リフレーション

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リフレーション: reflation, リフレ)政策とは、不況下における設備の遊休あるいは失業(遊休資本)を克服するため、マクロ経済政策(主として金融緩和政策、時に財政政策も併用)を通じて有効需要を創出することで景気の回復をはかり、他方ではデフレから脱却しつつインフレーションの発生を防止しよう[1]。言い換えれば、緩やかで安定的なインフレ、すなわち年率換算にて数%程度のインフレ率にとどめようとする政策である。通常はインフレやデフレと同様に略して「リフレ」と呼ばれ、日本語では「通貨再膨張」とも訳される。

目次

[編集] 元禄の改鋳

[編集] 宝永の改鋳

[編集] 元文の改鋳

江戸時代中期に徳川吉宗が行った緊縮財政(享保の改革)により日本経済はデフレーションに陥った。そこで町奉行大岡忠相荻生徂徠の提案を受け入れ政策転換し、元文元年(1736年)5月に元文の改鋳を行った。改鋳は差益を得る目的ではなく、純粋に通貨供給量を増やすことを目的であった。元文の改鋳は幕府初のリフレーション政策と位置づけられ、日本経済に好影響をもたらした数少ない改鋳であると積極的に評価されている[2]。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。

[編集] 昭和恐慌と高橋財政

濱口雄幸内閣の井上準之助蔵相が主導した金解禁により、金本位制に復帰した日本は、折からの世界恐慌にも巻き込まれ、昭和恐慌と呼ばれる深刻なデフレ不況に陥った。石橋湛山高橋亀吉ら、従来より旧平価による金解禁に反対していた経済学者たちは、井上の財政を批判し、インフレ誘導によるデフレ不況克服を訴えた。石橋らはインフレ誘導という言葉のイメージの悪さを忌避してリフレーションという用語を多用したという。

やがて濱口首相暗殺後、若槻禮次郎内閣を経て、立憲政友会犬養毅内閣が成立すると、蔵相に就任した高橋是清は、事実上のリフレ政策を断行する。金輸出を再び禁じて金本位制から離脱し、国債日本銀行引き受けを通じて市場に大量のマネーを供給することで、金融緩和を推進した。同時に海外に資金が流出してしまうと、金利が上昇する恐れがあるため、1932年7月に資本逃避防止法を設定して対外証券投資を禁じ、1933年3月に外国為替管理法により、資本流出と為替の統制を行った。このため、国際金融市場と国内金融市場が途絶し、ポンド建て国債と円建て国債の価格差が発生することとなった。岩田規久男によれば、高橋是清が国債の日銀引き受けを行った際のインフレ率(年率換算)は最大でも6.5%であり、最後の2年間は2%程度でしかなく、アベレージをとればマイルドインフレであったと述べている。さらに岩田はこの時の実質経済成長率が最良時で10%だったことや、当時の世界恐慌から真っ先に経済を回復させた事実を挙げ高橋財政をマクロ政策の成功例としてとらえている[3]

のちに高橋亀吉は「軍事費の著増が、(経済再建および社会投資目的の)本来のリフレーション政策の代役をやったことは、後日の大戦突入という日本の悲劇の発足点ともなった。というのはこのことが軍部をして、巨額の軍事費公債の発行がインフレ的物価騰貴とならず、むしろリフレーション効果を無限に発しうるがごとく錯覚させ、他日の無軌道な軍事公債発行に走らす重大因子となったからである[4]」と語っている。高橋財政期のインフレ率は高くとも6.5%(1933年)であった。インフレ率を引き上げた直接の原因は公債漸減主義に転じた1936年度予算を否決され実行予算準備中の1936年2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義が放棄されたことによる[5]。1940年(太平洋戦争前)ではインフレ率は16%であり、これは狂乱物価時代(1974年)の23.2%を下回る。その後日本は太平洋戦争に突入し物価が一気に上昇することになる。

[編集] 平成のデフレ不況

[編集] 参考文献

  1. ^ 有斐閣経済辞典第四版
  2. ^ 日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道
  3. ^ インタビュー:復興国債、増税での財源確保は逆効果 岩田・学習院大教授 Reuters 2011年7月8日
  4. ^ 高橋亀吉「私の実践経済学」
  5. ^ 「財務省今昔物語4」寺井順一(財務総合政策研究所主任調査官)[1][2]

[編集] 関連項目

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