松 (松型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松 (駆逐艦)から転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
級名 松型駆逐艦
艦歴
発注 1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画
起工 1943年8月8日[1]
進水 1944年2月3日[1]
竣工 1944年4月28日[1]
最期 1944年8月4日聟島沖にて戦没
除籍 1945年10月25日
要目
基準排水量 1,262t
公試排水量 1,530t
全長 100.00m
最大幅 9.35m
吃水 3.30m
ボイラー ロ号艦本式缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸
出力 19,000hp
速力 27.8kt
燃料 重油370t
航続距離 18ktで3,500
乗員 211名
兵装
テンプレートを表示

(まつ)は大日本帝国海軍駆逐艦[2]松型駆逐艦(一等駆逐艦松型)(丁型)の1番艦[3][4]。 日本海軍の艦名としては樺型駆逐艦[5]に続いて2代目である[6]舞鶴海軍工廠1943年(昭和18年)8月上旬から1944年(昭和19年)4月末にかけて建造された[1]。起工から竣工まで約8ヵ月であった[7]。竣工後、小笠原諸島や硫黄島方面への護衛任務に従事する[8]。 同年8月4日、小笠原方面船団護衛中に米軍機動部隊の水上艦艇(巡洋艦、駆逐艦)と交戦、撃沈された[9]スカベンジャー作戦[10]。竣工してから約3ヵ月の艦歴であった[8]

艦歴[編集]

竣工まで[編集]

駆逐艦(まつ)は[6]、丁型駆逐艦[11]の第5481号艦として舞鶴工廠で建造された[12]

1943年(昭和18年)8月8日[7]、起工[13] [注 1]。 同年12月22日、命名[2]。同日付で艦艇類別等級の「駆逐艦一等」の部中に松型が新設され、その1番艦に定められる[4]1944年(昭和19年)2月3日に進水し[17]、本籍を舞鶴鎮守府に定められる[18]3月4日、舞鶴海軍工廠の松艤装員事務所は、事務を開始した[19]3月25日、松・冬月の艤装が急がれる中、舞鶴海軍工廠では松型4番艦「」が進水する[20][21] [注 2]。 同25日付で、米井垣雄少佐[注 3]は松艤装員長に任命される[28]。 4月27日付で米井少佐は本艦初代駆逐艦長に任命された[29]。 4月28日、竣工[25][30]。 同28日付で、松艤装員事務所は撤去された[31]

訓練部隊の第十一水雷戦隊[注 4]に編入され、5月1日に舞鶴を出港してに移動し、十一水戦各艦(名取、長良、清霜、冬月、清霜、夕凪)等と内海西部で訓練をおこなった[33][注 5]

護衛作戦[編集]

サイパン島増援作戦[編集]

6月2日付で松駆逐艦長は、米井少佐から吉永源少佐[36](駆逐艦天霧沈没時の艦長[37][38])に交代した[注 6]

「松」が内海西部で訓練中の6月15日、アメリカ軍はサイパン島に上陸を開始、サイパン島地上戦がはじまった[41]6月17日大本営陸海軍部が合意したサイパン島への増援輸送計画を「イ号作戦」と呼称する[42][43]第46師団隷下で北九州所在の歩兵第145連隊(長 池田増雄陸軍大佐)を、扶桑型戦艦「山城」と第五艦隊などでサイパン島に投入すると決定した[42][44]。 同17日夜、連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将)は第五艦隊司令長官志摩清英中将に対し、第五艦隊の横須賀集結を命じた[注 7][注 8]

6月18日、サイパン島地上戦の戦局悪化にともない、東條英機総長は「イ号作戦」を拡大し、さらなる増援部隊の投入を企図した[49]。イ号作戦の歩兵第145連隊に加え、中国大陸所在の第9師団第68旅団などを追加派遣することに決定し[50][51]、陸軍部隊の輸送を「山城」と第五艦隊および十一水戦や内地所在艦船が担任することになった[52][53]6月19日、大本営はサイパン救援作戦を具体化していた[注 9]。確保任務を「イ号作戦」、撃滅任務を「ワ号作戦」、全作戦を「Y作戦」と呼称した[54][55]。 陸軍は「イ」号作戦計画として大陸命第1031号(昭和19年6月19日)により、歩兵第145連隊などを第31軍に編入した[56][57]

「松」は6月18日まで瀬戸内海方面で慣熟訓練を行った後[58]、十一水戦僚艦(長良、清霜)とともに横須賀に回航された[59]。同海軍工廠で「松」は機銃を増設、上陸作業用の十m運貨筒を搭載した[60]。吉永少佐(元天霧艦長)と共に内地に帰還した志賀博大尉(旧姓保坂、元天霧水雷長)によれば[37]、「松」と「竹」は横須賀海軍工廠ポンツーンで艤装工事を行っており、吉永は松駆逐艦長として、志賀は竹艤装員[38](竣工後は竹水雷長)として、隣同士の艦に着任したという[61]。 本作戦関係で横須賀海軍工廠が大発動艇搭載工事もしくは機銃増備工事を実施した艦船は[62]、戦艦「山城」、重巡「那智」と「足柄[63]、軽巡「木曾」と「多摩[64]一水戦(旗艦〈阿武隈〉、第7駆逐隊〈〉、第18駆逐隊〈不知火薄雲〉)[65]、第21駆逐隊(若葉初春[66]、十一水戦(軽巡長良[67]、駆逐艦冬月清霜)、その他(皐月旗風八十島千鳥、海防艦と輸送艦複数隻)であった[注 10][注 11]

上記のようにサイパン島増援作戦を具体的に検討していた日本軍上層部だが、第一航空艦隊第一機動艦隊は6月19日から20日のマリアナ沖海戦で惨敗した[70][71]。日本海軍の大敗北により[72]サイパン島増援作戦成功の見込みがなくなり、各部は急速に熱意を失った[73][74]嶋田繁太郎軍令部総長[75]大西瀧治郎中将や神重徳大佐等はサイパン増援を諦めておらず、神大佐は「自分を山城艦長にしてほしい。自分がサイパンに行ってのしあげ、砲台代りになって戦闘する」と訴えた[76]。これら多方面からの強硬意見に対し[77]、連合艦隊は消極的であった[78][79]。 制空権確保の見通しもたたなかった[80]。大本営海軍部は、作戦可能の水上・航空兵力を全て投入するサイパン奪回作戦「甲案」と、サイパン増援の断念と後方地帯強化に着手する「乙案」を準備した[81]。 6月25日に昭和天皇が臨席した元帥会議で[82]、サイパン島救援作戦は正式に中止された[83][84][注 12]

硫黄島方面作戦[編集]

サイパン島救援作戦の中止により[86]、同島救援作戦のため準備されていた陸軍部隊は各地に転用された[87]。歩兵第145連隊などが小笠原諸島や硫黄島に転用された[88][89][注 13]。 十一水戦(長良、冬月、松、清霜)、第五艦隊の軽巡2隻(木曾、多摩)[92]中部太平洋方面艦隊の駆逐艦2隻(皐月夕月)、海上護衛総司令部部隊の駆逐艦2隻(旗風汐風)、第21駆逐隊(若葉、初霜)[66]および輸送船と高速輸送艦で[93]、小笠原諸島や硫黄島への増援輸送を実施することになった[注 14]。 本作戦は「伊号作戦」と呼称され[95]、第十一水雷戦隊司令官が指揮をとる[96]。第五艦隊は輸送任務を解除され[97]、北方にもどった[98][注 15]

6月28日早朝、輸送船「能登丸」は横須賀を出港して硫黄島にむかい[100]、同船を若葉指揮下の駆逐艦が護衛する[注 16]6月29日、4隻(長良[67]、冬月、松、第4号輸送艦)も横須賀を出撃した[103]30日未明、「能登丸」は父島に到着して揚陸を開始[104]、後続部隊も順次到着した[105]。 陸軍部隊は駆逐艦、輸送艦、機帆船で硫黄島へ進出した[注 17]。 任務終了後、十一水戦の大部分は7月2日-3日にかけて横須賀へ帰投した[107]。内地帰投後、「松」は横須賀鎮守府横須賀防備戦隊甲直接護衛部隊に編入された[108][109]

7月3日から4日かけて、アメリカ海軍機動部隊は小笠原諸島や硫黄島を襲撃し[110]、同方面の航空戦力や所在艦船は大損害をうけた[111][10] [注 18]。 同方面の重要性は、大本営海軍部も深く認識していた[116]。 7月6日、「松」は硫黄島への輸送任務に向かう第4号輸送艦の護衛に指定され[117]同日横須賀を出撃[要出典]。7月8日、兄島にて航行不能に陥った第153号特設輸送艦を神風型駆逐艦「旗風」が曳航するのに伴い、第4号輸送艦とともに硫黄島での揚搭作業終了後これの護衛に当たるよう指示される[118]。この際、「旗風」からは近海で活動する6潜水艦を懸念して横須賀防備戦隊司令部に対して更に護衛艦2隻の増派が要求されていたが[119]、修理や当面の任務作戦実施上の都合から増派不可能との返答がなされている[120]。7月12日、「松」ら2隻の護衛のもと、「旗風」は館山 に到着、曳航した第153号特設輸送艦を仮泊させた[121]

7月8日、第二護衛船団司令官清田孝彦少将は呉防備戦隊司令官へ転任した[122]高橋一松少将[123](海兵40期)[注 19]が第二護衛船団司令官となる[122]。 同8日、大本営海軍部はひきつづき小笠原諸島方面輸送の重要性を強調した(大海指第420号)[125]15日、日本海軍は秋月型駆逐艦「霜月」と「冬月」により第41駆逐隊を、松型4隻(、松、)により第43駆逐隊を、それぞれ編制する[126][127]。第41駆逐隊司令には脇田喜一郎大佐、第43駆逐隊司令には菅間良吉大佐が任命された[128][注 20]

7月16日、駆逐艦2隻(松、旗風)、第4号輸送艦、第204号特設輸送艦および第152号特設輸送艦とともに同日編成された『第三七一八船団』の甲分団に組み込まれ[129]、7月18日に横須賀を出撃し硫黄島への輸送任務に就いた[130]

沈没[編集]

7月23日、大本営海軍部は大海指第433号により[注 21]連合艦隊の空母「瑞鳳[132]第三航空戦隊)と第十戦隊所属の第61駆逐隊初月秋月)および第4駆逐隊野分山雲)をもって、小笠原諸島輸送作戦の護衛協力を命じた[注 22]。 「瑞鳳」は本来の搭載航空隊ではなく、対潜哨戒を主目的とする第九三一海軍航空隊より九七式艦上攻撃機 12機を受け入れた[134]。 7月25日、「松」は上記の「瑞鳳」と護衛の駆逐艦4隻、丁型海防艦2隻(第4号第12号)および第二護衛船団司令部とともに横須賀防備戦隊乙直接護衛部隊に編入された[135]。 7月28日19時46分、大本営は大海指第437号により「瑞鳳隊の護衛期間は、小笠原方面輸送船団の小笠原到着まで」と下令した[注 23]。 7月29日、「松」は第二護衛船団司令部(司令官高橋一松少将)[122]旗艦として、『第三七二九船団』を指揮する[136]。駆逐艦「旗風」、第4号海防艦第12号海防艦第51号駆潜艇と、陸軍部隊[注 24]を乗せた輸送船5隻を護衛し、館山を出港して父島へ向かった[138][139]硫黄島の戦いに備え、硫黄島の戦力を増強するための輸送作戦である[140]

第四八〇四船団(「松」沈没時)[137]
  • 昌広丸(石原汽船、4,739トン)
  • 利根川丸(松岡汽船、4,997トン)
  • 延寿丸(岡田商船、5,374トン)
  • 第七雲海丸(中村汽船、2,182トン)
  • 龍江丸(大連汽船、5,626トン)
  • 護衛:松 旗風 第4号海防艦 第12号海防艦 第51号駆潜艇[9][141]

同時期、アメリカ海軍機動部隊は小笠原諸島に接近していた[142][10]。 8月2日、日本軍輸送船団は父島に入港した[136][143]。続いて8月3日、硫黄島へ進出した[144][145]。 『第四八〇四船団』と改称後[146]8月4日午前8時に父島を出航した[注 25]。 しかし、10時30分に父島北西20海里の地点にさしかかったところで、スカベンジャー作戦のため来襲した第58任務部隊(司令官マーク・ミッチャー中将)の艦上機に発見された[148]

一部資料では、米軍は暗号解読により空母「瑞鳳」が小笠原諸島方面を行動していると判断し[149]、「瑞鳳」を仕留めるために行動していたとする[145][146]。 前述のように「瑞鳳」は7月下旬の大海指第433号にもとづき[131]、駆逐艦4隻(初月、秋月、山雲、野分)を連れて、「松」が護衛する第三七二九船団部隊の対潜護衛任務に従事していた[150]。8月2日、横須賀に帰投した[151]。 同2日付で、瑞鳳隊は直接護衛部隊から除かれていた[152]。 翌3日、大海指第442号により[注 26]第九三一海軍航空隊より借りていた九七艦攻12機[154]のうち10機(事故で2機喪失)[146]を返却した[155]

8月4日、第一空母部隊(ホーネットIIフランクリンカボット)と第二空母部隊(バンカー・ヒルレキシントンIIサン・ジャシント)から攻撃隊が発進した[156]。第4804船団にも米軍機動部隊接近の報告は入っていたが、「我々(第4804船団)を見間違えたのだろう」「敵機は父島を空襲するから、一刻も早く北上せねばならない」という空気だったという[157]。 米軍機動部隊より飛来した艦載機は、二波に分かれて第四八〇四船団部隊を襲った[148]。 「松」は第一次空襲で5機撃墜を報じた[158]。だが数次に亘る空襲により、第四八〇四船団部隊および父島在泊艦艇は大損害を受けた[159][160]。 健在艦は「松」と第4号海防艦(至近弾と機銃掃射により浸水被害、戦死4、負傷21)[161]、「利根川丸」を残すのみとなり、損傷した第12号海防艦(戦死6、負傷50)は別途で横須賀に向かっていた[156][162][注 27]

ミッチャー中将は日本軍輸送船団を全滅させるために、クリーブランド級軽巡洋艦ビロクシ」(USS Biloxi, CL-80)、「モービル」 (USS Mobile, CL-63)、「サンタフェ」(USS Santa Fe, CL-60)の大型軽巡3隻および駆逐艦12隻の混成部隊(L・デュ・ボース少将、米第13巡洋艦隊)を分離させて、第四八〇四船団部隊が彷徨っている海域に急行させた[149][164]。 米艦隊の行動は[165]、日本側も観測していた[166]。また第四八〇四船団部隊からは、水平線上に敵空母と艦上機が着艦する様子が見えたという[167]

8月4日18時30分、「松」は砲撃を受けたことを報告した[168]。米軍巡洋艦部隊に追いつかれた第四八〇四船団は利あらずと更なる退却を続けていたが、第4号海防艦と「利根川丸」を逃がす為、高橋少将(松座乗)は『四号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ』と命令する[169][161]。「松」は反転すると、単艦でデュ・ボース少将の艦隊を迎撃していった[170]。19時以降、巡洋艦および駆逐艦10隻と交戦中と打電した[147][171]。交戦地点は聟島の南西約20kmであった[172]

「松」は第4号海防艦に対し『われ、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す』[注 28][注 29]と最後の打電をおこなう[161]。この後、「松」は消息不明となった[147][175]。 第4号海防艦と「利根川丸」は離脱中にサイパン島から飛来したB-24型重爆の夜間空襲をうけ[173]、「利根川丸」は被弾して沈没した[176][177]。 「松」乗組員は吉永艦長以下全員が戦死し[178]、高橋少将以下第二護衛船団司令部員全員もこれに殉じた[147](米側によれば松乗組員6名を救助)。その最後の戦いの詳細は不明であるが、アメリカ側の記録では、聟島北東25海里地点で、モービルが指揮下の駆逐艦とともに「松」と「利根川丸」を撃沈したとある[178]。 第4号海防艦は三重県鳥羽で燃料を補給し、横須賀に帰投した[179]。第12号海防艦はB-24と応戦しつつ[179]、横須賀へ帰投した[177]。第51号駆潜艇と駆逐艦「旗風」も[9]、内地にたどり着いた[180][136][注 30]

10月10日、駆逐艦「松」は松型駆逐艦[181]、帝国駆逐艦籍[182]、第43駆逐隊[183]のそれぞれから除籍された。

艦名は保安庁警備隊(海上自衛隊)のくす型護衛艦タコマ級フリゲート)「まつ[注 31]に引き継がれた[184]。「まつ」は貸与艦「すぎ」、「にれ」、「うめ」、「かや」と第二船隊を編成した[184]

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 米井恒雄 少佐:1944年3月25日[28] - 1944年4月27日[29]
駆逐艦長
  1. 米井恒雄 少佐:1944年4月27日[29] - 1944年6月2日[36]
  2. 吉永源 少佐:1944年6月2日[36] - 1944年8月4日 戦死、同日付任海軍中佐[185]

参考文献[編集]

  • 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『歴史群像太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3
  • 宇野公一(能登丸航海士)「サイパン島へ突撃せよ」『雷跡!!右30度 特攻船団戦記』成山堂書店、1977年7月。
  • 大井篤「第6章 崩れ去る夏の陣」『海上護衛戦』角川文庫(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8
  • 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』海防艦顕彰会/原書房、1982年
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0
  • 木俣滋郎「第8章 護送駆逐艦の登場」『駆逐艦入門 水雷戦の花形徹底研究』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年7月。ISBN 4-7698-2217-0
  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5
    • (38-67頁)当時四号海防艦機雷長・海軍中尉寺島健次『殊勲の丁型四号海防艦 硫黄島出撃記 乗艦十二度に及ぶ出撃で対空対潜対艦戦闘を生き抜いた機雷長の体験
  • 源田實「国運を賭したマリアナ海戦」『海軍航空隊始末記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年12月(原著1962年)。ISBN 4-16-731003-1
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月(原著1983年)。ISBN 47698-2009-7
    • 実戦即訓練 <海防艦「第四号」艦長・水谷勝二少佐の証言>(太平洋戦争時、駆潜艇3号艇長、海防艦第4号艦長、潜水母艦「駒橋」艦長等)
  • 駆逐艦「天霧」先任将校志賀博「雑木林の真価」『海軍兵科将校』光人社、1985年3月。ISBN 4-7698-0264-1
  • 志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7
    • 元三十五突撃隊・海軍二等兵曹正岡勝直『されど"雑木林艦隊"恥ずることなかれ 雑木林といわれた松型十八隻、橘型十四隻、樅型三隻、若竹型六隻の闘魂
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8
  • 戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 多田実『何も語らなかった青春「学徒出陣五十年、歴史を創ったわだつみの若者たち」』三笠書房、1993年
  • 谷三郎『日本の海軍力』朝日ソノラマ、1989年5月。ISBN 4-257-17216-9
  • 豊田副武『最後の帝国海軍 軍令部総長の証言』中央公論社社〈中公文庫〉、2017年7月。ISBN 978-4-12-206436-2
  • 福井静夫福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』第5巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで』第6巻、朝雲新聞社、1967年7月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦<2> ペリリュー・アンガウル・硫黄島』第13巻、朝雲新聞社、1968年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<6> ―第三段作戦後期―』第45巻、朝雲新聞社、1970年4月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<8> ―昭和十九年七月まで―』第75巻、朝雲新聞社、1974年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<9> ―昭和二十年一月まで―』第81巻、朝雲新聞社、1975年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。
  • 松永市郎『思い出のネイビーブルー 私の海軍生活記』光人社〈光人社NF文庫〉、1994年2月。
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6
    • 当時艦政本部部員・海軍技術中佐遠山光一『マスプロ防空駆逐艦"松型"の誕生と背景 駆逐艦発達史の中に位置づけた丁型=松型十八隻と橘型十四隻の新機軸
    • 戦史研究家伊達久『丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ 松型十八隻と橘型十四隻の太平洋戦争
  • 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史2 史料の精査と傍証の積み重ねで解き明かす定説の真偽と知られざる逸話の実相』第51巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2005年8月。ISBN 4-05-604083-4
  • 歴史群像編集部編『帝国海軍真実の艦艇史3 「妙高」型、「初春」型の改装と最期艦載兵装の変遷』第57巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2007年1月。ISBN 4-05-604599-2
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年9月~12月 達/12月』。Ref.C12070121100。
    • 『昭和18年11月~12月 内令5巻/昭和18年12月(4)』。Ref.C12070182900。
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(2)』。Ref.C12070194500。
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。Ref.C12070195500。
    • 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(2)』。Ref.C12070497400。
    • 『昭和18年8月1日~昭和18年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030356900。
    • 『昭和18年9月1日~昭和18年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030357000。
    • 『昭和19年1月1日~昭和19年1月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030359900。
    • 『昭和19年2月1日~昭和19年2月29日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030356000。
    • 『昭和19年3月1日~昭和19年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030357500。
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030357600。
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年5月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030357700。
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030329700。
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030086600。
    • 『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030145900。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050800。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030050900。
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(3)』。Ref.C08030137500。
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(4)』。Ref.C08030137600。
    • 『第931海軍航空隊戦時日誌 自昭和19年7月1日至昭和19年7月31日』。Ref.C13120406000。
    • 『第931海軍航空隊戦時日誌 自昭和19年8月1日至昭和19年8月31日』。Ref.C13120406100。
    • 『昭和19年8月4日~昭和19年8月5日 父島方面特別根拠地隊戦闘詳報 第4号』。Ref.C08030275300。
    • 『第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030127100。
    • 『第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1))』。Ref.C08030127400。
    • 『第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2))』。Ref.C08030127500。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030127600。
    • 『横須賀防備戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 横須賀防備戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年1月31日 横須賀防備戦隊戦時日誌(2))』。Ref.C08030363400。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 当時の舞鶴工廠は、夕雲型駆逐艦3隻(浜波早波早霜《345号艦》)、秋月型駆逐艦「冬月《361号艦》」等の建造、損傷艦(不知火初春太刀風長波大波巻波名取長良秋風木曾《11月10日到着》)等の修理を抱えていた[14][15][16]
  2. ^ また秋月型12番艦「花月[22]や松型8番艦「[23]、同型11番艦「[24]の建造も始まっている[21][25]
  3. ^ 米井垣雄少佐は、重巡洋艦加古水雷長[26]、駆逐艦艦長[27]等を歴任した。
  4. ^ 十一水戦司令官は高間完少将海軍兵学校41期[32]
  5. ^ 軽巡「名取」は第三水雷戦隊旗艦となるため6月5日に呉を出発、ダバオにむかった[34]。「夕凪」は「名取」と行動を共にしたあと、6月18日より機動部隊補給部隊としてマリアナ沖海戦に参加した[35]
  6. ^ 後日、米井少佐は松型9番艦駆逐艦長に任命され(9月4日付で艤装員長[39]、9月7日付で駆逐艦長[40])、同艦沈没時(1945年1月5日)に戦死した。
  7. ^ 6月17日23時4分(連合艦隊電令作第176号)[45]第五艦隊〔二一戦隊、一水戦、二一駆逐隊(護衛終了後)帝洋丸〕ハ速ニ横須賀ニ集結「マリアナ」方面ニ対スル作戦準備ヲ完成スベシ 
  8. ^ 第五艦隊[46](那智〈第五艦隊旗艦〉、足柄、木曾、多摩、阿武隈〈一水戦司令官木村昌福少将〉、第7駆逐隊〈潮、曙〉、第18駆逐隊〈不知火、霞、薄雲〉、帝洋丸)は6月19日大湊発、21日横須賀着[47]。第21駆逐隊(若葉、初春)は24日横須賀着[47]。「初霜」は機動部隊補給部隊のためマリアナ沖海戦に参加しており、別行動[48]
  9. ^ 「マリアナ」ニ対スル作戦方針不変 陸海軍一致/「イ号」第五艦隊海上兵力ヲ以テ殴リ込ミ(第一次)三日経テ陸軍ノ資材送リ込ミ(第二次)両者合シテ帰還ス/攻勢骨幹兵力ノ注入(二ヶ師団ト一会戦分)主力釜山、一部瀬戸内海(「ワ」号作戦)海軍ハ出来ル丈ノ協力ヲスル 総攻撃ノ開始ハ七月上旬トナルベシ/以上ノ間海軍ノ主担任 1 敵ノ増援遮断 2 地上直協 3 兵力輸送護衛 全作戦ヲY作戦ト呼称ス/「イ」号ハ決行ノ決心アリ「ワ」号ハ準備ニカカルコト[45] 
  10. ^ 福井静夫(海軍技術少佐、艦艇研究家)『日本駆逐艦物語』265頁掲載の「あ号作戦後の兵装増備の調査状況/◇各艦機銃、電探、哨信儀等現状調査表(作成・海軍技術少佐福井静夫)」では「艦名/松、調制工廠/横須賀、調査年月日/19-8-20」と記述している[68](松は8月4日沈没)。
  11. ^ 大発動艇の搭載隻数は、山城は大発6隻、那智と足柄は中発動艇各2隻、軽巡3隻(阿武隈、長良、多摩)は各艦中発1隻と小発動艇1隻、木曾は小発(小発動艇)1隻、鹿島は中発4隻、香椎は中発2隻、駆逐艦は小発2隻または1隻であった[69]
  12. ^ サイパン奪回作戦の兵団長となるはずだった長勇陸軍少将は、第32軍参謀長として沖縄にむかった[85]
  13. ^ 大陸命第1038号(6月22日)により小笠原兵団は大本営直属となり[90]、歩兵第145連隊、独立速射砲大隊、中迫撃砲第三大隊、戦車第26連隊が小笠原兵団(長 第109師団長栗林忠道中将)に編入された[91]
  14. ^ (6月24日、中澤佑軍令部第一部長より草鹿龍之介連合艦隊参謀長へ)「今次横須賀方面ニ準備セル陸軍部隊ハ其ノ儘 父島及硫黄島ニ増強ノ事ニ手配中ナリ/右輸送ニハ第十一水雷戦隊、木曾、多摩、第二十一駆逐隊、皐月、旗風、汐風、第四号輸送艦及SB艦三隻充当ノ事トシ準備中ニテ 第一次部隊ハ二十六日頃出撃可能ノ見込ニ付然ルベク取計ハレ度」[94]
  15. ^ 〔(二)經過(中略)(6)[99] 二十七日 聯合艦隊電令作第二〇九號ニ依リ十八駆ノ二艦 伊號輸送第三輸送隊(二十一駆 能登丸 其ノ他)往航時東京湾乃至青ヶ島間対潜前路哨戒ニ任ズルコトトナリ不知火霞ヲ之ニ指定ス/同日更ニ聯合艦隊電令作第二一〇號ニ依リ第五艦隊ノ大部ハ原配備ニ復スルコトトナリ機密北方部隊命令特第三九號ニ依リ阿武隈ハ横須賀ニ於テ豫テ上申中ナリシ二號二型電波探信儀新設工事ニ從事セシメ将旗ハ二十八日薄雲ニ移揚 七駆ヲ併セ率ヰ帝洋丸ヲ護衛シ大湊ニ回航三十日二一〇〇着 十八駆(薄雲欠)ハ前述任務終了後二十一戰隊一小隊ト共ニ二十九日東京湾発大湊ニ進出中ナリ 〕
  16. ^ 出港時は駆逐艦複数隻(若葉、初春、夕月、旗風、汐風、不知火、霞)だったが[101]、18駆(不知火、霞)の護衛は途中までだった[99]。帰路の「能登丸」を護衛していたのは2隻(旗風、汐風)だったという[102]
  17. ^ (昭和19年7月)[106](4日)〔 0345|父島ニ対シ連続延200機多数ノ空襲アリ 兄島南西岸滝ノ浦ニ避泊シアリタルT×6ハ敵(飛行機)ノ反覆爆撃ヲ受ク|太平洋|五隻(計約一万屯)及護衛艦猿島(横鎭附)ch16(2chg)沈没或ハ炎上 〕〔 硫黄島増強ノ陸軍兵力輸送ニ任ジタル「イ」号輸送隊ノ大部ハ横須賀ニ帰投 残ル清霜(11Sd/GF)、夕月(30dg) 皐月(22dg)モ横須賀ニ向ケ北上中ノ處今朝0640頃ヨリ西ノ島北西方ニ於テ敵艦上機ノ解接攻撃ヲ受ケタル模様/硫黄島ニ輸送スベキ兵力ハ特設輸送艦三隻ヲ以テ父島 硫黄島間往復輸送中|太平洋|現在迄ニソノ過半ヲ送リ込ム 〕〔 敵KdBハ敵(飛行機)ノ来襲方向ヨリ判断スルニ硫黄島ノ北東方 母島ノ南東方海面ニ行動中ノ算大|太平洋| 〕
  18. ^ 7月4日、父島への空襲で内地帰投中の3隻(清霜、夕月、皐月)のうち「皐月」が小破[112]、第103号輸送艦が沈没[113]、第153号輸送艦が座礁した[114]。同4日、硫黄島への空襲で第130号輸送艦が沈没した[115]
  19. ^ 高橋少将は、吹雪型駆逐艦初代駆逐艦長[124]等を歴任していた。同期の将官は海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#40期参照。
  20. ^ 脇田大佐、菅間大佐とも、陽炎型駆逐艦「雪風」駆逐艦長を務めた経歴を持つ。
  21. ^ 大海指第四百三十三号 昭和十九年七月二十三日 軍令部総長 嶋田繁太郎 及川海上護衛司令長官 豊田聯合艦隊司令長官ニ指示 一 聯合艦隊司令長官ハ第三航空戦隊ノ一艦及警戒駆逐艦適宜ヲシテ 作戦ニ関シ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ承ケシムルモノトス/二 海上護衛司令長官ハ前項航空母艦ニ第九三一海軍航空隊飛行機隊ノ一部ヲ搭載ノ上 七月二十九日頃小笠原諸島ニ向ケ東京湾発予定ノ船団警戒ニ従事セシムルモノトス(大海機密第二二三一三〇九番電) [131]
  22. ^ 〔 (イ)南方諸島緊急作戰輸送ヲ左ニ依リ實施ス[133](一)(略)/(二)二十三日南方諸島ニ對スル緊急増勢部隊輸送ノ爲第二護衛船團司令部ヲ横鎮護衛部隊ニ編入シ之ガ護衛強化ノ爲聯合艦隊ヨリ第三航空戰隊ノ空母瑞鳳及警戒驅逐艦ヲ横鎮部隊ニ編入ス 〕、同戦時日誌 pp.55-56〔 二三(略)第三航空戰隊ノ一部(瑞鳳)及警戒驅逐艦(初月秋月山雲野分)ヲシテ作戰ニ關シ當司令長官ノ指揮ヲ受ケシメラル 〕-〔 二四(略)第三航空戰隊ヨリ派出ノ航空母艦及同警戒驅逐艦ヲ横鎮司令長官ノ指揮下ニ入ル 第二護衛船團司令部ヲ附属部隊ヨリ除キ横鎮護衛部隊ニ編入ス 〕。
  23. ^ 大海指第四百三十七号 昭和十九年七月二十八日 軍令部総長 嶋田繁太郎 及川海上護衛司令長官 豊田聯合艦隊司令長官}ニ指示/一 大海指第四百三十三号ニ依ル第三航空戦隊ノ一艦及警戒駆逐艦ニ対スル海上護衛司令長官ノ作戦ニ関スル指揮ハ被護衛船団父島到着ノ時機ヲ以テ之ヲ解ク/二 海上護衛司令長官ハ前項航空母艦ニ搭載中ノ第九三一海軍航空隊飛行機隊ノ一部ヲシテ 作戦ニ関シ同艦艦長ノ指揮ヲ承ケ帰投時ノ対潜警戒ニ従事セシムルモノトス[131](大海機密第二八一九四六番電)
  24. ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』475頁では「独立混成第17連隊の第3大隊、1036名」と記述する[137]
  25. ^ (戦闘概報)[147] 二十八日〇八一五横鎮(長官)(宛略)機密第二八〇八一五番電 第四八〇四船団(昌元丸 利根川 延壽丸 第七雲海丸 龍江丸 護衛艦松、旗風、第四海防艦、一二海防艦 五一駆潜艇)ハ第二護衛船団司令官高橋與松少将(参謀岡乾大佐)指揮ノ下ニ八月四日〇八〇〇父島出港北上中同日一〇〇〇頃ヨリ三次ニ亘リ敵艦上機ノ攻撃ヲ受ケ第一次第二次被害ナカリシモ第三次(一六〇〇-一六三〇)雷爆撃ニ依リ昌元丸 延壽丸 第七雲海丸 龍江丸ハ沈没 利根川丸ハ概ネ北西方向ニ避退シタルガ如キモ其ノ後消息無ク護衛艦モ夫々損傷ヲ受ケ分離 松以外ハ八月六日横須賀ニ帰投セリ 松ハ同日一八三〇敵巡洋艦 駆逐艦一〇隻ト交戰中ナル電ヲ発セル後消息不明ナリ其ノ後艦艇航空機ヲ以テ捜索セル處 五二駆潜艇及第二関丸ガ八月七日聟島ノ三四二度五浬附近ニテ沈没船四隻ノ遭難者ヲ発見救助セルモ松 利根川丸ニ関シテハ今迄ノ處全ク得ル處無ク敵水上艦艇トノ果敢ナル交戰亦ハ翌朝空襲ニ依リ沈没全員壮烈ナル戰死ヲ遂ゲタルモノナリ 〕
  26. ^ 大海指第四百四十二号 昭和十九年八月三日 軍令部総長 及川古志郎 豊田聯合艦隊司令長官 野村海上護衛司令長官}ニ指示 大海指第四百三十七号第二項ニ依ル第三航空戦隊航空母艦長ノ第九三一海軍航空隊飛行機隊ノ一部ニ対スル作戦指揮ヲ解ク(大海機密第〇三一六一一番電)[153]
  27. ^ 第12号海防艦乗組員によれば[163]、死傷者が続出したため一旦父島に引き返し、また船団に戻ってきたという。
  28. ^ 第四号海防艦の別記録では「四海防、四海防……ワレ敵巡洋艦ト交戦中。只今ヨリ反転コレニ突撃……」と打電し、炎上した[173]
  29. ^ 当時、軽巡名取通信長だった松永市郎が名取で受信した電文によれば、「吾、敵攻略部隊の包囲を受く、只今より突撃す」[174]
  30. ^ 8月4日、硫黄島空襲により第152号輸送艦が沈没し、第133号輸送艦が大破した[114]。8月5日、父島では空襲と艦砲射撃により第2号輸送艦第4号輸送艦が沈没した[114]
  31. ^ アメリカ海軍から1953年(昭和28年)1月14日に貸与されたフリゲート艦「シャーロッツビル」である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 舞廠造機 2014, pp. 448a-449舞廠建造艦艇一覧、松(5481)
  2. ^ a b #達昭和18年12月、p.43〔 達第三百十九號 昭和十七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦七隻、海防艦十九隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年十二月二十二日 海軍大臣嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 松(マツ)|(以下略) 〕
  3. ^ 舞廠造機 2014, pp. 291-293帝国海軍駆逐艦・水雷艇建造小史(18)戦時急造艦―松型と同改(丁型)
  4. ^ a b #内令昭和18年12月(4)、p.24〔 内令第二千七百七十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十八年十二月二十二日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦雲龍型ノ項中「天城」ノ下ニ「、葛城」ヲ加フ|驅逐艦、一等ノ部中末尾ニ左ノ一項ヲ加フ | |松型|松| (以下略) 〕
  5. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 294日本海軍駆逐艦艦名一覧/二等駆逐艦/松(I)Matsu
  6. ^ a b 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 291日本海軍駆逐艦艦名一覧/松(II)Matsu
  7. ^ a b 舞廠造機 2014, pp. 292-293.
  8. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, p. 333.
  9. ^ a b c 昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要その9(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年8月1日~19年8月10日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120644600  p.5(19-8-4)〔 父島→横須賀船団(T×5 4000t~5000t級)松 旗風 ch×1 CD×1)1000~1600三次ニ亘リ敵大編隊ノ雷爆撃ヲ受ク 沈没T×2 大破T×1 夕刻.敵C.d.約10隻ト交戦/旗風 ch51 CD12 六日朝横須賀入港/CD4 七日朝横須賀入港 〕
  10. ^ a b c 戦史叢書85 1975, pp. 276a-277米機動部隊の来襲
  11. ^ 戦史叢書88 1975, pp. 52-56駆逐艦(丁)
  12. ^ 戦史叢書88 1975, p. 54第5481号艦 松(まつ)
  13. ^ #S1808舞鎮日誌 p.9〔 (a)新造艦船 濱波、沖波艤装工事ノ促進/第三四五號、第三六一號、第五四八一號(八日起工)各艦ノ建造工事促進 〕
  14. ^ #S1808舞鎮日誌 pp.9-10〔 (b)修理艦船 名取 不知火 初春 巻波 太刀風 長波(七日入港)長良(十六日入港)ノ損傷復舊工事ノ促進指導及大波(十二日入港)鴻(十七日入港)ノ修理工事促進竝ニ呂號三十六、三十七號潜水艦ノ出師準備作業促進指導ニ努メ何レモ豫定通工事進捗シ太刀風ハ豫定通工事完成三十一日出撃セリ 〕
  15. ^ #S1809舞鎮日誌(1) pp.9-10〔 (a)新造艦船 濱波沖波艤装工事ノ促進 第三四五號、第三六一號及第五四八一號各艦ノ建造工事促進第六一號、第四七號驅潜特務艇ノ兵装工事促進何レモ十一日、二十二日完成引渡|(b)修理艦船 名取 長良 不知火 初春ノ損傷復舊工事ヲ初メ巻波 長波 秋風(九日入港)掃二十四(二十三日入港)大波 鴻 潜二十二(十七日入港)ノ修理工事促進竝ニ呂三六、呂三七潜水艦ノ出師準備作業促進指導ニ努メ何レモ豫定通工事進捗シ長波、呂三六潜五日、大波七日、巻波十五日、鴻十七日、呂三七潜二十二日工事完成出撃セリ』
  16. ^ #S1904舞鎮日誌p.9『(b)損傷艦船 長良 損傷復舊竝ニ改装工事四月二十日完成/名取 〃 四月二十七日完成 〕
  17. ^ #S1902舞鎮日誌 pp.8-9〔 (2)重要ナル艦船兵器ノ造修(a)新造艦船 早霜 二月二十日完成引渡ヲ了ス/冬月 一月二十日進水艤装中/松 二月三日進水艤装中(略)|(b)損傷艦船 名取一九.五末 木曾一九.三末完成豫定ヲ以テ損傷復舊工事中木曾兵装公試終了損傷復舊工事概ネ完了/掃二十二損傷復舊ノ爲二月二十七日入港 〕
  18. ^ #内令昭和19年2月(2) p.6〔 内令第二百九十五號 驅逐艦 松 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル 昭和十九年二月三日 海軍大臣嶋田繁太郎 〕
  19. ^ 昭和19年3月15日 海軍公報(部内限)第4641号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C12070459600 〔 ○事務開始 京城海軍監督官事務所ハ一月十五日京城在勤海軍武官府内ニ於テ事務ヲ開始セリ|松艤装員事務所ハ三月四日舞鶴海軍工廠内ニ於テ事務ヲ開始セリ|霜月艤装員事務所ハ三月五日長崎市飽ノ浦町海軍艦監督官事務所内ニ於テ事務ヲ開始セリ|第二百三十五設營對設立事務所ハ三月八日舞鶴海軍施設部内ニ於テ事務ヲ開始セリ 〕
  20. ^ 舞廠造機 2014, pp. 448b-449舞廠建造艦艇一覧、桃(5484)
  21. ^ a b #S1903舞鎮日誌 p.8〔 (a)新造艦船 冬月、松 艤装中/桃 三月二十五日進水 艤装中/第三六六號艦 第五四八八號艦}船臺ニ在リ船殻工事中(以下略) 〕
  22. ^ 舞廠造機 2014, pp. 446-447舞廠建造艦艇一覧、花月(446)
  23. ^ 舞廠造機 2014, pp. 448c-449舞廠建造艦艇一覧、槇(5488)
  24. ^ 舞廠造機 2014, pp. 448d-449舞廠建造艦艇一覧、檜(5492)
  25. ^ a b #S1904舞鎮日誌 p.8〔 (a)新造艦船 松 兵装艤装竝ニ諸公試験完了四月二十八日引渡ヲ了ス/冬月 艤装中/桃 同/第三六六號艦 第五四八八號艦}船臺ニ在リテ船殻工事中/第二四三一號艦四月一日、第五四九二號四月十日起工(以下略) 〕
  26. ^ 昭和16年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第695号 p.10」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800 
  27. ^ 昭和19年3月1日(発令3月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1351号 p.36」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096300 
  28. ^ a b 昭和19年3月25日(発令3月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1391号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096900 
  29. ^ a b c 昭和19年4月27日(発令4月27日付)海軍辞令公報(部内限)第1444号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097500 
  30. ^ #S1904舞鎮日誌 p.43〔 二十八(天候略)驅逐艦松竣工引渡 〕
  31. ^ 昭和19年5月6日 海軍公報(部内限)第4682号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C12070459600 〔 ○事務開始(中略)○第八護衛船團司令部ハ四月二十九日海防艦佐渡ニ於テ事務ヲ開始セリ|○事務所撤去 驅逐艦松艤装員事務所ハ四月二十八日之ヲ撤去セリ 〕
  32. ^ 同期の将官は海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#41期参照。第三次ソロモン海戦時の第四水雷戦隊司令官。
  33. ^ #S1812十一水戦(4) p.50〔(四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動 〕
  34. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 462-463.
  35. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 572-573.
  36. ^ a b c 昭和19年6月3日(発令6月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1502号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099400 
  37. ^ a b 昭和19年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1449号 p.39吉永・保坂免職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097900 
  38. ^ a b 昭和19年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1475号 p.32吉永(補横鎮附)、p.33保坂(補竹艤装員)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200 
  39. ^ 昭和19年9月9日(発令昭和19年9月4日付)海軍辞令公報(甲)第1589号 p.10」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900 
  40. ^ 昭和19年9月12日(発令昭和19年9月7日付)海軍辞令公報(甲)第1591号 p.22」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900 
  41. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 459-460サイパン来攻に伴う大本營、聯合艦隊の決戦発動
  42. ^ a b 戦史叢書06 1967, pp. 470-471サイパン増援の検討
  43. ^ 戦史叢書75 1974, pp. 470-472サイパン増援計画とその後の戦況
  44. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 12-14大本營陸軍部と第五艦隊の横須賀召致
  45. ^ a b 戦史叢書12 1968, p. 597.
  46. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 534.
  47. ^ a b 戦史叢書12 1968, p. 598.
  48. ^ 歴群57、真実の艦艇史(3) 2007, p. 159.
  49. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 477a-479奪回作戦(Y号作戦)計画の決定
  50. ^ 戦史叢書06 1967, p. 477b.
  51. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 10-12大本營、サイパン島の放棄を決定
  52. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 596-600サイパン反撃企図とその放棄
  53. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 532-536多摩、木曽の伊号輸送(六月)
  54. ^ 戦史叢書13 1968, pp. 286-289サイパン奪回作戦の中止と小笠原兵団の設置
  55. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 14-17Y号作戦計画と内地残留艦船の応急工事
  56. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 479-481「イ」号作戦部隊の発令
  57. ^ 戦史叢書75 1974, pp. 472-476サイパン島の奪回作戦
  58. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.6
  59. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.17, pp.21
  60. ^ 駆逐艦物語 2016, pp. 273a-274遅すぎた丁型の出現
  61. ^ 海軍兵科将校 1985, pp. 133-134.
  62. ^ 戦史叢書45 1970, p. 17.
  63. ^ 歴群57、真実の艦艇史(3) 2007, p. 104一九年六月の「那智」と「足柄」
  64. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 535.
  65. ^ #S19.04一水戦日誌(3) pp.10-11〔 各艦入港直後ヨリ機銃増備工事竝ニ電探整備ニ着手一両日ヲ以テ之ヲ完了セリ 機銃装備状況左ノ通(増備後ノ全數) 〕
  66. ^ a b 歴群57、真実の艦艇史(3) 2007, p. 154.
  67. ^ a b 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 90.
  68. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 265.
  69. ^ 戦史叢書88 1975, p. 107〔緊急工事の準備指令/打ち合わせの要点〕
  70. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 8-10米軍のマリアナ来攻とわが海空決戦の惨敗
  71. ^ 豊田副武 2017, pp. 154-158兇報来
  72. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 481-484「あ」号作戦の失敗
  73. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 484-485奪回作戦を断念
  74. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 28-30大本營陸軍部熱意を失う
  75. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 21-22嶋田軍令部総長の見解
  76. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 18-21マリアナ沖海戦後の沸騰する議論
  77. ^ 海軍航空隊始末記 1996, p. 306.
  78. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 30-31消極的な聯合艦隊司令部
  79. ^ 豊田副武 2017, pp. 158-161サイパンの悲劇
  80. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 23-25制空権確保対策の要素
  81. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 31-33乙案 ― 後方要域防禦案/甲案を断念す ― 六月二十三日
  82. ^ 戦史叢書37 1970, p. 12.
  83. ^ 戦史叢書81 1975, p. 8サイパン島守備部隊の玉砕
  84. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 34-37元帥会議開かる ― 六月二十五日
  85. ^ 戦史叢書81 1975, p. 27長勇少将の派遣
  86. ^ 戦史叢書85 1975, p. 227a硫黄島の防備強化
  87. ^ 戦史叢書75 1974, pp. 483-487奪回作戦の断念と後方要域の強化
  88. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 485-486奪回作戦部隊の転用と後方要域の強化
  89. ^ 戦史叢書81 1975, pp. 24-25小笠原諸島の防備強化
  90. ^ 戦史叢書13 1968, p. 287.
  91. ^ 戦史叢書06 1967, p. 486.
  92. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 536-537小笠原へ
  93. ^ 戦史叢書85 1975, p. 227b.
  94. ^ 戦史叢書45 1970, p. 56.
  95. ^ 大井篤 2014, pp. 282-283.
  96. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 467-471第十一水戦のイ号、ロ号輸送
  97. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 82-83第五艦隊を北方へ
  98. ^ #S19.04一水戦日誌(3) pp.13-16〔 (三)麾下艦艇ノ行動 〕
  99. ^ a b #S19.04一水戦日誌(3) pp.11-12
  100. ^ 戦史叢書13 1968, p. 289.
  101. ^ 特攻船団戦記 1977, pp. 133-134.
  102. ^ 特攻船団戦記 1977, pp. 136-137.
  103. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.23,45
  104. ^ 特攻船団戦記 1977, p. 135.
  105. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 55-56サイパン増援予定兵力を硫黄島へ
  106. ^ 昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要その9(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年7月1日~19年7月6日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120643800  pp.9-10
  107. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127400, pp.36,45、C08030127500, pp.5
  108. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.5
  109. ^ #S1906横防戦(2)pp.24
  110. ^ 戦史叢書45 1970, p. 57.
  111. ^ 戦史叢書13 1968, p. 290.
  112. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 470.
  113. ^ 昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要その9(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年7月1日~19年7月6日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120643800  p.15(19-7)〔 4|正午頃|第103特設輸送艦ハ父島ノNW100′附近ニテ被爆轟沈セルモノト認ム(父島避退後消息不明ナリシ所 文丸ノ報告ニ依ル)|呉鎭所管| 〕
  114. ^ a b c 戦史叢書85 1975, p. 276b.
  115. ^ 昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要その9(防衛省防衛研究所)第三段 作戦 19年7月1日~19年7月6日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120643800  p.13(19-7)〔 4| |130号特設輸送艦950tハ推進器故障ノ爲硫黄島ニ在泊中ナリシガ敵(飛行機)ノ攻撃ヲ受ク|太平洋 GF附|坐礁沈没 〕
  116. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 377a-379小笠原諸島方面
  117. ^ #S1906横防戦(2)pp.26,27,29
  118. ^ #S1906横防戦(2)pp.33
  119. ^ #S1906横防戦(2)pp.33,34
  120. ^ #S1906横防戦(2)pp.34
  121. ^ #S1906横防戦(2)pp.37
  122. ^ a b c 昭和19年7月14日(発令7月8日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1535号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  123. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 473-477あわれ松の最後
  124. ^ 昭和7年8月25日 官報第1697号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3
  125. ^ 戦史叢書45 1970, p. 377b.
  126. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.63、雨倉, 93ページ
  127. ^ #内令昭和19年7月、p.21〔 内令第八六五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月| |第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃| 〕
  128. ^ 昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  129. ^ #S1906横防戦(2)pp.40,41
  130. ^ #S1906横防戦(2)p.42
  131. ^ a b c 戦史叢書45 1970, p. 378.
  132. ^ 戦史叢書45 1970, p. 67.
  133. ^ #S1811海護総司令部(3) p.46
  134. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 678a-680瑞鳳の小笠原船団護衛(七~八月)
  135. ^ #S1906横防戦(2)p.47
  136. ^ a b c 駆逐艦物語 2016, pp. 273b-274.
  137. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 475.
  138. ^ 『海防艦戦記』690ページ
  139. ^ #S1811海護総司令部(3) p.57〔 二九(略)小笠原方面増勢部隊輸送船團部隊(第二護衛船團《旗艦》松瑞鳳其他)二〇〇〇館山出撃 〕
  140. ^ 日本海防艦戦史 1994, p. 78.
  141. ^ 『海上護衛総司令部戦時日誌』pp,12
  142. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 254a-255米機動部隊南方群島に来襲
  143. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 49-52初めて敵機の洗礼
  144. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 50.
  145. ^ a b 日本海防艦戦史 1994, p. 79.
  146. ^ a b c 日本空母戦史 1977, pp. 678b-680.
  147. ^ a b c d #S1906十一水戦(3) pp.31-32
  148. ^ a b 『海防艦戦記』696ページ
  149. ^ a b 木俣、駆逐艦入門 2006, pp. 331-332.
  150. ^ #S1812第4駆日誌(7) p.8〔 30日/0900出港瑞鳳護衛 〕、p.13〔 29日1353瑞鳳/瑞鳳61dg(涼月若月欠)4dg(山雲野分)ハ30日0900横須賀発概ネ船団ノ50浬圏内ヲ機宜行動船団行動変化ナケレバ左ノ如ク行動ス(略) 〕、#S1907十戦隊日誌(1) p.5〔 (2)野分、山雲 山雲入渠セザリシ外両艦共27日迄ノ経過概ネ満潮ト同断28日横鎮乙直接護衛部隊ニ編入30日初月秋月ト共ニ瑞鳳警戒艦トシテ父島方面ニ向ケ横須賀発輸送ノ護衛ニ任ズ 〕
  151. ^ #S1907十戦隊日誌(2) p.3〔 (ロ)第六十一駆逐隊(1)初月秋月 二日附乙直接護衛部隊ヨリ除カレ第二遊撃部隊ニ編入瑞鳳ヲ警戒三日内海西部着… 〕、同部隊戦時日誌 pp.4-5〔 (二)第四駆逐隊(1)満潮野分山雲 野分山雲乙直接護衛部隊ニ編入中ノ所二日横須賀着同日附同部隊ヨリ除カレ機動部隊本隊ニ復皈ス尚同日附司令駆逐艦ヲ満潮ニ変更セリ… 〕
  152. ^ #S1907十戦隊日誌(2) p.14〔 二 一〇〇五横鎮長官(宛略)横鎮電令作第五八〇號 瑞鳳第四駆逐隊(満潮缺)第六十一駆逐隊(若月凉月缺)?空艦攻十二ヲ乙直接護衛部隊ヨリ除ク 〕
  153. ^ 戦史叢書45 1970, p. 379.
  154. ^ #S1907九三一航日誌 p.10〔 二十六(天候略)瑞鳳派遣隊進出 九七艦攻十二 〕
  155. ^ #S1908九三一航日誌 p.3〔 三(天候略)瑞鳳派遣隊皈投 艦攻一〇/済州島派遣隊皈投 艦攻五 〕
  156. ^ a b 日本海防艦戦史 1994, p. 80.
  157. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 51.
  158. ^ #父島方面戦闘詳報 p.14〔 四日一二〇二 松(宛略)第一次戰闘ニ於テ敵「グラマン」延五〇機ト交戰五機撃墜確實、駆潜五一爆撃ニ依リ沈没シタルモノノ如ク、其ノ他船団被害ナシ、船団針路三一五度、速力九節ニテ避退中 一二〇二 〕、同部隊戦闘詳報 pp.16-17〔 四日一三四〇 松(宛略)第二次戰闘 一二五五ヨリ一三四〇迄敵戰闘機爆撃機延三〇機ノ攻撃ヲ受ク 戰果被害ナシ 駆潜五一健在ナリ 〕
  159. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 254b-255八月三日~四日
  160. ^ #父島方面戦闘詳報 p.21〔 四日一六四九 松(宛略)第三次戰闘ニ於テ一六〇〇ヨリ一六三五迄ノ間ニ艦爆艦攻延五〇機ノ攻撃ヲ受ケ商船二隻沈没一隻大破敵尚攻撃中 〕、同戦時日誌 pp.31-32〔 五日一八〇五父特根司令官(宛略)戰闘概報其ノ五 〕
  161. ^ a b c 佐藤、艦長たち 1993, p. 498.
  162. ^ 『海防艦戦記』723ページ
  163. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 54b.
  164. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 476.
  165. ^ 戦史叢書85 1975, p. 255八月五日
  166. ^ #S1904呉鎮日誌(5) p.22〔 四日一六三〇中部軍(宛略)父島東方約三十浬ニ敵巡洋艦、驅逐艦約十隻北上中ナルヲ海軍警備隊發見右艦艇ハ明朝〇四〇〇頃東京南方二百浬ニ達スル見込 〕/#父島方面戦闘詳報 pp.19-20〔 四日一六五〇父特根司令官(艦)敵水上艦艇一〇隻九〇度方向ヨリ近接シツツアリ 〕
  167. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 54-57敵は巡洋艦戦隊ふしぎに生命ながらえて
  168. ^ #父島方面戦闘詳報 p.22〔 四日 松(宛略)松機密第〇四一八三〇番電 我敵巡洋艦ノ砲撃ヲ受ク 〕
  169. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 55.
  170. ^ 日本海防艦戦史 1994, p. 82.
  171. ^ #父島方面戦闘詳報 p.2〔 四日 松|四日一九一五父特根司令官 横鎮長官|敵巡洋艦、駆逐艦一〇隻ノ砲撃ヲ受ケ交戰中 〕
  172. ^ #父島方面戦闘詳報 p.22〔 四日一九〇〇聟島見張所|四日二一〇二父特根司令官|聟島見張機密第〇四一九〇〇番電 敵巡洋艦四隻駆逐艦四隻聟島ヨリノ二三〇度二萬米ニテ砲戰味方艦一、炎上シツヽ??(二語不明)全速(以下十一語感ナシ) 〕
  173. ^ a b 海防艦激闘記 2017, p. 57.
  174. ^ 思い出のネイビーブルー 1994, p. 252.
  175. ^ #S1811海護総司令部(4) p.12〔 驅逐艦松(略)四八〇四船團護衛北上中一八三〇「我敵巡洋艦ト交戰中」ノ發信アリタル後消息不明トナル 〕
  176. ^ 『海防艦戦記』696ページ、多田, 86-90頁(四号海防艦所属学徒士官談)
  177. ^ a b 日本海防艦戦史 1994, p. 83.
  178. ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 477.
  179. ^ a b 海防艦激闘記 2017, p. 58.
  180. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 54.
  181. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2)、p.35〔 内令第一一五九號 艦艇類別等級別表中次ノ通改正ス|昭和十九年十月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等長良型ノ項中「長良、」「、名取」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「大鷹、」ヲ、同敷設艦ノ部中「、白鷹」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、朝風」「、夕凪」ヲ、同初雪型ノ項中「、敷波」ヲ、同白露型ノ項中「、五月雨」ヲ、同松型ノ項中「松、」ヲ削ル(以下略) 〕
  182. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2)、pp.36-37〔 内令第一一六五號|呉鎮守府在籍 軍艦 白鷹|佐世保鎮守府在籍 軍艦 大鷹|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 長良、軍艦 名取|右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝風、驅逐艦 五月雨|呉鎮守府在籍 驅逐艦 敷波|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 夕凪|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 松|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和十九年十月十日 海軍大臣 〕
  183. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2)、pp.35-36〔 内令第一一六二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年十月十日海軍大臣|第十九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「、夕凪」ヲ削ル|第四十三驅逐隊ノ項中「松、」ヲ削リ「槇」ノ下ニ「、桐」ヲ加フ 〕
  184. ^ a b 日本の海軍力 1989, pp. 27-28貸与艦艇で発足
  185. ^ 昭和20年10月8日(発令昭和19年8月4日付)海軍辞令公報(甲)第1944号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107900 

関連項目[編集]