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アリゴ・サッキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アリゴ・サッキ
2007年のサッキ
名前
ラテン文字 Arrigo Sacchi
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1946-04-01) 1946年4月1日(80歳)
出身地 フジニャーノ
身長 170cm
監督歴
チーム
1973-1976 イタリアの旗 フジニャーノ
1976-1977 イタリアの旗 アルフォンジーネ
1977-1978 イタリアの旗 ベッラーリア
1978-1982 イタリアの旗 チェゼーナ(ユース)
1982-1983 イタリアの旗 リミニ
1983-1984 イタリアの旗 フィオレンティーナ(ユース)
1984-1985 イタリアの旗 リミニ
1985-1987 イタリアの旗 パルマ
1987-1991 イタリアの旗 ミラン
1991-1996 イタリアの旗 イタリア
1996-1997 イタリアの旗 ミラン
1998-1999 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
2001 イタリアの旗 パルマ
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アリゴ・サッキArrigo Sacchi1946年4月1日 - )は、イタリアフジニャーノ出身のサッカー指導者。リヌス・ミケルスの編み出したゾーンプレスを体系化させた功績で知られる[1]

経歴

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少年時代・黎明期

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父親はS.P.A.L.などに所属したサッカー選手であった[1]。少年時代は、会計学を勉強しながら、バラッカ・ルーゴというクラブでDFとしてプレーしていた[1]。この頃、S.P.A.L.に居た、ファビオ・カペッロと対峙したこともあった[1]。青年期には、父親の会社で働きながらアマチュア5部ディレッタンティでプレーした[1]。この頃、軍役に従事し、トリノに有る軍の病院に配属された[1]。この病院とユヴェントスのスタジアムが近かったことから、よくトレーニングを観察していた[1]。1973年にフジニャーノの監督に就任、3年間監督を続けた[1]。その後、アルフォンジーネ、ベッラーリアチェゼーナのユースチームの監督を務めた[1]。チェゼーナでは、プリマベーラ部門での優勝を果たした[1]。この時のチームには。後のミランの監督時に獲得した、セバスティアーノ・ロッシマッシモ・アゴスティーニが居た[1]。イリタロ・アローディを紹介され、コヴァルチャーノの監督コースを修了し、監督のライセンスを取得した[1]。1982年、当時セリエCに属していた、リミニの監督に就任した[1]。1983年から1年間、イリタロ・アローディに招かれ、フィオレンティーナのユースチームの監督を務めた[1]。1984年、リミニの監督に複帰、この時、後に代表チームで活躍する、若き日のフェルナンド・デ・ナポリが居た[1]

転機

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パルマの会長に手腕を評価され、1985-86シーズンにセリエCに降格した、パルマの監督に就任した[1]。チームの目標はセリエBへの複帰で、サッキが就任すると、アレッサンドロ・メッリロベルト・ムッシを除く、全ての選手たちを放出し、ジャンルカ・シニョリーニら、フリーの若手選手たちを獲得した[1]。そのシニョリーニには、自身のサッカー哲学を叩き込むなどの効果も出て、1シーズンでセリエBへの再昇格を決めた[1]

1986-87シーズンのコッパ・イタリアでは、ミランを2度破る大金星を挙げた[1][2]。当時不振に喘いでいた、ミランの新会長に就任したシルヴィオ・ベルルスコーニは、この時の采配に感銘を受け、特にミランサポーターから懐疑的な目で見られたが、周囲の反対を押し切ってサッキをミランの監督として招聘した[1]。なお、この時の、サッカー選手としての経歴を持たずに監督に就任したという自身の経歴に対する考えを「騎手になるために、馬に産まれる必要はない」という言葉で表している[3]

ミラン時代

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1987年ミランの監督に就任したサッキは、プレシングサッカーを採用[4]。これは、1980年頃にリヴァプールが採用していたディフェンスシステムと、リヌス・ミケルス監督時代のアヤックスのサッカーからヒントを得たものであった[1][4]。DF陣にはフランコ・バレージパオロ・マルディーニマウロ・タソッティフィリッポ・ガッリに加え、MFのロベルト・ドナドーニといった有能な選手が在籍していた。これらの選手に加え、マルコ・ファン・バステンルート・フリットカルロ・アンチェロッティを獲得。更に指導していたパルマから、ロベルト・ムッシをチームに加えた[1]。サッキは、トレーニング方法やメンタル面でけでなく、ホテルの部屋割りも、同じポジションの選手同士が同室となるようにするなど、細かい点まで改革を行った[1]。この頃はまだ、選手たちの間にも懐疑的な見解もあった[2]。当初は結果が出なかったが、ベルルスコーニはサッキを支持し続けた[1]。この年、ファン・バステンがシーズン途中で負傷離脱するアクシデントもあったが、ピエトロ・パオロ・ビルディスがその穴を埋めた[2]ナポリと激しく優勝を争ったが、就任1年目のシーズンでスクデット獲得に成功した[1]。そして翌年からUEFAチャンピオンズカップを2連覇。1988-89シーズンには準決勝でレアル・マドリードに2試合合計6-1と大勝、決勝でもステアウア・ブカレストに4-0で完勝、翌年もベンフィカを破り優勝、またインターコンチネンタルカップでも2連覇と、サッキは名将としての地位を不動のものにした[1]。しかし、ファン・バステンと次第に対立するようになると、ベルルスコーニはファン・バステンを支持したこともあって、チームを去ることになった[5]

イタリア代表監督

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1991年10月、ミランを去り、1992年にヨーロッパ選手権への出場権を逃したばかりの、イタリア代表監督に就任した[1]。監督就任後は、これまでA代表の経験が無かった選手たちを多く代表としてデビューさせるなど(ミランやパルマ時代に指導し、自ら採用していたゾーンプレスのシステムをよく知る選手たちを多くデビューさせた。)起用した[6]。その一方で、これまで長らく代表チームでプレーしていた、ジャンルカ・ヴィアリワルテル・ゼンガジュゼッペ・ベルゴミといった選手たちを召集しなくなった[7]。1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会では、なんとかグループリーグを突破し、ナイジェリア、スペイン、ブルガリアを破り決勝に進出したものの、0-0のPK戦に敗れ、準優勝で大会を終える。大会中、FWのジュゼッペ・シニョーリをフルバックで起用したり、ノルウェー戦では、GKのジャンルカ・パリューカが退場になり、代わりのGKであるルカ・マルケジャーニを入れるために、ロベルト・バッジョを交代させるなど、いくつかの采配が疑問視された[1]。1996年、EURO1996ではグループリーグを1勝1敗1引き分けで終えるも、ドイツ戦で得たPKをジャンフランコ・ゾラが失敗し、勝ち点差で決勝トーナメントに進出出来ずに終わった[8][1]。その後、11月の親善試合で、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表にも敗れると、監督を解任された[1]

その後

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代表監督辞任後にも一度、成績不振に陥ったミランをシーズン途中から指揮するがかつてのような良い成績は残せなかった。その後スペインのアトレティコ・マドリードを率いるも、上手くチームに戦術をフィットさせることができず、すぐに職を追われ、1999年に引退を表明した[1]。2001年にパルマの監督へ再就任したが、健康不振を理由にすぐに退団した[1]。2004-05シーズンにはレアル・マドリードのフロントを務めた[1]。その後、イタリアサッカー協会で、ユースチームのコディネーターを3年間務めた[1]。2011年にイタリアサッカーの殿堂入りも果たした[1]

獲得タイトル

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パルマ

ミラン

監督成績

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シーズンクラブリーグ戦国内カップ戦国際カップ戦その他通算勝率リーグ戦順位
ディビジョン大会
1982-83 リミニ セリエC1 3414911 9144 - - 4315131534.884位
1984-85 3413147 8251 - - 4215198 35.71 4位
リミニ通算 68272318 17395 - - 85303223 35.29
1985-86 パルマ セリエC1 3416153 7232 - - 4118185 43.90 1位 (昇格)
1986-87 セリエB 3811189 9522 - - 47162011 34.04 7位
1987-88 ミラン セリエA 3017112 7421 UC4112 - 4122145 53.66 1位
1988-89 3416144 8521 UCC9540 1100 5227205 53.66 3位
1989-90 342257 8341 UCC9612 3210 54331110 61.11 2位
1990-91 3418106 8341 UCC4121 3210 4924178 48.98 2位
1996-97 23779 0000 UCL1001 0000 247710 29.17 11位 (途中就任)
ミラン通算 155804728 3115124 271386 7520 2201136938 51.36
1998-99 アトレティコ・マドリード プリメーラ 22958 2101 UC6501 - 3015510 50.00 途中解任
2000-01 パルマ セリエA 3120 0000 UC0000 - 3120 33.33 途中就任&途中解任
キャリア通算 32014411066 66262614 331887 7520 42619314687 45.31

脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 Arrigo Sacchi, il 'Profeta di Fusignano' che ha rivoluzionato il calcio italiano: dal grande Milan alla Nazionale”. GOAL (2023年4月1日). 2023年8月15日閲覧。
  2. 1 2 3 Milan '88: The inside story of Sacchi's all-conquering kings, as told by them”. FFT. 2023年8月15日閲覧。
  3. “欧州サッカー 30年の歩み”. Sports Graphic Number (文藝春秋): p. 27. (2010年12月9日). ASIN B004BNMZY6
  4. 1 2 33年前に生まれた画期的戦術 サッキの「ゾーンプレス」の仕組みとは”. SPORTIVA (2020年6月11日). 2023年8月19日閲覧。
  5. サッカーダイジェスト 1993年2月4日 No.169 P.76
  6. GUERIN SPORTIVO 1993 No.41 Ottobbre p.7-10
  7. Arrigo Sacchi: Coached AC Milan And Italy To Great Success”. HOS (2022年8月26日). 2022年8月26日閲覧。
  8. Italy pay penalty for Germany stalemate in EURO '96 Group C”. UEFA. 2023年8月8日閲覧。
先代
アゼリオ・ビチーニ
イタリア代表監督
1991-1996
次代
チェーザレ・マルディーニ