「インノケンティウス2世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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| 出典の明記 = 2012年4月 |
| 出典の明記 = 2012年4月 |
2014年4月18日 (金) 23:16時点における版
インノケンティウス2世 | |
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第164代 ローマ教皇 | |
教皇就任 | 1130年2月14日 |
教皇離任 | 1143年9月24日 |
先代 | ホノリウス2世 |
次代 | ケレスティヌス2世 |
個人情報 | |
死去 |
1143年9月24日 |
原国籍 | イタリア |
インノケンティウス2世(? - 1143年9月24日)は、第164代ローマ教皇(在位:1130年2月14日 - 1143年9月24日)。
生涯
出身はローマ。家系は貴族で、助祭枢機卿や教皇特使を務めた。1130年に前教皇のホノリウス2世が死去すると、枢機卿の間でインノケンティウス2世とアナクレトゥス2世の両派に分裂して抗争した。インノケンティウス2世は自らを正統な教皇と主張してフランスに赴き、さらに神聖ローマ皇帝のロタール3世に正式な皇帝として戴冠する見返りに援軍を要請して1133年にはローマに進軍した。しかしこのときはアナクレトゥス2世の反撃でピサに退却した。
しかし1138年にアナクレトゥス2世は死去した。そのため、後継者にウィクトル4世が擁立されたが、彼は4ヶ月でその地位を降りた。このため、シチリア王国の王であるルッジェーロ2世の支持を得て正式な教皇となった(見返りとしてシチリア王位を正式に教皇が与えたのはこのときである)[要出典]。
しかし、ローマではその後も党派争いが続き、1143年9月24日に教皇が死去するまで不安定な時期が続いたのである。