山田直輝

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山田 直輝 Football pictogram.svg
名前
愛称 ナオキ
カタカナ ヤマダ ナオキ
ラテン文字 YAMADA Naoki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1990-07-04) 1990年7月4日(27歳)
出身地 埼玉県浦和市(現さいたま市
身長 168cm
体重 66kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 湘南ベルマーレ
ポジション MF
背番号 8
利き足 右足
ユース
2003-2005 浦和レッズジュニアユース
2006-2008 浦和レッズユース
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2008- 浦和レッズ 50 (2)
2015- 湘南ベルマーレ (loan) 28 (3)
代表歴2
2005-2007  日本U-17 8 (1)
2009  日本U-20
2009-2010 日本の旗 日本 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2017年1月5日現在。
2. 2010年1月7日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

山田 直輝(やまだ なおき、1990年7月4日 - )は、埼玉県浦和市出身のサッカー選手ポジションミッドフィールダーJリーグ湘南ベルマーレ所属。元日本代表

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学生の頃は北浦和サッカー少年団に在籍。小学校6年時に選抜チームであるFC浦和で全日本少年サッカー大会で優勝した。中高生年代では、ジュニアユース、ユースと浦和レッズのアカデミーに所属。ジュニアユース時の2005年には、高円宮杯U-15で優勝。

2006年から浦和レッズのサテライトボランチとしてたびたび出場(2007年のサテライトでは6試合出場、1得点。2008年のサテライトでは5試合出場)。また、2007年8月に行なわれたU-17ワールドカップでは、U-17日本代表に選出。10番を背負い[注 1]、3試合に出場した。

浦和レッズ[編集]

2008年4月に、2種登録選手としてトップチーム登録[2]。4月26日、対京都サンガF.C.戦で後半35分から途中出場。17歳9ヶ月22日でJリーグデビューを果たした。2008年の公式戦出場は、6月8日のナビスコカップ名古屋グランパスエイト戦とあわせ、2試合。ユースでも、10月13日、高円宮杯第19回全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会決勝の対名古屋グランパスU-18戦にてハットトリックを達成し優勝に貢献(試合は9-1で浦和が勝利)。自身も同大会で8得点を挙げ、得点王となった。

2009年、高橋峻希濱田水輝永田拓也とともにトップ昇格[3]。3月14日、J1第2節FC東京戦に後半33分から途中出場し、ポンテの得点をアシスト。これがプロ入り初アシストである[注 2]。4月29日、対清水エスパルス戦で後半29分、プロ初得点をあげた。また、4月にはチームメイトである原口元気とともに、U-20代表候補に選ばれたが、右太腿裏を痛めたため代表合宿への参加を辞退した(原口は参加)[4]

2009年5月21日、トップ昇格1年目にして日本代表に初選出され、5月27日、キリンカップチリ戦の前半39分から途中出場。後半47分には、この試合4点目となる、本田圭佑のA代表初得点をアシスト。その後、右臀部を痛めて代表から離脱、FIFAワールドカップ最終予選には帯同しなかった。その後、中学時代からの腰椎分離症の影響で戦線離脱。日韓オールスター戦のJOMO CUPでJリーグ選抜に選出されるも、これを辞退した。その後は度重なる故障に悩まされ、復帰しては再発して欠場するという流れを繰り返した。そして、チームにとっても中盤の要として活躍していた山田の欠場は大きく影響し、欠場する試合が多くなっていくのに比例してチームも調子を落として行った。12月19日に行われたU-20代表の国際親善試合、対韓国戦では、途中出場ながら2得点をあげてチームを逆転へと導き、同年代ではAFC U-19選手権2008の準々決勝で韓国に3-0で敗れて以来の雪辱を果たした。

2010年、若手選手を中心に構成された日本代表に選出され、1月6日に行われたアジアカップ最終予選イエメン戦にスタメン出場したが、前半17分に相手からの悪質なタックルで負傷退場した。帰国後に精密検査を受診し、右腓骨骨折で全治3ヶ月と診断された[5]。以降は長いリハビリ生活を送っていたが、6月上旬より全体練習に合流した後、6月9日に行われたナビスコカップ予選リーグ第7節横浜F・マリノス戦で後半33分から途中出場し、約5ヶ月ぶりとなる公式戦出場を果たし、ワールドカップ中断後からはリーグ戦に3試合出場したものの、8月6日のトレーニング中に右すねを強打、当初は強度の打撲と診断されていたが、再検査の結果、再び右腓骨を骨折していることが判明、全治3ヶ月と診断され今シーズン中の復帰は厳しいと思われたが、再度の長いリハビリを経て12月初旬にトレーニングに完全復帰。12月25日に行われた天皇杯準々決勝ガンバ大阪戦で約5ヶ月ぶりに公式戦ベンチ入りを果たしたが、出場はなく浦和も敗れ、シーズンを終えた。

2011年、阿部勇樹の移籍によって欠番となった22番に背番号を変更、シーズン当初は前年の故障の影響もありシーズン開幕からベンチ入りすらままらならない状態が続き、6月5日のナビスコカップ1回戦第1節モンテディオ山形戦でようやくシーズン初の公式戦出場。以降もゼリコ・ペトロビッチ監督に不慣れな右サイドでのプレーを命じられたり、戦術上の問題で得意とするピッチを縦横無尽に動く働きを封じられ、本領を発揮することが出来ずにいた。しかし、監督が堀孝史に交代後は柏木陽介と共にダブルトップ下のレギュラーに固定され、チームのJ1残留に貢献した。

2012年、阿部の復帰に伴い、再び背番号を34番に変更。3月20日のナビスコカップ対ベガルタ仙台戦において田村直也と接触し[注 3]、左膝前十字靭帯を損傷。全治約6ヶ月と診断された[7]。12月に高校時代から交際していたさいたま市在住の一般女性と入籍した[8][9]

湘南ベルマーレ[編集]

2015年、湘南ベルマーレへ1年間の期限付き移籍[10]。5月20日、ナビスコカップ第5節の松本山雅FCで移籍後初得点。2016年9月22日、天皇杯の3回戦ではプロ初となる1試合2得点を決めて怪我から復活をアピールした。2016年11月3日、2ndステージ第17節の名古屋グランパスエイト戦では先発出場し、2得点をあげる活躍で意地を見せた。シーズン終了後、期限付き移籍を1年契約を延長した。

2017年8月5日、第26節の松本山雅FC戦では逆転ゴールを決めて勝利に貢献した。8月26日、第30節のザスパクサツ群馬戦では全得点に絡む活躍で勝利に貢献した[11]。9月30日、第35節のツエーゲン金沢戦では開始11秒で得点を決めて勝利に貢献した[12]

人物・エピソード[編集]

所属クラブ[編集]

ユース経歴
プロ経歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 リーグ杯 天皇杯 期間通算
2008 浦和 34 J1 1 0 1 0 0 0 2 0
2009 20 1 5 2 1 0 26 3
2010 3 0 1 0 0 0 4 0
2011 22 18 1 6 0 4 0 26 1
2012 34 2 0 1 0 0 0 3 0
2013 4 0 0 0 1 0 5 0
2014 6 2 0 2 0 1 0 7 0
2015 湘南 8 17 1 4 1 2 1 23 3
2016 11 2 2 0 3 2 16 4
2017 J2 39 5 -
通算 日本 J1 78 5 22 3 12 3 112 11
日本 J2 -
総通算 78 5 22 3 12 3 112 11
  • 2008年は、ユース所属
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2013 浦和 34 0 0
通算 AFC 0 0
出場歴

タイトル[編集]

クラブ[編集]

浦和レッズジュニアユース
浦和レッズユース
湘南ベルマーレ

代表[編集]

個人[編集]

代表歴[編集]

代表

出場大会[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(2009-2010)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2009 1 0
2010 1 0
通算 2 0

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 城福浩監督は「(特別な番号として扱われがちな)10番を与えることで、勘違いしてしまう選手や親もいる」ため、山田に10番を与えたとコメントしている[1]上述の通り、山田の父は元サッカー選手。
  2. ^ ただし、Jリーグ公式記録での「アシスト」は集計されていない。
  3. ^ 主審の岡部拓人はこのプレーにファールを取らなかったが、松崎康弘審判委員長はこの判断を「正解」とした。また、山田に対しては、無理やり突っ込む危険なプレーで自らを危険にさらしていると危惧を述べている[6]
出典

関連項目[編集]

外部リンク[編集]