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{{Otheruses|オペラ|小惑星861番 (861 Aïda) |アイーダ (小惑星)|小惑星243番 (243 Ida) |イダ (小惑星)}} |
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『'''アイーダ'''』 ({{lang-it-short|Aida}}) は、[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]が作曲し、[[1871年]]に初演された全4 |
『'''アイーダ'''』 ({{lang-it-short|''Aida''}}) は、[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]が作曲し、[[1871年]]に初演された全4幕から成る[[オペラ]]である。[[ファラオ]]時代の[[古代エジプト|エジプト]]と[[エチオピア]]、2つの国に引裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラのひとつである。また第2幕第2場での「凱旋行進曲」の旋律は単独でも有名である。 |
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この作品はしばしば「[[スエズ運河]]の開通([[1869年]])を記念して作曲された」あるいは「スエズ運河開通祝賀事業の一環として[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に建設された[[歌劇場|オペラハウス]]の[[杮落し]]公演用に作曲された」といわれることがあるが、以下に述べるようにこれらはいずれも正確ではない。エジプトを舞台にしたメジャーなオペラは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の『[[魔笛]]』以来だが、ほぼ無国籍なファンタジーである『魔笛』にくらべ、国家の攻防がメインに据えられた壮大なご当地オペラになっている。 |
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== 基本データ == |
== 基本データ == |
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== 作曲の経緯 == |
== 作曲の経緯 == |
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『[[ドン・カルロ]]』の初演([[1867年]])、『[[運命の力]]』の改訂初演([[1869年]])の後、ヴェルディの次作検討作業は[[パリ]]在住のオペラ台本 |
『[[ドン・カルロ]]』の初演([[1867年]])、『[[運命の力]]』の改訂初演([[1869年]])の後、ヴェルディの次作検討作業は[[パリ]]在住の[[リブレット (音楽)|オペラ台本]]作家であり、[[パリ国立オペラ|オペラ座]]や[[オペラ=コミック座]]の支配人でもあったカミーユ・デュ・ロクルとの交渉を中心に展開していた。デュ・ロクルは様々の[[戯曲]]・小説をヴェルディに送付していた。 |
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そのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのは[[ウジェーヌ・スクリーブ]]の『[[アドリエンヌ・ルクヴルール]]』(Adrienne Lecouvreur) と、[[モリエール]]作『[[タルチュフ]]』(Le Tartuffe, ou L'Imposteur) 、それにロペス・デ・アジャラの "El Tanto por Ciento" であった。 |
そのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのは、[[ウジェーヌ・スクリーブ]]の『[[アドリエンヌ・ルクヴルール]]』(''Adrienne Lecouvreur'') と、[[モリエール]]作『[[タルチュフ]]』(''Le Tartuffe, ou L'Imposteur'') 、それにロペス・デ・アジャラの ''"El Tanto por Ciento"'' であった。後ニ者が[[喜劇]]であったことは興味深い。ヴェルディがそれまでに作曲した[[オペラ・ブッファ]]は、第2作『[[一日だけの王様]]』([[1840年]]初演)1作のみだったし、オペラ・ブッファというジャンルそのものが[[19世紀]]後半の[[イタリア]]では人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品『[[ファルスタッフ]]』([[1893年]]初演)でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。 |
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=== カイロからの委嘱 === |
=== カイロからの委嘱 === |
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このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディには祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督 |
このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディには祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督[[イスマーイール・パシャ]]である。1869年11月のスエズ運河開通の祝賀事業の一環として、パシャは[[カイロ (エジプト)|カイロ]]にオペラ劇場(「イタリア劇場」とも)を開場したが、その開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期的は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません」といって断っている。 |
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結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『[[リゴレット]]』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。題材としてパシャが用意したのは、[[考古学者]][[オギュスト・マリエット]]の著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、[[1849年]]から[[ルーヴル美術館]]のエジプト考古部に勤務、[[1851年]]からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」([[1858年]])更には「パシャ」([[1879年]])の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。 |
結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『[[リゴレット]]』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。題材としてパシャが用意したのは、[[考古学者]][[オギュスト・マリエット]]の著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、[[1849年]]から[[ルーヴル美術館]]のエジプト考古部に勤務、[[1851年]]からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」([[1858年]])、更には「パシャ」([[1879年]])の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。 |
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依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春、スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。 |
依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春、スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。 |
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イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、 |
イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした荘厳なオペラ作品を自分が統治するカイロのオペラハウスで上演したい、という夢と希望を持っていた。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに「ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先は[[シャルル・グノー|グノー]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]に変更してもいい。」という内容の手紙も送っていた。デュ・ロクルがその手紙の内容を伝えたことで、ヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が惹起され、それまでブッファを中心に新作題材を検討していた彼はこのマリエット原案による悲劇を真剣に検討することになった。「ワーグナー」の名を出すのはデュ・ロクルの作戦だったかも知れない。 |
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1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は |
1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は |
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* ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する(これは彼の最近作『[[ドン・カルロ]]』の4倍という法外なものであった) |
* ヴェルディは作曲料として15万[[フランス・フラン]]を受領する(これは彼の最近作『[[ドン・カルロ]]』の4倍という法外なものであった) |
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* 台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ |
* 台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること |
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* 台本は[[イタリア語]]であるべきこと |
* 台本は[[イタリア語]]であるべきこと |
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* 1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ |
* 1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと |
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* ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を |
* ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと |
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* 仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること |
* 仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること |
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* 初演以外の全ての上演に関する |
* 初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること |
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という、彼にとって有利なものであったが、闊達なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。 |
という、彼にとって有利なものであったが、闊達なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。 |
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=== 台本に関与した人々 === |
=== 台本に関与した人々 === |
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マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。 |
マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。 |
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#エジプト総督 |
#エジプト総督'''イスマーイール・パシャ'''。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに『アイーダ』のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれは、デュ・ロクルによる一種の「箔付け」の可能性が高い。 |
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#エジプト考古学者 |
#エジプト考古学者'''[[オギュスト・マリエット]]'''。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に『アイーダ』(''Aïda'') のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。 |
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#パリの'''[[カミーユ・デュ・ロクル]]'''。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また翌6月にはフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディの |
#パリの'''[[カミーユ・デュ・ロクル]]'''。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また翌6月にはフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタ([[ヴィッラノーヴァ・スッラルダ]])の自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット「原案」第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意であろう。 |
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#'''ヴェルディ'''自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も台本作成に関してギスランツォーニに数々の指示を行っている。 |
#'''ヴェルディ'''自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も台本作成に関してギスランツォーニに数々の指示を行っている。 |
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#ヴェルディの妻 |
#ヴェルディの妻'''[[ジュゼッピーナ・ストレッポーニ|ジュゼッピーナ]]'''。マリエット「原案」後半の2幕分をイタリア語に翻訳した。彼女はもと高名なオペラ歌手であり、フランス語にも夫以上に堪能であった。 |
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#イタリア人台本作家'''[[アントニオ・ギスランツォーニ]]'''。3、4、5をもとにイタリア語韻文による台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。 |
#イタリア人台本作家'''[[アントニオ・ギスランツォーニ]]'''。3、4、5をもとにイタリア語韻文による台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。 |
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1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的に |
1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本作家と位置づけている)。 |
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またこれとはまったく別個に、1756年に[[メタスタージオ]]によって著され、[[ニコロ・コンフォルティ]]([[1756年]]初演)、[[ニコロ・ピッチンニ]]([[1757年]]初演)、[[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]([[1758年]]初演)など多くのオペラ作曲家によって舞台化された、エジプトを舞台としたオペラ台本『ニチェッティ』''Nitteti''こそが本当の原案であり、マリエットあるいはデュ・ロクルはそれを下敷きに『アイーダ』の台本を構築したのではないか、という説も近年では唱えられている。 |
またこれとはまったく別個に、1756年に[[メタスタージオ]]によって著され、[[ニコロ・コンフォルティ]]([[1756年]]初演)、[[ニコロ・ピッチンニ]]([[1757年]]初演)、[[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]([[1758年]]初演)など多くのオペラ作曲家によって舞台化された、エジプトを舞台としたオペラ台本『ニチェッティ』(''Nitteti'') こそが本当の原案であり、マリエットあるいはデュ・ロクルはそれを下敷きに『アイーダ』の台本を構築したのではないか、という説も近年では唱えられている。 |
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なお、マリエットの「原案」で"Aïda"に[[トレマ]]記号「¨」があるのは、そうでなければ「アイーダ」と発音できない、というフランス語の特性によるもので、イタリア国外では今日でもそのように綴る資料・文献も多い。一方、イタリア語では"Aida"と綴れば「アイーダ」と発音できるので、ヴェルディは常にそのように表記し、カイロ初演時の表記もそのようになっている。"Aïda"と"Aida"、2種類の表記の混在はそこから発生した。 |
なお、マリエットの「原案」で ''"Aïda"'' に[[トレマ]]記号「¨」があるのは、そうでなければ「アイーダ」と発音できない、というフランス語の特性によるもので、イタリア国外では今日でもそのように綴る資料・文献も多い。一方、イタリア語では ''"Aida"'' と綴れば「アイーダ」と発音できるので、ヴェルディは常にそのように表記し、カイロ初演時の表記もそのようになっている。"Aïda" と "Aida"、2種類の表記の混在はそこから発生した。 |
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=== 作曲の進展 === |
=== 作曲の進展 === |
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ヴェルディの作曲順はほぼ場面展開順であり、彼とギスランツォーニが唯一後回しにしたのは第1幕第2場、神殿で祭司らが勝利を祈願する場面だった。音楽効果上ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていた |
ヴェルディの作曲順はほぼ場面展開順であり、彼とギスランツォーニが唯一後回しにしたのは、第1幕第2場、神殿で祭司らが勝利を祈願する場面だった。音楽効果上、ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていたが、ファラオ時代の女性が祭祀に加わることが考証的にあり得るだろうか、との疑問をもち、マリエットに問い合わせを行っているのである。このような宗教儀式への女性の参加はなかった、とするのが(少なくとも作曲時の19世紀においては)考古学上の通説だったが、エジプト考古学の第一人者のはずのマリエットは芸術上の効果を学問上の知見に優先させ、デュ・ロクルを通じて「ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えないと考えます」という返信をしている。こうして無事に(?)巫女の声が祭司たちに唱和できることになった。 |
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1870年11月にはヴェルディの作曲はほぼ完成し |
1870年11月にはヴェルディの作曲はほぼ完成した。彼はカイロ初演に立ち会う考えがなかったため、通常はリハーサル段階で手を入れることができる[[管弦楽法|オーケストレーション]]までを仕上げる必要があったことを勘案しても、着手からわずか5か月(台本の初回受領からは4か月)で総譜まで完成というのは、『アイーダ』のような大規模かつ重厚なオペラの場合、異例のハイペースであり、ヴェルディの意気込みが感じられる。 |
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=== 普仏戦争による遅延、そして初演 === |
=== 普仏戦争による遅延、そして初演 === |
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上述のように『アイーダ』[[カイロ (エジプト)|カイロ]]初演は当初1871年1月に予定されており、ヴェルディ側の準備は順調だった。しかし、1870年7月に勃発した[[普仏戦争]]が予期せぬ混乱をもたらした。カイロ初演のための舞台装置 |
上述のように『アイーダ』[[カイロ (エジプト)|カイロ]]初演は当初1871年1月に予定されており、ヴェルディ側の準備は順調だった。しかし、1870年7月に勃発した[[普仏戦争]]が予期せぬ混乱をもたらした。カイロ初演のための舞台装置と衣装はすべて、一時帰国したマリエットの監修のもと、[[パリ]]で製作されていたが、[[プロイセン王国|プロイセン]]軍によって同市はほぼ完全に包囲され、人手不足も加わって作業は大幅に遅延、完成した資材もマリエットもパリ脱出不能の状態となり、スケジュール通りの初演は不可能になった(ヴェルディ自身この危機的状況を、デュ・ロクルが包囲下のパリでしたため、[[気球]]に載せて送出した郵便で知った)。 |
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このような事態では契約上、ヴェルディが好みの歌劇場で初演を強行することも可能だった |
このような事態では上述の契約上、ヴェルディが好みの歌劇場で初演を強行することも可能だったが、彼はイスマーイール・パシャの顔を立てる形で世界初演延期に同意、1871年2月に予定していた[[ミラノ]]・[[スカラ座]]でのイタリア初演も1年の延期とした。 |
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1871年12月24日、カイロにて11か月遅れで行われた初演は予想通りの大成功であった。もっとも、エジプトの一種の「国策」として委嘱された同オペラがカイロで失敗するという懸念はあまりなかったかも知れない。その頃ヴェルディは、より正念場と考えられたスカラ座でのイタリア初演に集中する日々を送っていた。 |
1871年12月24日、カイロにて11か月遅れで行われた初演は、予想通りの大成功であった。もっとも、エジプトの一種の「国策」として委嘱された同オペラがカイロで失敗するという懸念はあまりなかったかも知れない。その頃ヴェルディは、より正念場と考えられたスカラ座でのイタリア初演に集中する日々を送っていた。 |
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== 構成 == |
== 構成 == |
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4幕7場 |
4幕7場 |
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* 第1幕 |
* 第1幕 |
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** 第1場 [[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]の |
** 第1場 [[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]の王宮 |
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** 第2場 メンフィスの[[ウゥルカーヌス|ウルカヌス]](≒[[プタハ]]) |
** 第2場 メンフィスの[[ウゥルカーヌス|ウルカヌス]](≒[[プタハ]])神殿 |
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* 第2幕 |
* 第2幕 |
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** 第1場 [[テーベ]]の |
** 第1場 [[テーベ]]の宮殿、アムネリス王女の居室 |
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** 第2場 テーベの |
** 第2場 テーベの凱旋門 |
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* 第3幕 [[ナイル川]]の岸辺 |
* 第3幕 [[ナイル川]]の岸辺 |
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* 第4幕 |
* 第4幕 |
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** 第1場 |
** 第1場 メンフィス王宮の広間 |
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** 第2場 メンフィスの |
** 第2場 メンフィスのウルカヌス(≒プタハ)神殿と地下牢 |
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== 編成 == |
== 編成 == |
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80行目: | 80行目: | ||
以下の各人物描写は[[1873年]]に[[リコルディ]]社より出版された舞台指示書 (disposizione scenica) に基づく。この指示書は作曲者ヴェルディの意向を忠実に反映していると考えられているが、今日の舞台演出が必ずしもそれに従っているわけではないのは無論のことである。 |
以下の各人物描写は[[1873年]]に[[リコルディ]]社より出版された舞台指示書 (disposizione scenica) に基づく。この指示書は作曲者ヴェルディの意向を忠実に反映していると考えられているが、今日の舞台演出が必ずしもそれに従っているわけではないのは無論のことである。 |
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* エジプト |
* エジプト国王(ファラオ)([[バス (声域)|バス]]):約45歳。威厳に満ち、堂々とした態度。 |
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* アムネリス([[メゾソプラノ]]):エジプト王女。20歳。とても活発。 |
* アムネリス([[メゾソプラノ]]):エジプト王女。20歳。とても活発。性格は激情的で、感受性に富む。 |
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* アイーダ([[ソプラノ]]):[[エチオピア]]王女で |
* アイーダ([[ソプラノ]]):[[エチオピア]]王女で女奴隷。肌は暗く赤みがかった[[オリーブ]]色。20歳。愛情、従順さ、優しさ――これらがこの人物の主要な特質をなす。 |
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* ラダメス([[テノール]]): |
* ラダメス([[テノール]]):軍隊の指揮官。24歳。情熱的な性格。 |
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* ラムフィス(バス): |
* ラムフィス(バス):祭司長。50歳。確固とした性格。専制的で残忍。態度は威厳に満ちている。 |
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* アモナズロ([[バリトン]]):エチオピア王であり、アイーダの父。肌は暗く赤味がかったオリーブ色。40歳。御しがたい戦士で、祖国愛にあふれている。性格は衝動的で暴力的。 |
* アモナズロ([[バリトン]]):エチオピア王であり、アイーダの父。肌は暗く赤味がかったオリーブ色。40歳。御しがたい戦士で、祖国愛にあふれている。性格は衝動的で暴力的。 |
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=== 管弦楽 === |
=== 管弦楽 === |
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* [[フルート]] 3([[ピッコロ]]持替え 1)、[[オーボエ]] 2、[[コーラングレ]]、[[クラリネット]] 2、[[バスクラリネット]]、[[ファゴット]] 2 |
* [[フルート]] 3([[ピッコロ]]持替え 1)、[[オーボエ]] 2、[[コーラングレ]]、[[クラリネット]] 2、[[バスクラリネット]]、[[ファゴット]] 2 |
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* [[ホルン]] 4、[[トランペット]] 2、[[トロンボーン]] 3、バス |
* [[ホルン]] 4、[[トランペット]] 2、[[トロンボーン]] 3、[[バストロンボーン]] |
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* [[ティンパニ]] |
* [[ティンパニ]] 1対、[[トライアングル]]、[[大太鼓]]、[[シンバル]]、[[銅鑼]] |
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* [[ハープ]] 2 |
* [[ハープ]] 2 |
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* [[弦五部]] |
* [[弦五部]] |
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** [[ヴァイオリン]] 2パート、[[ヴィオラ]] 1パート、[[チェロ]] 1パート、[[コントラバス]] 1パート |
** [[ヴァイオリン]] 2パート、[[ヴィオラ]] 1パート、[[チェロ]] 1パート、[[コントラバス]] 1パート ([[ウィーン国立歌劇場]]の室内でせいぜい14型、[[ヴェローナ]]などの野外では[[倍管]]で16型以上を当てる) |
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;[[バンダ (オーケストラ)|バンダ]] |
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* 舞台上 |
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* エジプト風トランペット([[アイーダ・トランペット]]とも呼ばれる[[ファンファーレ・トランペット]])6、軍楽隊([[金管楽器]])、ハープ |
** エジプト風トランペット([[アイーダ・トランペット]]とも呼ばれる[[ファンファーレ・トランペット]])6、軍楽隊([[金管楽器]])、ハープ |
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* 地下 |
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⚫ | |||
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=== 上演時間 === |
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⚫ | |||
=== 演奏時間 === |
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約2時間20分(各40分、40分、30分、30分) |
約2時間20分(各40分、40分、30分、30分) |
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143行目: | 143行目: | ||
|title=アイーダより「おおわが故郷」 |
|title=アイーダより「おおわが故郷」 |
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|filename=Nicola Zerola, Giuseppe Verdi, La fatal pietra (Aida).ogg |
|filename=Nicola Zerola, Giuseppe Verdi, La fatal pietra (Aida).ogg |
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|description= |
|description=第3幕「おおわが故郷」(O patria mia)(1909)}} |
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* 清きアイーダ ''Celeste Aida''(第1幕第1場):ラダメスのロマンツァ |
* 清きアイーダ ''Celeste Aida''(第1幕第1場):ラダメスのロマンツァ |
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150行目: | 150行目: | ||
* おおわが故郷 ''O patria mia''(第3幕):アイーダのロマンツァ |
* おおわが故郷 ''O patria mia''(第3幕):アイーダのロマンツァ |
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== 凱旋行進曲 == |
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第2幕第2場で演奏される「凱旋行進曲」は、本作を代表する曲の中でも独立して聞かれることが多いものである。演奏においても劇的効果を挙げるため、この部分のトランペットは「アイーダトランペット」という独自のトランペットで舞台上で演奏される。 |
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演奏においても劇的効果をあげるためこの部分はトランペットは「アイーダトランペット」という独自のトランペットで舞台上で演奏される。 |
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この曲はトランペットのファンファーレと弦楽の掛け合いで始まり、それに混声合唱が加わり、曲調は一つのピークを迎える。その後、女声、男声の合唱がたたみかけるように歌われ主題の導入を迎える。 |
この曲はトランペットのファンファーレと弦楽の掛け合いで始まり、それに混声合唱が加わり、曲調は一つのピークを迎える。その後、女声、男声の合唱がたたみかけるように歌われ、主題の導入を迎える。主題1はトランペットの演奏で淡々と行われ主題2が来るが、その後2度上に[[移調]]した上に伴奏が一層派手につき、豪華になる。 |
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主題1はトランペットの演奏でたんたんと行われ主題2が来るが、その後2度上に[[移調]]した上に伴奏が一層派手につき豪華になる。 |
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=== サッカーと「凱旋行進曲」 === |
=== サッカーと「凱旋行進曲」 === |
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日本ではサッカーの応援歌として本曲の主題1が歌われるが、その由来として以下のものがある。 |
日本ではサッカーの応援歌として本曲の主題1が歌われるが、その由来として以下のものがある。[[中田英寿]]が[[イタリア]][[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[パルマFC]]に居た時、同FCの応援歌にアイーダの「凱旋行進曲」を使用されているのを気に入ったことを自身のHPで語ったことがきっかけだという。なお、パルマFCは設立当初は「'''おらが町の偉人ジュゼッペ・ヴェルディ'''」にちなんで'''「ヴェルディサッカークラブ」'''と名乗っていた。 |
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[[中田英寿]]が[[イタリア]][[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[パルマFC]]に居た時、同FCの応援歌にアイーダの「凱旋行進曲」を使用されているのを気に入ったことを自身のHPで語ったことがきっかけだという。 |
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なお、パルマFCは設立当初は「'''おらが町の偉人ジュゼッペ・ヴェルディ'''」にちなんで'''「ヴェルディサッカークラブ」'''と名乗っていた。 |
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== 主要各国での初演と上演小史 == |
== 主要各国での初演と上演小史 == |
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=== イタリア === |
=== イタリア === |
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* [[1872年]][[2月8日]]、[[ミラノ]]・[[スカラ座]]にて[[フランコ・ファッチオ]]の指揮によって初演された。カイロでの世界初演には赴かなかったヴェルディも、このスカラ座公演には全精力を傾注した。当時ヴェルディと愛人関係にあったと推測されている[[ドイツ]]人[[ソプラノ]]歌手 |
* [[1872年]][[2月8日]]、[[ミラノ]]・[[スカラ座]]にて[[フランコ・ファッチオ]]の指揮によって初演された。カイロでの世界初演には赴かなかったヴェルディも、このスカラ座公演には全精力を傾注した。当時ヴェルディと愛人関係にあったと推測されている[[ドイツ]]人[[ソプラノ]]歌手テレーザ・シュトルツがアイーダ役であったことも無関係ではなかっただろう。その他、アムネリス役にはマリア・ヴァルトマン、ラダメスはジュゼッペ・カッポーニ、アモナズロはフランチェスコ・パンドルフィーニと、主要キャストがヴェルディお気に入りの一流歌手で固められる豪華配役であった。後述の如く、前奏曲を差し替える形での「序曲」もこの際計画されたが、それはリハーサル時にヴェルディ自身によって放棄された。 |
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* ミラノの一般聴衆はこの新作を熱狂的に迎えたが、ワグネリズムの影響が色濃かった当時のミラノの音楽評論では(表面的には賞賛しつつも)この『アイーダ』が[[シャルル・グノー|グノー]]、[[ジャーコモ・マイアーベーア|マイアーベーア]]そしてとりわけ[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を受けている、と主張するものが数多く見られた。ワーグナーに敬意は払いつつも自らを独自の存在と自負していたヴェルディは、当然のことながらこうした「ワーグナーの模倣」的評論に対しては不満であった。 |
* ミラノの一般聴衆はこの新作を熱狂的に迎えたが、ワグネリズムの影響が色濃かった当時のミラノの音楽評論では(表面的には賞賛しつつも)この『アイーダ』が[[シャルル・グノー|グノー]]、[[ジャーコモ・マイアーベーア|マイアーベーア]]そしてとりわけ[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を受けている、と主張するものが数多く見られた。ワーグナーに敬意は払いつつも自らを独自の存在と自負していたヴェルディは、当然のことながらこうした「ワーグナーの模倣」的評論に対しては不満であった。 |
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* 以降のイタリア各都市での上演([[1872年]]4月に[[パルマ]]、同7月に[[パドヴァ]]、[[1873年]]3月[[ナポリ]]、同5月[[アンコーナ]])では、ヴェルディは上演水準の維持に腐心することとなった。オーケストラや合唱の編成規模、舞台装置や衣装から、はては各登場人物の立ち位置、舞台上での所作までヴェルディが検討を重ね、またそうした彼の指示は詳細にわたる「舞台指示書」としてまとめられ、[[リコルディ]]社より出版された(1873年)。 |
* 以降のイタリア各都市での上演([[1872年]]4月に[[パルマ]]、同7月に[[パドヴァ]]、[[1873年]]3月[[ナポリ]]、同5月[[アンコーナ]])では、ヴェルディは上演水準の維持に腐心することとなった。オーケストラや合唱の編成規模、舞台装置や衣装から、はては各登場人物の立ち位置、舞台上での所作までヴェルディが検討を重ね、またそうした彼の指示は詳細にわたる「舞台指示書」としてまとめられ、[[リコルディ]]社より出版された(1873年)。 |
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* [[1873年]]10月、[[ブエノスアイレス]]にて初演。これがエジプトとイタリア以外での初公演である。カイロ世界初演時のアイーダ役ソプラノ、アントニエッタ・アナスタージ=ポッツォーニが出演した。 |
* [[1873年]]10月、[[ブエノスアイレス]]にて初演。これがエジプトとイタリア以外での初公演である。カイロ世界初演時のアイーダ役ソプラノ、アントニエッタ・アナスタージ=ポッツォーニが出演した。 |
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=== アメリカ合衆国 |
=== アメリカ合衆国 === |
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* [[1873年]][[11月25日]]、[[ニューヨーク]]、アカデミー・オブ・ミュージックで初演された。高名なテノール、イタロ・カンパニーニがラダメス役を、フランス人バリトン歌手、ヴィクトル・モレル(後に『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』、『[[ファルスタッフ]]』の初演でも主要役を演じる)がアモナズロ役を務め、指揮はヴェルディお気に入りのエマヌエーレ・ムツィオであった。3か月を経ずして、[[フィラデルフィア]]、[[シカゴ]]、[[ミルウォーキー]]、[[ボストン]]での初演もほぼ同様のキャストで行われた。 |
* [[1873年]][[11月25日]]、[[ニューヨーク]]、アカデミー・オブ・ミュージックで初演された。高名なテノール、イタロ・カンパニーニがラダメス役を、フランス人バリトン歌手、ヴィクトル・モレル(後に『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』、『[[ファルスタッフ]]』の初演でも主要役を演じる)がアモナズロ役を務め、指揮はヴェルディお気に入りのエマヌエーレ・ムツィオであった。3か月を経ずして、[[フィラデルフィア]]、[[シカゴ]]、[[ミルウォーキー]]、[[ボストン]]での初演もほぼ同様のキャストで行われた。 |
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* 1883年にオープンした[[メトロポリタン歌劇場]](メト)での『アイーダ』初演は、[[1886年]][[11月12日]]である。メトでは1884年から1891年の間、すべてのオペラが[[ドイツ語]]によって歌われたが、『アイーダ』もその例外ではなくドイツ語訳詞での上演であった。しかしこのドイツ語公演は不評であり、[[1891年]]12月10日には初めて原語イタリア語での上演が行われ、同時にそれはメトでのオペラ原語上演の端緒となった。 |
* 1883年にオープンした[[メトロポリタン歌劇場]](メト)での『アイーダ』初演は、[[1886年]][[11月12日]]である。メトでは1884年から1891年の間、すべてのオペラが[[ドイツ語]]によって歌われたが、『アイーダ』もその例外ではなく、ドイツ語訳詞での上演であった。しかしこのドイツ語公演は不評であり、[[1891年]]12月10日には初めて原語イタリア語での上演が行われ、同時にそれはメトでのオペラ原語上演の端緒となった。 |
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* 『アイーダ』はその後1898年から1945年まで48シーズン連続で上演がなされ、現在でもメトで最も上演回数の多いオペラの一つである。2006年2月までの通算上演回数1,093回、これは[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]『[[ボエーム|ラ・ボエーム]]』の1,178回に続いて第2位である。 |
* 『アイーダ』はその後1898年から1945年まで48シーズン連続で上演がなされ、現在でもメトで最も上演回数の多いオペラの一つである。2006年2月までの通算上演回数1,093回、これは[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]『[[ボエーム|ラ・ボエーム]]』の1,178回に続いて第2位である。 |
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=== ドイツ === |
=== ドイツ === |
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* [[1874年]]4月、[[ベルリン]]にて。[[ドイツ語]]訳詞公演。この歌劇はヴェローナ・オペラの影響で |
* [[1874年]]4月、[[ベルリン]]にて。[[ドイツ語]]訳詞公演。この歌劇はヴェローナ・オペラの影響でスペクタクル・オペラとしてドイツ各地の巡回に良く使われ、大きな体育館などが会場に使われ。本物の[[ゾウ|象]]や[[大蛇]]・[[麒麟]]などの実際の動物が派手に登場するイベントが多い。 |
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=== フランス === |
=== フランス === |
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=== 日本 === |
=== 日本 === |
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* 抜粋の上演は早くから行われていたと考えられるが、本格的な公演としては[[1919年]][[9月1日]]より[[東京]]・[[帝国劇場]]にて行われた「ロシア大歌劇団」のロシア語訳詞公演が日本初演とされている。同歌劇団は[[ロシア革命]]の混乱から逃れようとした[[ロシア人]]歌手、管弦楽団員を中心として結成され、[[ウラジオストック]]を中心にアジア・アメリカでの旅回り公演を重ねていたもの。当時の日本語プログラムでは「彼得倶羅土(ペトログラード)、莫斯科(モスクワ)両歌劇座大歌劇」と記載してあり、まるで引越公演のような印象すら与える。事実、主役級の歌手のうちには |
* 抜粋の上演は早くから行われていたと考えられるが、本格的な公演としては[[1919年]][[9月1日]]より[[東京]]・[[帝国劇場]]にて行われた「ロシア大歌劇団」のロシア語訳詞公演が日本初演とされている。同歌劇団は[[ロシア革命]]の混乱から逃れようとした[[ロシア人]]歌手、管弦楽団員を中心として結成され、[[ウラジオストック]]を中心にアジア・アメリカでの旅回り公演を重ねていたもの。当時の日本語プログラムでは「彼得倶羅土(ペトログラード)、莫斯科(モスクワ)両歌劇座大歌劇」と記載してあり、まるで引越公演のような印象すら与える。事実、主役級の歌手のうちにはペトログラード([[サンクトペテルブルク]])や[[モスクワ]]での舞台経験を重ねた好歌手もいたが、合唱、舞台装置などはかなり貧弱なものであったらしい。 |
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* 日本人を中心とした本格的な上演は[[1941年]][[5月26日]]から[[歌舞伎座]]で行われた[[藤原歌劇団]]の全3回公演(日本語訳詞)が最初であった。アイーダには井崎嘉代子、磯村澄子、ラダメスに[[藤原義江]]、アムネリスに佐藤美子、齋田愛子を配し、指揮は[[マンフレート・グルリット]](日本でのオペラ初指揮)、管弦楽は中央交響楽団である。うち5月28日の公演は[[JOAK]]によって部分的に生中継放送も行われた。 |
* 日本人を中心とした本格的な上演は[[1941年]][[5月26日]]から[[歌舞伎座]]で行われた[[藤原歌劇団]]の全3回公演(日本語訳詞)が最初であった。アイーダには井崎嘉代子、磯村澄子、ラダメスに[[藤原義江]]、アムネリスに佐藤美子、齋田愛子を配し、指揮は[[マンフレート・グルリット]](日本でのオペラ初指揮)、管弦楽は中央交響楽団である。うち5月28日の公演は[[JOAK]]によって部分的に生中継放送も行われた。 |
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* 『アイーダ』野外公演のもっとも初期のものとして記録に残るのは、[[1912年]]に[[エジプト]]・[[ギザの大ピラミッド|クフ王のピラミッド]]の麓で行われた公演である。これは炎天下での演奏であり、舞台は土盛りして整地したもので、数百人に及ぶエキストラが用いられたという。 |
* 『アイーダ』野外公演のもっとも初期のものとして記録に残るのは、[[1912年]]に[[エジプト]]・[[ギザの大ピラミッド|クフ王のピラミッド]]の麓で行われた公演である。これは炎天下での演奏であり、舞台は土盛りして整地したもので、数百人に及ぶエキストラが用いられたという。 |
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* [[ヴェローナ]]市街に残る[[古代ローマ]]時代の闘技場遺跡・[[アレーナ・ディ・ヴェローナ]]では、[[1913年]]のヴェルディ生誕100周年を記念して野外オペラ公演が開始され、その第1回は『アイーダ』であった。今日でも『アイーダ』は最も人気の高い演目の一つで、凱旋の場で[[ゾウ]]を登場させる、第3幕(ナイル河畔の場)では舞台上の水路に小舟を浮かべて歌手をそこに載せる等、視覚的にも愉しみの多い舞台がみられる。1997年の公演では、マリエットのデザインしたカイロ初演時の衣装に、1913年のアレーナ初演での舞台装置(ただし、ともに再製作したもの)を組み合わせた古典的な演出を行った。 |
* [[ヴェローナ]]市街に残る[[古代ローマ]]時代の闘技場遺跡・[[アレーナ・ディ・ヴェローナ]]では、[[1913年]]のヴェルディ生誕100周年を記念して野外オペラ公演が開始され、その第1回は『アイーダ』であった。今日でも『アイーダ』は最も人気の高い演目の一つで、凱旋の場で[[ゾウ]]を登場させる、第3幕(ナイル河畔の場)では舞台上の水路に小舟を浮かべて歌手をそこに載せる等、視覚的にも愉しみの多い舞台がみられる。1997年の公演では、マリエットのデザインしたカイロ初演時の衣装に、1913年のアレーナ初演での舞台装置(ただし、ともに再製作したもの)を組み合わせた古典的な演出を行った。 |
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* [[1919年]]には、当時絶大な人気を誇った[[テノール]]歌手[[エンリコ・カルーソー]]の[[メキシコ・シティ]]訪問にあわせ、サッカー競技場で野外オペラ公演が行われ、[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]『[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]』等と共に『アイーダ』が上演された。この時カルーソーが受け取ったギャラは彼の生涯でも最高水準だったという。拡声装置等のない時代のことゆえ、音楽は |
* [[1919年]]には、当時絶大な人気を誇った[[テノール]]歌手[[エンリコ・カルーソー]]の[[メキシコ・シティ]]訪問にあわせ、サッカー競技場で野外オペラ公演が行われ、[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]『[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]』等と共に『アイーダ』が上演された。この時カルーソーが受け取ったギャラは、彼の生涯でも最高水準だったという。拡声装置等のない時代のことゆえ、音楽はほとんど聴き取れなかったというが、聴衆(というより観客)は「カルーソーを見た」ことに満足して帰途に着いた。 |
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* アメリカでも『アイーダ』はしばしば野外オペラの演目として採り上げられた。その最も初期のものは、[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]の本拠地であった[[ニューヨーク]]・[[ブルックリン地区|ブルックリン]]のエベッツ・フィールドで1925年に行われた公演である。 |
* アメリカでも『アイーダ』はしばしば野外オペラの演目として採り上げられた。その最も初期のものは、[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]の本拠地であった[[ニューヨーク]]・[[ブルックリン地区|ブルックリン]]のエベッツ・フィールドで1925年に行われた公演である。 |
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* アレーナ・ディ・ヴェローナと同じく古代ローマ時代の遺跡である[[ローマ]]市内[[カラカラ大浴場]]でも[[1937年]]から野外オペラ公演が行われ、そこで『アイーダ』は中心演目の一つである。同浴場の崩落の危険のため1993年から公演は中断していたが、2003年に復活している。 |
* アレーナ・ディ・ヴェローナと同じく古代ローマ時代の遺跡である[[ローマ]]市内[[カラカラ大浴場]]でも[[1937年]]から野外オペラ公演が行われ、そこで『アイーダ』は中心演目の一つである。同浴場の崩落の危険のため、1993年から公演は中断していたが、2003年に復活している。 |
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* 近年の『アイーダ』野外公演の観客動員記録と考えられているのは、[[2001年]]9月21日、[[パリ]]郊外、[[スタッド・ド・フランス]]競技場での約7万人という。 |
* 近年の『アイーダ』野外公演の観客動員記録と考えられているのは、[[2001年]]9月21日、[[パリ]]郊外、[[スタッド・ド・フランス]]競技場での約7万人という。 |
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その後(1870年7月頃)ヴェルディは、凱旋の場で「エジプト風」のトランペットを導入し、行進曲を添えることを考えた。モデルとなったのは[[ルーヴル美術館]]に収蔵された唯一の現物、並びに様々の壁画に描かれた長管の楽器であったと考えられる。特注されたこれら「アイーダ・トランペット」は管長約1.2mの長大なものであり、舞台で6本揃えば異国情緒を演出するには十分な偉容である。スカラ座でのイタリア初演後数年間は、これらトランペット6本1組は『アイーダ』総譜と共にリコルディ社から各劇場に公演の都度貸与され、それを使用することが公演の付帯条件とされていた。 |
その後(1870年7月頃)ヴェルディは、凱旋の場で「エジプト風」のトランペットを導入し、行進曲を添えることを考えた。モデルとなったのは[[ルーヴル美術館]]に収蔵された唯一の現物、並びに様々の壁画に描かれた長管の楽器であったと考えられる。特注されたこれら「アイーダ・トランペット」は管長約1.2mの長大なものであり、舞台で6本揃えば異国情緒を演出するには十分な偉容である。スカラ座でのイタリア初演後数年間は、これらトランペット6本1組は『アイーダ』総譜と共にリコルディ社から各劇場に公演の都度貸与され、それを使用することが公演の付帯条件とされていた。 |
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異国情緒、綿密な時代考証といった「こだわり」はパリの「[[グランド・オペラ]]」様式の延長線上に『アイーダ』があることを示している。しかし、ヴェルディの没後[[1922年]]になって[[ツタンカーメン]]王の墓から発見されたトランペット状の管楽器は管長50cm内外の比較的短いものばかりであり、ヴェルディらの考証作業も(考古学的観点からは)不十分だった、ということになる。 |
異国情緒、綿密な時代考証といった「こだわり」はパリの「[[グランド・オペラ]]」様式の延長線上に『アイーダ』があることを示している。しかし、ヴェルディの没後[[1922年]]になって[[ツタンカーメン]]王の墓から発見されたトランペット状の管楽器は、管長50cm内外の比較的短いものばかりであり、ヴェルディらの考証作業も(考古学的観点からは)不十分だった、ということになる。 |
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== アイーダ・シンフォニア(序曲) == |
== アイーダ・シンフォニア(序曲) == |
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『アイーダ』のスカラ座初演時には、カイロ初演時の前奏曲に差し替えられる形で"シンフォニア"(序曲)が付けられる予定であった。これはオペラの各場面から5つの主題を(時系列的に)構成するものであったが、結局それは放棄された。ヴェルディの書簡には「ミラノでのリハーサルで序曲を試み、(スカラ座の)オーケストラもその内容をよく理解してくれたが、彼らの技量がしっかりしているぶん、内容の空疎さが明らかになってしまった」とあり、簡潔な前奏曲を内容的に上回ることができなかったことがヴェルディがこの序曲を用いなかった理由とみられる。 |
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初演から70年近く経た[[1940年]][[3月30日]]に |
初演から70年近く経た[[1940年]][[3月30日]]に、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]指揮[[NBC交響楽団]]によってこの序曲が初演(放送公演)された。トスカニーニは遡って[[1913年]]、ヴェルディ生誕100周年時にサンターガタのヴェルディ親族から同曲の譜面を示され、そこで楽譜のコピーをとり、演奏の機会をうかがっていたものと考えられている。 |
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トスカニーニと米国にこの「世界初演」の功を奪われたことを不快に思った[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]のイタリアでも、「ヴェルディ展」の開幕式の一環として同年6月4日、ベルナルディーノ・モリナーリ指揮、[[聖チェチーリア音楽院|サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団]]の演奏で急遽ヨーロッパ初演がなされた(オペラ・ファンであったムッソリーニ自身この演奏会の聴衆であり、一説にはこの演奏自体彼の命令によるという)。 |
トスカニーニと米国にこの「世界初演」の功を奪われたことを不快に思った[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]のイタリアでも、「ヴェルディ展」の開幕式の一環として同年6月4日、ベルナルディーノ・モリナーリ指揮、[[聖チェチーリア音楽院|サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団]]の演奏で急遽ヨーロッパ初演がなされた(オペラ・ファンであったムッソリーニ自身、この演奏会の聴衆であり、一説にはこの演奏自体が彼の命令によるという)。 |
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これらの演奏の後、この曲を指揮したのは[[クラウディオ・アバド]]、[[リッカルド・シャイー]]らである。アバドはトスカニーニ盤から楽譜を起こし、[[1977年]]にスカラ座のオーケストラにより演奏した(コンサート形式)。一方、シャイーは音楽学者でピアニストの[[ピエトロ・スパーダ]]が起こした版を使用して演奏をした。 |
これらの演奏の後、この曲を指揮したのは[[クラウディオ・アバド]]、[[リッカルド・シャイー]]らである。アバドはトスカニーニ盤から楽譜を起こし、[[1977年]]に[[ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団|スカラ座のオーケストラ]]により演奏した(コンサート形式)。一方、シャイーは音楽学者でピアニストの[[ピエトロ・スパーダ]]が起こした版を使用して演奏をした。 |
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上記の理由により、『アイーダ』では序曲を使用することを諦めたヴェルディであったが、年を経た次作の |
上記の理由により、『アイーダ』では序曲を使用することを諦めたヴェルディであったが、年を経た次作の『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』([[1887年]])でもシンフォニアを捨てきれなかったのか、一応は作曲している。しかし、こちらも最終的には使用はされなかった(これもシャイーがレコーディングしている)。 |
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== ミュージカル == |
== ミュージカル == |
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[[ディズニー]]製作の[[ミュージカル]]第3弾として[[2000年]]に[[ブロードウェイ]]で初演。作曲:[[エルトン・ジョン]]、作詞:[[ティム・ライス]]。同年の[[トニー賞]]や翌年の[[グラミー賞]]で多 |
[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]製作の[[ミュージカル]]第3弾として[[2000年]]に[[ブロードウェイ]]で初演された。作曲:[[エルトン・ジョン]]、作詞:[[ティム・ライス]]。同年の[[トニー賞]]や翌年の[[グラミー賞]]で多くの部門を受賞している。 |
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日本では[[劇団四季]]が[[2003年]]に[[大阪MBS劇場]]にて初演。以降、京都・福岡・名古屋とレパートリー演目として上演している。2009年10月3日から2010年9月6日まで[[電通四季劇場[海]]]で初の東京上演 |
日本では[[劇団四季]]が[[2003年]]に[[大阪MBS劇場]]にて初演した。以降、京都・福岡・名古屋とレパートリー演目として上演している。2009年10月3日から2010年9月6日まで[[電通四季劇場[海]]]で初の東京上演を行い、2011年3月21日から大阪で再演した。 |
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歴代主要キャスト(劇団四季) |
歴代主要キャスト(劇団四季) |
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== 宝塚公演 == |
== 宝塚公演 == |
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2003年、[[宝塚歌劇団]][[星組 (宝塚歌劇)|星組]]が『[[王家に捧ぐ歌]]』というタイトルで舞台化した。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[イラク]] |
2003年、[[宝塚歌劇団]][[星組 (宝塚歌劇)|星組]]が『[[王家に捧ぐ歌]]』というタイトルで舞台化した。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[イラク戦争|イラク攻撃]]などの時事問題を絡めた反戦メッセージを全面に押し出し、オリジナルのオペラの筋書きに手を加えた形となった。また、[[湖月わたる]]のお披露目公演であり、凱旋シーンやフィナーレのデュエットの振り付けにロシアから[[マイヤ・プリセツカヤ]]を招聘して話題となった。 |
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== 歌舞伎 == |
== 歌舞伎 == |
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2008年、八月納涼大歌舞伎・第三部で『野田版 愛陀姫(あいだひめ)』という題で上演。 |
2008年、八月納涼大歌舞伎・第三部で『野田版 愛陀姫(あいだひめ)』という題で上演された。作・演出は[[野田秀樹]]、出演は[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘三郎]]ほか。舞台設定を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[斎藤道三]]が治める[[美濃国|美濃]]に移して翻案、役名も愛陀姫(アイーダ)、木村駄目助座衛門(ラダメス)といった具合に変えられている。勘三郎演じる濃姫(アムネリス)の悲恋に主軸が置かれた物語になっている。 |
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作・演出:[[野田秀樹]]、出演:[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘三郎]]ほか。 |
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舞台設定を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[斎藤道三]]が治める[[美濃国|美濃]]に移して翻案、役名も愛陀姫(アイーダ)、木村駄目助座衛門(ラダメス)といった具合に変えられている。勘三郎演じる濃姫(アムネリス)の悲恋に主軸が置かれた物語になっている。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [[総譜]] |
* ''Aïda'' [[総譜]]、ドーヴァー社、1989年 |
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* Julian Budden, "The Operas of Verdi (Volume 3)", Cassell, (ISBN 0-3043-1060-3) |
* Julian Budden, "The Operas of Verdi (Volume 3)", Cassell, (ISBN 0-3043-1060-3) |
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* Charles Osbone, "The Complete Operas of Verdi", Indigo, (ISBN 0-575-40118-4) |
* Charles Osbone, "The Complete Operas of Verdi", Indigo, (ISBN 0-575-40118-4) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.opera-guide.ch/opern_komponisten.php?uilang=en&first-letter=V OPERA-GUIDE]リブレット、梗概など |
* [http://www.opera-guide.ch/opern_komponisten.php?uilang=en&first-letter=V OPERA-GUIDE]リブレット、梗概など |
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[[Category:1871年]] |
[[Category:1871年]] |
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[[Category:1870年代の音楽]] |
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[[ar:أوبرا عايدة]] |
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2011年9月6日 (火) 11:12時点における版
クラシック音楽 |
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作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 フルート協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト カテゴリ |
『アイーダ』 (伊: Aida) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1871年に初演された全4幕から成るオペラである。ファラオ時代のエジプトとエチオピア、2つの国に引裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラのひとつである。また第2幕第2場での「凱旋行進曲」の旋律は単独でも有名である。
この作品はしばしば「スエズ運河の開通(1869年)を記念して作曲された」あるいは「スエズ運河開通祝賀事業の一環としてカイロに建設されたオペラハウスの杮落し公演用に作曲された」といわれることがあるが、以下に述べるようにこれらはいずれも正確ではない。エジプトを舞台にしたメジャーなオペラはモーツァルトの『魔笛』以来だが、ほぼ無国籍なファンタジーである『魔笛』にくらべ、国家の攻防がメインに据えられた壮大なご当地オペラになっている。
基本データ
- 原語曲名:Aida/Aïda
- 原案:オギュスト・マリエット
- 原台本:カミーユ・デュ・ロクル
- 台本:アントニオ・ギスランツォーニ
- 作曲時期:1870年に作曲に着手
- 初演:1871年12月24日、カイロのカイロ劇場にて、ジョヴァンニ・ボッテジーニの指揮による
作曲の経緯
『ドン・カルロ』の初演(1867年)、『運命の力』の改訂初演(1869年)の後、ヴェルディの次作検討作業はパリ在住のオペラ台本作家であり、オペラ座やオペラ=コミック座の支配人でもあったカミーユ・デュ・ロクルとの交渉を中心に展開していた。デュ・ロクルは様々の戯曲・小説をヴェルディに送付していた。
そのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのは、ウジェーヌ・スクリーブの『アドリエンヌ・ルクヴルール』(Adrienne Lecouvreur) と、モリエール作『タルチュフ』(Le Tartuffe, ou L'Imposteur) 、それにロペス・デ・アジャラの "El Tanto por Ciento" であった。後ニ者が喜劇であったことは興味深い。ヴェルディがそれまでに作曲したオペラ・ブッファは、第2作『一日だけの王様』(1840年初演)1作のみだったし、オペラ・ブッファというジャンルそのものが19世紀後半のイタリアでは人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品『ファルスタッフ』(1893年初演)でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。
カイロからの委嘱
このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディには祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督イスマーイール・パシャである。1869年11月のスエズ運河開通の祝賀事業の一環として、パシャはカイロにオペラ劇場(「イタリア劇場」とも)を開場したが、その開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期的は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません」といって断っている。
結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務、1851年からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」(1858年)、更には「パシャ」(1879年)の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。
依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春、スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。
イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした荘厳なオペラ作品を自分が統治するカイロのオペラハウスで上演したい、という夢と希望を持っていた。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに「ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先はグノーやワーグナーに変更してもいい。」という内容の手紙も送っていた。デュ・ロクルがその手紙の内容を伝えたことで、ヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が惹起され、それまでブッファを中心に新作題材を検討していた彼はこのマリエット原案による悲劇を真剣に検討することになった。「ワーグナー」の名を出すのはデュ・ロクルの作戦だったかも知れない。
1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は
- ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する(これは彼の最近作『ドン・カルロ』の4倍という法外なものであった)
- 台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること
- 台本はイタリア語であるべきこと
- 1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと
- ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと
- 仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること
- 初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること
という、彼にとって有利なものであったが、闊達なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。
台本に関与した人々
マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。
- エジプト総督イスマーイール・パシャ。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに『アイーダ』のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれは、デュ・ロクルによる一種の「箔付け」の可能性が高い。
- エジプト考古学者オギュスト・マリエット。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に『アイーダ』(Aïda) のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。
- パリのカミーユ・デュ・ロクル。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また翌6月にはフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット「原案」第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意であろう。
- ヴェルディ自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も台本作成に関してギスランツォーニに数々の指示を行っている。
- ヴェルディの妻ジュゼッピーナ。マリエット「原案」後半の2幕分をイタリア語に翻訳した。彼女はもと高名なオペラ歌手であり、フランス語にも夫以上に堪能であった。
- イタリア人台本作家アントニオ・ギスランツォーニ。3、4、5をもとにイタリア語韻文による台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。
1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本作家と位置づけている)。
またこれとはまったく別個に、1756年にメタスタージオによって著され、ニコロ・コンフォルティ(1756年初演)、ニコロ・ピッチンニ(1757年初演)、ヨハン・アドルフ・ハッセ(1758年初演)など多くのオペラ作曲家によって舞台化された、エジプトを舞台としたオペラ台本『ニチェッティ』(Nitteti) こそが本当の原案であり、マリエットあるいはデュ・ロクルはそれを下敷きに『アイーダ』の台本を構築したのではないか、という説も近年では唱えられている。
なお、マリエットの「原案」で "Aïda" にトレマ記号「¨」があるのは、そうでなければ「アイーダ」と発音できない、というフランス語の特性によるもので、イタリア国外では今日でもそのように綴る資料・文献も多い。一方、イタリア語では "Aida" と綴れば「アイーダ」と発音できるので、ヴェルディは常にそのように表記し、カイロ初演時の表記もそのようになっている。"Aïda" と "Aida"、2種類の表記の混在はそこから発生した。
作曲の進展
ヴェルディの作曲順はほぼ場面展開順であり、彼とギスランツォーニが唯一後回しにしたのは、第1幕第2場、神殿で祭司らが勝利を祈願する場面だった。音楽効果上、ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていたが、ファラオ時代の女性が祭祀に加わることが考証的にあり得るだろうか、との疑問をもち、マリエットに問い合わせを行っているのである。このような宗教儀式への女性の参加はなかった、とするのが(少なくとも作曲時の19世紀においては)考古学上の通説だったが、エジプト考古学の第一人者のはずのマリエットは芸術上の効果を学問上の知見に優先させ、デュ・ロクルを通じて「ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えないと考えます」という返信をしている。こうして無事に(?)巫女の声が祭司たちに唱和できることになった。
1870年11月にはヴェルディの作曲はほぼ完成した。彼はカイロ初演に立ち会う考えがなかったため、通常はリハーサル段階で手を入れることができるオーケストレーションまでを仕上げる必要があったことを勘案しても、着手からわずか5か月(台本の初回受領からは4か月)で総譜まで完成というのは、『アイーダ』のような大規模かつ重厚なオペラの場合、異例のハイペースであり、ヴェルディの意気込みが感じられる。
普仏戦争による遅延、そして初演
上述のように『アイーダ』カイロ初演は当初1871年1月に予定されており、ヴェルディ側の準備は順調だった。しかし、1870年7月に勃発した普仏戦争が予期せぬ混乱をもたらした。カイロ初演のための舞台装置と衣装はすべて、一時帰国したマリエットの監修のもと、パリで製作されていたが、プロイセン軍によって同市はほぼ完全に包囲され、人手不足も加わって作業は大幅に遅延、完成した資材もマリエットもパリ脱出不能の状態となり、スケジュール通りの初演は不可能になった(ヴェルディ自身この危機的状況を、デュ・ロクルが包囲下のパリでしたため、気球に載せて送出した郵便で知った)。
このような事態では上述の契約上、ヴェルディが好みの歌劇場で初演を強行することも可能だったが、彼はイスマーイール・パシャの顔を立てる形で世界初演延期に同意、1871年2月に予定していたミラノ・スカラ座でのイタリア初演も1年の延期とした。
1871年12月24日、カイロにて11か月遅れで行われた初演は、予想通りの大成功であった。もっとも、エジプトの一種の「国策」として委嘱された同オペラがカイロで失敗するという懸念はあまりなかったかも知れない。その頃ヴェルディは、より正念場と考えられたスカラ座でのイタリア初演に集中する日々を送っていた。
構成
4幕7場
- 第1幕
- 第2幕
- 第1場 テーベの宮殿、アムネリス王女の居室
- 第2場 テーベの凱旋門
- 第3幕 ナイル川の岸辺
- 第4幕
- 第1場 メンフィス王宮の広間
- 第2場 メンフィスのウルカヌス(≒プタハ)神殿と地下牢
編成
登場人物
以下の各人物描写は1873年にリコルディ社より出版された舞台指示書 (disposizione scenica) に基づく。この指示書は作曲者ヴェルディの意向を忠実に反映していると考えられているが、今日の舞台演出が必ずしもそれに従っているわけではないのは無論のことである。
- エジプト国王(ファラオ)(バス):約45歳。威厳に満ち、堂々とした態度。
- アムネリス(メゾソプラノ):エジプト王女。20歳。とても活発。性格は激情的で、感受性に富む。
- アイーダ(ソプラノ):エチオピア王女で女奴隷。肌は暗く赤みがかったオリーブ色。20歳。愛情、従順さ、優しさ――これらがこの人物の主要な特質をなす。
- ラダメス(テノール):軍隊の指揮官。24歳。情熱的な性格。
- ラムフィス(バス):祭司長。50歳。確固とした性格。専制的で残忍。態度は威厳に満ちている。
- アモナズロ(バリトン):エチオピア王であり、アイーダの父。肌は暗く赤味がかったオリーブ色。40歳。御しがたい戦士で、祖国愛にあふれている。性格は衝動的で暴力的。
- 使者(テノール)
- 巫女の長(ソプラノ)
管弦楽
- フルート 3(ピッコロ持替え 1)、オーボエ 2、コーラングレ、クラリネット 2、バスクラリネット、ファゴット 2
- ホルン 4、トランペット 2、トロンボーン 3、バストロンボーン
- ティンパニ 1対、トライアングル、大太鼓、シンバル、銅鑼
- ハープ 2
- 弦五部
- 舞台上
- エジプト風トランペット(アイーダ・トランペットとも呼ばれるファンファーレ・トランペット)6、軍楽隊(金管楽器)、ハープ
- 地下
- トランペット 4、トロンボーン 4、大太鼓
上演時間
約2時間20分(各40分、40分、30分、30分)
あらすじ
注意:以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。免責事項もお読みください。
第1幕
第1場
エチオピア軍がエジプトに迫るとの噂が伝わっている。祭司長ラムフィスは司令官を誰にすべきかの神託を得、若きラダメスにそれとなく暗示する。ラダメスは王女アムネリスに仕える奴隷アイーダ(実はエチオピアの王女だが、その素性は誰も知らない)と相思相愛であり、司令官となった暁には勝利を彼女に捧げたいと願う。アムネリスもまた彼に心を寄せており、直感的にアイーダが恋敵であると悟り、激しく嫉妬する。国王が一同を従え登場、使者の報告を聞いた後ラダメスを司令官に任命する。一同はラダメスに「勝利者として帰還せよ」と叫び退場する。アイーダは舞台に一人残り、父であるエチオピア王と恋人・ラダメスが戦わなければならない運命を嘆き、自らの死を神に願う。
第2場
神殿では勝利を祈願する儀式が行われ、ラダメスとラムフィス、祭司たちの敬虔な歌声に巫女の声が唱和する。
第2幕
第1場
エジプト軍勝利の一報が入り、アムネリスは豪華に着飾って祝宴の準備をしている。祖国が敗れ沈痛な面持ちのアイーダに向かってアムネリスは「エジプト軍は勝ったが、ラダメスは戦死した」と虚偽を述べて動揺させ、自分もラダメスを想っていること、王女と奴隷という身分の相違から、自分こそがラダメスを得るであろうことを宣言する。
第2場
最も有名な場面である。―ラダメスは軍勢を率いて凱旋する。彼はエチオピア人捕虜の釈放を国王に願う。捕虜の中には身分を隠したアモナズロもいたので、アイーダはつい「お父さん」と言ってしまうが、アモナズロは「国王は戦死し、いまや我々は無力」と偽りを述べ、彼の身分は発覚せずにすむ。ラムフィスはアモナズロを人質として残すことを条件に捕虜釈放に同意、国王はラダメスに娘アムネリスを与え、次代国王にも指名する。勝ち誇るアムネリス、絶望に沈むアイーダ、復讐戦を画策するアモナズロなどの歌が、エジプトの栄光を讃える大合唱と共に展開する。
第3幕
次のエジプト軍の動きを探ろうとするアモナズロは、司令官ラダメスからそれを聞き出すようにアイーダに命じる。アイーダは迷いつつもラダメスにともにエジプトを離れることを望み、ラダメスも応じる。だが、アイーダが逃げ道を聞くので、ラダメスは最高機密であるエジプト軍の行軍経路を口にしてしまう。アモナズロは欣喜雀躍して登場、一緒にエチオピアに逃げようと勧めるが、愕然とするラダメスは自らの軽率を悔いる。そこにアムネリスとラムフィス、祭司たちが登場、アモナズロとアイーダ父娘は逃亡するが、ラダメスは自らの意思でそこに留まり、捕縛される。
第4幕
第1場
アムネリスは裁判を待つラダメスに面会する。彼女は、エチオピア軍の再起は鎮圧され、アモナズロは戦死したがアイーダは行方不明のままであると彼に告げ、ラダメスがアイーダを諦め自分の愛を受け容れてくれるなら、自分も助命に奔走しよう、とまで言うが、ラダメスはその提案を拒絶し審判の場へ向かう。アムネリスは裁判を司る祭司たちに必死に減刑を乞うが聞き入れられない。アムネリスが苦しみ悶える中、ラダメスは一切の弁明を行わず黙秘、地下牢に生き埋めの刑と決定する。
第2場
舞台は上下2層に分かれ、下層は地下牢、上層は神殿。ラダメスが地下牢に入れられると、そこにはアイーダが待っている。彼女は判決を予想してここに潜んでいたのだと言う。2人は現世の苦しみに別れを告げ、平穏に死んで行く。地上の神殿ではアムネリスがラダメスの冥福を静かに祈って、幕。
主要曲
- 清きアイーダ Celeste Aida(第1幕第1場):ラダメスのロマンツァ
- 勝ちて帰れ Ritorna vincitor(第1幕第1場):アイーダのシェーナとロマンツァ
- 凱旋の場(第2幕第2場)
- おおわが故郷 O patria mia(第3幕):アイーダのロマンツァ
凱旋行進曲
第2幕第2場で演奏される「凱旋行進曲」は、本作を代表する曲の中でも独立して聞かれることが多いものである。演奏においても劇的効果を挙げるため、この部分のトランペットは「アイーダトランペット」という独自のトランペットで舞台上で演奏される。
この曲はトランペットのファンファーレと弦楽の掛け合いで始まり、それに混声合唱が加わり、曲調は一つのピークを迎える。その後、女声、男声の合唱がたたみかけるように歌われ、主題の導入を迎える。主題1はトランペットの演奏で淡々と行われ主題2が来るが、その後2度上に移調した上に伴奏が一層派手につき、豪華になる。
サッカーと「凱旋行進曲」
日本ではサッカーの応援歌として本曲の主題1が歌われるが、その由来として以下のものがある。中田英寿がイタリアセリエAのパルマFCに居た時、同FCの応援歌にアイーダの「凱旋行進曲」を使用されているのを気に入ったことを自身のHPで語ったことがきっかけだという。なお、パルマFCは設立当初は「おらが町の偉人ジュゼッペ・ヴェルディ」にちなんで「ヴェルディサッカークラブ」と名乗っていた。
主要各国での初演と上演小史
イタリア
- 1872年2月8日、ミラノ・スカラ座にてフランコ・ファッチオの指揮によって初演された。カイロでの世界初演には赴かなかったヴェルディも、このスカラ座公演には全精力を傾注した。当時ヴェルディと愛人関係にあったと推測されているドイツ人ソプラノ歌手テレーザ・シュトルツがアイーダ役であったことも無関係ではなかっただろう。その他、アムネリス役にはマリア・ヴァルトマン、ラダメスはジュゼッペ・カッポーニ、アモナズロはフランチェスコ・パンドルフィーニと、主要キャストがヴェルディお気に入りの一流歌手で固められる豪華配役であった。後述の如く、前奏曲を差し替える形での「序曲」もこの際計画されたが、それはリハーサル時にヴェルディ自身によって放棄された。
- ミラノの一般聴衆はこの新作を熱狂的に迎えたが、ワグネリズムの影響が色濃かった当時のミラノの音楽評論では(表面的には賞賛しつつも)この『アイーダ』がグノー、マイアーベーアそしてとりわけワーグナーの影響を受けている、と主張するものが数多く見られた。ワーグナーに敬意は払いつつも自らを独自の存在と自負していたヴェルディは、当然のことながらこうした「ワーグナーの模倣」的評論に対しては不満であった。
- 以降のイタリア各都市での上演(1872年4月にパルマ、同7月にパドヴァ、1873年3月ナポリ、同5月アンコーナ)では、ヴェルディは上演水準の維持に腐心することとなった。オーケストラや合唱の編成規模、舞台装置や衣装から、はては各登場人物の立ち位置、舞台上での所作までヴェルディが検討を重ね、またそうした彼の指示は詳細にわたる「舞台指示書」としてまとめられ、リコルディ社より出版された(1873年)。
- 皮肉なことに、こうして作曲者が音楽面ばかりでなく装置・演出に至るまでに全面関与して公演を行う、という方法は、ワーグナーがバイロイト祝祭劇場で自らの楽劇を上演した際のアプローチと奇妙なまで類似している。
アルゼンチン
アメリカ合衆国
- 1873年11月25日、ニューヨーク、アカデミー・オブ・ミュージックで初演された。高名なテノール、イタロ・カンパニーニがラダメス役を、フランス人バリトン歌手、ヴィクトル・モレル(後に『オテロ』、『ファルスタッフ』の初演でも主要役を演じる)がアモナズロ役を務め、指揮はヴェルディお気に入りのエマヌエーレ・ムツィオであった。3か月を経ずして、フィラデルフィア、シカゴ、ミルウォーキー、ボストンでの初演もほぼ同様のキャストで行われた。
- 1883年にオープンしたメトロポリタン歌劇場(メト)での『アイーダ』初演は、1886年11月12日である。メトでは1884年から1891年の間、すべてのオペラがドイツ語によって歌われたが、『アイーダ』もその例外ではなく、ドイツ語訳詞での上演であった。しかしこのドイツ語公演は不評であり、1891年12月10日には初めて原語イタリア語での上演が行われ、同時にそれはメトでのオペラ原語上演の端緒となった。
- 『アイーダ』はその後1898年から1945年まで48シーズン連続で上演がなされ、現在でもメトで最も上演回数の多いオペラの一つである。2006年2月までの通算上演回数1,093回、これはプッチーニ『ラ・ボエーム』の1,178回に続いて第2位である。
オーストリア
ドイツ
- 1874年4月、ベルリンにて。ドイツ語訳詞公演。この歌劇はヴェローナ・オペラの影響でスペクタクル・オペラとしてドイツ各地の巡回に良く使われ、大きな体育館などが会場に使われ。本物の象や大蛇・麒麟などの実際の動物が派手に登場するイベントが多い。
フランス
- 1876年4月、パリ・イタリア座にてイタリア語原語上演された。指揮はヴェルディ自身、アイーダにストルツ、アムネリスにヴァルトマン、アモナズロにパンドルフィーニと、スカラ座でのイタリア初演キャストの多くが参加した。
- 1875年に杮落としがなされたパリ・オペラ座(ガルニエ宮)でのフランス語訳詞公演は1880年3月になって行われた。これもヴェルディ自身が指揮し、アイーダはガブリエル・クラウス、アムネリスにロジーヌ・ブロシュ、ラダメスはアンリ・セリエ、アモナズロはヴィクトル・モレルというキャストであった。バレエを重視するオペラ座のことゆえ、ヴェルディも第2幕のバレエ音楽を大幅に拡充してグランド・オペラ的色合いをより濃くしている。このオペラ座公演は、興行収入的にも評論上も大成功であった。
イギリス
- 1876年6月22日、ロンドン・コヴェント・ガーデン王立歌劇場にて初演。アイーダは当時の高名なプリマ・ドンナであったアデリーナ・パッティが歌ったが、ヴェルディはこの配役に必ずしも満足でなかった(パッティはドニゼッティ『ランメルモールのルチア』のルチアなどコロラトゥーラ役で有名であり、声質的にアイーダ向きではなかった)こともあり、ロンドン初演への招待を断ったという。
日本
- 抜粋の上演は早くから行われていたと考えられるが、本格的な公演としては1919年9月1日より東京・帝国劇場にて行われた「ロシア大歌劇団」のロシア語訳詞公演が日本初演とされている。同歌劇団はロシア革命の混乱から逃れようとしたロシア人歌手、管弦楽団員を中心として結成され、ウラジオストックを中心にアジア・アメリカでの旅回り公演を重ねていたもの。当時の日本語プログラムでは「彼得倶羅土(ペトログラード)、莫斯科(モスクワ)両歌劇座大歌劇」と記載してあり、まるで引越公演のような印象すら与える。事実、主役級の歌手のうちにはペトログラード(サンクトペテルブルク)やモスクワでの舞台経験を重ねた好歌手もいたが、合唱、舞台装置などはかなり貧弱なものであったらしい。
- 日本人を中心とした本格的な上演は1941年5月26日から歌舞伎座で行われた藤原歌劇団の全3回公演(日本語訳詞)が最初であった。アイーダには井崎嘉代子、磯村澄子、ラダメスに藤原義江、アムネリスに佐藤美子、齋田愛子を配し、指揮はマンフレート・グルリット(日本でのオペラ初指揮)、管弦楽は中央交響楽団である。うち5月28日の公演はJOAKによって部分的に生中継放送も行われた。
野外オペラ公演
第1幕第2場(神殿の場)、第2幕第2場(凱旋の場)などスペクタクル的要素にも富んでいる『アイーダ』は、野外オペラ公演において好んで取り上げられる曲目でもある。
- 『アイーダ』野外公演のもっとも初期のものとして記録に残るのは、1912年にエジプト・クフ王のピラミッドの麓で行われた公演である。これは炎天下での演奏であり、舞台は土盛りして整地したもので、数百人に及ぶエキストラが用いられたという。
- ヴェローナ市街に残る古代ローマ時代の闘技場遺跡・アレーナ・ディ・ヴェローナでは、1913年のヴェルディ生誕100周年を記念して野外オペラ公演が開始され、その第1回は『アイーダ』であった。今日でも『アイーダ』は最も人気の高い演目の一つで、凱旋の場でゾウを登場させる、第3幕(ナイル河畔の場)では舞台上の水路に小舟を浮かべて歌手をそこに載せる等、視覚的にも愉しみの多い舞台がみられる。1997年の公演では、マリエットのデザインしたカイロ初演時の衣装に、1913年のアレーナ初演での舞台装置(ただし、ともに再製作したもの)を組み合わせた古典的な演出を行った。
- 1919年には、当時絶大な人気を誇ったテノール歌手エンリコ・カルーソーのメキシコ・シティ訪問にあわせ、サッカー競技場で野外オペラ公演が行われ、サン=サーンス『サムソンとデリラ』等と共に『アイーダ』が上演された。この時カルーソーが受け取ったギャラは、彼の生涯でも最高水準だったという。拡声装置等のない時代のことゆえ、音楽はほとんど聴き取れなかったというが、聴衆(というより観客)は「カルーソーを見た」ことに満足して帰途に着いた。
- アメリカでも『アイーダ』はしばしば野外オペラの演目として採り上げられた。その最も初期のものは、ブルックリン・ドジャースの本拠地であったニューヨーク・ブルックリンのエベッツ・フィールドで1925年に行われた公演である。
- アレーナ・ディ・ヴェローナと同じく古代ローマ時代の遺跡であるローマ市内カラカラ大浴場でも1937年から野外オペラ公演が行われ、そこで『アイーダ』は中心演目の一つである。同浴場の崩落の危険のため、1993年から公演は中断していたが、2003年に復活している。
- 近年の『アイーダ』野外公演の観客動員記録と考えられているのは、2001年9月21日、パリ郊外、スタッド・ド・フランス競技場での約7万人という。
アイーダ・トランペット
ヴェルディは音楽的に「エジプト的なもの」を取り入れようと考えていた。彼はまず楽器史関連書籍にあった「エジプトの笛」なる記述に関心を寄せ、現物を確認しようとフィレンツェの博物館にまで赴いている。この時はその笛が、ヨーロッパで当時普通に使われていた羊飼いの呼笛と大差ないものであることに落胆しただけだった。
その後(1870年7月頃)ヴェルディは、凱旋の場で「エジプト風」のトランペットを導入し、行進曲を添えることを考えた。モデルとなったのはルーヴル美術館に収蔵された唯一の現物、並びに様々の壁画に描かれた長管の楽器であったと考えられる。特注されたこれら「アイーダ・トランペット」は管長約1.2mの長大なものであり、舞台で6本揃えば異国情緒を演出するには十分な偉容である。スカラ座でのイタリア初演後数年間は、これらトランペット6本1組は『アイーダ』総譜と共にリコルディ社から各劇場に公演の都度貸与され、それを使用することが公演の付帯条件とされていた。
異国情緒、綿密な時代考証といった「こだわり」はパリの「グランド・オペラ」様式の延長線上に『アイーダ』があることを示している。しかし、ヴェルディの没後1922年になってツタンカーメン王の墓から発見されたトランペット状の管楽器は、管長50cm内外の比較的短いものばかりであり、ヴェルディらの考証作業も(考古学的観点からは)不十分だった、ということになる。
アイーダ・シンフォニア(序曲)
『アイーダ』のスカラ座初演時には、カイロ初演時の前奏曲に差し替えられる形で"シンフォニア"(序曲)が付けられる予定であった。これはオペラの各場面から5つの主題を(時系列的に)構成するものであったが、結局それは放棄された。ヴェルディの書簡には「ミラノでのリハーサルで序曲を試み、(スカラ座の)オーケストラもその内容をよく理解してくれたが、彼らの技量がしっかりしているぶん、内容の空疎さが明らかになってしまった」とあり、簡潔な前奏曲を内容的に上回ることができなかったことがヴェルディがこの序曲を用いなかった理由とみられる。
初演から70年近く経た1940年3月30日に、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団によってこの序曲が初演(放送公演)された。トスカニーニは遡って1913年、ヴェルディ生誕100周年時にサンターガタのヴェルディ親族から同曲の譜面を示され、そこで楽譜のコピーをとり、演奏の機会をうかがっていたものと考えられている。
トスカニーニと米国にこの「世界初演」の功を奪われたことを不快に思ったムッソリーニのイタリアでも、「ヴェルディ展」の開幕式の一環として同年6月4日、ベルナルディーノ・モリナーリ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の演奏で急遽ヨーロッパ初演がなされた(オペラ・ファンであったムッソリーニ自身、この演奏会の聴衆であり、一説にはこの演奏自体が彼の命令によるという)。
これらの演奏の後、この曲を指揮したのはクラウディオ・アバド、リッカルド・シャイーらである。アバドはトスカニーニ盤から楽譜を起こし、1977年にスカラ座のオーケストラにより演奏した(コンサート形式)。一方、シャイーは音楽学者でピアニストのピエトロ・スパーダが起こした版を使用して演奏をした。
上記の理由により、『アイーダ』では序曲を使用することを諦めたヴェルディであったが、年を経た次作の『オテロ』(1887年)でもシンフォニアを捨てきれなかったのか、一応は作曲している。しかし、こちらも最終的には使用はされなかった(これもシャイーがレコーディングしている)。
ミュージカル
ディズニー製作のミュージカル第3弾として2000年にブロードウェイで初演された。作曲:エルトン・ジョン、作詞:ティム・ライス。同年のトニー賞や翌年のグラミー賞で多くの部門を受賞している。
日本では劇団四季が2003年に大阪MBS劇場にて初演した。以降、京都・福岡・名古屋とレパートリー演目として上演している。2009年10月3日から2010年9月6日まで電通四季劇場[海]で初の東京上演を行い、2011年3月21日から大阪で再演した。
歴代主要キャスト(劇団四季)
- アイーダ:濱田めぐみ、樋口麻美、井上智恵、今井美範、秋夢子、江畑晶慧
- ラダメス:阿久津陽一郎、福井晶一、渡辺正
- アムネリス:佐渡寧子、森川美穂、シルビア・グラブ、五東由衣、金平真弥、大和貴恵、光川愛
- メレブ:山添功、中嶋徹、有賀光一、吉賀陶馬ワイス、金田暢彦
- ゾーザー:飯野おさみ、大塚俊、田中廣臣、川原洋一郎
- アモナスロ:牧野公昭、石原義文、川原洋一郎、田中廣臣
- ファラオ:岡本隆生、石原義文、勅使瓦武志、田代隆秀、維田修二、前田貞一郎
- ネヘブカ:石倉康子、今井美範、松本昌子、小笠真紀、宝生慧、岡本有里加、稲垣麻衣子
宝塚公演
2003年、宝塚歌劇団星組が『王家に捧ぐ歌』というタイトルで舞台化した。アメリカのイラク攻撃などの時事問題を絡めた反戦メッセージを全面に押し出し、オリジナルのオペラの筋書きに手を加えた形となった。また、湖月わたるのお披露目公演であり、凱旋シーンやフィナーレのデュエットの振り付けにロシアからマイヤ・プリセツカヤを招聘して話題となった。
歌舞伎
2008年、八月納涼大歌舞伎・第三部で『野田版 愛陀姫(あいだひめ)』という題で上演された。作・演出は野田秀樹、出演は中村勘三郎ほか。舞台設定を戦国時代、斎藤道三が治める美濃に移して翻案、役名も愛陀姫(アイーダ)、木村駄目助座衛門(ラダメス)といった具合に変えられている。勘三郎演じる濃姫(アムネリス)の悲恋に主軸が置かれた物語になっている。
関連項目
- 弦楽四重奏曲 (ヴェルディ) - 1873年作曲。アムネリスの動機を使用した。
- パルマ・フットボール・クラブ - イタリアパルマ市に本拠を置くサッカークラブ。応援歌が「アイーダ」の「凱旋行進曲」。
- 中田英寿 - パルマ・フットボール・クラブに在籍していたときに「日本代表」の応援歌に「凱旋行進曲」を推した(?)
- "Aida" Marcha Triunfal -Mp3 Techno Cover 6923840, Legran Studio Composers"I Love Classics Album
参考文献
- Aïda 総譜、ドーヴァー社、1989年
- Julian Budden, "The Operas of Verdi (Volume 3)", Cassell, (ISBN 0-3043-1060-3)
- Charles Osbone, "The Complete Operas of Verdi", Indigo, (ISBN 0-575-40118-4)
- Clyde T. McCants, "Verdi's Aida -- A Record of the Life of the Opera On and Off the Stage", McFarland, (ISBN 0-7864-2328-5)
- アッティラ・チャンバイ+ティートマル・ホラント(編)『アイーダ(名作オペラブックス13)』音楽之友社 (ISBN 4-276-37513-4)
- 『最新名曲解説全集19 歌劇II』音楽之友社、1980年、249-257頁
- 永竹由幸『ヴェルディのオペラ――全作品の魅力を探る』音楽之友社 (ISBN 4-2762-1046-1)
- 佐川吉男『名作オペラ上演史』芸術現代社 (ISBN 4-87463-173-8)
外部リンク
- OPERA-GUIDEリブレット、梗概など