リフレーション
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リフレーション(英: Reflation)とは、デフレーションから抜け出たが、本格的なインフレーションには達していない状態のこと。略称はリフレ。日本語では通貨再膨張とも訳される。
リフレーションを起こそうとする政策をリフレーション政策(リフレ政策)といい、これはアメリカの経済学者であるアーヴィング・フィッシャーが提唱した[1]不況下における設備の遊休あるいは失業(遊休資本)を克服するため、マクロ経済政策(金融政策や財政政策)を通じて有効需要を創出することで景気の回復をはかり、他方ではデフレから脱却しつつ高いインフレーションの発生を防止しようとする政策である[2]。言い換えれば、年率換算にて数%程度の緩やかで安定的なインフレ率を持続させようとする政策である。
目次 |
概要 [編集]
リフレーションという言葉の初出はイギリスのエコノミスト(The Economist)誌1932年2月13号の「『リフレーション』か破綻か」(’Reflation’ or Bankruptcy)という記事である[3]。
リフレーション政策とは年率1-2%の低いインフレ率を実現させる政策であり[4]、「インフレターゲット+無制限の長期国債買いオペレーション」のことである[5][6]。ただし、無制限の長期国債買いオペはデフレから脱却するまでの限定された期間に実施されるだけであり、デフレから脱却した後は通常のインフレターゲットに移行する[6]。また、デフレ脱却時点で無制限の長期国債買いオペは終了する[6]。
リフレ政策は「物価水準を貸し手と借り手にとっての不公正を修復する水準まで戻す政策」と定義されるが[6]、政策の目的は景気を回復させる点であるため、物価を「企業が失業者を吸収できる水準まで戻し安定させる」である[7]。
リフレ政策の中心はマネーストックを大幅に増加させることである[8]。
失業と賃金について [編集]
リフレ政策は需要不足から生ずるデフレを克服し、完全雇用(インフレを加速させない失業率)を達成するための政策である[9]。
石橋湛山は「失業は総需要のコントロールで解消できるものである」と指摘している[10]。また石橋は「物価が上昇しリフレが実現するということは、労働者に購買力が創出されるということである。仮に、物価が上昇して、労貨が物価上昇分しか上がらなければ、労働者の状態は一人当たりで見て変わらない。しかしそういった場合、その分雇用が増えて失業が減っているから労働者総体としては購買力は上昇する」と指摘している[11]。
経済学者の浜田宏一は「物価が上がっても国民の賃金はすぐには上がらない。インフレ率と失業の相関関係を示すフィリップス曲線を見てもわかる通り、名目賃金には硬直性があるため、期待インフレ率が上がると、実質賃金は一時的に下がり、そのため雇用が増える。こうした経路を経て、緩やかな物価上昇の中で実質所得の増加へとつながっていく。その意味では、雇用されている人々が、実質賃金の面では少しずつ我慢し、失業者を減らして、それが生産のパイを増やす。それが安定的な景気回復につながり、国民生活が全体的に豊かになるというのが、リフレ政策である[12][13]」「リフレ政策を通じて、物価上昇で実質賃金が低下し、企業収益が増えることで雇用拡大の余地が生まれる。ワークシェアのアイデアと同じだ[13]」と述べている。
また浜田は「よく『名目賃金が上がらないとダメ』と言われるが、名目賃金はむしろ上がらないほうがいい。名目賃金が上がると企業収益が増えず、雇用が増えなくなる。それだとインフレ政策の意味がなくなってしまい、むしろこれ以上物価が上昇しないよう、止める必要が出て来る」と述べている[12]。
「デフレーション#賃金の下落」も参照
日本 [編集]
日本のリフレ政策は、アメリカの経済学者であるトーマス・サージェントやピーター・テミンらの「政策レジームの変化」の研究を踏まえ、日本の経済学者岩田規久男の『昭和恐慌の研究』から生まれた政策である[14]。
安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」で、安倍に金融政策を指南してきた「リフレ派[15][16]」の経済学者・国会議員が脚光を浴びる存在になっている[17]。一方で荻上チキは「日本では、8割方のメディアがリフレ政策を叩いている印象がある」と指摘している[18]。
効果 [編集]
経済学者の田中秀臣は「インフレ率2%を二年ほど続ければ不景気が原因の失業は解消され、賃金も上がる。円安が進めば日本の輸出産業は復活する。税収が増え、生活保護費を削減する必要もなくなる」と述べている[4]。
銀行貸出と金融緩和の効果 [編集]
日本の昭和恐慌からの回復過程での銀行貸出の増加は株価の上昇、生産の増加に約3年遅れて実現している[19]。デフレからの脱却局面での生産の回復は、必ずしも貸出の増加を伴うものではなく、むしろデフレからの脱出が実現して貸出が増加した[19]。これはデフレ予想からインフレ予想に変化すると、デフレ下でのバランスシート調整で積み上がったキャッシュが、財・サービスへの支出に向けられたことによって、景気回復が実現するためである[19]。回復初期には企業の余剰資金、家計が抱え込んだ現金などが、設備投資や消費支出などのための資金需要に充当されるからである[19]。昭和恐慌期の大企業による資金調達の内62.5%が内部資金の取り崩しによって行われ、また外部資金では株式が37.5%を占めた[20]。
二段階レジーム転換仮説 [編集]
二段階レジーム転換仮説とは1930年代の世界恐慌からの脱出の過程が、マクロ経済政策の弊害である制度的枠組みの変更と、実際行われる政策の転換という2つの段階を経て実現したという仮説である[21]。これを日本に当てはめ、昭和恐慌からの脱出が、1931年12月13日の大蔵省令による金輸出再禁止と、1932年11月25日から始まる国債の日本銀行引き受けによる金融緩和の二段階を経て実現したとされる[21]。
量的緩和政策 [編集]
日本銀行が実施した量的緩和政策で日銀が目標としたのはマネーストックの増加ではなく、一定の日銀当座預金残高の維持であり、当座預金残高の維持だけでは市中に回る貨幣ストックは増えない[8]。要するに量的緩和はリフレ政策ではなかった[8]。
金融政策をリフレーション政策へと明確なレジーム転換をしないまま、量的緩和を行っても人々のインフレ予想の形成に働きかけることはできない[22]。
リフレ派 [編集]
リフレ派とは、日本が長らく陥っているデフレ不況を脱するために、量的緩和や日銀の国債引受、ゼロ金利政策の継続など、インフレ目標値を設定した上でのさまざまなマクロ経済政策を推奨する立場に立つことである[23]。経済学者の野口旭はリフレ派とは「日本経済の長期低迷からの脱出に関して、決定的に重要なのは金融政策であるとする立場」と定義している[24]。インターネットなどを通じた積極的な情報発信により、注目されている[23]。岩田規久男主催の「昭和恐慌研究会」は日本経済が再生するためには、リフレ政策と構造改革はともに不可欠な政策であると考えているが、リフレ政策を採用せずに、デフレ下で構造改革だけを進めれば、かえってデフレが深刻となり、失業率は上昇してしまうとしている[9]。
田中秀臣・安達誠司は「リフレ派は、日本経済の停滞は総需要が不足しているためという認識を有し、まずデフレと資産デフレの解消こそが問題解決の最優先課題であると考えた」と述べている[25]。
野口旭は「リフレ派は、政府のマクロ政策によって安定的なマクロ環境を維持し、民間部門が自らの力で産業構造調整をスムーズに行っていけるようにする事こそが、中央銀行・政府の最も重要な機能だというのがリフレ派の考えである」と述べている[26]。
経済学者の片岡剛士は「リフレ派というのは『派閥』ではなく、あくまで方法論、 政策手段のレベルでの緩やかな連帯である。デフレや経済停滞に陥るリスクをマクロ経済政策で回避することが必要で、その場合に中央銀行による金融政策が大きな役割を果たすというのは、マクロ経済学の共通認識で、それが突出した『派』に見えてしまう日本だけがおかしい」と述べている[23]。
田中秀臣は「リフレ10年選手は少なく、日本で名前を知られているのは20人位。10年前はもっと少数派だった」と述べている[1]。
批判 [編集]
リフレ派のエコノミストの主張に対し経済学者の池尾和人は「需要不足を解消するために、まずデフレをとめよというのは、転倒したロジックに過ぎない」と反論、「実質金利を負にして無理矢理に投資を惹起し、当面の需要不足を緩和することになったとしても、効率性の低い資本設備を増大させ、過剰設備の問題を深刻化させることになる」と否定的な見解を示している[27]。
「一たびインフレーションが始まると無限に続けなければならない」ためハイパー・インフレが起きるという批判について、石橋湛山はハイパー・インフレとは「非常時の政府の財政上の必要」から起こるものであると指摘し、リフレ政策には「初めから明確な限度がある」としている[11]。また石橋は「戦争という外的原因から迫られたハイパー・インフレとは異なり、(リフレ政策は)政府または中央銀行が統制し得る」と指摘している[11]。
歴史 [編集]
元禄の改鋳 [編集]
「荻原重秀#貨幣改鋳」、「元禄小判」、および「日本のインフレーション#元禄のインフレーション」を参照
宝永の改鋳 [編集]
「宝永小判」および「日本のインフレーション#宝永のインフレーション」を参照
元文の改鋳 [編集]
「元文小判」および「日本のインフレーション#元文のインフレーション」も参照
江戸時代中期に徳川吉宗が行った緊縮財政(享保の改革)により日本経済はデフレーションに陥った[24]。そこで町奉行の大岡忠相、荻生徂徠の提案を受け入れ政策転換し、1736年(元文元年)5月に元文の改鋳を行った。改鋳は差益を得る目的ではなく、純粋に通貨供給量を増やすことが目的であった。元文の改鋳は幕府初のリフレーション政策と位置づけられ、日本経済に好影響をもたらした数少ない改鋳であると積極的に評価されている[28]。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。
昭和恐慌と高橋財政 [編集]
「日本国債#戦前の政策」も参照
濱口雄幸内閣の井上準之助蔵相が主導した金解禁により、金本位制に復帰した日本は、折からの世界恐慌にも巻き込まれ、昭和恐慌と呼ばれる深刻なデフレ不況に陥った(1930年-1931年11月の消費者物価は-10.8%[29])。中でも価格下落が激烈だったのは農産物で、1930年の下落率は34%に達し、農村の生活は破壊された[30]。石橋湛山や高橋亀吉ら、従来より旧平価による金解禁に反対していた新平価金解禁派の経済学者たちは、井上の財政を批判し、インフレ誘導によるデフレ不況克服を訴えた。石橋らはインフレ誘導という言葉のイメージの悪さを忌避してリフレーションという用語を多用したという。
やがて濱口首相暗殺後、若槻禮次郎内閣を経て、立憲政友会の犬養毅内閣が成立すると、蔵相に就任した高橋是清は、事実上のリフレ政策を断行する。
金輸出再禁止後、対前年比で10%のデフレが急速に終息に向かい、国債の日銀引き受けが始まる2ヶ月前から、3%前後のインフレへと急速に変化した[31]。
金輸出を再び禁じて金本位制から離脱し、国債の日本銀行(日銀)引き受けを通じて市場に大量のマネーを供給することで、金融緩和を推進した。同時に海外に資金が流出してしまうと、金利が上昇する恐れがあるため、1932年(昭和7年)7月に資本逃避防止法を設定して対外証券投資を禁じ、1933年(昭和8年)3月に外国為替管理法により、資本流出と為替の統制を行った。このため、国際金融市場と国内金融市場が途絶し、ポンド建て国債と円建て国債の価格差が発生することとなった。
金輸出再禁止直前である1931年12月12日の大阪毎日新聞の社会面は「金が再金論になったら-物価は飛び上がる/サラリーマンは受難だ/儲けるのは事業家ばかり/某財閥は一攫千金」という見出しで一般大衆のインフレ恐怖を煽っている[32]。
1932年に入って、高橋財政が本格的に発動された1年を扱う、新聞はリフレ政策による景気回復を「空景気」と警戒していたが、日銀の利下げ、大蔵省債券・政府公債の日銀引き受けなどの金融政策による景気回復が本格的になると「空景気」警戒の論調は大きく後退していった[33]。
岩田規久男によれば、高橋是清が国債の日銀引き受けを行った際のインフレ率(年率換算)は最大でも6.5%であり、最後の2年間は2%程度でしかなく、アベレージをとればマイルドインフレであったと述べている(1931年12月-1936年2月の消費者物価は2.0%[29])。さらに岩田はこの時の実質経済成長率が最良時で10%だったことや、当時の世界恐慌から真っ先に経済を回復させた事実を挙げ高橋財政をマクロ政策の成功例としてとらえている[34]。
高橋財政はケインズ以前のケインズ政策だといえ後世の研究者に評価されている[35]。恐慌からの脱出を図り、昭和金融恐慌と昭和恐慌を収めることに成功する。ベン・バーナンキは、日本が大恐慌時に金融引き締め効果を発揮する金本位制を離脱し、不況からいち早く脱出したことや、高橋是清が行なった日銀国債引き受けを有効な政策として評価している[36]。
その後1935年(昭和10年)、岡田啓介内閣の蔵相時に公債漸減の方針を打ち出し、軍事費の圧縮に乗り出し財政再建に転じた[37]。
そのため高橋は軍事費削減を恐れた軍部によって1936年(昭和11年)2月26日に暗殺される(二・二六事件)。高橋によって生み出されたマクロ経済政策の枠組みは、リフレーションによる景気回復という本来の目的を逸脱し、第二次世界大戦のための軍事費の調達という色彩を強めていった[38]。その後日銀の国債引き受けは悪用され、インフレが高進した。悪用が生じた本質は軍部の専横にある[8]。二・二六事件以後、インフレ率は10%台に上昇し、国民の消費生活は貧しくなった[39]。
のちに高橋亀吉は「高橋是清蔵相のリフレーション政策は、政策当局が先手を打って自主的判断したものではなく、世論の圧力に強要されて着手されたものだ。それが政策当局への不信を生み、また、軍部による戦費調達のための公債の膨大な発行と、それが戦後もたらした高率なインフレーションの元凶となった[40]」「軍事費の著増が、(経済再建および社会投資目的の)本来のリフレーション政策の代役をやったことは、後日の大戦突入という日本の悲劇の発足点ともなった。このことが軍部をして、巨額の軍事費公債の発行がインフレ的物価騰貴とならず、むしろリフレーション効果を無限に発しうるがごとく錯覚させ、他日の無軌道な軍事公債発行に走らす重大因子となったからである[41]」と語っている。
1939年には価格等統制令(昭和14年勅令第703号)が発せられ、産業資材や生活物資は公定価格に一本化され物価は商工省下の価格形成委員会(中央・地方)により決定されたが、このことは闇市の形成をもたらし、推計では1940年(昭和15年)(太平洋戦争前)ではインフレ率は16%となった[要出典](これは狂乱物価時代(1974年(昭和49年))の23.2%を下回る)。
1947年にはインフレ率(消費者物価指数)は125%に達した[39]。
平成のデフレ不況 [編集]
詳細は「インフレターゲット#日本」および「日本国債#デフレ不況での提言」を参照
脚注 [編集]
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参考文献 [編集]
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- 『有斐閣経済辞典』 金森久雄・荒憲治郎・森口親司 編、有斐閣、2002年5月、第4版。ISBN 4-641-00207-X。
- 高橋亀吉 『私の実践経済学』 東洋経済新報社、1981年1月(原著1976年)。ISBN 978-4-492-39005-4。
- 田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年2月。ISBN 978-4-06-282081-3。
- 田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年5月。ISBN 978-4-02-330813-8。
- 浜田宏一 『アメリカは日本経済の復活を知っている』 講談社、2012年12月18日。ISBN 978-4-06-218151-8。
- 野口旭「野口旭の「ケイザイを斬る! 」 第6回 リフレ派の栄光と苦闘」 - HotWired Japan ALT BIZ(2006年3月14日時点のアーカイブ)
- 篠原総一「経済を通して学ぶ歴史 ~ 江戸時代の経済政策 ~ 」経済教育ネットワーク
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- デジタル大辞泉『リフレーション』 - コトバンク
- リフレ政策-いま聞きたいQ&A - man@bowまなぼう