楠 (橘型駆逐艦)

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艦歴
計画 1944年(昭和19年)度計画
建造所 横須賀海軍工廠
起工 1944年11月9日
進水 1945年1月8日
就役 1945年4月28日竣工
除籍 1945年10月5日
その後 1947年7月16日英国へ引き渡し
要目(計画値)
排水量 基準:1,262トン
公試:1,530トン
全長 100.00m
全幅 9.35m
吃水 3.30m
主缶 ロ号艦本式缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸 19,000馬力
速力 27.8ノット
航続距離 18ノットで3,500海里
燃料 重油370トン
乗員 211名/329名[1]
兵装 40口径12.7cm単装高角砲 1基
40口径12.7cm連装高角砲 1基
25mm連装機銃 4基
25mm単装機銃 12基
61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)
四式水中聴音機

(くすのき)は日本海軍駆逐艦。仮称5521号艦、橘型(改松型)駆逐艦として横須賀海軍工廠で建造された。

艦名は植物のによる。艦名としては樺型駆逐艦の6番艦「」に続いて2代目。

艦歴[編集]

竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。缶部に不具合があって修理の後[2]瀬戸内海に向かう。大阪湾に到着後、5月11日には大阪港で対空戦闘を行った。その後、「」とともにに回航され訓練に従事する[3]。やがて、第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激となる」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受ける[4]。そこで、6月に入って小浜湾に移動することとなった[5]。7月15日付で特殊警備艦となり舞鶴鎮守府部隊に編入され[6]、7月23日舞鶴に戻り、そのまま終戦を迎えた。同年10月5日除籍。12月1日特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月16日シンガポールイギリスへ引渡された。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』371頁による。

艤装員長[編集]

  1. 河辺忠四郎 大尉 1945年2月20日-

駆逐艦長[編集]

  1. 河辺忠四郎 大尉 1945年4月28日-
  2. 西村徳太 少佐 1945年9月30日-

脚注[編集]

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, pp.37
  2. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, pp.39
  3. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, pp.44
  4. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000, pp.54
  5. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128100, pp.5
  6. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128100, pp.30

参考文献[編集]

  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年五月一日至昭和二十年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030128000
  • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和二十年六月一日至昭和二十年六月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年七月一日至昭和二十年七月十五日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(8)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030128100
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603251-3