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アルフィオ・バシーレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルフィオ・バシーレ
名前
本名 アルフィオ・ルベン・バシーレ
Alfio Rubén Basile
愛称 ココ (Coco)
ラテン文字 Alfio BASILE
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1943-11-01) 1943年11月1日(81歳)
出身地 バイーア・ブランカ
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1964-1970 アルゼンチンの旗 ラシン・クルブ 163 (19)
1971-1975 アルゼンチンの旗 CAウラカン 97 (4)
代表歴
1968-1973 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 8 (1)
監督歴
1975-1976 アルゼンチンの旗 CAチャカリタ・ジュニアーズ
1976 アルゼンチンの旗 CAロサリオ・セントラル
1978 アルゼンチンの旗 ラシン・クルブ
1979 アルゼンチンの旗 CAラシンスペイン語版
1980 アルゼンチンの旗 インスティトゥートACコルドバ
1981 アルゼンチンの旗 CAラシンスペイン語版
1982 アルゼンチンの旗 CAウラカン
1982 ウルグアイの旗 ナシオナル・モンテビデオ
1983 アルゼンチンの旗 CAラシンスペイン語版
1983 アルゼンチンの旗 CAタジェレス
1984-1986 アルゼンチンの旗 CAベレス・サルスフィエルド
1986-1989 アルゼンチンの旗 ラシン・クルブ
1989-1990 アルゼンチンの旗 CAベレス・サルスフィエルド
1991-1994 アルゼンチンの旗 アルゼンチン代表
1995 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
1996-1997 アルゼンチンの旗 ラシン・クルブ
1998 アルゼンチンの旗 CAサン・ロレンソ
2000-2001 メキシコの旗 クルブ・アメリカ
2004 アルゼンチンの旗 CAコロン
2005-2006 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
2006-2008 アルゼンチンの旗 アルゼンチン代表
2009-2010 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
2012 アルゼンチンの旗 ラシン・クルブ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アルフィオ・バシーレ(Alfio Rubén Basile, 1943年11月1日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州バイアブランカ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。選手時代にアルゼンチン代表であり、また監督としても2度に渡ってアルゼンチン代表を率いた。

経歴

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選手

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地元のベリャ・ビスタからデビュー。1964年から1970年まではラシン・クルブでプレーし、1966年にはプリメーラ・ディビシオンで、1967年にはコパ・リベルタドーレスインターコンチネンタルカップで優勝した。1971年にはCAウラカンに移籍し、セサル・ルイス・メノッティ監督の下でメトロポリターノ1973を制した。1975年に現役引退した。1968年から1975年にはアルゼンチン代表としてプレーし、8試合出場1得点を記録した。

指導者

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初期の指導者経歴

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現役引退後には数多くのクラブの指揮を執った。アルゼンチン国内のクラブではCAロサリオ・セントラルラシン・クルブCAウラカンCAベレス・サルスフィエルドなどを指揮し、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオやスペインのアトレティコ・マドリードでも監督を務めた。

アルゼンチン代表監督(1度目)

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1991年にはカルロス・ビラルド監督の後任としてアルゼンチン代表監督に就任。ガブリエル・バティストゥータディエゴ・シメオネフェルナンド・レドンドら若手選手を積極的に登用し、1991年と1993年にはコパ・アメリカで2連覇を達成したほか、1992年にはキング・ファド・カップで優勝した。1994 FIFAワールドカップ・南米予選は10ヶ国による総当たり戦ではなく、4ヶ国[1] と5ヶ国の2グループによるリーグ戦で行われたが、コロンビア戦で0-5の惨敗を喫したため、一度は代表引退していたベテランのディエゴ・マラドーナを招集せざるを得なかった。アルゼンチンはコロンビアに次ぐ2位となり、オーストラリア(オセアニア地区)との大陸間プレーオフに勝利して本大会出場を決めた。

アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップ本大会では、グループリーグでナイジェリアブルガリアギリシャと同組となった。初戦のギリシャ戦はバティストゥータのハットトリックで4-0と快勝し、2得点を挙げたクラウディオ・カニーヒアの活躍でナイジェリア戦にも勝利したが、ナイジェリア戦後のドーピング検査でマラドーナの尿から禁止薬物が検出され、マラドーナは大会からの即時追放処分を受けた。3戦目のブルガリア戦には0-2で敗れ、ブルガリアやナイジェリアと同勝ち点の3位に終わったが、3位国同士の成績で最上位となって決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦ではルーマニアと対戦し、2-3で敗れて大会からの敗退が決定した。大会後に代表監督辞任を発表した[2]

ボカ(1度目)

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CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ、メキシコのクルブ・アメリカCAコロンなどで采配を振るったが、成功の度合いは様々だった。2005年7月にはボカ・ジュニアーズ監督に就任し、1ヶ月後にはレコパ・スダメリカーナのタイトルを獲得した。アペルトゥーラ2005では、約30年の指導者キャリアで初のプリメーラ・ディビシオン優勝を飾った。この4日後にはコパ・スダメリカーナ決勝でUNAMプーマス(メキシコ)を破って優勝し、就任後の半年で3個のトロフィーを獲得した。

アルゼンチン代表監督(2度目)

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2006年7月、2006 FIFAワールドカップ後に退任したホセ・ペケルマン監督の後任として、再びアルゼンチン代表監督に就任した。9月14日まではボカ・ジュニアーズも指揮し、レコパ・スダメリカーナではサンパウロFC(ブラジル)を破って2連覇を果たした。バシーレはイングランド・プレミアリーグよりもイタリア・セリエAやスペイン・リーガ・エスパニョーラを好み、マンチェスター・ユナイテッドFCでプレーしていたカルロス・テベスリヴァプールFCでプレーしていたハビエル・マスチェラーノには、イタリアへのクラブへの移籍を勧め、「たとえ2部リーグでプレーすることになろうとも、(イングランドよりも)ユヴェントスFCでプレーする方が良い」とまで主張した[3]。2008年10月15日、2010 FIFAワールドカップ・南米予選マルセロ・ビエルサ監督率いるチリと対戦したが、公式戦で初めてチリに敗れ、翌日に代表監督の辞任を発表した[4]。紆余曲折あったものの、バシーレの後任の代表監督にはマラドーナが就任した[5]

ボカ(2度目)とラシン(3度目)

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2009年7月1日、カルロス・イスチア監督の後任としてボカ・ジュニアーズ監督に就任した[6]。しかし、マル・デル・プラタで行われたサマートーナメントではライバルのCAリーベル・プレートに1-3で敗れ、アペルトゥーラ2009ではコパ・リベルタドーレスの出場権獲得に失敗した。成績不振により、2010年1月21日に辞任した[7]。2011年12月26日、辞任したディエゴ・シメオネ監督の後任としてラシン・クルブ監督に就任(3度目)した[8]

所属クラブ

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選手歴

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指導歴

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タイトル

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選手時代

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ラシン・クルブ
ウラカン

指導者時代

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アルゼンチン代表
ボカ・ジュニアーズ
ラシン・クルブ

脚注

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外部リンク

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