンプ・デービッドで記者会見するメージャー英首相(左)とジョージ・H・W・ブッシュ米大統領(右)。

アメリカとの関係では、サッチャー政権から引き続いて湾岸戦争に協力した[12]。湾岸戦争の戦友である共和党ジョージ・H・W・ブッシュ大統領とは親密な関係を保ったが、1992年11月のアメリカ大統領選挙の際にメージャーが公然とブッシュを応援したことがきっかけとなり、1993年1月に民主党ビル・クリントンが大統領に就任すると英米の齟齬が増えた[23]

ボスニア紛争をめぐってはクリントンが明確な反セルビアの立場を取ったのに対してメージャーは対米協力を基本としながらも反セルビアの立場を明確にしようとしなかった[23]。またキューバに投資している会社に法的措置を求めるクリントンに対してメージャーは協力しようとしなかった[23]北アイルランド問題をめぐってはアイルランド人移民が多いアメリカは親アイルランド的態度をとってイギリスを苛立たせた[24]

このような小さな対立を内在しつつも、アメリカとの関係が最重要事項であるというイギリス外交の基本方針は維持した。1993年6月と1996年にクリントン政権が行ったイラク空爆についても、他の国が批判的にみることが多かった中、メージャーは明確にアメリカ支持を表明した[25]

内政

サッチャーの構造改革を引き継ぎ、公共施設の建設や運営を民間に委ねる政策を打ち出した[11]。この政策に基づき1992年にプライベート・ファイナンス・イニシアティブ (PFI) と呼ばれる政策手法を実施した。現在ではこの政策方法は英国のみには留まらず、米国や日本といった世界の国々で構造改革の手法として実施されている。

他方サッチャー政権期に制定されたが、「人頭税」との批判が高まっていたコミュニティ・チャージ英語版は就任早々に廃止した[12][26]

退陣

メージャーは内政においても外交においても、右翼路線か左翼路線か、サッチャー政権の方針を継承するのかしないのか明確でない政治家であり、そのため両陣営から「理念なき政治家」と看做されて人気を落としていった[12]

また1993年から1994年に相次いだ政治家の金銭・セックススキャンダルで政権への信頼が失墜した。さらに1996年に一時停戦状態だったアイルランド共和軍(IRA)が反英テロを再開したことや、同年に「狂牛病」問題が発生したことも政権支持率を一層低迷させた[12]

一方労働党は1994年7月に41歳のトニー・ブレアを党首に立てた。ブレアは党の労働組合優位体質を改革して一党員一票制度を確立し、党規約も改正して国有化方針を破棄した。こうした労働党に新風を吹き込む改革で人気を高めていった[12][19]

その結果、1997年5月の総選挙で労働党が254議席の大差をつけて保守党に圧勝した[12]。保守党は165議席しか取れず、この数字は保守党の長い歴史の中でもアーサー・バルフォア党首時代の1906年以来の惨敗であった[27]。これを受けてメージャー内閣はただちに総辞職した。サッチャー首相以来18年に及んだ保守党長期政権は終わりを告げ、代わってブレア労働党政権が発足することとなった[28]

その後

2010年11月9日王立国際問題研究所で演説するサー・ジョン・メージャー。

メージャー自身は1997年に保守党党首をウィリアム・ヘイグに譲ったが、2001年の総選挙で引退するまで庶民院議員にとどまった。2002年には、首相時代に女性議員エドウィナ・カリー英語版と4年間に渡って不倫関係にあったことが判明。実直なイメージがあっただけに、このような話が退陣後に暴露されたことは、英国民やメディアを騒がせた[29][30]

2005年4月23日に女王エリザベス2世よりガーター騎士団ナイト(KG)に叙せられ、「サー」の称号を得た。これは閣僚からの助言によるものではなく、女王の好意によりメージャーに贈られたものであった。これについてメージャーは「私はとても興奮し、嬉しく、光栄に思いました」と述べている[31]

一方、一代貴族については受けるつもりがないことを明言している[32]

逸話

  • メージャーが党首選挙に出た際には、彼が当選するとはマスコミは考えず報道もほとんど行われなかった。ところが、ブックメーカーにおける党首選挙の勝者予想において彼が有力候補者とほぼ横並びの第3位の賭け率設定が行われ、世間を驚かせた。メージャーの当選後、ある人がブックメーカーの担当者になぜ、誰も注目していなかった彼に注目したのか尋ねた。すると、担当者は「金が懸っていれば、他人より真剣に考えるものさ」と答えたと言う[33]

栄典

2006年6月19日ガーター・セレモニーセント・ジョージ・チャペルまで行進するガーター騎士団員サー・ジョン・メージャー。

脚注

注釈

  1. ^ 投機筋のポンドへの攻勢が強まり、イギリス政府はERMの束縛のために利子率の引き上げを行うも効果がなかったため、同年9月16日にERMからポンドを脱退させた事件[18][19]
  2. ^ しかし僅差での通過であり、この直後に政府が出したマーストリヒト条約の社会条項のオプトアウトを確認する動議は8票差で否決されている。また労働党が提出した社会条項オプトアウトを無効とする修正動議は賛否同数で庶民院議長裁定によってかろうじて否決されるという事態となった。そのためメージャーは議会での求心力を回復すべく、自らの政権への信任投票を実施して政権信任を得ている(保守党造反組は解散総選挙になって保守党が敗れることを恐れていたため、メージャー政権に信任票を投じた)[21]

出典

  1. ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Rt. Hon. Sir John Major” (英語). thepeerage.com. 2014年10月19日閲覧。
  2. ^ a b 秦(2001) p.515
  3. ^ 秦(2001) p.516
  4. ^ UK Parliament. “Mr John Major” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年10月19日閲覧。
  5. ^ a b c d e Past Prime Ministers Sir John Major” (英語). Welcome to GOV.UK. イギリス政府. 2014年10月19日閲覧。
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  8. ^ a b 小川(2005) p.250
  9. ^ a b 小川(2005) p.251 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "小川(2005)251"が異なる内容で複数回定義されています
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参考文献

  • 小川晃一『サッチャー主義』木鐸社、2005年(平成17年)。ISBN 978-4833223690 
  • 佐々木雄太(編)、木畑洋一(編)『イギリス外交史』有斐閣、2005年(平成17年)。ISBN 978-4641122536 
  • 村岡健次木畑洋一編 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300 
  • 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 


外部リンク

公職
先代
ジョン・マクレガー英語版
イギリスの旗 財務首席政務次官英語版
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次代
ノーマン・ラモント英語版
先代
ジェフリー・ハウ英語版
イギリスの旗 外務英連邦大臣
1989年
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ナイジェル・ローソン英語版
イギリスの旗 財務大臣
1989年 - 1990年
次代
ノーマン・ラモント英語版
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議会
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