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{{出典の明記|date=2011年2月}}
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'''タケシバオー'''({{lang|en|Takeshiba O}}、[[1965年]] - [[1992年]])は[[日本]]の[[競走馬]]である。[[1969年]][[JRA賞|啓衆社賞]]年度代表馬であり、[[天皇賞|天皇賞(春)]]、[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日盃3歳ステークス]]などに優勝した。[[中央競馬]]史上初の1億円獲得馬でもある。[[2004年]]に[[顕彰馬]]に選出された
'''タケシバオー'''([[1965年]][[4月23日]] - [[1992年]][[1月12日]])は[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。


1967年に中央競馬でデビュー。同年、関東の3歳王者戦・[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]に優勝し、[[JRA賞最優秀2歳牡馬|啓衆社賞最優秀3歳牡馬]]に選出。翌1968年の[[中央競馬クラシック三冠|4歳クラシック三冠]]戦線では[[マーチス]]、[[アサカオー]]と共に「三強」と称され、[[皐月賞]]2着、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]2着の成績を残した。1969年に[[天皇賞(春)]]に優勝、秋には中央競馬史上初の獲得賞金1億円越えを達成し、同年][[JRA賞|啓衆社賞]]年度代表馬に選出された。通算29戦16勝。あらゆる競走条件で活躍し、中央競馬で初めて「怪物」の異名を冠され<ref name="yushun8703" />、また当時としては裏付けのない血統ながら、良血のライバルを破っていく姿から「野武士」とも称された<ref name="yushun9502" />。競走馬引退後の1970年より種牡馬となり、数々の重賞勝利馬を輩出。2004年には[[JRA顕彰馬]]に選出された。
中央競馬 (JRA) 記録のレコードタイム5回とその勝ちっぷりから怪物とよばれた。その反面、2着が多い(計10回)側面も持っていた。


== 戦績 ==
== 経歴 ==
=== 出生までの経緯 ===
[[馬齢]]は旧表記を用いる。
1950年代、競走馬不足を解消するためオーストラリアやアメリカから数多くの馬が輸入されていた<ref>『日本の名馬』p.420</ref>。本馬の母系祖母クニビキは[[大井競馬場|大井競馬]]がオーストラリアより輸入した1頭で<ref name="yushun9009">『優駿』1990年9月号、pp.76-77</ref>、旧名をNice Starといった<ref name="meiba">『日本の名馬』pp.400-405</ref>。同時に輸入された馬には後の天皇賞優勝馬[[ミッドファーム]]もいたが、この馬は員数合わせというような存在で「輸送費より安い」と噂されていた<ref name="yushun9009" />。頒布の抽籤会場で4人の共有馬主グループに引き当てられたが、抽籤前には「あれだけは引いてくれるな」と敬遠されており、クジを引いた馬主の名が「クニジロウ」であったことから、「クニジロウが引いた馬」という意味で「クニビキ」と命名された<ref name="yushun9009" />。クニビキは大井で5戦0勝という成績を残して繁殖入りし、種付け料が安く、繋養場所が近かったヤシママンナと交配され、牝馬を出産<ref name="fujino">藤野(1992)pp.94-97</ref>。同馬は4人の馬主姓(高橋、勝村、角田、藤波)をとって「タカツナミ」と命名されたが不出走のまま繁殖入りし、2頭の仔を産んだのち、[[チャイナロック]]と交配された<ref name="yushun9009" />。チャイナロックはのちに[[リーディングサイアー]]ともなる名種牡馬であるが、当時は中央で重賞勝ち馬を2頭出していた程度で、同馬が選ばれた理由もまた「種付け料が安い」ためであった<ref name="fujino" />。


=== デビューまで ===
[[1967年]]の朝日盃3歳ステークスを7[[着差 (競馬)|馬身差]]で優勝。[[関東地方|関東]]の3歳王者として、[[1968年]]の4歳[[中央競馬クラシック三冠|クラシック]][[競馬の競走|競走]]では[[アサカオー]]、[[マーチス]]とともに「元祖・三強」の構図を形成したが、タケシバオーは[[皐月賞]]をマーチス、[[東京優駿]](日本ダービー)は[[タニノハローモア]]の2着に終わり、[[菊花賞]]は[[ワシントンD.C.インターナショナル]](8着)に出走したため出走せず(優勝馬はアサカオー)、結局クラシックとは無縁に終わった。
1965年、タカツナミは牡馬を出産。牧場での幼名は「ハヤテロック」とされた<ref>更級(1992)p.285</ref>。まったく見栄えのしない馬体で、のちの管理調教師・[[三井末太郎]]は一目見て「これが馬ですか」と漏らしたといわれる<ref name="yushun8703">『優駿』1987年3月号、pp.35-38</ref>。タカツナミ産駒は4人の馬主が順番に引き取ることになっていたが、当年順番だった馬主は占い師から「今年はよくない」と進言されて辞退し、ほかの3人も事情により引き取らず、希望額250万円で売却されることになった<ref name="yushun9009" />。このころチャイナロック産駒を探していた中央競馬調教師の[[小林稔 (競馬)|小林稔]]が牧場を訪れ、場主の榊憲治はハヤテロックの代金に260万円を提示したが成立せず、やむなく牧場の縁者である[[小畑正雄]]([[競友]]社長)が200万円で引き取ることになった<ref name="yushun8703" />。


競走年齢の3歳に達した1967年、競走名「タケシバオー」として[[東京競馬場]]の三井末太郎のもとへ入厩。もともと馬の飼料に一家言をもっていた三井は、小畑と相談のうえでアメリカやイギリスから高品質の飼料や栄養剤を輸入し、タケシバオーに与えた<ref name="meiba" />。そのうえで入念な乗り運動が行われ、入厩時400kg程度だった体重は、デビュー時には460kgまで増加した<ref name="yushun8703" />。
[[馬齢|古馬]]になってからはタケシバオーの独擅場で、[[1969年]][[3月1日]]のオープン戦では60[[キログラム]]の[[負担重量|斤量]]を背負ったにもかかわらず大差勝ちのうえに、[[東京競馬場]][[ダート]]1700[[メートル]]のレコードタイムを叩き出した。このコースはのちの改修によりコース設定自体がなくなったが、このときのタイム1分41秒9は、[[2006年]][[8月27日]]に[[小倉競馬場]]で行われた[[中央競馬のオープン特別競走#阿蘇ステークス|阿蘇ステークス]]でサンライズキングが1分41秒8を記録するまで、実に37年5か月もの間日本レコードであった。


=== 戦績 ===
その後、春の天皇賞([[芝]]3200メートル)や、第3回[[スプリンターズステークス]]に該当する「英国フェア開催記念」(芝1200メートル。当年のみ名称変更で開催)をともに勝ち、その間にもオープンのジュライステークス(芝1800メートル)を65キログラムの斤量で勝利するなど8連勝、しかも8連勝のうちレコード勝ちが4回という驚異的なオールラウンダーぶりで長距離、短距離、芝、ダート、斤量、馬場状態を問わずどの条件でも強さを発揮した。最後にはどんなレースにタケシバオーが登録するという情報が出ても、[[報道機関|マスコミ]]や競馬関係者も誰も文句や批判を言わなくなったほどである。また、あくまで冗談を含んだ比喩とはいえ「ハンデ100キログラムが妥当」とか「[[横綱]][[大鵬幸喜|大鵬]]が乗っても勝てる」という声まで実際に上がったほどの勝ちっぷりであったという。
==== 3歳時(1967年) ====
1967年6月、新潟開催でデビュー。[[畠山重則]]を鞍上に初戦からオープン競走に使われ2着<ref name="yushun9608">『優駿』1996年8月号、pp.89-91</ref>。2戦目も2着としたのち、[[函館競馬場|函館開催]]に移り騎手が[[中野渡清一]]に替わった3戦目を逃げきって初勝利を挙げた<ref name="meiba2">『日本の名馬』pp.406-413</ref>。のち膝を痛めて一時休養し、札幌で出走した特別戦では3着と敗れた。これはタケシバオーが日本国内で唯一連対(2着以内)を外した例となった<ref name="meiba2" />。このころの3歳馬で最も評価が高かったのは[[札幌2歳ステークス|北海道3歳ステークス]]などの優勝馬[[キタノダイオー]]だったが、同馬は後に故障のため戦線を離脱している<ref name="meiba2" />。


のちタケシバオーは[[福島競馬場|福島開催]]で2勝を加え、[[中山競馬場|中山]]のオープン戦にも勝利し、3連勝で関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスに臨んだ。競走前には[[中村広]]厩舎の[[アサカオー]]と並んで調教が行われたが、同馬に10馬身以上先着していた<ref>『日本の名馬・名勝負物語』pp.328-330</ref>。当日は3番人気であったが、先行策から直線入口で先頭に立つと後続を一気に離し、2着ステートターフに7馬身差をつけて重賞初勝利を挙げた<ref name="meiba2" />。7馬身差は競走史上最大着差であり、タケシバオーは一躍、翌年の東京優駿(日本ダービー)への最有力候補に挙げられた<ref name="yushun8703" />。
当時の古馬でトップクラスの実力を持った[[スピードシンボリ]]や[[カブトシロー]]らとの対決はほとんどなかったが、それを抜きにしても、レース条件も斤量も問わないタフさは多くの競馬ファンに強烈な印象を残した。ちなみに主戦を務めた[[古山良司]]元[[騎手]]・[[調教師]]は後年、もしタケシバオーが現在の競走体系で活躍していたらとの問いに、「ダート交流戦中心で戦って、目標は[[ジャパンカップダート]]にしているだろう」と語っている。


==== 4歳時(1968年) ====
この馬がここまでの万能な強さ、タフさを示した理由については、血統論を中心とする競馬評論や生産者の観点から多くが語られ諸説がある。父親の[[チャイナロック]]も「性豪」と異名を取るほどのタフさで知られた[[種牡馬]]で、そのタフさを色濃く受け継いでいるという見方も多い。他方、多くの記述では共通してこの馬が血統的に[[アウトブリード]]であったことを根拠のひとつに指摘している。アウトブリード交配の健全性と効果を示す際には、時間を経た現在でもタケシバオーはその大きな成功例として挙げられることがある。
===== 「三強」の戦い =====
1968年、4歳となったタケシバオーは緒戦のオープン戦を勝ったのち、[[共同通信杯|東京4歳ステークス]]では2着ヤシマオーカンに8馬身差、ダート1700メートルを1分44秒3というレコードタイムで制した<ref name="meiba2" />。しかし続く[[弥生賞]]では逃げ馬のカドマスとスタートから激しく競り合い、1000メートル通過が57秒7という当時のレコードタイムを上回るペースで飛ばした末、ゴール前でアサカオーに差されての2着と敗れた<ref name="fujino" />。競走前のインタビューで「いくらタケシバオーでもカドマスの快速にはついて行けないでしょう」と水を向けられていたことを意識してのレース運びだったが、中野渡はこれを最後にタケシバオーから降ろされることになり、後年「馬鹿なことをやったものだ」と後悔の念を吐露している<ref name="fujino" />。なお、この競走には関西から東上してきていた[[マーチス]]も出走しており、タケシバオーから2馬身差の3着となっている。


このあとタケシバオーは新たな騎手に[[森安弘昭]]を迎えてオープン戦に勝利。アサカオーとマーチスは[[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]]で再戦し、ハナ差で1、2着となる<ref name="fujino2">藤野(1992)pp.98-101</ref>。弥生賞の上位3頭が再び顔を揃えた[[スプリングステークス]]では、東上後の疲労が抜けたマーチスが勝利し、タケシバオー2着、アサカオー3着となった<ref name="yushun9502">『優駿』1995年2月号、pp.88-89</ref>。最有力馬と評されていたタケシバオーが弥生賞から連敗したことにより、クラシックはタケシバオーにアサカオーとマーチスを加えた「三強」による争いとみられるようになった<ref name="fujino2" />。
おもな勝ち鞍はほかに[[共同通信杯|東京4歳ステークス]]、[[東京新聞杯]]、[[京都記念]]、[[毎日王冠]]。海外遠征(ワシントンD.C.インターナショナル)も2度行ったがともにアクシデントに見舞われ最下位に敗れている。結局、2度目の海外遠征で感冒による発熱中に出走を強行し、それが原因で帰国後下肢に麻痺が生じて、そのまま現役を引退した。


5月19日に迎えた皐月賞は降雨による重馬場のなか行われた<ref name="yushun9502" />。タケシバオーは重馬場を得意としており、当日の人気もタケシバオー、マーチス、アサカオーの順となった<ref name="yushun9502" />。スタートが切られるとタケシバオーは立ち後れて7番手、アサカオーは後方、マーチスは最後方につけた。道中で2番手まで位置を上げたタケシバオーは第3コーナー手前で先頭に立ち、そのまま最後の直線に入る。直線半ばでタケシバオーはアサカオーに一度かわされながらもこれを差し返したが、その直後、後方から追い込んだマーチスにゴール前でかわされ、同馬から4分の3馬身差の2着と敗れた<ref name="yushun9502" />。アタマ差の3着にアサカオーが入り、4着ジンライはそれから5馬身離されていた<ref name="yushun9502" />。タケシバオーは続いて[[NHK杯 (競馬)|NHK盃]](ダービートライアル)に進みマーチスと再戦。重馬場のなか逃げを打ったが同馬に1馬身半差の2着と敗れた<ref name="yushun9503">『優駿』1995年3月号、pp.88-91</ref>。
種牡馬になってからタケシバオーが出した代表[[産駒]]は以下のとおり。
*[[ドウカンヤシマ]] - [[中央競馬]]で3歳から8歳まで6年連続[[重賞]]制覇、[[金杯 (競馬)|金杯]]東西制覇のめずらしい記録をもつ。
*[[ハツシバオー]] - [[三冠_(競馬)#南関東三冠|南関東三冠]]、[[東京大賞典]]を勝利。


当年の日本ダービーは東京競馬場の改築のため例年より1カ月遅れの7月7日に行われ、「[[七夕]]ダービー」と呼ばれた<ref name="yushun9503" />。当日はマーチスが単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持され、タケシバオー2番人気、腹痛でNHK盃を回避し体調不良が伝えられていたアサカオーが3番人気となった<ref name="yushun9503" />。スタートが切られると9番人気の[[タニノハローモア]]が最内枠から先頭を奪い、タケシバオーは中団に控え、2馬身ほど後ろにアサカオー、後方にマーチスという展開で進んだ。単騎で逃げていたタニノハローモアの脚は最後の直線に入っても衰えなかったが、タケシバオーとアサカオーは後方のマーチスを警戒して動けなかった。直線半ばで森安タケシバオーは後ろを見限って目標をタニノハローモアに切り替えたが時すでに遅く、同馬に5馬身差をつけられての2着に終わった<ref name="yushun9503" />。1馬身半差の3着にアサカオー、第2コーナーで他馬と接触していたマーチスはハナ差の4着となった<ref name="yushun9503" />。森安は「体調、レース展開ともに良かったが、やはり縁がなかったんだろう」と述べ<ref name="meiba2" />、さらに後年「もっと早めに追い出していれば勝てたか」との質問に「いや、勝てなかったでしょう。ダービーが例年通り5月に行われていたら、あるいは勝てたかもしれない。でも、タケシバオーの調子はちょうど下り坂になっていた。あのときのタニノハローモアは強かったですよ」と回顧している<ref name="yushun9503" />。
また、皐月賞優勝馬[[ドクタースパート]]の母の父がタケシバオーである。ほかにも重賞勝ち馬はそこそこ出しており、当時は[[内国産馬|内国産]]種牡馬冬の時代であったことを考えれば十分に成功といえる活躍であった。産駒は全体的に頑健で連戦にも強い馬が多く、とくに[[地方競馬]]の馬主からは大損をさせないと好評であった。


===== アメリカ遠征 =====
[[1992年]][[1月12日]]、心不全により繋養先の[[北海道]]・競優牧場で死亡したが、やはりそのタフさに恥じぬ28歳の長命であった。
夏を経て、タケシバオーはアメリカの[[ローレルパーク競馬場]]から国際競走ワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受ける。クラシック三冠最終戦の[[菊花賞]]へという選択肢もあったが、馬主の小畑は遠征を選択。4歳馬の同競走への遠征ははじめてのことで、小畑は「日本のサラブレッドが世界の水準にどこまで迫れるか。その関心が大きく、挑戦を決意した」と語った<ref name="yushun8703" />。9月、マーチスの騎手であった[[保田隆芳]]を鞍上にオープン戦を2着したのち渡米。11月11日、競走当日を迎えた。イギリスのクラシック二冠馬[[サーアイヴァー]]、同オークス優勝馬ララギューン、前年度優勝馬[[フォートマーシー]]らが顔を揃えたなか、保田騎乗のタケシバオーは第3コーナーまで逃げを打っていたものの、サーアイヴァーに後躯を引っ掛けられたこともあり急激に失速し、8頭立ての最下位に終わった<ref name="yushun8703" />。競走後に後脚を確認すると球節に外傷を負っており、[[蹄鉄]]はくの字に折れ曲がっていた<ref name="yushun8703" />。


帰国したタケシバオーは、年末のグランプリ競走・[[有馬記念]]へのファン投票において、菊花賞に優勝したアサカオー、マーチスに次ぐ第3位に選出されたがこれを回避<ref name="arima">『優駿』2011年1月号、p.33</ref>。翌年春での引退を予定していた保田に替わり、新たに[[古山良司]]を迎えてオープン戦に出走した<ref name="yushun9608" />。この競走ではスタートで後手を踏んで後方からのレース運びとなり、直線で伸びたものの2着となってシーズンを終えた<ref name="yushun9608" />。敗れはしたものの、古山はタケシバオーのストライドの大きさに非常に驚き、内容自体には満足していたという<ref name="yushun9608" />。
2004年、顕彰馬に認定された。

==== 5歳時(1969年) ====
===== 天皇賞制覇 =====
5歳となった1969年、緒戦のオープン戦でまたしても2着と敗れたが、2月の[[東京新聞杯]]では他馬への先約があった古山に代わって再び保田を迎えると、2着に6馬身差・ダート2100メートルで2分9秒5というレコードタイムで10カ月ぶりの勝利を挙げた<ref name="yushun9608" />。

タケシバオーはここから快進撃をはじめ<ref name="yushun9608" />、続くオープン戦では騎手が古山に戻り、60キログラムの[[負担重量|斤量]]を負いながらダート1700メートルで1分41秒9という2戦連続のレコードタイムで勝利。競走直後から関係者の間で「アメリカ並のタイムだ」と騒がれ<ref name="yushun9608" />、このレコードは2003年に東京競馬場が全面改修され、同条件のコース設定が消滅するまで更新されなかった<ref>http://www.nikkankeiba.com/jra50/08/08.html</ref>。その後は[[京都競馬場|京都]]で行われる天皇賞(春)に備えて西下し、[[京都記念]]では62キログラムを背負って勝利<ref name="yushun9608" />。その後は阪神開催のオープン戦に出走して芝1600メートルの日本レコードを樹立し、4月29日、天皇賞へ臨んだ<ref name="yushun9608" />。

タケシバオーは生涯最高という好調で、調教の様子を見た[[武田文吾]]は「大地をゆるがす戦車がやってきた」と評した<ref name="yushun8703" />。アサカオー、マーチスとの久々の対戦となったが、当日は両馬を抑えて1番人気の支持を受ける<ref name="yushun8703" />。スタートが切られると7頭立て6番人気のダイイチオーが押し出されるように先頭に立ち、タケシバオーは離れた3番手を進んだが、1000メートル通過は64秒5という調教並のスローペースであった<ref name="yushun9609">『優駿』1996年9月号、pp.88-91</ref>。1400から1600、2000から2200のラップでは14秒台が刻まれるほどのスローが続いたが、第3コーナーから最終コーナーにかけて徐々にペースが上がっていった<ref name="yushun9609" />。タケシバオーは最後の直線半ばでダイイチオーをかわし、追い込んだアサカオーに2馬身差をつけて優勝を果たした<ref name="yushun9609" />。3200メートルの長距離を駆け抜けながら、ゴール前200メートルの公式ラップは11秒0、タケシバオーは推定で10秒台という従来にない鋭い瞬発力を見せていた<ref name="yushun9609" />。古山は「これまでのどの馬よりも強い。アサカオーが後方からきて差せるわけがないよ」と語った<ref name="yushun8703" />。

===== 初の「1億円ホース」となる =====
その後、タケシバオーは[[宝塚記念]]を目標に関西に留まって調教を続けていたが、その過程で熱を出して回避を余儀なくされた<ref name="yushun8703" />。熱が収まってからオープン特別競走・ジュライステークスに出走。次点の馬より8キログラム重い、生涯最高の65キログラムを負わされたタケシバオーは、スタートから行き脚がつかず不良馬場のなかで後方を進んだ<ref name="yushun9609" />。この様子に古山も諦めかけていたが、しかし最後の直線に入ると鋭く伸び、スイートフラッグをアタマ差かわして勝利した<ref name="yushun9609" />。古山は後に「レコード勝ちとか大差勝ちとか、いろいろ派手な勝ち方もあったが、いちばん強いなと思ったのはこのレースだった」と回顧している<ref name="yushun9609" />。

のち休養に入ったタケシバオーは、ワシントンD.C.インターナショナルへの再びの出走を視野に、9月の[[毎日王冠]]から復帰<ref name="yushun9609" />。62キログラムを負い道中向正面まで最後方を進んだが、そこから先行勢を次々とかわしていき、2着に3馬身半差を付けて勝利<ref name="yushun9609" />。またこの時点で獲得賞金額は1億460万円となり、史上初の1億円越えを達成<ref name="yushun1203">『優駿』2012年3月号、pp.34-35</ref>。「1億円馬タケシバオー」などと一般誌にも報じられた<ref name="yushun1203" />。

===== 再びのアメリカ遠征-引退 =====
9月28日、アメリカ遠征への壮行戦として英国フェア開催記念([[スプリンターズステークス]])に出走。古山が競走当日の落馬負傷のため騎乗できず、その日騎乗予定のなかった若手の[[吉永正人]]が急遽手綱をとった<ref name="iguchi">井口(1986)pp.138-139</ref>。「1億円馬」への騎乗に緊張する吉永に、古山は「安心して乗ってきなよ」と声を掛けたという<ref name="yushun9609" />。レースは前年の有馬記念優勝馬[[リュウズキ]]を退け、1分10秒4のレコードタイムで勝利<ref name="yushun8703" />。吉永は「目一杯に追っていたら1分9秒台が出ていたでしょう」と語った<ref name="yushun8703" />。

タケシバオーは10月20日にアメリカへ到着したが、競走前週になって熱を出し、ワシントンD.C.インターナショナル当日(11月11日)になっても体温は昇降を繰り返していた<ref name="yushun8703" />。陣営は出走に踏み切ったものの、レースでは馬群についていけず、前年に続く大差最下位の7着と敗れた<ref name="yushun8703" />。小畑は「馬のためには出さないのがほんとうだが、選ばれて代表馬となり、使わないというのも責任のないことなのでタケシバオーにはかわいそうだが出走させることにした」と語った<ref name="yushun8703" />。

帰国後も馬場で転倒するなど重い疲労が抜けず<ref name="yushun8703" />、マーチスに次ぐファン投票2位に推されていた<ref name="arima" />有馬記念出走を断念<ref name="yushun8703" />。12月22日、小畑より引退が発表された<ref name="yushun8703" />。翌1970年2月22日、東京競馬場で引退式が行われたが、古山を乗せたタケシバオーの脚元はおぼつかなかった<ref name="yushun8703" />。小畑は「タケシバオーは神からの授かりものだった。私個人だけの馬じゃない。ローレル行きは使命だったのです」と述べた<ref name="yushun8703" />。なお、タケシバオーの獲得賞金は当時歴代1位の1億1365万円にのぼったが<ref name="yushun1203" />、小畑は「授かりもの」である賞金のほとんどを[[赤十字]]に寄付したほか、祝勝パーティーの開催、記念品の配布に吐き出していた<ref name="yushun9009" />。

=== 種牡馬時代-死後の殿堂入り ===
種牡馬となったタケシバオーは故郷の競優牧場で繋養されたが<ref name="yushun8703" />、輸入種牡馬が重用されるなかで人気は芳しくなく、しばらくは牧場の自家生産を中心とした種牡馬活動が続いた<ref name="yushun8703" />。しかし産駒の出来の良さが評判となるにつれて交配数は増えていき、産駒出生率の高さも歓迎され、初年度には20頭だった相手が1982年には一流種牡馬並の94頭まで増加した<ref name="yushun8703" />。主な産駒には中央競馬記録の6年連続重賞勝利を達成した[[ドウカンヤシマ]]、[[南関東公営競馬]]で三冠を達成した[[ハツシバオー]]などがいる<ref name="yushun8703" />。ハツシバオーは種牡馬としても中央競馬で[[朝日チャレンジカップ]]を勝った[[ハツシバエース]]を出した。

1992年1月12日夜、タケシバオーは馬房の中で倒れているところを発見され、[[心不全]]のためそのまま息を引き取った<ref name="shinikata">『サラブレッド101頭の死に方』pp.105-109</ref>。27歳没。

死後の2000年に日本中央競馬会が主催した、ファン投票による20世紀の名馬選定企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では39位となった<ref>『優駿』2000年10月号、p.35</ref>。また競馬会の広報誌『[[優駿]]』が独自に選定した「20世紀のベストホース100」にも名を連ねている<ref>『優駿』2000年11月号、p.18</ref>。2004年、[[JRA顕彰馬]]を選定する投票が行われ、タケシバオーは当年特別に設けられた「1983年以前に競走馬登録を抹消された馬」という区分で4分の3以上の141票を獲得し、「1984年1月1日から2003年3月31日の間に競走馬登録を抹消された馬」の区分で選出された[[テイエムオペラオー]]と共に中央競馬の殿堂に加えられた<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20040803230426/http://www.keibado.ne.jp/keibabook/040510/plaza_t.html |title=オペラオー、タケシバオー顕彰馬に |author= |publisher=競馬道online |accessdate=2015年6月14日 |date=2004-5-10}}</ref>。

== 競走馬としての評価 ==
芝、ダート、馬場状態、負担重量、距離といった諸条件を全く問題としない万能の強さをもち、距離体系などが確立されていなかった当時にあっても、長距離3200メートルの天皇賞を勝ち、短距離1200メートルの英国フェア開催記念でレコード勝ちをするという実績は特異なものだった<ref name="turf">『優駿増刊号TURF』p.10</ref>。『優駿』が1991年に競馬関係者へ行ったアンケートでは、「最強馬」部門で[[シンボリルドルフ]]、[[シンザン]]に次ぐ3位となった<ref name="turf" />。この結果を伝えられた古山良司は「3位?そんなぽっちか(笑)」というコメントを寄せている<ref name="turf" />。また講評会では、[[杉本清]]が「馬場が悪いとか、重量に殺されたとか、展開が向かなかったとか言ってるうちは、本当に強い馬とはいえないんじゃないか」と述べ、それに対して[[山口瞳]]と[[井崎脩五郎]]が「その点、タケシバオーは良かった」、「タケシバオーはそういった面で見ると1位」と応じている<ref>『優駿増刊号TURF』p.42</ref>。また、『優駿』が1985年に読者向けに行った同様のアンケートでは7位<ref>『優駿』1985年9月号、p.131</ref>、[[日本馬主協会連合会]]が2000年に馬主を対象に行ったものでは「一番の名馬と思う競走馬は」という設問で8位タイとなっている<ref>『日本馬主協会連合会40年史』p.198</ref>。

古山によれば、その乗り味は「別にバネがすごいっていう感じじゃなくて、歩幅が前に前に伸びていく感じ。普通の馬の感覚で走ると、前の馬に乗っかってしまう」というものだった<ref name="turf" />。他方、スタートは上手くなく、とくに牝馬を気にする性質であったため、隣枠に牝馬が入ると「もうダメ」だったという<ref name="turf" />。3戦で手綱を執った保田隆芳は「マーチスと比べると、素直で乗りやすい馬だった。スピードもあったし、後ろから行っても、良い末脚を使った」と評している<ref name="turf" />。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
{|style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
{|style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|-
|-
!colspan="3"|年月日!!競馬場!!競走名!!頭<br />数!!馬<br />番!!人気!!着順!!距離!!タイム!!騎手!!斤量!!着差!!勝ち馬/(2着馬)
!colspan="3"|年月日!!競馬場!!競走名!!頭<br />数!!馬<br />番!!人気!!着順!!距離!!タイム!!騎手!!斤量!!着差!!勝ち馬/(2着馬)!!馬体重
|-
|-
|[[1967年|1967]]
|[[1967年|1967]]
58行目: 94行目:
|7
|7
|3人
|3人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1000m(良)
|芝1000m(良)
|1.00.2
|1.00.2
|[[畠山重則]]
|[[畠山重則]]
|50
|50
| -0.8秒
|0.8秒
|イスズヒメ
|イスズヒメ
|460
|-
|-
|
|
74行目: 111行目:
|5
|5
|5人
|5人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1000m(良)
|芝1000m(良)
|59.7
|59.7
|畠山重則
|畠山重則
|50
|50
| -0.4秒
|0.4秒
|スズノツバサ
|スズノツバサ
|464
|-
|-
|
|
90行目: 128行目:
|5
|5
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1000m(良)
|芝1000m(良)
|59.7
|59.7
97行目: 135行目:
|6馬身
|6馬身
|(ヨシヒロ)
|(ヨシヒロ)
|460
|-
|-
|
|
111行目: 150行目:
|中野渡清一
|中野渡清一
|51
|51
| -0.6秒
|0.6秒
|タジマオー
|タジマオー
|483
|-
|-
|
|
122行目: 162行目:
|3
|3
|2人
|2人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1000m(良)
|芝1000m(良)
|59.6
|59.6
129行目: 169行目:
|5馬身
|5馬身
|(スズノツバサ)
|(スズノツバサ)
|482
|-
|-
|
|
138行目: 179行目:
|3
|3
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1100m(重)
|芝1100m(重)
|1.07.9
|1.07.9
145行目: 186行目:
|2馬身
|2馬身
|(ステートターフ)
|(ステートターフ)
|490
|-
|-
|
|
154行目: 196行目:
|5
|5
|2人
|2人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1200m(重)
|芝1200m(重)
|1.12.9
|1.12.9
161行目: 203行目:
|3 1/2馬身
|3 1/2馬身
|(スズノツバサ)
|(スズノツバサ)
|486
|-
|-
|
|
170行目: 213行目:
|4
|4
|3人
|3人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(稍)
|芝1600m(稍)
|1.38.4
|1.38.4
177行目: 220行目:
|7馬身
|7馬身
|(ステートターフ)
|(ステートターフ)
|482
|-
|-
|[[1968年|1968]]
|[[1968年|1968]]
186行目: 230行目:
|3
|3
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|芝1600m(良)
|1.36.9
|1.36.9
193行目: 237行目:
|5馬身
|5馬身
|(オンワードビート)
|(オンワードビート)
|488
|-
|-
|
|
202行目: 247行目:
|2
|2
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1700m(不)
|ダ1700m(不)
|{{color|red|R1.44.3}}
|{{color|darkred|R1.44.3}}
|中野渡清一
|中野渡清一
|55
|55
|8馬身
|8馬身
|(ヤシマオーカン)
|(ヤシマオーカン)
|488
|-
|-
|
|
218行目: 264行目:
|4
|4
|1人
|1人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1600m(良)
|芝1600m(良)
|1.37.6
|1.37.6
|中野渡清一
|中野渡清一
|56
|56
| -0.2秒
|0.2秒
|[[アサカオー]]
|[[アサカオー]]
|490
|-
|-
|
|
234行目: 281行目:
|6
|6
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(重)
|芝1800m(重)
|1.53.9
|1.53.9
241行目: 288行目:
|3馬身
|3馬身
|(タジマオーザ)
|(タジマオーザ)
|486
|-
|-
|
|
250行目: 298行目:
|1
|1
|1人
|1人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1800m(重)
|芝1800m(重)
|1.53.3
|1.53.3
|森安弘明
|森安弘明
|56
|56
| -0.2秒
|0.2秒
|[[マーチス]]
|[[マーチス]]
|486
|-
|-
|
|
266行目: 315行目:
|8
|8
|1人
|1人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝2000m(重)
|芝2000m(重)
|2.06.4
|2.06.4
|森安弘明
|森安弘明
|57
|57
| -0.1秒
|0.1秒
|マーチス
|マーチス
|488
|-
|-
|
|
282行目: 332行目:
|2
|2
|2人
|2人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝2000m(重)
|芝2000m(重)
|2.02.8
|2.02.8
298行目: 348行目:
|15
|15
|2人
|2人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝2400m(稍)
|芝2400m(稍)
|2.31.9
|2.31.9
|森安弘明
|森安弘明
|57
|57
| -0.8秒
|0.8秒
|[[タニノハローモア]]
|[[タニノハローモア]]
|494
|-
|-
|
|
314行目: 365行目:
|4
|4
|2人
|2人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1600m(良)
|芝1600m(良)
|1.36.4
|1.36.4
|[[保田隆芳]]
|[[保田隆芳]]
|58
|58
| -0.1秒
|0.1秒
|ヤマトダケ
|ヤマトダケ
|502
|-
|-
|
|
335行目: 387行目:
|保田隆芳
|保田隆芳
|54.5
|54.5
| -24馬身
|24馬身
|[[サーアイヴァー|Sir Ivor]]
|[[サーアイヴァー|Sir Ivor]]
|-
|-
|-
|
|
346行目: 399行目:
|2
|2
|2人
|2人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1800m(良)
|芝1800m(良)
|1.54.5
|1.54.5
|[[古山良司]]
|[[古山良司]]
|58
|58
| -0.3秒
|0.3秒
|ニットウヤヨイ
|ニットウヤヨイ
|500
|-
|-
|[[1969年|1969]]
|[[1969年|1969]]
362行目: 416行目:
|6
|6
|3人
|3人
|{{color|blue|2着}}
|{{color|darkblue|2着}}
|芝1800m(良)
|芝1800m(良)
|1.50.8
|1.50.8
|古山良司
|古山良司
|57
|57
| -0.3秒
|0.3秒
|[[シェスキイ]]
|[[シェスキイ]]
|498
|-
|-
|
|
378行目: 433行目:
|5
|5
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|ダ2100m(稍)
|ダ2100m(稍)
|{{color|red|R2.09.5}}
|{{color|darkred|R2.09.5}}
|保田隆芳
|保田隆芳
|58
|58
|6馬身
|6馬身
|(クリロイス)
|(クリロイス)
|498
|-
|-
|
|
394行目: 450行目:
|1
|1
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1700m(重)
|ダ1700m(重)
|{{color|red|R1.41.9}}
|{{color|darkred|R1.41.9}}
|古山良司
|古山良司
|60
|60
|大差
|大差
|(スイートフラッグ)
|(スイートフラッグ)
|508
|-
|-
|
|
410行目: 467行目:
|2
|2
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(重)
|芝2400m(重)
|2.34.6
|2.34.6
417行目: 474行目:
|1 3/4馬身
|1 3/4馬身
|([[シバフジ]])
|([[シバフジ]])
|500
|-
|-
|
|
426行目: 484行目:
|2
|2
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|芝1600m(良)
|{{color|red|R1.35.2}}
|{{color|darkred|R1.35.2}}
|古山良司
|古山良司
|60
|60
|9馬身
|9馬身
|(イチトシ)
|(イチトシ)
|496
|-
|-
|
|
442行目: 501行目:
|2
|2
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝3200m(良)
|芝3200m(良)
|3.29.1
|3.29.1
449行目: 508行目:
|2馬身
|2馬身
|(アサカオー)
|(アサカオー)
|496
|-
|-
|
|
458行目: 518行目:
|6
|6
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(不)
|芝1800m(不)
|1.54.6
|1.54.6
465行目: 525行目:
|アタマ
|アタマ
|(スイートフラッグ)
|(スイートフラッグ)
|490
|-
|-
|
|
474行目: 535行目:
|2
|2
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|ダ2100m(良)
|ダ2100m(良)
|2.10.9
|2.10.9
481行目: 542行目:
|3 1/2馬身
|3 1/2馬身
|(ツナエーコウ)
|(ツナエーコウ)
|504
|-
|-
|
|
490行目: 552行目:
|2
|2
|1人
|1人
|{{color|red|1着}}
|{{color|darkred|1着}}
|芝1200m(良)
|芝1200m(良)
|{{color|red|R1.10.4}}
|{{color|darkred|R1.10.4}}
|[[吉永正人]]
|[[吉永正人]]
|62
|62
|1 3/4馬身
|1 3/4馬身
|([[リュウズキ]])
|([[リュウズキ]])
|502
|-
|-
|
|
508行目: 571行目:
|7着
|7着
|芝12[[ハロン (単位)|F]](良)
|芝12[[ハロン (単位)|F]](良)
| -
|
|古山良司
|古山良司
|54.5
|54.5
| -34馬身
|34馬身
|Karabas
|Karabas
|-
|}
|}
#出典『競馬名馬読本2』p.135
# タイム欄の{{color|red|R}}はレコード勝ちを示す。
# タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。
# 太字の競走は[[八大競走]]。
# 太字の競走は[[八大競走]]。
# [[負担重量|斤量]]の単位は[[キログラム]] (kg) 。
# [[負担重量|斤量]]の単位は[[キログラム]] (kg) 。


== おもな産駒 ==
== 種牡馬成績 ==
=== 重賞勝利産駒 ===
* [[ハツシバオー]]([[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]、東京大賞典、[[羽田盃]]、[[東京王冠賞]])
'''中央競馬重賞勝利馬'''
* [[ドウカンヤシマ]]([[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]、[[中山金杯|金杯〈東〉]]、[[京都金杯|金杯〈西〉]]、[[函館記念]]、[[朝日チャレンジカップ]]、[[東京新聞杯]])
*トウカンタケシバ(1976年・1977年[[愛知杯]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000061220/ |title=トウカンタケシバ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* アジシバオー([[日経新春杯]])
*ロビンソンシチー(1981年京都記念・春<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000096617/ |title=ロビンソンシチー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* ロビンソンシチー([[京都記念]])
*アジシバオー(1982年[[日経新春杯]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000108100/ |title=アジシバオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* [[カツトクシン]](金杯〈西〉、[[愛知杯]])
*[[ドウカンヤシマ]](1982年[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]] 1983年[[函館記念]] 1984年[[中山金杯|日刊スポーツ賞金杯]] 1985年[[東京新聞杯]] 1986年[[チャレンジカップ (競馬)|朝日チャレンジカップ]] 1987年[[京都金杯|スポーツニッポン賞金杯]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000127036/ |title=ドウカンヤシマ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* イイデセゾン([[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]])
*ハッピーオールトン(1984年[[クイーンステークス]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000139070/ |title=ハッピーオールトン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* トウカンタケシバ(愛知杯2回)
* チェリーフット[[東海ステークス|ウインターステークス]])
*チェリーフット(1984年[[東海ステークス|ウインターステークス]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000149057/ |title=チェリーフット |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>
*[[カツトクシン]](1988年愛知杯、1989年スポーツニッポン賞金杯<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000180692/ |title=カツトクシン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* ハッピーオールトン([[クイーンステークス]])
*イイデセゾン(1991年[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000211369/ |title=イイデセゾン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* タケシバロック([[関東オークス]])
* ロングタイショー([[全日本2歳優駿|全日本3歳優駿]])
===母の父としての代表産駒===
* ドクタースパート(皐月賞、[[ステイヤーズステークス]]、京成杯3歳ステークス、[[北海道2歳優駿|北海道3歳優駿]])
* ロンガーワンダー([[北海優駿]]、[[栄冠賞]])
* ショーターザトッシ([[サンタアニタトロフィー]])
* ダイユウカイソク([[ゴールド争覇]])
* タキノプリンセス([[荒炎賞]])


'''地方競馬重賞勝利馬'''
== エピソード ==
*ハギシバオー(1975年百万石賞・[[高知競馬場|高知]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000046011/ |title=ハギシバオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*馬主である[[小畑正雄]]はのちに、[[NHK競馬中継]]の解説者に抜擢されることになる。
*[[ハツシバオー]](1978年[[京浜盃]]、[[羽田盃]]、[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]、[[東京記念]]、[[東京王冠賞]]、[[東京大賞典]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000076364/ |title=ハツシバオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*その小畑が、「タケシバオーはもはや自分の馬ではない。ファンの馬だ。」という言葉を発したことでも話題となった。
*チェリーイナリ(1981年[[岐阜金賞]]・[[笠松競馬場|笠松]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000109167/ |title=チェリーイナリ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*絶頂期の5才の夏、新潟競馬場に入厩した。結局出走はしなかったが、新潟競馬を盛り上げる為の、小畑氏の演出だったという。
*アサヒオー(1982年[[王冠賞]]・[[岩見沢競馬場|岩見沢]] JRA理事長賞・[[ホッカイドウ競馬|道営]]札幌<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000118067/ |title=アサヒオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*ロングタイショー(1984年[[全日本2歳優駿|全日本3歳優駿]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000149059/ |title=ロングタイショー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*フセシバオー(1987年農林水産大臣賞典・[[金沢競馬場|金沢]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000157209/ |title=フセシバオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
* タケシバロック(1988年[[関東オークス]]・[[川崎競馬場|川崎]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000176351/ |title=タケシバロック |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*ナンタイソロン(1988年[[高知優駿|四才優駿]]・高知<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000180388/ |title=ナンタイソロン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*アケノマツハル(1989年かもしか賞・[[宇都宮競馬場|宇都宮]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000196644/ |title=アケノマツハル |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
*アコーローマン(1990年紅葉賞・[[上山競馬場|上山]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000198094/ |title=アコーローマン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)


*ジョーシェラネバダ(1991年中津大賞典・[[中津競馬場|中津]]<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000189208/ |title=ジョーシェラネバダ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年6月14日 |date=}}</ref>)
===海外遠征===
[[サーアイヴァー]]が勝った1968年[[ワシントンDCインターナショナル|ワシントンDC国際]]に出走したタケシバオーは、スタートと同時にゲートを飛び出し、半マイルほど先頭で逃げた<ref name="spbt1968-11-12">[http://news.google.com/newspapers?nid=888&dat=19681112&id=lhkMAAAAIBAJ&sjid=RVwDAAAAIBAJ&pg=7301,773899 セントピーターズバーグタイムズ 1968年11月12日付“Ireland's Sir Ivor by a length”]2014年5月1日閲覧。</ref>。しかし途中でアメリカのツァーアレグザンダー(Czar Alexander)に捕まり、最終的には最下位でゴールした。ツァーアレグザンダーは2着だった<ref name="spbt1968-11-12"/>。


== 血統表 ==
== 血統表 ==
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父チャイナロックはタケシバオーのほか、同じくJRA顕彰馬となっている[[ハイセイコー]]などを出しているが、その名が広く知られたのはタケシバオーが出てからであった<ref name="yushun9502" />。母系はオーストラリア産の祖母クニビキから血統表を7代遡ってようやくイギリス産馬が現れるという生粋の[[オセアニア]]血統である<ref name="meiba" />。なお、母タカツナミこそ不出走馬だったが、クニビキのタカツナミ以降の繁殖成績は良好で、[[地方競馬]]で10勝を挙げたほか中央の3重賞で2着の成績を残したスイフトフートや、中央で7勝を挙げたシュアーホースといった活躍馬も出ていた<ref name="meiba" />。

==脚注==
==脚注==
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<references />

== 参考文献 ==
*[[白井透]](編)『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)
**草間好夫「タケシバオー」
*中央競馬ピーアール・センター(編)『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)
**佐野剛「三強の闘い - タケシバオー・アサカオー・マーチス」
*[[井口民樹]]『三冠騎手吉永正人 - いま明かすドン尻強襲の秘密』(朝日出版社、1986年)ISBN 978-4255860503
*更級四郎『馬ものがたり』(講談社、1992年)ISBN 4062061708
*藤野広一郎『懐かしき名馬たち - ちょっと昔の名馬物語』(コスモヒルズ、1992年)ISBN 978-4877038090
*大川慶次郎ほか 『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 4-19-891185-1
*日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)
*『創刊50周年記念 優駿増刊号TURF』(日本中央競馬会、1991年)
*『[[優駿]]』(日本中央競馬会)各号

== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1965100313|jbis=0000013633}}
* {{競走馬成績|netkeiba=1965100313|jbis=0000013633}}

2015年6月14日 (日) 09:20時点における版

タケシバオー
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1965年4月23日
死没 1992年1月12日
  (27歳没・旧28歳)
チャイナロック
タカツナミ
生国 日本の旗 日本北海道新冠町
生産者 榊憲治
馬主 小畑正雄
調教師 三井末太郎東京
競走成績
生涯成績 29戦16勝(うち日本国外2戦0勝)
獲得賞金 1億1365万4200円
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タケシバオー1965年4月23日 - 1992年1月12日)は日本競走馬種牡馬

1967年に中央競馬でデビュー。同年、関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスに優勝し、啓衆社賞最優秀3歳牡馬に選出。翌1968年の4歳クラシック三冠戦線ではマーチスアサカオーと共に「三強」と称され、皐月賞2着、東京優駿(日本ダービー)2着の成績を残した。1969年に天皇賞(春)に優勝、秋には中央競馬史上初の獲得賞金1億円越えを達成し、同年]啓衆社賞年度代表馬に選出された。通算29戦16勝。あらゆる競走条件で活躍し、中央競馬で初めて「怪物」の異名を冠され[1]、また当時としては裏付けのない血統ながら、良血のライバルを破っていく姿から「野武士」とも称された[2]。競走馬引退後の1970年より種牡馬となり、数々の重賞勝利馬を輩出。2004年にはJRA顕彰馬に選出された。

経歴

出生までの経緯

1950年代、競走馬不足を解消するためオーストラリアやアメリカから数多くの馬が輸入されていた[3]。本馬の母系祖母クニビキは大井競馬がオーストラリアより輸入した1頭で[4]、旧名をNice Starといった[5]。同時に輸入された馬には後の天皇賞優勝馬ミッドファームもいたが、この馬は員数合わせというような存在で「輸送費より安い」と噂されていた[4]。頒布の抽籤会場で4人の共有馬主グループに引き当てられたが、抽籤前には「あれだけは引いてくれるな」と敬遠されており、クジを引いた馬主の名が「クニジロウ」であったことから、「クニジロウが引いた馬」という意味で「クニビキ」と命名された[4]。クニビキは大井で5戦0勝という成績を残して繁殖入りし、種付け料が安く、繋養場所が近かったヤシママンナと交配され、牝馬を出産[6]。同馬は4人の馬主姓(高橋、勝村、角田、藤波)をとって「タカツナミ」と命名されたが不出走のまま繁殖入りし、2頭の仔を産んだのち、チャイナロックと交配された[4]。チャイナロックはのちにリーディングサイアーともなる名種牡馬であるが、当時は中央で重賞勝ち馬を2頭出していた程度で、同馬が選ばれた理由もまた「種付け料が安い」ためであった[6]

デビューまで

1965年、タカツナミは牡馬を出産。牧場での幼名は「ハヤテロック」とされた[7]。まったく見栄えのしない馬体で、のちの管理調教師・三井末太郎は一目見て「これが馬ですか」と漏らしたといわれる[1]。タカツナミ産駒は4人の馬主が順番に引き取ることになっていたが、当年順番だった馬主は占い師から「今年はよくない」と進言されて辞退し、ほかの3人も事情により引き取らず、希望額250万円で売却されることになった[4]。このころチャイナロック産駒を探していた中央競馬調教師の小林稔が牧場を訪れ、場主の榊憲治はハヤテロックの代金に260万円を提示したが成立せず、やむなく牧場の縁者である小畑正雄競友社長)が200万円で引き取ることになった[1]

競走年齢の3歳に達した1967年、競走名「タケシバオー」として東京競馬場の三井末太郎のもとへ入厩。もともと馬の飼料に一家言をもっていた三井は、小畑と相談のうえでアメリカやイギリスから高品質の飼料や栄養剤を輸入し、タケシバオーに与えた[5]。そのうえで入念な乗り運動が行われ、入厩時400kg程度だった体重は、デビュー時には460kgまで増加した[1]

戦績

3歳時(1967年)

1967年6月、新潟開催でデビュー。畠山重則を鞍上に初戦からオープン競走に使われ2着[8]。2戦目も2着としたのち、函館開催に移り騎手が中野渡清一に替わった3戦目を逃げきって初勝利を挙げた[9]。のち膝を痛めて一時休養し、札幌で出走した特別戦では3着と敗れた。これはタケシバオーが日本国内で唯一連対(2着以内)を外した例となった[9]。このころの3歳馬で最も評価が高かったのは北海道3歳ステークスなどの優勝馬キタノダイオーだったが、同馬は後に故障のため戦線を離脱している[9]

のちタケシバオーは福島開催で2勝を加え、中山のオープン戦にも勝利し、3連勝で関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスに臨んだ。競走前には中村広厩舎のアサカオーと並んで調教が行われたが、同馬に10馬身以上先着していた[10]。当日は3番人気であったが、先行策から直線入口で先頭に立つと後続を一気に離し、2着ステートターフに7馬身差をつけて重賞初勝利を挙げた[9]。7馬身差は競走史上最大着差であり、タケシバオーは一躍、翌年の東京優駿(日本ダービー)への最有力候補に挙げられた[1]

4歳時(1968年)

「三強」の戦い

1968年、4歳となったタケシバオーは緒戦のオープン戦を勝ったのち、東京4歳ステークスでは2着ヤシマオーカンに8馬身差、ダート1700メートルを1分44秒3というレコードタイムで制した[9]。しかし続く弥生賞では逃げ馬のカドマスとスタートから激しく競り合い、1000メートル通過が57秒7という当時のレコードタイムを上回るペースで飛ばした末、ゴール前でアサカオーに差されての2着と敗れた[6]。競走前のインタビューで「いくらタケシバオーでもカドマスの快速にはついて行けないでしょう」と水を向けられていたことを意識してのレース運びだったが、中野渡はこれを最後にタケシバオーから降ろされることになり、後年「馬鹿なことをやったものだ」と後悔の念を吐露している[6]。なお、この競走には関西から東上してきていたマーチスも出走しており、タケシバオーから2馬身差の3着となっている。

このあとタケシバオーは新たな騎手に森安弘昭を迎えてオープン戦に勝利。アサカオーとマーチスは日本短波賞で再戦し、ハナ差で1、2着となる[11]。弥生賞の上位3頭が再び顔を揃えたスプリングステークスでは、東上後の疲労が抜けたマーチスが勝利し、タケシバオー2着、アサカオー3着となった[2]。最有力馬と評されていたタケシバオーが弥生賞から連敗したことにより、クラシックはタケシバオーにアサカオーとマーチスを加えた「三強」による争いとみられるようになった[11]

5月19日に迎えた皐月賞は降雨による重馬場のなか行われた[2]。タケシバオーは重馬場を得意としており、当日の人気もタケシバオー、マーチス、アサカオーの順となった[2]。スタートが切られるとタケシバオーは立ち後れて7番手、アサカオーは後方、マーチスは最後方につけた。道中で2番手まで位置を上げたタケシバオーは第3コーナー手前で先頭に立ち、そのまま最後の直線に入る。直線半ばでタケシバオーはアサカオーに一度かわされながらもこれを差し返したが、その直後、後方から追い込んだマーチスにゴール前でかわされ、同馬から4分の3馬身差の2着と敗れた[2]。アタマ差の3着にアサカオーが入り、4着ジンライはそれから5馬身離されていた[2]。タケシバオーは続いてNHK盃(ダービートライアル)に進みマーチスと再戦。重馬場のなか逃げを打ったが同馬に1馬身半差の2着と敗れた[12]

当年の日本ダービーは東京競馬場の改築のため例年より1カ月遅れの7月7日に行われ、「七夕ダービー」と呼ばれた[12]。当日はマーチスが単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持され、タケシバオー2番人気、腹痛でNHK盃を回避し体調不良が伝えられていたアサカオーが3番人気となった[12]。スタートが切られると9番人気のタニノハローモアが最内枠から先頭を奪い、タケシバオーは中団に控え、2馬身ほど後ろにアサカオー、後方にマーチスという展開で進んだ。単騎で逃げていたタニノハローモアの脚は最後の直線に入っても衰えなかったが、タケシバオーとアサカオーは後方のマーチスを警戒して動けなかった。直線半ばで森安タケシバオーは後ろを見限って目標をタニノハローモアに切り替えたが時すでに遅く、同馬に5馬身差をつけられての2着に終わった[12]。1馬身半差の3着にアサカオー、第2コーナーで他馬と接触していたマーチスはハナ差の4着となった[12]。森安は「体調、レース展開ともに良かったが、やはり縁がなかったんだろう」と述べ[9]、さらに後年「もっと早めに追い出していれば勝てたか」との質問に「いや、勝てなかったでしょう。ダービーが例年通り5月に行われていたら、あるいは勝てたかもしれない。でも、タケシバオーの調子はちょうど下り坂になっていた。あのときのタニノハローモアは強かったですよ」と回顧している[12]

アメリカ遠征

夏を経て、タケシバオーはアメリカのローレルパーク競馬場から国際競走ワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受ける。クラシック三冠最終戦の菊花賞へという選択肢もあったが、馬主の小畑は遠征を選択。4歳馬の同競走への遠征ははじめてのことで、小畑は「日本のサラブレッドが世界の水準にどこまで迫れるか。その関心が大きく、挑戦を決意した」と語った[1]。9月、マーチスの騎手であった保田隆芳を鞍上にオープン戦を2着したのち渡米。11月11日、競走当日を迎えた。イギリスのクラシック二冠馬サーアイヴァー、同オークス優勝馬ララギューン、前年度優勝馬フォートマーシーらが顔を揃えたなか、保田騎乗のタケシバオーは第3コーナーまで逃げを打っていたものの、サーアイヴァーに後躯を引っ掛けられたこともあり急激に失速し、8頭立ての最下位に終わった[1]。競走後に後脚を確認すると球節に外傷を負っており、蹄鉄はくの字に折れ曲がっていた[1]

帰国したタケシバオーは、年末のグランプリ競走・有馬記念へのファン投票において、菊花賞に優勝したアサカオー、マーチスに次ぐ第3位に選出されたがこれを回避[13]。翌年春での引退を予定していた保田に替わり、新たに古山良司を迎えてオープン戦に出走した[8]。この競走ではスタートで後手を踏んで後方からのレース運びとなり、直線で伸びたものの2着となってシーズンを終えた[8]。敗れはしたものの、古山はタケシバオーのストライドの大きさに非常に驚き、内容自体には満足していたという[8]

5歳時(1969年)

天皇賞制覇

5歳となった1969年、緒戦のオープン戦でまたしても2着と敗れたが、2月の東京新聞杯では他馬への先約があった古山に代わって再び保田を迎えると、2着に6馬身差・ダート2100メートルで2分9秒5というレコードタイムで10カ月ぶりの勝利を挙げた[8]

タケシバオーはここから快進撃をはじめ[8]、続くオープン戦では騎手が古山に戻り、60キログラムの斤量を負いながらダート1700メートルで1分41秒9という2戦連続のレコードタイムで勝利。競走直後から関係者の間で「アメリカ並のタイムだ」と騒がれ[8]、このレコードは2003年に東京競馬場が全面改修され、同条件のコース設定が消滅するまで更新されなかった[14]。その後は京都で行われる天皇賞(春)に備えて西下し、京都記念では62キログラムを背負って勝利[8]。その後は阪神開催のオープン戦に出走して芝1600メートルの日本レコードを樹立し、4月29日、天皇賞へ臨んだ[8]

タケシバオーは生涯最高という好調で、調教の様子を見た武田文吾は「大地をゆるがす戦車がやってきた」と評した[1]。アサカオー、マーチスとの久々の対戦となったが、当日は両馬を抑えて1番人気の支持を受ける[1]。スタートが切られると7頭立て6番人気のダイイチオーが押し出されるように先頭に立ち、タケシバオーは離れた3番手を進んだが、1000メートル通過は64秒5という調教並のスローペースであった[15]。1400から1600、2000から2200のラップでは14秒台が刻まれるほどのスローが続いたが、第3コーナーから最終コーナーにかけて徐々にペースが上がっていった[15]。タケシバオーは最後の直線半ばでダイイチオーをかわし、追い込んだアサカオーに2馬身差をつけて優勝を果たした[15]。3200メートルの長距離を駆け抜けながら、ゴール前200メートルの公式ラップは11秒0、タケシバオーは推定で10秒台という従来にない鋭い瞬発力を見せていた[15]。古山は「これまでのどの馬よりも強い。アサカオーが後方からきて差せるわけがないよ」と語った[1]

初の「1億円ホース」となる

その後、タケシバオーは宝塚記念を目標に関西に留まって調教を続けていたが、その過程で熱を出して回避を余儀なくされた[1]。熱が収まってからオープン特別競走・ジュライステークスに出走。次点の馬より8キログラム重い、生涯最高の65キログラムを負わされたタケシバオーは、スタートから行き脚がつかず不良馬場のなかで後方を進んだ[15]。この様子に古山も諦めかけていたが、しかし最後の直線に入ると鋭く伸び、スイートフラッグをアタマ差かわして勝利した[15]。古山は後に「レコード勝ちとか大差勝ちとか、いろいろ派手な勝ち方もあったが、いちばん強いなと思ったのはこのレースだった」と回顧している[15]

のち休養に入ったタケシバオーは、ワシントンD.C.インターナショナルへの再びの出走を視野に、9月の毎日王冠から復帰[15]。62キログラムを負い道中向正面まで最後方を進んだが、そこから先行勢を次々とかわしていき、2着に3馬身半差を付けて勝利[15]。またこの時点で獲得賞金額は1億460万円となり、史上初の1億円越えを達成[16]。「1億円馬タケシバオー」などと一般誌にも報じられた[16]

再びのアメリカ遠征-引退

9月28日、アメリカ遠征への壮行戦として英国フェア開催記念(スプリンターズステークス)に出走。古山が競走当日の落馬負傷のため騎乗できず、その日騎乗予定のなかった若手の吉永正人が急遽手綱をとった[17]。「1億円馬」への騎乗に緊張する吉永に、古山は「安心して乗ってきなよ」と声を掛けたという[15]。レースは前年の有馬記念優勝馬リュウズキを退け、1分10秒4のレコードタイムで勝利[1]。吉永は「目一杯に追っていたら1分9秒台が出ていたでしょう」と語った[1]

タケシバオーは10月20日にアメリカへ到着したが、競走前週になって熱を出し、ワシントンD.C.インターナショナル当日(11月11日)になっても体温は昇降を繰り返していた[1]。陣営は出走に踏み切ったものの、レースでは馬群についていけず、前年に続く大差最下位の7着と敗れた[1]。小畑は「馬のためには出さないのがほんとうだが、選ばれて代表馬となり、使わないというのも責任のないことなのでタケシバオーにはかわいそうだが出走させることにした」と語った[1]

帰国後も馬場で転倒するなど重い疲労が抜けず[1]、マーチスに次ぐファン投票2位に推されていた[13]有馬記念出走を断念[1]。12月22日、小畑より引退が発表された[1]。翌1970年2月22日、東京競馬場で引退式が行われたが、古山を乗せたタケシバオーの脚元はおぼつかなかった[1]。小畑は「タケシバオーは神からの授かりものだった。私個人だけの馬じゃない。ローレル行きは使命だったのです」と述べた[1]。なお、タケシバオーの獲得賞金は当時歴代1位の1億1365万円にのぼったが[16]、小畑は「授かりもの」である賞金のほとんどを赤十字に寄付したほか、祝勝パーティーの開催、記念品の配布に吐き出していた[4]

種牡馬時代-死後の殿堂入り

種牡馬となったタケシバオーは故郷の競優牧場で繋養されたが[1]、輸入種牡馬が重用されるなかで人気は芳しくなく、しばらくは牧場の自家生産を中心とした種牡馬活動が続いた[1]。しかし産駒の出来の良さが評判となるにつれて交配数は増えていき、産駒出生率の高さも歓迎され、初年度には20頭だった相手が1982年には一流種牡馬並の94頭まで増加した[1]。主な産駒には中央競馬記録の6年連続重賞勝利を達成したドウカンヤシマ南関東公営競馬で三冠を達成したハツシバオーなどがいる[1]。ハツシバオーは種牡馬としても中央競馬で朝日チャレンジカップを勝ったハツシバエースを出した。

1992年1月12日夜、タケシバオーは馬房の中で倒れているところを発見され、心不全のためそのまま息を引き取った[18]。27歳没。

死後の2000年に日本中央競馬会が主催した、ファン投票による20世紀の名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では39位となった[19]。また競馬会の広報誌『優駿』が独自に選定した「20世紀のベストホース100」にも名を連ねている[20]。2004年、JRA顕彰馬を選定する投票が行われ、タケシバオーは当年特別に設けられた「1983年以前に競走馬登録を抹消された馬」という区分で4分の3以上の141票を獲得し、「1984年1月1日から2003年3月31日の間に競走馬登録を抹消された馬」の区分で選出されたテイエムオペラオーと共に中央競馬の殿堂に加えられた[21]

競走馬としての評価

芝、ダート、馬場状態、負担重量、距離といった諸条件を全く問題としない万能の強さをもち、距離体系などが確立されていなかった当時にあっても、長距離3200メートルの天皇賞を勝ち、短距離1200メートルの英国フェア開催記念でレコード勝ちをするという実績は特異なものだった[22]。『優駿』が1991年に競馬関係者へ行ったアンケートでは、「最強馬」部門でシンボリルドルフシンザンに次ぐ3位となった[22]。この結果を伝えられた古山良司は「3位?そんなぽっちか(笑)」というコメントを寄せている[22]。また講評会では、杉本清が「馬場が悪いとか、重量に殺されたとか、展開が向かなかったとか言ってるうちは、本当に強い馬とはいえないんじゃないか」と述べ、それに対して山口瞳井崎脩五郎が「その点、タケシバオーは良かった」、「タケシバオーはそういった面で見ると1位」と応じている[23]。また、『優駿』が1985年に読者向けに行った同様のアンケートでは7位[24]日本馬主協会連合会が2000年に馬主を対象に行ったものでは「一番の名馬と思う競走馬は」という設問で8位タイとなっている[25]

古山によれば、その乗り味は「別にバネがすごいっていう感じじゃなくて、歩幅が前に前に伸びていく感じ。普通の馬の感覚で走ると、前の馬に乗っかってしまう」というものだった[22]。他方、スタートは上手くなく、とくに牝馬を気にする性質であったため、隣枠に牝馬が入ると「もうダメ」だったという[22]。3戦で手綱を執った保田隆芳は「マーチスと比べると、素直で乗りやすい馬だった。スピードもあったし、後ろから行っても、良い末脚を使った」と評している[22]

競走成績

年月日 競馬場 競走名

人気 着順 距離 タイム 騎手 斤量 着差 勝ち馬/(2着馬) 馬体重
1967 6. 18 新潟 オープン 8 7 3人 2着 芝1000m(良) 1.00.2 畠山重則 50 0.8秒 イスズヒメ 460
7. 8 新潟 チューリップS 6 5 5人 2着 芝1000m(良) 59.7 畠山重則 50 0.4秒 スズノツバサ 464
7. 23 函館 オープン 6 5 1人 1着 芝1000m(良) 59.7 中野渡清一 51 6馬身 (ヨシヒロ) 460
9. 9 札幌 3歳特別 7 7 2人 3着 ダ1200m(良) 1.13.4 中野渡清一 51 0.6秒 タジマオーザ 483
10. 22 福島 オープン 9 3 2人 1着 芝1000m(良) 59.6 中野渡清一 51 5馬身 (スズノツバサ) 482
11. 12 福島 3歳S 9 3 1人 1着 芝1100m(重) 1.07.9 中野渡清一 52 2馬身 (ステートターフ) 490
12. 3 中山 オープン 10 5 2人 1着 芝1200m(重) 1.12.9 中野渡清一 53 3 1/2馬身 (スズノツバサ) 486
12. 17 中山 朝日杯3歳S 11 4 3人 1着 芝1600m(稍) 1.38.4 中野渡清一 51 7馬身 (ステートターフ) 482
1968 1. 28 中山 オープン 4 3 1人 1着 芝1600m(良) 1.36.9 中野渡清一 54 5馬身 (オンワードビート) 488
2. 18 東京 東京4歳S 9 2 1人 1着 ダ1700m(不) R1.44.3 中野渡清一 55 8馬身 (ヤシマオーカン) 488
3. 17 中山 弥生賞 5 4 1人 2着 芝1600m(良) 1.37.6 中野渡清一 56 0.2秒 アサカオー 490
4. 13 中山 オープン 6 6 1人 1着 芝1800m(重) 1.53.9 森安弘明 57 3馬身 (タジマオーザ) 486
4. 28 中山 スプリングS 7 1 1人 2着 芝1800m(重) 1.53.3 森安弘明 56 0.2秒 マーチス 486
5. 19 中山 皐月賞 16 8 1人 2着 芝2000m(重) 2.06.4 森安弘明 57 0.1秒 マーチス 488
6. 16 東京 NHK杯 10 2 2人 2着 芝2000m(重) 2.02.8 森安弘明 55 -0.2秒 マーチス
7. 7 東京 東京優駿 19 15 2人 2着 芝2400m(稍) 2.31.9 森安弘明 57 0.8秒 タニノハローモア 494
9. 21 東京 オープン 5 4 2人 2着 芝1600m(良) 1.36.4 保田隆芳 58 0.1秒 ヤマトダケ 502
11. 11 ローレル ワシントンDC国際 8 1 7人 8着 芝12F(重) - 保田隆芳 54.5 約24馬身 Sir Ivor
12. 28 中山 オープン 12 2 2人 2着 芝1800m(良) 1.54.5 古山良司 58 0.3秒 ニットウヤヨイ 500
1969 1. 11 中山 七草S 11 6 3人 2着 芝1800m(良) 1.50.8 古山良司 57 0.3秒 シェスキイ 498
2. 2 東京 東京新聞杯 10 5 1人 1着 ダ2100m(稍) R2.09.5 保田隆芳 58 6馬身 (クリロイス) 498
3. 1 東京 オープン 6 1 1人 1着 ダ1700m(重) R1.41.9 古山良司 60 大差 (スイートフラッグ) 508
3. 16 京都 京都記念(春) 11 2 1人 1着 芝2400m(重) 2.34.6 古山良司 62 1 3/4馬身 シバフジ 500
4. 13 阪神 オープン 13 2 1人 1着 芝1600m(良) R1.35.2 古山良司 60 9馬身 (イチトシ) 496
4. 29 京都 天皇賞(春) 7 2 1人 1着 芝3200m(良) 3.29.1 古山良司 58 2馬身 (アサカオー) 496
7. 6 中山 ジュライS 9 6 1人 1着 芝1800m(不) 1.54.6 古山良司 65 アタマ (スイートフラッグ) 490
9. 14 東京 毎日王冠 7 2 1人 1着 ダ2100m(良) 2.10.9 古山良司 62 3 1/2馬身 (ツナエーコウ) 504
9. 28 中山 英国フェア開催記念 6 2 1人 1着 芝1200m(良) R1.10.4 吉永正人 62 1 3/4馬身 リュウズキ 502
11. 11 ローレル ワシントンDC国際 7 1 4人 7着 芝12F(良) 古山良司 54.5 約34馬身 Karabas
  1. 出典『競馬名馬読本2』p.135
  2. タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  3. 太字の競走は八大競走
  4. 斤量の単位はキログラム (kg) 。

種牡馬成績

重賞勝利産駒

中央競馬重賞勝利馬

地方競馬重賞勝利馬

  • ジョーシェラネバダ(1991年中津大賞典・中津[44]

血統表

タケシバオー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ハイペリオン系
[§ 2]

*チャイナロック
China Rock
1953 栃栗毛 イギリス
父の父
Rockefella
1941 黒鹿毛
Hyperion Gainsborough
Selene
Rockfel Felstead
Rockliffe
父の母
May Wong
1934 栗毛
Rustom Pasha Son-in-Law
Cos
Wezzan Friar Marcus
Woodsprite

タカツナミ
1958 黒鹿毛 日本
ヤシママンナ
1950 黒鹿毛
*プリメロ
Primero
Blandford
Athasi
第参マンナ *シアンモアShian Mor
マンナ
母の母
*クニビキ
1951 黒鹿毛
Nice Day Mid-Day Sun
Belle Adventure
Starlet Actor
Marevere
母系(F-No.) 5号族(FN:5) [§ 3]
出典
  1. ^ JBISサーチ タケシバオー 5代血統表2015年6月14日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com タケシバオー 5代血統表2015年6月14日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ タケシバオー 5代血統表2015年6月14日閲覧。

父チャイナロックはタケシバオーのほか、同じくJRA顕彰馬となっているハイセイコーなどを出しているが、その名が広く知られたのはタケシバオーが出てからであった[2]。母系はオーストラリア産の祖母クニビキから血統表を7代遡ってようやくイギリス産馬が現れるという生粋のオセアニア血統である[5]。なお、母タカツナミこそ不出走馬だったが、クニビキのタカツナミ以降の繁殖成績は良好で、地方競馬で10勝を挙げたほか中央の3重賞で2着の成績を残したスイフトフートや、中央で7勝を挙げたシュアーホースといった活躍馬も出ていた[5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『優駿』1987年3月号、pp.35-38
  2. ^ a b c d e f g 『優駿』1995年2月号、pp.88-89
  3. ^ 『日本の名馬』p.420
  4. ^ a b c d e f 『優駿』1990年9月号、pp.76-77
  5. ^ a b c d 『日本の名馬』pp.400-405
  6. ^ a b c d 藤野(1992)pp.94-97
  7. ^ 更級(1992)p.285
  8. ^ a b c d e f g h i 『優駿』1996年8月号、pp.89-91
  9. ^ a b c d e f 『日本の名馬』pp.406-413
  10. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』pp.328-330
  11. ^ a b 藤野(1992)pp.98-101
  12. ^ a b c d e f 『優駿』1995年3月号、pp.88-91
  13. ^ a b 『優駿』2011年1月号、p.33
  14. ^ http://www.nikkankeiba.com/jra50/08/08.html
  15. ^ a b c d e f g h i j 『優駿』1996年9月号、pp.88-91
  16. ^ a b c 『優駿』2012年3月号、pp.34-35
  17. ^ 井口(1986)pp.138-139
  18. ^ 『サラブレッド101頭の死に方』pp.105-109
  19. ^ 『優駿』2000年10月号、p.35
  20. ^ 『優駿』2000年11月号、p.18
  21. ^ オペラオー、タケシバオー顕彰馬に”. 競馬道online (2004年5月10日). 2015年6月14日閲覧。
  22. ^ a b c d e f 『優駿増刊号TURF』p.10
  23. ^ 『優駿増刊号TURF』p.42
  24. ^ 『優駿』1985年9月号、p.131
  25. ^ 『日本馬主協会連合会40年史』p.198
  26. ^ トウカンタケシバ”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  27. ^ ロビンソンシチー”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  28. ^ アジシバオー”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  29. ^ ドウカンヤシマ”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  30. ^ ハッピーオールトン”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  31. ^ チェリーフット”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  32. ^ カツトクシン”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  33. ^ イイデセゾン”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  34. ^ ハギシバオー”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  35. ^ ハツシバオー”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  36. ^ チェリーイナリ”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  37. ^ アサヒオー”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  38. ^ ロングタイショー”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  39. ^ フセシバオー”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  40. ^ タケシバロック”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  41. ^ ナンタイソロン”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  42. ^ アケノマツハル”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  43. ^ アコーローマン”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。
  44. ^ ジョーシェラネバダ”. JBISサーチ. 2015年6月14日閲覧。

参考文献

  • 白井透(編)『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)
    • 草間好夫「タケシバオー」
  • 中央競馬ピーアール・センター(編)『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)
    • 佐野剛「三強の闘い - タケシバオー・アサカオー・マーチス」
  • 井口民樹『三冠騎手吉永正人 - いま明かすドン尻強襲の秘密』(朝日出版社、1986年)ISBN 978-4255860503
  • 更級四郎『馬ものがたり』(講談社、1992年)ISBN 4062061708
  • 藤野広一郎『懐かしき名馬たち - ちょっと昔の名馬物語』(コスモヒルズ、1992年)ISBN 978-4877038090
  • 大川慶次郎ほか 『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 4-19-891185-1
  • 日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)
  • 『創刊50周年記念 優駿増刊号TURF』(日本中央競馬会、1991年)
  • 優駿』(日本中央競馬会)各号

外部リンク