南京事件 (1937年)

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南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍便衣兵、敗残兵、捕虜、一般市民などを殺したとされる事件。この事件については、事件の規模、虐殺の存否を含めさまざまな論争が存在している(南京事件論争)。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件、The rape of Nankingなど多様な呼称がある(後述)。

事件の概要と経緯

南京攻略戦

1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中国軍は撤退を始め、逃げる行きずりに「堅壁清野作戦」と称して、民家に押し入り、めぼしいものを略奪したうえで火を放ち[1]、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍の追撃を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった[要出典]蒋介石12月7日に南京を脱出し、後を任された唐生智12月12日に逃亡した。その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の挹江門中国語版には仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊を置いていった (挹江門事件)[1]。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は12月10日より総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。

南京入城までの両軍の動向

日本側

1937年11月、第二次上海事変に投入された松井石根司令官率いる上海派遣軍第10軍は、軍中央の方針を無視して首都南京に攻め上った[要出典]12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲し、12月9日、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃を開始し、12月13日に南京城に入城した。12月29日、上海派遣軍は「南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である」と発表した[2][3]。しかし、翌年1月、敵の損害は約八万、うち遺棄死体は約五万三、八七四」と算定した[4]。これにつき、防衛庁防衛研修所戦史室の『戦史叢書』は「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」[4]とし、偕行社の『南京戦史』は「上海派遣軍発表の遺棄死体数は、中国防衛軍の総兵力判断6~7万と比べ著しく過大である」[5]としている。

中国(中華民国)側

1937年11月5日、中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した[要出典]11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった[要出典]11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。

11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)[要出典]12月7日南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから[要出典]、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令した。一方、唐は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、中国軍は総崩れとなり南京城は陥落。

中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣の証言によると城内に人はおらず住民は非武装地帯に避難していた、という[6]

一般市民への被害

日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた。[7]

1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の敗残兵・便衣兵の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている[要出典]

市民への暴行・殺傷行為を直接指示する命令書は確認されていないが、南京攻防戦では無差別に市民を虐殺する命令を受けたとする元兵士の証言がしばしば取り上げられる[8]夏淑琴は、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたと証言した (新路口事件)[9]

松井石根司令官[10]畑俊六大将[11]阿南惟幾・陸軍省人事局長[12]岡村寧次大将[13]河辺虎四郎・参謀本部作戦課長[14]真崎甚三郎大将[15]などの軍関係者が「強姦、略奪」行為に言及している。

当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって殺害されたことを記録に書き残している。一方で、ドイツ大使館やイギリス大使館など[要出典]、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がまちまちであり、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人はただの一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある[16][17]。当時南京に残留したアメリカ人牧師ジョン・マギーは東京裁判で「市民を殺害するその瞬間を目撃したのは一人の事件についてだけであった」と答え、ついで強姦の現場を二件見たと証言している[18]。マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、南京事件の犠牲者・被害者を撮影した8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある。女性アメリカ人宣教師ミニー・ヴォートリンは「ミニー・ヴォートリン日記」として南京での惨状を書き残している。

投降兵の処遇

『南京戦史』によると、公式文書等に記載された捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応は以下のとおりである[19][注釈 1]

公式文書による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
第114師団歩兵第66連隊第1大隊 1,657
12、13日に雨花門中国語版外で収容
処断 1,657
13日午後
第114師団歩兵第66連隊第1大隊戦闘詳報 雨花台事件
第6師団歩兵第45連隊第2大隊 約5,500
14日午前、下関で収容
釈放
14日午後
第6師団戦時旬報
第16師団歩兵第33連隊 3,096
10日~14日、紫金山北方~下関附近、太平山、獅子山附近の戦闘間
処断 3,096 歩兵第33聯隊戦闘詳報
第16師団歩兵第38連隊第10中隊 7,200
14日、堯化門中国語版附近
収容 7,200
17日、18日頃、南京へ護送
歩兵第38聯隊戦闘詳報
国崎支隊 (歩兵第41連隊基幹) 120
3日~15日
不明 120 第9旅団戦闘詳報
歩兵第41連隊第12中隊 2,350
14日夕、江興洲
釈放 2,350 第12中隊戦闘詳報
第16師団歩兵第20連隊第4中隊 328
14日、安全区中国語版東方
処断 328 第4中隊陣中日誌 「銃殺ニシテ埋葬ス」
第9師団 約7,000
13日~14日
処断 約7,000 第9師団作戦記録概要
第9師団歩兵第7連隊 (6,670)
安全区掃蕩間
処断 (6,670) 歩兵第7聯隊戦闘詳報
戦車第1大隊第1中隊 (320)
14日、掃蕩間
処断 (70) 第1中隊戦闘詳報 戦争処置
第3師団歩兵第68連隊第1大隊 8 不明 8 第1大隊戦闘詳報
第3師団歩兵第68連隊第3大隊 25 不明 25 第3大隊戦闘詳報
第16師団歩兵第9連隊第2大隊 19 不明 19 第2大隊戦闘詳報
集計 (公式文書) 約27,000 収容 7450、釈放 7850、不明 172、処断 約12,000 『南京戦史』は「大雑把な目安にすぎない」としている。
公式文書以外による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
山田支隊 (歩兵第65連隊基幹) 8,000
14日 幕府山附近で収容された14,000のうち非戦闘員6,000は釈放
逃亡 7,000、処断1,000
14日夜、4,000が逃亡、残余は観音門へ連行
戦史叢書 幕府山事件
第16師団第30旅団 約2,000
24日~翌年1月5日、安全区内の兵民分離
収容 約2,000 佐々木少将私記』 その他入院中の500は収容
第16師団第19旅団歩兵第20連隊第12中隊及第3機関銃中隊 200~300 処断 200~300 『小戦例集』、『牧原日記』
第16師団第30旅団歩兵第33連隊 数百
16日、17日、紫金山北方
処断 数百 『佐々木少将私記』  
第16師団第30旅団歩兵第38連隊 数百
16日、17日、紫金山北方
処断 数百 『佐々木少将私記』 掃蕩戦間の処分
第16師団第30旅団 数千
24日~翌年1月5日、南京近郊、不逞の徒
処断 数千 『佐々木少将私記』 下関にて処分

南京城内外に残された大量の中国軍兵士を撤退させる方法が無く、指揮命令系統の崩壊により組織だった降伏も困難であった。そのため、正規兵も軍服を脱いで便衣兵となり逃走をはかったものがあった。[要出典]

外国メディアによる報道

アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ英語版』や『ニューヨーク・タイムズ』、中華民国内では『大公報』などのマスコミによって “Nanking Massacre Story”, “The Rape of Nanking”, “Nanking Atrocities” として、それらが真実として報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出たものの、事件初期において殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたとして伝えられていた。戦時中のために無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出後、船舶無線を使って報道をおこなった[要出典]

ただし、東中野らはこれらを根拠に乏しい虚偽報告とし、それがおこなわれた要因として、当時の中華民国政府からの多額の献金により、これらのマスコミが買収された可能性を主張している[20]

また、渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の中には「大虐殺」があったと伝える記事もあるが、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したものと推定されるとしている[21]。また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている[22]。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある[23]。また、内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)[24]

『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン英語版通信員は、『文藝春秋』(1989年10月号)のインタビュー記事にて、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした。」とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の『安全地区』には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムズは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した[25]

事件の背景について

南京城内で避難民にまぎれて逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵(毎日新聞昭和13年1月1日発行)

南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海蘇州無錫嘉興杭州紹興常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている[要出典][誰によって?]。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京事件論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人への暴行・殺傷、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある[26][誰によって?]

また、兵士の日記について、日々行軍と戦闘に明け暮れ疲労の激しい兵隊が毎日の様に日記を克明につけることなどありえない、インク瓶からスポイトでインクを入れるものしかなかった万年筆を持ち歩くことが考えられない、などの理由から、捏造または改竄されたものであるとする指摘もある[27]。上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、上海から南京へ向かう途中に日本軍による捕虜や民間人の殺害や略奪を目撃したことはないし、聞いたこともないという証言をしている[28]

中支那方面軍の編成

中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。

戦後の軍事裁判における扱い

この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判南京軍事法廷で審判された。

極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。

南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

「人道に対する罪」と訴因

ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[29]

東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[30]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[30]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[30]

このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの植民地から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた[要出典]

東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[31][32]

論争

この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。近代史における日中関係を考える上でデリケートな問題であり、2010年日中歴史共同研究公表[33]に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言からも伺えるように、論点とすべき歴史的資料が十分に得られない研究実態を前提として特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない政治的要素が含まれる[34]

また検証において、事実存否や規模、行為者、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、作戦指導の妥当性、死傷者数、方法に諸説あり、これらを巡って今なお議論が続けられている。

被害者数と事実在否について

極東国際軍事裁判における判決では 20 万人以上 (松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠しており、日本側の研究では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている[35]日本政府は、日本軍の南京入城後に非 戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないとしつつ、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であるとの立場をとっている[36]

名称の種類と変遷

南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー(家永三郎洞富雄ら)[37]」「南京大残虐事件(洞富雄)[38]」など、多様な表記と呼称がある。呼称の種類および変遷について、以下概説する。

歴史学の研究書では「南京事件」と表記されるもの(秦郁彦[39]笠原十九司[40]ら)、「南京大虐殺」と表記するもの、「南京虐殺事件」など使用状況は同様に多様である。なお笠原十九司は「南京事件は南京大虐殺事件の略称」としたことがあるが[41]、笠原は著書名としては「南京事件」を多用している[42]

東京裁判
1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)[注釈 2]・殺戮と記述されている[43]。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawfully killed and murderedとされている[44]。開廷後の一週間後の同年5月10日の朝日新聞記事では「南京大虐殺事件」という呼称がみられ[注釈 3]、同年10月9日の貴族院第90回帝国議会において星島二郎が「南京事件」という呼称を使用している[45]
1948年(昭和23年)2月19日の検察側最終論告では「南京残虐事件」、2月25日の検察側最終論告では「南京における残虐行為」「南京事件」「南京強姦」、4月9日の弁護側最終弁論では「南京略奪暴行事件」、不提出書類のタイトルでは「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺死難者埋葬処ノ撮影」、1948年(昭和23年)11月4日の判決では和文「南京暴虐事件」[46]英文「THE RAPE OF NANKING」[47]などと表記されている[48]
戦後の教科書における表記
敗戦直後、教科書はいわゆる「墨塗り教科書」であったが、1946年に文部省著作による小学校用教科書「くにのあゆみ下」と中学校用教科書「日本の歴史」が刊行され、事件について記述がなされた(事件名は表記なし)[49]。1947年に学校教育法で教科書検定制度が導入されてからは1949年から検定教科書が使用される。
1952年に刊行された実業之日本社による高校用教科書「現代日本のなりたち 下」では「南京暴行事件」と表記された[49][50][51]
55年体制から1960年代まで
1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを刊行し、「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書批判が起こる[52]。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった[49][50][52]。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記されており[53]、1965年から家永教科書裁判が開始されている。
1956年に刊行された『世界歴史事典』[54]および、1961年の『アジア歴史事典』[55]などでは、「南京事件」で立項している[56]
1966年には毎日新聞記者五島広作下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述した[57]
1970年代
国会では1971年(昭和46年)7月23日の第66回参議院外務委員会で西村関一により「南京虐殺事件」および「南京大虐殺事件」という表記が使用されている[58]
1971年8月末から朝日新聞で連載を開始した本多勝一「中国の旅」(1972年刊行)が反響を呼び、南京事件について多数の記事が執筆される[注釈 4]。なお当時記事タイトルにおいて「南京大虐殺」を使用したものには「」1971年8月号「隠されつづけた南京大虐殺」がある[59]
1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し、広範囲にわたる南京事件論争が開始されるともに、「南京大虐殺」についてマスコミで報道されるようになる。例えば、同年11月には三留理男「中国レポート(最終回) 冷酷な皆殺し作戦 南京大虐殺」『サンデー毎日』(72年11月19日号)などがある[60]。鈴木は1973年に文芸春秋社から同題で単行本を刊行する。
歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』[注釈 5]を刊行した後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』[61]を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する[62]。また洞が編集した『日中戦争史資料 8 南京事件』[63]は、1973年の版では「南京事件」という呼称を著書名において使用していたが、1985年に同書が青木書店より再刊された際には『日中戦争 南京大残虐事件資料集』と改題された[64]。一方で藤原彰本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用している[65]
1978年の東京書籍の教科書では「南京虐殺」として記載されるなど、事件についての記述がなされるようになる[66]
第一次教科書問題と1980〜1990年代
1980年には自民党が機関紙『自由新報』で「いま教科書は」を連載、国語・社会科教科書を批判するという第二次教科書批判が起きる[49]。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたと誤報道され、中国の干渉を招き外交問題に発展した第一次教科書問題が起きた。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。その後1984年の東京書籍教科書では「ナンキン大虐殺」と表記される。1987年の大阪書籍と教育出版の教科書では「南京虐殺事件」と表記され、1995年の実教出版の高校教科書「日本史B」では「南京大虐殺」というコラムが記載された[要出典]
歴史学者の秦郁彦が1986年には「南京事件」(中公新書)を発表。同書では「虐殺」の表記に関しては括弧を使用する[39]
アイリス・チャンが1997年に著したThe Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War IIが話題をあつめ、「ザ・レイプ・オブ・南京」という日本語呼称が注目された。
近年の動向
近年の教科書表記では、山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」[67][68]、帝国書院が「南京大虐殺」[69]、清水書院が「南京大虐殺事件」[70]山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」[71][72]と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている[要出典]
2010年に報告書が公開された外務省日中歴史共同研究日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。
その他、井上久士小野賢二笠原十九司藤原彰吉田裕本多勝一渡辺春巳などが集まった研究会は「南京事件調査研究会」としている。

日本国外における表記

中国または中華民国[73]ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The rape of Nanking」「Nanking (Nanjing) Massacre」などと呼ばれるが論者により一定しない。

Nanking Incident表記に関する日本国外での議論
アメリカのジャーナリストポール・グリーンバーグ英語版は、『アーカンソー・デモクラット=ガゼット英語版』2007年3月7日付「否認の魅力」記事において、"the Nanking Incident"(南京事件)という言い方はありふれた婉曲表現であり、ドイツの教科書においてホロコーストをthe Auschwitz Incident(アウシュビッツ事件)と称するようなものだとして批判した[74]

南京事件を扱った作品

小説
映画
漫画

脚注

注釈

  1. ^ 『南京戦史』編集委員会が平成元年四月までに収集した公式文書等に記載された数字を何等考察を加えることなく転載したものである。
  2. ^ みなごろしにすること
  3. ^ 「磯谷、谷両氏南京へ」南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される(以下略)。
  4. ^ 本多は南京事件、南京大虐殺、南京大暴虐事件と様々な呼称を使用している。「南京への道」他
  5. ^ 新人物往来社。1967年の洞富雄『近代戦史の謎』を増補したもの。

出典

[ヘルプ]
  1. ^ a b 高山正之「日本を潰せ 上海・南京・武漢 支那の背後にちらつく露・独・米の影」『白い人が仕掛けた黒い罠 アジアを解放した日本兵は偉かった』、ワック、2011年8月4日、ISBN 978-4-89831-163-9、64頁。
  2. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年)、156頁
  3. ^ 『朝日新聞』昭和12年12月30日掲載
  4. ^ a b 支那事変陸軍作戦 1、436頁。
  5. ^ 南京戦史 (1993)、300頁。
  6. ^ 【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(1)】「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」 産経新聞 2015.2.15
  7. ^ 辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日)
  8. ^ たとえば松岡環編著『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』社会評論社、2002年、56-57頁、69頁、77頁、95頁、116頁、135頁、159-160頁、173頁、188頁、208頁、251頁、271頁、302頁、312-314頁、325頁、343-344頁。なおこの書籍においては証言者はプライバシー保護としてすべて仮名(かめい)で公表されている。おもな証言内容は、民間人と便衣兵の区別がつかないこと、共産党の支持が多い地域であること、戦闘行動をとることに男女幼長の違いがなかったことなどから、少なくない兵士が立地上危険な家屋を焼却する命令、怪しい行動を取る民間人と兵士を殺害をする命令を受けたといった内容である。
  9. ^ 夏淑琴氏の名誉毀損の裁判 弁護団声明
  10. ^ 花山信勝著 「方丈堂出版平和の発見」 p.229
  11. ^ みすず書房「現代史資料 続4 陸軍(畑俊六日誌)」畑俊六著 pp.120-121
  12. ^ 柏書房「現代歴史学と南京事件」笠原十九司/吉田裕=編 p.13
  13. ^ 原書房「岡村寧次大将史料(上)」岡村寧次著(上) pp.290-291
  14. ^ 時事通信社 「市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」河辺虎四郎 pp.153-154
  15. ^ 真崎甚三郎日記 pp.291-292[要追加記述] 山川出版社
  16. ^ 東中野・小林・福永 (2005)、9頁
  17. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  18. ^ 藤原彰、森田俊男編『近現代史の真実は何か』大月書店、p.76-77
  19. ^ 南京戦史 (1993)、342~343頁。
  20. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  21. ^ 渡部昇一『渡部昇一の昭和史 正 改訂版』Wac、2008年10月30日、ISBN 978-4-89831-592-7、第300頁
  22. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  23. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  24. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  25. ^ 1938.1.4 NYタイムス「<元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに>南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。この元将校たちは戒厳令に照らして罰せられるだろう。」
  26. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  27. ^ 大井満『仕組まれた“南京大虐殺” 攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ』、展転社、平成七年12月12日、ISBN 4-88656-115-2、13~14頁
  28. ^ 東中野 (1998)[要ページ番号]
  29. ^ 日暮 (2008)、26頁・118頁
  30. ^ a b c 日暮 (2008)、113頁
  31. ^ 日暮 (2008)、116頁
  32. ^ 日暮 (2002)[要ページ番号]
  33. ^ “日中歴史共同研究(概要)” (プレスリリース), 外務省, (2010年1月), http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html 2010年7月28日閲覧。 
  34. ^ “日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア”. サーチナ. (2010年2月1日). http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_005.shtml 2010年7月28日閲覧。 
  35. ^ 波多野・庄司、7頁
  36. ^ “歴史問題Q&A 問6.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。” (プレスリリース), 外務省, http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/08.html 2014年6月3日閲覧。 
  37. ^ 家永三郎『新日本史』(三省堂、1962年[要ページ番号])や洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年[要ページ番号]
  38. ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店、1985年[要ページ番号]
  39. ^ a b 秦 (1986)
  40. ^ 笠原 (1997)
  41. ^ 笠原 (2007)、12頁・208頁。また「歴史学事典 7 戦争と外交」(弘文堂、2009年)笠原執筆記事においても同様の見解が記載[要ページ番号]
  42. ^ 笠原十九司参照
  43. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 日本語 レファレンスコード A08071274100 で閲覧可能
  44. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 英文 A08071243700 で閲覧可能
  45. ^ 帝国議会議事録1946年10月9日[1]
  46. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 A08071307600 P.170
  47. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 A08071272300 P.174
  48. ^ 『日中戦争史資料 8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社 昭和48年11月25日初版発行[要ページ番号]
  49. ^ a b c d 俵義文「南京大虐殺事件と歴史教科書問題」藤原彰『南京事件をどうみるか 日・中・米研究者による検証』(青木書店、1998年)所収、118頁
  50. ^ a b 戦争加害の観点から見た歴史教育のあり方 ―「南京大虐殺」問題の考察を通して― (PDF)
  51. ^ 開隆堂の教科書「歴史的内容を主としたもの 下」1954年[要ページ番号]では「(日本)軍が(南京)市民にひどい暴行を加えた」と記述。
  52. ^ a b 笠原 (2007)、101-103頁
  53. ^ 『家永教科書裁判』日本評論社、1998年、167頁
  54. ^ 全10巻、平凡社、1956年[要ページ番号]
  55. ^ 全10巻、平凡社、1961年[要ページ番号]
  56. ^ 笠原 (2007)、102-103頁も参照
  57. ^ 笠原 (2007)、103頁
  58. ^ 第066回国会 外務委員会 第1号 昭和四十六年七月二十三日(金曜日)午後三時十五分開会 「南京虐殺事件」(2回)、「南京大虐殺事件」(1回)
  59. ^ 笠原 (2007)、109頁
  60. ^ 笠原 (2007)、109頁
  61. ^ 現代史出版会、1975年
  62. ^ 『決定版・南京大虐殺』徳間書店ほか
  63. ^ I, II. 日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社、1973年[要ページ番号]
  64. ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店、1985年。笠原 (2007) も参照。
  65. ^ 『南京事件を考える』大月書店、1987年
  66. ^ 堀尾輝久「教科書問題―家永訴訟に託すもの―」岩波書店、1992年[要ページ番号]
  67. ^ 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか『詳説日本史』山川出版社、2004年(高等学校地理歴史科用、2002年文部科学省検定済)p.330
  68. ^ 東京書籍2006年p.188
  69. ^ 帝国書院2006年[要ページ番号]
  70. ^ 清水書院2006年[要ページ番号]
  71. ^ 江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治ほか『詳説世界史・改訂版』山川出版社、2001年(高等学校地理歴史科用、1997年文部科学省検定済)p.310
  72. ^ 日本文教出版2006年[要ページ番号]
  73. ^ 台北市にある国軍歴史文物館展示による
  74. ^ The charms of denial。同記事は[2]でも閲覧可能。2011年10月22日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク