ゾロアスター教
ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت /Dîn-e Zardošt/、英語: Zoroastrianism、ドイツ語: Die Lehre des Zoroaster/Zarathustra)は、古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語:بلخ Balkh)の地に始まる宗教である。バルフは現在のアフガニスタン北部にあり、ゾロアスター教の信徒にとっては、始祖ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきた。
概要
ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、アムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、アヴェスターの宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。
光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また祆教(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただしアケメネス朝の宗教をゾロアスター教ではないとする立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。パーシ(パールシー)教徒とも呼ばれる。
概説
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イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラは、インド・イラン語派の信仰を、善と悪との対立を基盤に置いた世界観を有し、また、きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革した。
ゾロアスター以前のインド・イラン語派の信仰でも、すでに「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた[1]。そのため、単にアフラ・マズダーまたはミスラを信仰していることだけでは、ゾロアスター教徒とはならない。異教時代と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教の信仰告白であるフラワラーネにあらわれている。そこでは五つの条件が挙げられている[2]。すなわち
- アフラ・マズダーを礼拝すること
- ゾロアスターの信奉者であること
- 好戦的で不道徳な神ダエーワと敵対すること
- アフラ・マズダーが創造した偉大な六つの存在アムシャ・スプンタを礼拝すること
- すべての善をアフラ・マズダーに帰すること
である。
上記の五つに加えてさらに、アフラ・マズダーを、創造主ととらえたことが、従来のインド・イランの信仰と著しく異なる点である[3]。
さて、ザラスシュトラは、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命、真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死や虚偽を選んだと唱えた[4] 。
善と悪の対立
スピターマの一族に属するザラスシュトラの思想は、バルフの小君主であったウィシュタースパ王の宮廷で受容されて発展した[4]。ザラスシュトラは、アフラ・マズダーの使者であり預言者としてこの世に登場し、善悪二元論的な争いの世界であるこの世界の真理を解き明かすことを使命としている。
かれによれば、知恵の主アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手とするために世界を創造した。その創造は天、水、大地、植物、動物、人間、火の7段階からなり、それぞれがアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された[4]。
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創造された「この世界」を舞台とした二つの勢力の戦いが、歴史であるという把握は、キリスト教の初期の神学者であるアウグスティヌスの歴史観に先行する世界史観とも言える。
善と悪が争い、最終的には善が勝利するとされている[5]。ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承していると言われる。さらに、大乗仏教において弥勒信仰と結びついたり、またマニ教もゾロアスター教の思想を吸収した[6]。イスラム教もまた、ユダヤ教やキリスト教、マニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、聖クルアーンにもゾロアスター教徒の名が登場する。
アケメネス朝からサーサーン朝まで
他宗教への影響と同様に、政治に対してゾロアスター教がどれほど影響をもっていたかも研究者により意見が分かれる。宗教と政治への影響力は互いに関連性があるため、他宗教に影響が大きいと考える研究者ほど、政治的影響も強かったと考える傾向にある。研究者によっては歴代王朝の支配下でゾロアスター教は「国教」であったと見なす場合もあるが、見解は統一されていない。
アケメネス朝
アケメネス朝ペルシア(紀元前550~330年)の歴代の大王たちが、ザラスシュトラの教え(ゾロアスター教)に帰依していたとする根拠には以下のものがある。
- アケメネス朝第3代の王ダレイオス1世は多くの碑文を残したが、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と記している[4][7]。
ダレイオス1世によるベヒストゥン碑文
自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている - 「聖なる火」の祭壇の遺跡が多数存在する。
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。
また、ゾロアスター教の影響が「限定的」であった根拠として次のようなものもある。
いずれにせよ、初代の王であるキュロス大王が「ユダヤ人のバビロン捕囚に対する解放者」と見なされるように、アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容であった。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝ペルシア帝国の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定されると考えられる。帝国に帰属する様々な民族の諸宗教に対しては一定の自由が保障されており、アケメネス朝支配下においてユダヤ人は独自の「シンクレティズム」[11]的宗教思想を育むことが可能であった。なお、同時代のギリシャの歴史家ヘロドトスは「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」、「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している[4]。
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セレウコス朝
アレクサンドロスの征服によってアケメネス朝は滅び、後継者のセレウコスの王朝がペルシアに成立(紀元前312~63年)する。当時、パレスティナからメソポタミア、イランにかけて「ヘレニズム」の影響が及んだ。ギリシア文化はインドまで伝播され、逆にインド文化も地中海世界に流れ込んだ。このような文化的シンクレティズムの時代にユダヤ教は新しい神学理論を生み出し、後のグノーシス主義や洗礼教団の起源となる「救済者」(メシア)の教理が流布された。そこから、ミトラス教やキリスト教の原型が形成されることとなった。ゾロアスター教も元来は寺院や偶像崇拝を認めなかったが、他文明の影響で受容するように変化した[12]。
パルティア王国
セレウコス朝が滅亡し、ペルシア人の帝国であるアルサケス朝(パルティア王国)が建国される(紀元前247~紀元後226年)。アルサケス朝においてゾロアスター教の公式教義が確定されたと考えられており、聖典『アヴェスター』を文書化し、古来の伝統を記録する思潮と連動していた。ただし、この時期の宗教がゾロアスター教であったかは、見解が分かれる。パルティアは史料が乏しいため、隣国のアルメニア王国の史料で推測すると、パルティアの宗教はゾロアスター教でなく「ミスラ教」に変質した可能性がある。[13]
サーサーン朝
パルティアを倒したサーサーン朝(紀元後226~651年)は宗教政策を一変させ、ゾロアスター教を正式に「国教」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、異端とされた資料は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。ゾロアスター教の国教化に重要な役割を果たしたカルティールはマニ教を異端とし、教祖マニを処刑した。『アヴェスター』の文書化はサーサーン朝成立後、半世紀以上経過した3世紀半ばに完成する。しかし、この時代には使用される言語が「中世ペルシア語」に変質しており、「古代ペルシア語」で記述されている『アヴェスター』の「ガーサー」部分は解読困難になっていた。
イスラム帝国とゾロアスター教の衰退
サーサーン朝はホスロー1世の時代に絶頂を迎えるが、王朝創始後4世紀にして、ムハンマドによるイスラム教の開教を迎える。アラブ族の民族宗教として始まったイスラム教は、しかし瞬く間に周縁諸地域に布教され、イスラム帝国の成立と拡大によって世界宗教の偉容を備える。サーサーン朝はイスラム帝国の前に滅亡する。
アラブ族はペルシアを軍事的に征服したが、古くから文明を発展させてきたペルシアは、イスラム帝国を内部から文化的に征服したと捉えられる一面がある。イスラム帝国のもと、ペルシアの文化は再度開花した。
イスラム帝国の歴史学者や知識人は、帝国の領土に含まれる土地の宗教や文化慣習を詳細な記録に残した。中世のメソポタミアやイランにおけるゾロアスター教、マニ教、ミトラス教などに関する情報は、イスラムの知識人たちの記録によるところが多い。
しかし、『デーンカルド』(宗教総覧)などのパフラヴィー語(中世ペルシア語)文献が伝えるゾロアスター教の姿は、『アヴェスター』の語るゾロアスターの教えとは整合しない部分が多数あり、また、少数派となりながらも、21世紀の今日まで生き延びているゾロアスター教信徒たちの「伝承の教え」と比較しても、食い違いが生じる。
サーサーン朝の国教となる以前のゾロアスター教は世界宗教であった。それは近隣の諸地域の文化に大きな影響を与え、信徒もまた広大な範囲に広がっていた。しかし、国教化と共に、そしてイスラム帝国の勃興と共に、ゾロアスター教は偏狭な面を備える宗教となって行き、その故地であるイランがイスラム化してからは、世界宗教として成熟したイスラム教に取って代わられた。
イスラム教徒の統治下でイランのゾロアスター教徒はズィンミーとされ、厳しい迫害を受けた。ジズヤの支払いは経済的圧迫となっただけでなく、精神的にも多大な屈辱をゾロアスター教徒に与えた。信仰の保持は認められたもののムスリムへの布教は死罪とされ、事実上不可能となった。このこともゾロアスター教が世界宗教から血縁に基づく民族・部族宗教へ衰退する要因となった。さらに寺院の修復や新築には特別の許可を必要とし、その他にも数々のムスリムとの差別待遇が存在した。表立った強制改宗は稀だったが、多くのゾロアスター教徒は差別と迫害を逃れるためにムスリムへの改宗を余儀なくされた。
10世紀、一部の信者は宗教上の自由を求めてインド西海岸に移住し、現地でパールスィー(ペルシア人の意)と呼ばれる集団となって千年後まで続く共同体を築いた。かれらは元来農業を営んでいたが、移住を機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった[12]。
近代に至り、イランの世俗化の流れの中でジズヤも廃止され漸くムスリムと法的に対等の権利を得るようになったが、イランイスラーム革命により再び隷属的地位におかれることとなった。
イランにおいては、ゾロアスター教の聖地に少数の共同体が存続し、21世紀の今日まで細々と教えの伝統を継承している。とはいえ、かつての世界宗教としてのゾロアスター教の姿はイスラームによる厳しい迫害を潜り抜けた今日の宗教共同体には見ることができず、ゾロアスター教は信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと、逆に後退し衰退してしまった。現在、ゾロアスター教では、信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。
イランのゾロアスター教
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ゾロアスター教は、現在のイランにも小規模であるが信徒の共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教え,ディーネ・ザルドゥシュト(دین زردشت)」と呼ばれている。
イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在している。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒だとされる。
ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。
ダフメ(daχmah いわゆる「沈黙の塔」)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝のレザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在では活用されておらず、観光施設として残されるにとどまる。
インドのゾロアスター教
世界各地のゾロアスター教
パキスタン
パキスタン(人口1億3000万人)のゾロアスター教徒は5000人で、主にカラチ一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。
日本
日本へのゾロアスター教伝来は未確証であり、ゾロアスター教の信仰・教団・寺院が存在した事実を示すものも発見されていないが、ゾロアスター教は唐時代に中国へ来ており、また日本には吐火羅や舎衛などのペルシア人が来朝していることから、なんらかの形での伝来が考えられている。イラン学者伊藤義教によれば、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している[14]。
また1970年代に、作家松本清張が『火の路』(文藝春秋)で、飛鳥時代の日本にゾロアスター教が伝わっていた、という物語を描き話題となった。松本の説によれば、斉明天皇はその信者であり、マギの秘術を使ったために『日本書紀』で神秘的な存在として描かれたのだとも、飛鳥の酒船石は神酒(ハオマ)を製造する為のものであったともいう。
中国
中国への伝来は、5世紀頃のこととされる。当時、東西に分裂していた華北の北周や北斉で広まっていたという。唐代には祆教と呼ばれ、都の長安や洛陽、敦煌や涼州などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人(ソグド人など)が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。 景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。
唐の武宗の廃仏(会昌の廃仏)の時に、仏教と共に廃毀され、以後は衰退してしまった。
また現在の新疆ウイグル自治区にあたる西域では、ウイグル人の間でマニ教とともに広く信仰されたが、11世紀から13世紀にかけてイスラム化された。
唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市の郊外には波斯荘という村があり、現在でもペルシャ人の子孫たちが暮らしている。彼らは回族としてイスラム教を信仰しているが、宗教儀式の中にゾロアスター教の名残が見られるという。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、上海や広州などではインドから渡来したパールシー商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火寺院が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する前は、マカオにパールシー商人が住んでいたようだ。
欧米
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には35,00人の信者が在住している。
逸話
- 日本では東芝が過去に使用した電球や真空管などのブランド名(ゼネラル・エレクトリックのライセンスによる)「マツダ」の綴り Mazda は、アフラ・マズダーに由来する
- 日本の自動車メーカーのマツダは創業者の姓(松田)を冠していると共に、その綴り Mazda はゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来する。
- フリードリヒ・ニーチェの著作「ツァラトゥストラはこう語った」のツァラトゥストラとは、ザラスシュトラをドイツ語読みしたものである。リヒャルト・シュトラウス作曲の同名の交響詩についても同様である。
パールシー出身の著名人
- カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(イギリスの作曲家)
- フレディ・マーキュリー(ザンジバル生まれのイギリスの歌手)
- ズービン・メータ(インド人の指揮者)
- ジャムシェトジー・タタ(タタ・グループの創始者)
- ラタン・タタ(タタ・グループの会長)
脚注
- ^ 「(アフラ・マズダーは)『リグ・ヴェーダ』では単に「アスラ(Asura)=主」として知られていたようで、ある詩句では、この二柱(火の神ミスラと水の神ヴァルナ)の下位の「主」は、次のような言葉で語りかけられている。『あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する』(「リグ・ヴェーダ」5:6,3:7)。三柱の「主」は、ともに非常に倫理的な存在で、アシャ(=イランでの自然の法則の呼び名)/リタ(=同インドでの呼び名)を擁護しつつ自らもこれに従う。これらの高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものであり、彼らの子孫の宗教に深く織り込まれている」(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.14~15より)
- ^ 「私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワ(好戦的で不道徳な神)を拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタ(=「聖なる不死者」の意味。特にアフラ・マズダーが創造した六つ偉大な存在を指すことが多い)を礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます」(ヤスナ12:1。メアリー・ボイス著『ゾロアスター教』P.50-52参照)
- ^ 「ここでは(ゾロアスター教徒の信仰告白の中では)、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、彼が、異教時代のイラン人にとってもそうみなされていたとは考えられない。なぜなら、もし彼ら(=異教時代のイラン人)が、どれか一つの神に創造的な活動を属させるとするならば、その神は(アフラ・マズダー、ミスラ、ヴァルナの三大アフラの中で)むしろ下位のアフラで、多分遠く離れて在る「叡智の主」の命令を実行する神であったヴァルナであったろうから。これは、おそらくゾロアスターの教義の中でもきわだった特徴の一つであった」(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.52)
- ^ a b c d e 山本(2006)
- ^ たとえばメアリー・ボイスによれば、アケメネス朝のキュロス王が、ユダヤ教を含む他宗教に寛容な政策をとったことで、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という(『ゾロアスター教』1983。P.74)。ただし、メアリー・ボイスがその著書の中で前提としている条件には、次のいくつかのことがある。ゾロアスターの出生が紀元前1500年から1200年の間であること(P.4)。ユダヤ人を前536年に解放したキュロス王がゾロアスター教の信仰を持っていたということ。また、この時点ですでに救済者の思想がゾロアスター教の中で成立していた、ということである(以上P.72-76)。だが、これらの前提条件に対しては意見が分かれるところでもある。
- ^ こうした影響に関する最新の論文としてWerner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, Journal of the Royal Asiatic Society vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。
- ^ 「ダリウスがゾロアスター教徒であったことには証拠がある。ペルセポリスの宮殿には有翼のフラワシ、あるいはアフラ・マズダーのシンボルが浮き彫りされている。ペルセポリスの遺跡には、火の寺院であったと伝えられる建築物もある。さらに、ダリウスの治世に造刻された碑文には、王の統治がアフラ・マズダーの恩寵によるものだと述べられている」(P・R・ハーツ『ゾロアスター教』P.59)
- ^ ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある(『ゾロアスター教』メアリー・ボイス著P.52参照)。アフラ・マズダーはゾロアスター以前からインド・イラン人の間で信仰されていた神なので、マズダーを信じるだけではゾロアスター教徒とは言い切れないのである。またP・R・ハーツは著書『ゾロアスター教』で、「ダレイオス1世がゾロアスター教徒であった」と論じているが、訳者である奥西俊介は「訳者あとがき」の中で次のように反論している。「現在のゾロアスター教徒がフラワシの像とし、自分たちの象徴にしている有翼円盤人物像も、研究者の多くは、アフラ・マズダーの像だとする。この像はアケメネス朝ペルシァの遺跡に見られる。しかし、同王朝の事実上の開祖ダリウス一世がマズダー信者であったことは確実だが、ゾロアスター教徒であったかどうかは明白ではない。」(P・R・ハーツ著『ゾロアスター教』P.171-172)
- ^ 「(ゾロアスター以前から)イラン人の祭司は、いずれかの神々にむけて礼拝式を捧げたが、(火と水にきまった供物を捧げるという)儀礼そのものは、いつも同じであったとみられる」(メアリー・ボイス『ゾロアスター教』P.18)
- ^ P・R・ハーツ著、奥西俊介訳『ゾロアスター教』P.171-172(P・R・ハーツの書いた本文ではなく、訳者の奥西俊介の「訳者あとがき」で、訳者が著者に対して反論している一節)
- ^ 「宗教混淆」、「混淆宗教」、「習合」と翻訳される概念であるが、「シンクレティズム」という単語のまま用いることが多い。
- ^ a b 山下(2007)
- ^ 「古代アーリア人の神格には存在していなかった『アラマズド=アフラ・マズダー』が『すべての父』と尊敬されている点では、アルメニアの宗教はゾロアスター教のようにも見える。しかし、ヤシュトの段階でやっと復権した『ヴァハグン=ウルスラグナ』や『ミフル=ミスラ』が非常に重要な地位を占め、宗主国ローマ皇帝をミスラ神になぞらえている点は重要である。これを重視するならば、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、ひいては『ゾロアスター教』という呼称自体が不正確で、本来はミスラ教というべき」(青木健『ゾロアスター教』P.91-92)。また、次のような記述もある。「概説書によっては、この歴代王朝(アケメネス王朝ペルシャ~アルシャク王朝パルティア)の支配化ではゾロアスター教が国教の位置にあったと説かれる。しかし、厳密には、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界線は曖昧で、そのどちらとも取れる諸宗教が幅広く受容されていたとしか言えない」。(P.104~105))
- ^ 伊藤義教『ペルシア文化渡来考』 岩波書店
参考文献
- 『ヴェーダ アヴェスター』 伊藤義教訳 <世界古典文学全集3>筑摩書房 原典の抄訳版
- 伊藤義教 『ゾロアスター研究』 岩波書店、1979年。
- 伊藤義教 『ゾロアスター教論集』 平河出版社 ISBN 4892033154
- 伊藤義教 『ペルシア文化渡来考』 岩波書店、1980年、ちくま学芸文庫 2001年
- 『ゾロアスター教論考』 エミール・バンヴェニスト&ゲラルド・ニョリ
- 前田耕作編・監訳、平凡社東洋文庫、1996年 ISBN 4582806090
- 前田耕作 『宗祖ゾロアスター』 ちくま新書/新版ちくま学芸文庫 ISBN 448008777X
- P.R.ハーツ、奥西峻介訳 『ゾロアスター教』 青土社、2004年 ISBN 4791760913
- 青木健 『ゾロアスター教の興亡』刀水書房 ISBN 4887083572
- 青木健 『ゾロアスター教史』 <刀水歴史全書79>刀水書房 ISBN 4887083742
- 青木健 『ゾロアスター教』 講談社選書メチエ ISBN 4062584085
- 岡田明憲 『ゾロアスター教 神々への賛歌』 平河出版社 ISBN 4892030538
- 岡田明憲 『ゾロアスター教の悪魔払い』 平河出版社 ISBN 4892030821
- 岡田明憲 『ゾロアスターの神秘思想』 講談社現代新書
- メアリー・ボイス/山本由美子訳 『ゾロアスター教』 筑摩書房、1983年/新版・講談社学術文庫、2010年2月 ISBN 406291980X
- 山本由美子 『マニ教とゾロアスター教 世界史リブレット』 山川出版社、1998年 ISBN 4634340402-ブックレット版
- ミシェル・タルデュー/大貫隆・中野千恵美訳 『マニ教』 <文庫クセジュ>白水社、2002年 ISBN 4560058482
- 山本由美子 「パルティアとゾロアスター教」、『ヘレニズムと仏教 NHKスペシャル 文明の道2』 (日本放送出版協会、2003年)に所収。
- ミルチア・エリアーデ 『世界宗教史 第13章 ザラスシュトラとイラン宗教』
- 筑摩書房・第1巻 ISBN 4480085645/ちくま学芸文庫・第2巻、ISBN 4480085629
- 山下博司 著「第Ⅱ章_インドの歴史と宗教」、山下博司・岡光信子(共著) 編『インドを知る事典』東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10722-7。
- 山本由美子 著「ゾロアスター教」、合志太士(編) 編『週刊朝日百科 シルクロード紀行18 ペルセポリス」』朝日新聞社、2006年。
- 堀尾幸司 『キリスト殺しの真相』文芸社
- 妹尾河童 『河童が覗いたインド』新潮文庫 ISBN 410131103X
関連項目
- アムルタート - アムシャ・スプンタの1人。
- ハルワタート - 同上。
- ツァラトゥストラはこう語った - ツァラトゥストラは、ザラスシュトラのドイツ語読み。
- エメラルドドラゴン - 作中名称の大半はゾロアスター教が由来。