アイルランド共和軍

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アイルランド共和軍(アイルランドきょうわぐん、アイルランド語: Óglaigh na hÉireann英語: Irish Republican Army、略称:IRA) は、アイルランド独立闘争(対英テロ闘争)を行ってきた武装組織である。アイルランド共和国軍と表記されることもある。

IRAの目的は、アイルランド自由国成立後は、北部6州と南部26州(共和国)とを統一すること、つまり北アイルランド連合王国から分離させて全アイルランドを統一することにある。歴史上さまざまな組織・集団が「IRA」を名乗っているが、1969年以降の文脈においては、単にIRAといえばIRA暫定派アイルランド共和軍暫定派、PIRA、プロヴォ)を指すことがほとんどである。

歴史[編集]

IRAのルーツは18世紀末にまでさかのぼることができるが、現代でいうIRAは20世紀初頭のアイルランド義勇軍に始まった。アイルランド義勇軍は、北部6州のプロテスタント系武装組織アルスター義勇軍に対抗して結成されたカトリック系武装組織であり、1916年のイースター蜂起で主要な役割を担った。

アイルランド独立戦争後、1921年の英愛条約締結によりアイルランド自由国(後のアイルランド共和国)が成立したが、このとき北部6州が北アイルランドとして連合王国の一部に留まった。独立戦争を戦ったIRAの一部はアイルランド国防軍に加わったが、一部は英愛条約に反対し、非正規軍としてアイルランド内戦で国防軍と戦った。

1969年に内部分裂でIRA暫定派が別組織として分派した。1986年に暫定派から「IRA継続派」(CIRA[1])が分派し、さらに1998年のベルファスト合意を実現させた暫定派の和平路線への転換に強硬に反対したメンバーらが「リアルIRA」(RIRA[2])として分派した。

現況[編集]

1998年以降、IRA暫定派から分離した過激派が「真のIRA」を標榜し、テロ活動を行っているが、暫定派は1997年7月20日に停戦して以降は目立った武装活動はしていない。2000年5月にIRA暫定派は段階的な武装解除を表明し、独立国際武装解除委員会の受け入れにも応じており、2005年7月28日に武装闘争の終結を宣言、同年7月25日には同委員会によって武装解除(武器の放棄)が確認された。

暫定派の活動停止と武装解除の後も、分派であるRIRAおよびCIRAなどの活動は小規模ながら続いてきた。2007年5月のプロテスタント系武装組織アルスター義勇軍の活動停止宣言と、プロテスタント系とカトリック系が権限を分担する形での北アイルランド自治政府の復活が実現した後には、RIRAおよびCIRAなどの活動停止宣言があるとの観測が一部メディアに流れたが、実際にそのような宣言の予定はないと即座に否定されており、最終的にどのような決着をみるかは不透明である。

なお、2003年11月の北アイルランド自治議会選挙では、事前に武装解除宣言を行っていたことにより、IRA暫定派の政治組織であるシン・フェイン党が躍進を遂げ、社会民主労働党(SDLP)に代わってカトリック系(ナショナリスト系)で第一党となった。2007年1月には旧来の姿勢を転換して警察への協力を党大会で決議し、同年3月の自治議会選挙ではシン・フェイン党はさらに議席を伸ばした。同年5月に復活した自治政府では、カトリック系第一党として副首相など重要なポストを担っている。

軌跡[編集]

IRAという組織の設立の背景には、16世紀にイギリス本土での清教徒革命で実権を握ったオリバー・クロムウェルが行なったアイルランド侵攻でのプロテスタントによるカトリック弾圧から続いてきた「アイルランド人に対する抑圧」がある。また、19世紀の中頃にアイルランドにおいてジャガイモ飢饉が発生し、イギリスの圧政からの独立を目指す反英ナショナリズムが広がっていたことも背景にある。アイルランドのナショナリズムにはアメリカ合衆国に移住したアイリッシュ系の人々の働きかけが大きく作用し、また19世紀半ばは世界的なナショナリズムが高揚していた時期であることも重要な文脈となる。

IRA創設まで[編集]

イギリスのアイルランドにおける重要地であったアルスター地方では、プロテスタントの親英連合派と、カトリックの民族派との緊張が高まり、双方の武力衝突が頻発していた。1858年にアメリカのニューヨークでアイルランド移民が創設して活動していた秘密結社であるアイルランド共和同盟(IRB)が、ダブリンの民族派組織と合併してアイルランド本島での活動を始める。また、1907年にアイルランド文化の復興運動を掲げて政治活動をしていたシン・フェイン党も勢力を拡大する。プロテスタントの親英連合派が1913年に結成した実力部隊であるUVF(アルスター義勇軍部隊)に対抗して、IRBとシン・フェイン党、および保守党、労働党に次ぐ第3の勢力である自治主義のアイルランド国民党は、IV(アイルランド義勇軍)を設立した。さらに1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス本国がアイルランドの情勢に介入する余裕を失い、これを独立達成の機会と考えたIRBは、JIRA(統合アイルランド共和軍)を組織し、イギリスの敵である中央同盟国のドイツから武器弾薬を調達すべく秘密活動を開始した。

内戦、自由国成立と国土分裂[編集]

1916年にはダブリンでイースター蜂起を行うが、兵力・弾薬不足と市民側の支援を得られなかったことが原因で、蜂起はわずか6日間で失敗する。イギリス総督府は、蜂起直後に蜂起の首謀者であるJIRAの幹部16名を即決の軍事裁判で処刑し、このことが蜂起に対しアイルランドの市民の同情的態度を呼んだ(ただし首謀者たちは武装したまま逮捕され、当人も容疑を認めていたこと、事実関係が明白だったこと、ドイツと連絡していたこと、彼らの反乱が多数のダブリン市民を巻き添えにしたことを考えれば、一方的な処刑だったとは言い切れない面がある)。蜂起に消極的だった穏健派のシン・フェイン党は、蜂起が市民の同情を得たところで上手く立ち回って人気を集め、1918年の選挙で議席を伸ばして躍進、1919年1月にはドイル・エアラン(アイルランド国民議会)の設立に着手し、マイケル・コリンズを軍事担当に任命する。臨時政府の国防大臣カサール・ブルッハーはIV(アイルランド義勇軍)をIRA(アイルランド共和軍)と改めた。一説によると、軍事部門に対するコリンズの影響力増大により、リーダーの私兵と化すこと(イースター蜂起で既にこの傾向があった)を恐れたシン・フェイン幹部らが、共和国の軍隊としての自覚を促すために改称したともいう。

その後、コリンズの指導の下での対英闘争の結果、1921年、臨時政府首班のデ・ヴァレラとイギリス首相ロイド・ジョージとの首脳会談が実現し、和平が成立する(英愛条約)。

この和平の結果、英連邦内で英国王を国家元首に頂く「アイルランド自由国」が成立するが、あくまで完全に独立した共和国の設立を目指すデ・ヴァレラらは条約締結に反対し、アーサー・グリフィスやマイケル・コリンズら条約派と対立した。その結果IRAは、自由国軍に編入されるグループとデ・ヴァレラ派に分裂した(1990年代まで活動していたIRAはこのデ・ヴァレラ派の系列である)。そして、条約の賛否を問う国民投票でデ・ヴァレラら反条約派が敗れると、IRAは武装蜂起し、内戦がダブリンを中心に広がり、コリンズも何者かによって殺害される(コリンズを暗殺したのが誰だったのかはいまだに不明であるが、反条約派によるとする説、イギリス軍によるとする説などがある)。そして1921年に、内戦を格好の口実としてアルスター議会は自由国からの離脱を宣言、アイルランドは南北に分かれることとなった。

内戦後の苛酷な弾圧(デ・ヴァレラも首相になった途端に弾圧に転じた)のため、IRAは一時衰退した。第二次世界大戦においてアイルランドは公式には中立の立場を取ったが、非正規武装組織であるIRAはこの時期にナチスの援助を求めて代表者がドイツに渡航するなどしており、イギリスの一部である北アイルランドに対する攻撃について対独協力していたとの指摘もある。

IRA暫定派の分裂と北アイルランド紛争[編集]

統一アイルランドの実現を目指すIRAは、第二次世界大戦後もその活動を継続、1956年から1960年代初頭にかけては「ボーダー・キャンペーン」と呼ばれる一連のゲリラ攻撃を行なった。しかしこれは一般からの支持もまるで得られず、完全な失敗と見られる結果に終わった。これにより、組織内部で方向性の違いが顕在化し、1969年から1970年にかけて、完全な武装闘争主義で行くべきとする一派と、政治的に統一アイルランドを達成すべきとする一派とが分裂した。前者が「IRA暫定派」となり、1970年代から1990年代にかけての一般に「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態において最重要視される勢力である。IRA暫定派は、1971年に導入された治安当局による一斉拘留(インターンメント)や1972年1月30日にデリー(ロンドンデリー)で発生した「血の日曜日事件」など、「イギリスによるアイルランドへの暴力的抑圧」を背景に人員と規模を拡大させ、プロテスタント系武装組織や北アイルランドに駐留する英軍や北アイルランド警察(警察のほとんどがプロテスタントであった)にゲリラ攻撃を加えた。

やがて、IRA暫定派は戦線を北アイルランドだけでなくイギリス本土(ブリテン島)にも拡大、1984年10月の「ブライトン爆弾テロ事件」(保守党の党大会会期中にサッチャー首相を標的としてホテルに爆弾を設置)など数々のテロ事件を行なった。ロンドンなどイングランドの大都市の公共交通機関も頻繁に標的になり、また、ロンドンのシティ地区やドックランズ地区といった経済的に重要な場所でも大規模な爆弾テロが行なわれた。マンチェスターバーミンガムといった地方都市でも爆弾テロは起きている。(詳細は英語版ウィキペディアの年表を参照。)

1916年のイースター蜂起での独立宣言にも見られるように、歴史的にIRAはマルクス主義的な側面を有してきたが、第二次世界大戦後の東西冷戦の構図の中、IRA暫定派はソ連リビアからの軍事的支援を受けて闘争を続け、スペインETAイタリア赤い旅団などのヨーロッパの左派系テロ組織との交流もあった。冷戦体制が終結するとこういった構図は壊れ、アメリカでの民間レベルでの募金などの支援といった形を除いてはIRAを援助する勢力はなくなった。その後同時多発テロによって、2000年代以降はアイルランド系アメリカ人による募金もなくなっていったと言われる。

一方で、イギリス政府はサッチャー政権では強硬な対決姿勢が取られたものの、常に和平への取り組みが模索されており、1970年代にはイギリス政府とIRA幹部らとの秘密交渉も行なわれていた。1990年代、サッチャー退陣後のメージャー政権で和平へ向けた動きが加速し、1994年にIRAは停戦を宣言した。1996年に停戦は一度破られた(動きが遅々として進まなかったことへの抗議だと解釈される)ものの、1997年には再び停戦。同年、労働党トニー・ブレアが首相となったことで一気に加速した和平への取り組みにより、1998年には和平合意が成立した。2000年代に入るとIRAの活動停止と武装解除への動きが具体化、2005年には武装闘争終結宣言に続いて武装解除の確認がなされた。2009年12月現在、IRA暫定派の武装活動は確認されていない。

リアルIRA[編集]

1997年にIRA暫定派が停戦を宣言したが、その後に組織内の過激派メンバーがIRA暫定派を離脱し、設立したのが「真のIRA」(リアルIRA)と呼ばれる集団である。彼らは設立直後から北アイルランドにおいて車爆弾を用いた無差別テロを繰り返した。1998年に発生したオマーのショッピング街でのテロでは29人の市民が死亡、200人以上が負傷している。これは過去30年間の北アイルランド紛争における最大のテロ事件のひとつだった(単一の爆弾で最大の犠牲者を出した)。

確認されていることとしては、リアルIRAはバルカン半島からアムステルダムを経由してアイルランド及びイギリスへの武器の密輸に積極的に従事している。密輸品の中にはRPG-22のような対戦車兵器もあり、2000年9月20日にはロンドン中心部のイギリス情報局秘密情報部(通称MI6)本部の8階に発射される事件がおこった。現在リアルIRAは北アイルランドにおいて最も活発に活動しているテロ組織の一つであるが、1994年までのIRA暫定派ほどの活動は行なっていない。 

関連作品[編集]

この中には便宜的に IRA の名前を使っただけでストーリーとは関係のない作品もある。特にハリウッドでは 9.11 以前は IRA を良く使用していた。

アイルランド共和国軍を名乗る組織[編集]

脚注[編集]

  1. ^ : Continuity Irish Republican Army
  2. ^ : Real Irish Republican Army