髙木大成

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髙木 大成
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都八王子市
生年月日 (1973-12-07) 1973年12月7日(50歳)
身長
体重
179 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 一塁手左翼手捕手
プロ入り 1995年 ドラフト1位
初出場 1996年3月31日
最終出場 2005年4月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

髙木 大成(たかぎ たいせい、1973年12月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手内野手外野手捕手)。現役引退後は埼玉西武ライオンズの球団職員を経て、2011年12月よりプリンスホテルに勤務[1]

来歴・人物

少年期から高校時代

両親が福岡県出身で、西鉄ライオンズを引き継いだ西武ライオンズの本拠地である西武ライオンズ球場(現在:西武プリンスドーム)に高木をよく連れて行っていたことからファンとなる。小学2年からリトルリーグで野球を始め、この頃から東京六大学でプレーすることを考えていた。リトルリーグでは投手と捕手を務めていたが、捕手として試合を組み立てることに面白さを感じていたという。桐蔭学園高校では厳しい指導を受けた土屋恵三郎監督から「自分が出会った中で一番の捕手」、横浜商業高校の古屋文雄監督からは「神奈川ナンバー1捕手」とそれぞれ評された。2年時には、1学年下の国学院久我山井口忠仁からライバル視されており、関東を代表するスラッガーに成長していた。なお、3年時のチームメイトには、1学年下に副島孔太、2学年下に高橋由伸がいた。

1991年第73回全国高等学校野球選手権大会では、土屋の方針で一番打撃の良い高木が1番打者を務め、1回戦の熊本工戦において、試合開始直後に中堅へ初球本塁打になろうかという大飛球を放った。続く2回戦の柳ヶ浦高校戦は終盤戦に高木の適時二塁打を皮切りに連打を浴びせた桐蔭が快勝。3回戦の鹿児島実業戦はサヨナラ負けに終わったものの、相手ベンチの状況からヒットエンドランを察知、また牽制球で2度走者を刺している。終盤のピンチに三塁線の打球を巡って「ファウルではないか」と審判に抗議したことが「高校野球らしくない」と批判を浴びる場面もあった。大会後には高校選抜メンバーに選出され、松井秀喜らとともにアメリカ遠征に参加。代表チームのキャプテンおよび正捕手として抜擢された。

同年のプロ野球ドラフト会議前は、日本ハムファイターズなど数球団がドラフト1位候補として挙げていたが、東京六大学へ進む為、指名を辞退し、慶応義塾大学総合政策学部湘南藤沢キャンパス)にAO入試で入学。このドラフト辞退はマスコミに取り上げられ話題となった。

大学時代

打って走れる捕手の目標としていた古田敦也と同じ背番号27を背負う。1年時は授業を重視しあまり野球に打ち込まなかったが、2年時に外野手として、3、4年時に捕手としてベストナインに選ばれる。3年時には44年ぶりの天覧試合となった春季リーグ戦(対早稲田大学2回戦)の初回[2]に本塁打を放ち、4年時には主将として背番号10をつけた。大学ではリーグ通算95試合で103安打・13本塁打・61打点・打率.286、歴代最多の27二塁打を記録。1994年アジア大会決勝の対韓国戦(広島市民球場)では、後に読売ジャイアンツに入団する趙成珉から決勝本塁打を放った。

1995年のドラフトでは複数球団から勧誘されていたが、捕手として評価していた西武ライオンズを逆指名し、入団。入団時の入団発表および記者会見は単独で行われたが、これは西武ライオンズ球団では清原和博以来となる異例の厚遇であった。背番号は10

プロ時代

入団当時は当時の正捕手であった伊東勤がレギュラーポジションを確固たるものとしており、伊東には憧れの気持ちしか沸いてこなかったという。1年目の1996年は主に捕手として起用されたが、出場機会が打撃練習での調子が良い時に限られていたため「捕手として使ってもらえるよう頑張らなければ」と決意を語った。

1997年、打力を生かすため一塁手への転向を言い渡されるが、打って走れる捕手にこだわりを持つ高木は悩んだ末に捕手を諦め、打撃に専念することを決意した。この年は3番打者として130試合に出場、打率.295・64打点・24盗塁の好成績を記録し、一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞、「レオの貴公子」「プリンス・オブ・レオ」と呼ばれた。4月15日の対日本ハム戦ではプロ入り初の満塁本塁打をランニングホームランで記録した。

1998年の春季キャンプでは三塁手コンバートされたが、シーズン開幕後は前年同様に一塁手として起用され、チームのパ・リーグ連覇に貢献、ゴールデングラブ賞を2年連続で受賞。打撃成績では自己最多の17本塁打・84打点を記録するも、打率は.276と若干低下した。

1999年の春季キャンプで右足首靱帯を断裂。翌年以降も左膝や右手首など怪我が相次ぎ、年々出場機会が減少する。その間、三塁手や二塁手へのコンバートに挑戦したものの、レギュラーポジションを奪うには至らなかった。2000年からは左翼手として起用されることが多くなる。2003年には4試合連続本塁打を記録するなど復活の兆しを見せるが、同年オフに手術した右腕の回復具合が思わしくなかったことから2004年はプロ入り初の一軍試合出場なしに終わった。

2005年もわずか13試合の一軍出場に留まり、同年10月31日に現役引退を発表。通算56本塁打中、5本の満塁本塁打を記録した。

現役引退後

引退後、当時西武ライオンズ球団の親会社であったコクド(後の西武グループ再編に伴いプリンスホテルへ吸収合併)へ入社[1]、球団へ出向する形で営業部ファンサービスチームに在籍した[1]。球団職員に就任したのちはファン層拡大に尽力し、入社1年目の2006年に球団公式サイト内に自身のコーナー「TAISEI LABORATORY(大成ラボ)」を開設、従来は球団からの一方的な情報発信サイトであった公式サイトにおいて、ファンとの双方向交流を目的としてアンケート企画などを実施した[1]。その後は西武鉄道の鉄道車両を用いたラッピング電車の運行、球団CMの作成、西武鉄道の駅構内に掲示する選手ポスターの作成などを手がけた[1]ほか、西武ライオンズの本拠地である西武ドームにおける公式試合開催時には球場へ足を運び、ファンの求めに応じてサインをするなど自身も積極的にファンとの交流機会を設けた[1]

前年度に球団として26年ぶりのBクラスへ転落し、また球団の選手スカウティングに関わる不祥事から球団存続の危機が噂された2008年[1]には、「球団事業のあり方を根底から見直す[1]」目的で3ヵ年の事業計画を上司とともに策定し[1]、専門知識を持つ人材を外部から招聘するなど球団改革に注力した[1]

その後球団広報部PR担当を経て、2011年12月にプリンスホテルへ異動[1]。2013年現在、高輪・品川マーケティング戦略マネージャーとして、高輪・品川地区に立地する系列ホテルの回遊施策に携わる[3]

一方で2016年西武ライオンズ宮崎・南郷キャンプでは、応援ツアー案内役や選手とのトークショーで司会役を務めるなど、球団業務にも引き続き従事している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1996 西武 80 251 234 34 65 11 0 4 88 24 3 2 3 1 12 0 1 34 1 .278 .315 .376 .691
1997 130 532 474 75 140 27 4 7 196 64 24 7 6 4 47 2 1 62 11 .295 .357 .414 .771
1998 134 586 504 70 139 26 2 17 220 84 15 13 7 8 66 1 1 68 12 .276 .356 .437 .792
1999 110 413 360 51 98 15 3 7 140 54 13 5 5 2 44 2 2 43 10 .272 .353 .389 .742
2000 94 374 316 47 74 18 2 9 123 44 3 4 9 0 47 1 2 66 3 .234 .337 .389 .726
2001 67 210 192 22 40 13 1 4 67 18 5 4 0 2 15 0 1 29 5 .208 .267 .349 .616
2002 36 72 65 9 13 0 0 2 19 8 2 0 2 0 5 0 0 16 1 .200 .257 .292 .549
2003 56 136 118 16 28 3 2 6 53 20 2 0 0 3 15 0 0 25 1 .237 .316 .449 .765
2005 13 22 17 1 2 1 0 0 3 3 0 1 0 1 4 0 0 5 0 .118 .273 .176 .449
通算:9年 720 2596 2280 325 599 114 14 56 909 319 67 36 32 21 255 6 8 348 44 .263 .336 .399 .735
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

背番号

  • 10 (1996年 - 2005年)

参考文献

澤宮優『ドラフト1位 九人の光と影』 河出書房新社、2008年

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 「新天地で実績出すには 野球界から転身した高木氏に学ぶ」 日経産業新聞 2012年8月3日付記事
  2. ^ この時はまだ到着していなかったという。
  3. ^ 早慶ライバルの再会 2013年9月2日 - 週刊ベースボール公式Web(ベースボール・マガジン社) 2013年10月22日閲覧

関連項目

外部リンク