板垣退助
板垣 退助 いたがき たいすけ | |
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生年月日 |
1837年5月21日 (旧暦天保8年4月17日) |
出生地 | 土佐国 |
没年月日 | 1919年7月16日(82歳没) |
死没地 | 東京市 |
称号 | 従一位・勲一等旭日桐花大綬章・伯爵 |
第17代 内務大臣 | |
内閣 | 第1次大隈内閣 |
在任期間 | 1898年6月30日 - 1898年11月8日 |
内閣 |
第2次伊藤内閣 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1896年4月14日 - 1896年9月20日 |
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 1919年(大正8年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。
自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。没後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。
なお、昭和期に陸軍大臣などを歴任した板垣征四郎陸軍大将とは血縁関係はない。
生涯
生い立ち
天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩士・乾正成(300石、馬廻格)の嫡男として、高知城下中島町(高知市中島町)に生まれた。同藩士の後藤象二郎とは幼な馴染みである。坂本龍馬等の郷士よりも恵まれた扱いを受けていた(のちに板垣家と坂本家は親戚関係となる)[1]。
幕末
少年期は素行が悪くて藩から2度処罰を受けており、一時は家督相続すら危ぶまれたが、父正成の死後、家禄220石に減ぜられて家督相続を許される。江戸で西洋式兵学を学び、軍制改革を進める等、尊王攘夷論に傾斜して武力倒幕を主張している。免奉行や側用役、大監察、参政など藩の要職を歴任した。
戊辰戦争では迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府参謀の肩書きで従軍した。天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の後裔である[2]との家伝を示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏を名乗った。この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新撰組を撃破した[3]。
東北戦争では、三春藩や二本松藩・仙台藩・会津藩を攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。
明治政府の要職を歴任
明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。明治3年(1870年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発し、明治4年(1871年)に参議となる。1873年(明治6年)に征韓論を主張するが欧米視察から帰国した岩倉具視らの欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は真っ二つに分裂。板垣は西郷隆盛らとともに下野した。(明治六年政変)
自由民権運動
1874年(明治7年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと民選議院設立建白書を建議したが却下された。また、高知に立志社を設立した。1875年(明治8年)に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
1881年(明治14年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。
全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた1882年(明治15年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。
その際、板垣が述べたことは、広く人々に、そして後世にまで伝わることになった。板垣は襲われた後、起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った[4]。 やがて「板垣死すとも自由は死せず」[5]という表現で広く伝わることになった(つまり、「板垣死すとも、自由は死せず」という言葉で、板垣本人が言った訳ではない)[6]。なお、このとき板垣を診察した医者は後藤新平であった。板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったという。後藤は後に、板垣の希望通り、政治家となった[7]。
同年11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。1884年(明治17年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。
自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、1887年(明治20年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、やむなく伯爵位を授爵した。その結果、衆議院議員となることはなく、また、貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席をもつことはなかった。
帝国議会開設以後
大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織して第1回衆議院議員総選挙に対応した。1890年(明治23年)の帝国議会開設後には河野広中や大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して自由党総理に就任した。
1896年(明治29年)には議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣にも留任したがすぐに辞任した。なお、1897年(明治30年)3月、自由党総理を辞任している。
1898年(明治31年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職せざるをえなくなる。1900年(明治33年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。
晩年
政界引退後は、1904年(明治37年)に機関誌『友愛』を創刊したり、1907年(明治40年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行なった。
1919年(大正8年)7月16日薨。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主旨から、子に襲爵させなかった(襲爵の際には遺族から届け出が必要であり、それを行わないよう言い残したもの)。
人物
評価
- 中江兆民は「私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としては資質に欠けるところはあっても、個人としての美しい徳を持っていたことでは近世の偉人である」と評価している。
- 板垣は日本の民主主義発展に大きな功績を残したが、彼自身は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさがなく(端的に言えば「いい人」)、清濁合わせ呑むことが要求される政治家としては必ずしも有能だったとは言えない。
- 一方、軍人としては戊辰戦争における東北戦争などで、指揮官として目覚ましい活躍を見せていた[要出典]。しかし上述のように土佐閥の代表という事で軍人コースには入らずに政治の道へと進んだ。作家の司馬遼太郎は『翔ぶが如く』の中で「板垣に文官など務まるはずがなく(中略)軍人以外にどういう仕事も適していない」などと評している。
- 自由民権運動の指導者であるため、一般には近代立憲的な自由主義の思想を持っていたとされ、また中江兆民がルソーを翻訳したことから、近代思想の輸入者というイメージもあるが、当時の政局は派閥争いの側面を持っており、少数派としての土佐閥の代理戦争的な側面もあり、また板垣そして中江も、思想的にはその基礎を王政復古に求めるものであり、天賦人権論も天皇制を基盤としたものだった[8]。
- 「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が人口に膾炙したことにみられるように、板垣は自由民権運動の英雄であった。その一方で、藩閥政府による懐柔、隈板内閣の内紛などで議論を賑わせた。とくに「自由」を取り締まる内務大臣への就任では多くの風刺画が描かれ、宮武外骨の『滑稽新聞』は、自由は死んだのに板垣は生きていると揶揄している。風刺画研究者の清水勲によれば、板垣は伊藤博文・大隈重信とならんで風刺画に描かれることの多い明治の政治家の「ベスト・スリー」である[9]。
エピソード
- 現実主義者であったため、少年時代自ら稲荷神社のお守りを厠に捨ててみて、神罰が起こるか試したことがある(結果神罰が起こらなかった)。
- 同様の主旨で、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
- 自らの命を狙われた岐阜遭難事件の犯人である相原尚褧に対して、退助自身が特赦嘆願書を明治天皇に提出し、結果、相原尚褧は特赦となり、その後改心した相原は、退助に謝罪に訪れている。[10]
- 家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じた退助は、晩年金銭的に困窮していたと伝えられている。1911年(明治44年)頃、人を介して秘かに杉山茂丸に刀を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前大宮の初代「盛重」という名刀であり、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と、刀を持ち込んだ人に問うと、最初は躊躇ったものの、「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある。[11]この後杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからった。
- 板垣家の宗旨は曹洞宗であり、葬儀は遺志により仏式で行われたが、自身はプロテスタントでもあり、同郷の片岡健吉・坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えた。
- 1896年以前のルイ・ヴィトンのトランクを所持していた[12]。立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した1882年から1883年の間に購入したとされる。
武術
- 居合は故郷に伝わる無双神伝英信流を、後に第17代となる大江正路と共に修めていた。また、居合を学びたいと高知を訪ねてきた中山博道に、無双神伝英信流の細川義昌を紹介した。
- 日本刀の収集家としても有名だった。
- 柔術は呑敵流小具足術を本山団蔵に学んだ。1882年(明治15年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際(岐阜事件)には負傷しながらも、相原の腹部に肘で当身を行った。板垣は、命が助かったのは師のおかげと本山に贈り物を贈ったところ、本山から皆伝を授けられたという。
- 相撲愛好家としても知られており、国技館の名付け親でもある。
銅像
- 岐阜県岐阜市の岐阜公園(金華山の麓)
- 板垣遭難(岐阜事件)の地に大正6年に建てられた。
- 高知県高知市の高知城登城口
- 栃木県日光市の日光東照宮参道へと通じる神橋入口
- 日光東照宮に立て籠もる大鳥圭介ら旧幕臣達に対して板垣退助は「先祖の位牌の影に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得し、また強硬に破壊を主張する薩摩藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる偏額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。はじめ1929年(昭和4年)彫刻家の本山白雲(本山辰吉)による像が作られたが、戦時に供出され1967年(昭和42年)、彫刻家新関国臣の作による像が再建された。
- 国会議事堂
栄典
系譜
- 家伝によると乾家の初代・加兵衛正信は、「甲斐の武田晴信(信玄)に仕えた部将・板垣信方の孫で、父板垣信憲が改易ののち誅されたため、遠江国周智郡乾村に籠居して乾氏に改め、山内一豊が掛川に封ぜられた際に仕えた侍」であるという。[2]
∴ 板垣信憲(弥次郎) ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 乾正信(加兵衛) 板垣正寅(南禅寺僧) ┃ ┃ 乾正行(金右衛門)※養子 実は山内刑部一照の次男 壽閑(僧侶) ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓ 乾正祐(与惣兵衛) 乾正直(市郎兵衛) 乾友正(源五郎) ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ 乾正方(庄右衛門尉) 乾十次郎 乾正房(七郎左衞門) ┣━━━━━━┓ ┃ ┃ 乾加介 乾正清(与惣左衛門) 乾十助 乾吉勝(弥五兵衛) ┏━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━━┓ ┃ 乾直建(加助)乾直弦(代之丞)中山秀信(右兵衛)乾弦正(四郎大夫) ┣━━━━━━━━┓ ┃ 乾正英(市郎兵衛)乾正愛(政次郎) 乾正聡(丈右衛門) ┃ ┣━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 乾正壽(宅平) 乾信武(庄右衛門) 野本信照(久馬) 女 ┃ ┣━━━━━━━━━┓ ┣━━━━━━━━┓ 乾正成(栄六) 女 乾正春(左八) 本山茂良(彦弥) ┣━━━━━━━━━┳━━┳━┳━┓ ┏━━━┻━━━━┓┌────┘ 板垣正形(退助) 乾久馬 女 女 女 乾正勝(弥太郎) 乾正厚(市郎平)※養子 実は本山茂良の子 ┣━━━━┳━━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━┳━┳━┳━━┳━━┓ ┃ 板垣鉾太郎 乾正士 荒木孫三郎 板垣正實 乾六一 兵 軍 婉 千代子 良子 乾正士※養子 実は板垣退助の子 ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┓ ┏━━┳━━━━━━┫ 板垣武生 山内守正 板垣正貫 尾崎正 乾一郎 川瀬美世子 中村朝 ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ 女 秋山範子 板垣退太郎 板垣直磨 高岡眞理子 ┏━━━━━┫ 女 男 江戸時代部分(御侍中先祖書系圖牒)より
家族
- 曾祖父:乾正聰
- 曾祖母:林 度左衛門勝周の女
- 祖父:乾信武
- 祖母:谷村久之丞自熈の女
- 父:乾正成
- 母:山内勝長の妹
- 正妻:林益之丞政護の妹
- 継妻:中山弥平治秀雅の次女
- 継妻:小谷善五郎の娘、鈴(りん)。天保11年8月15日(1840年9月10日)生。安政6年(1859年)婚姻。1885年(明治18年)6月28日没。
- 継妻:福岡孝悌子爵養女、絹子(きぬこ)。実は荒木伊三次の七女、絹(きぬ)。安政6年5月8日(1859年6月8日)生。1889年(明治22年)3月6日婚姻。1938年(昭和13年)4月13日薨。法名は慈徳院殿温良全貞大姉。
- 長男:板垣鉾太郎 - 慶応4年5月15日(1868年7月4日)生。母は小谷氏。
- 次男(庶長子):乾正士 - 慶応4年3月25日(1868年4月18日)生。母は医師萩原復斎の娘、龠(やく)。
- 三男(庶次子):荒木孫三郎 - 1885年(明治18年)10月6日生。母は荒木伊三次の七女。
- 四男:板垣正實 - 1889年(明治22年)4月4日生。母は福岡氏。
- 五男:乾六一 - 1897年(明治30年)11月14日生。母は福岡氏。
- 長女:兵 - 片岡熊之助妻。万延元年6月18日(1860年8月4日)生。母は小谷氏。
- 次女:軍 - 宮地茂春妻。元治元年3月15日(1864年4月20日)生。母は小谷氏。
- 三女:猿(のち婉と改める) - 初め安川甚一妻、後小川一眞(写真家)妻。明治5年5月16日(1872年6月21日)生。母は小谷氏。
- 四女:千代子 - 浅野泰治郎(のちの二代目 浅野総一郎・浅野セメント社長)妻。1893年(明治26年)4月12日生。母は福岡氏。
- 五女:良子 - 小山鞆絵(東北大学名誉教授、哲学者、ヘーゲル哲学者として著名。小山海運社長小山朝光は良子の三男)妻。1895年(明治28年)1月1日生。母は福岡氏。
墓地
- 薊野山(板垣山) - 山全体が乾氏専用の大きな墓地となっており、初代正信から退助までの10代の墓石が整然とあり、退助の墓は三番目の妻小谷氏と並んで建てられている。正信から退助まで全て「榧之内十文字」の紋が付けられている。退助の墓のみ「土佐桐」の紋が台座についている。高知県高知市薊野東町。
- 安楽寺 - 乾氏(板垣氏)の一族の墓がある。高知県高知市洞ヶ島町5-3。
- 品川神社 - 江戸で客死した退助の祖父信武の墓石以外は、退助を含め明治以降に亡くなった一族の墓石があり、退助の墓は四番目の妻福岡氏と並んで建てられている。明治以降の墓のため「土佐桐」の紋がついている。墓石のとなりには、佐藤栄作の筆による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。品川神社の社域がもと東海寺の寺域であったため、社殿裏が墓となっている。東京都品川区北品川三丁目。品川区史跡に指定されている。
著作
- 『板垣政法論』、板垣退助述、植木枝盛記、五古周二編、自由楼、1881年
- 『通俗無上政法論』、板垣退助立案、植木枝盛記、和田稲積編、絵入自由出版社、1883年
- 『板垣伯意見書』、板垣退助述、憲政党党報局、1899年
- 『板垣南海翁之意見』、板垣退助述、郷敏儒、1890年
- 『愛国論』板垣伯立案、出射吾三郎編、吉田書房、1890年
- 『自由党史』(上下巻)、板垣退助監修、宇田友猪、和田三郎共編、五車楼、1910年/岩波文庫 上中下巻 初版1958年、復刊1997年ほか
- 『一代華族論』、伯爵 板垣退助著、社会政策社、1912年
- 『選挙法改正意見』、板垣退助著
- 『板垣退助先生武士道観』、板垣退助著、高知 板垣會、1942年
- 『憲政と土佐』、板垣會編、1941年
演じた俳優
- 阪東扇太郎:『大村益次郎』(1942年、映画)
- 羅門光三郎:『暁の鼓笛隊』(1945年、映画)
- 杉山昌三九:『花の白虎隊』(1954年、映画)
- 小山源喜:『西郷隆盛』(1963年、NHK)
- 阿木五郎:『新選組血風録』第25話「流山」(1965年、NET・現テレビ朝日)
- 有川博:『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ)
- 丹波哲郎:『柔』(1972年、NTV)
- 勝部演之:『明治の群像』(1976年、NHKドラマ)
- 村野武範:『獅子の時代』(1980年、NHK大河ドラマ)
- 佐藤仁哉 : 『竜馬がゆく』 (1982年、テレビ東京)
- 米倉斉加年:『春の波涛』(1985年、NHK大河ドラマ)
- あおい輝彦:『白虎隊』(1986年、日本テレビ年末時代劇スペシャル)
- 船戸順:『田原坂』(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル)
- 斉藤洋介:『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ)
- 葛西和雄:『草の乱』(2004年、映画)
- 片岡鶴太郎:『白虎隊』(2007年、テレビ朝日新春スペシャルドラマ)
補註
- ^ 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、新人物往来社、1985年(昭和60年)。『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、2006年(平成18年)。[1]
- ^ a b 但し乾家初代、乾正信には実子がなく、永原(山内)刑部一照の次男、平九郎を養子として後継とした為、信方および正信との血縁は無い。
- ^ 甲州勝沼の戦いの後、甲斐国の武田氏一族の菩提寺である恵林寺に所蔵されていた板垣信方の肖像画に対面し、感激した退助は直筆で「わが祖」と書き入れたという。
- ^ 「探偵上申書」[2](『公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年』に収められているもの)
また岐阜県の警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている[3]。 - ^ 事件の直後、小室信介(案外堂)というジャーナリストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものだ[要出典]との説、また実際にはこの言葉は当時板垣の秘書であった内藤魯一という人物が事件現場で叫んだ[要出典]との説がある。
- ^ 岐阜公園碑文曰「我岐阜公園者、為自由党總理板垣退助先生遭難之霊地。明治十五年四月六日先生遊説之途次、東濃来臨。中教院之有志、懇親會為大演説。将出玄関、突如有凶漢利刃一閃、刺先生之左胸。先生一聲大喝曰『板垣雖死自由不死』一語。凛然永照青史矣。大正六年、予等同志胥謀建設銅像。迎先生及夫人令息、擧除幕式。爾来、毎歳行遭難記念祭。誰圖為大東亞戰之犠牲遭没收之厄。遺憾、無窮這回有志協力再建焉。感喜何堪難、賦一詩記其顛末。欲自由民権、不省身東奔西走而説教綸。英姿颯爽、崋山麓立像。永留其姿眞之」。
- ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
- ^ 坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
- ^ 清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。
- ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
- ^ 『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年
- ^ “ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託”. 朝日新聞. (2011年9月17日) 2011年9月17日閲覧。
参考文献
- 『南の海自由旗揚』牧岡安次郎編、摂海社、1880年
- 『板垣退助君功名伝』上田仙吉編、1882年
- 『自由党総理板垣退助君遭難記実 第1報』細野省吾編、1882年
- 『板垣退助君演舌』前野茂久次編、1883年
- 『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』斉藤和助編、共立支社、1885年
- 『板垣君遭難実記』矢野龍渓著、1891年
- 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年
- 『板垣退助―孤雲去りて(上下巻)』三好徹著、人物文庫、学陽書房、1997年
- 『板垣退助君伝記 全4巻』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
関連項目
外部リンク
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