中岡慎太郎

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中岡 慎太郎
中岡慎太郎
中岡慎太郎(1866年)
生年 1838年5月6日
生地 日本の旗 土佐国
没年 (1867-12-12) 1867年12月12日(29歳没)
没地 日本の旗 京都
活動 倒幕運動
土佐藩脱藩
所属 陸援隊
受賞 正四位
京都霊山護国神社霊山墓地
靖国神社
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円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像)

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日新暦1838年5月6日) - 慶応3年11月17日新暦1867年12月12日))は、日本志士(活動家)。陸援隊隊長。道正通称ははじめ福太郎福五郎とも)、光次、のち慎太郎。遠山迂山など。変名石川清之助誠之助)など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。正四位1891年(明治24年)4月8日)。

生涯

生い立ち

土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれる。安政元年(1854年)、間崎哲馬に従い経史を学び、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。安政4年(1857年)、野友村庄屋利岡彦次郎の長女・兼(かね)15歳と結婚。文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。

文久2年(1862年)、長州藩久坂玄瑞山県半蔵とともに、松代佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。

乾退助と胸襟を開いて国策を練る

文久3年(1863年)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、乾退助(板垣退助)は藩の要職を外されて失脚。中岡慎太郎は失脚した直後の乾(板垣)を訪ねた。乾は中岡に「君(中岡)が私に会いに来たのは、私が失脚したから、その真意を探る気になったからであろう。その話に移る前に、以前、君(中岡)は京都で私(退助)の暗殺を企てた事があっただろう」と尋ねた。慎太郎は「滅相もございません」とシラを切ったが「いや、天下の事を考えればこそ、あるいは斬ろうとする。あるいは共に協力しようとする。その肚があるのが真の男だ。中岡慎太郎は、男であろう」と迫られたため、「いかにも、あなたを斬ろうとした」と堂々と正直に打ち明けたところ、乾に度胸を気にいられ「それでこそ、天下国家の話が出来る」と、互いに胸襟を開いて話せる仲となった。その後、二人はお互いの立場を生かして尊皇攘夷を実現させるために、乾退助は藩内から(上から)の活動を行うため土佐藩の要職に復帰、中岡は藩外から(下から)の活動を行うため土佐藩を脱藩して長州へ奔った[1]

脱藩

土佐藩を脱藩した中岡は、同年9月、長州藩に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、周防国三田尻都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となった。

元治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変下関戦争を長州側で戦い、負傷する。

薩長同盟の締結

長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力討幕論に発展させる(中岡慎太郎自身のこの頃の手紙による)。そして、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を志士たちの第一の悲願として活動し始める。三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬や三条の随臣・土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて巻き込んで行き、慶応2年1月21日(1866年3月2日)(あるいは22日(3日))、京都二本松薩摩藩邸(現在地・同志社大学)で薩長を和解させ、堀川通一条東の近衛家別邸(薩摩藩家老・小松清廉寓居/御花畑御屋敷)において薩長同盟を締結させた。

脱藩を許される

慶応3年2月(1867年3月)、龍馬と共に土佐藩から脱藩の罪を赦免され、藩籍復帰。

薩土討幕の密約

「薩土討幕之密約紀念碑」
密約が締結される前段階として京都東山の「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)

慶応3年5月(1867年6月)、京都での四賢侯会議の不発に焦りを感じた中岡慎太郎は、急ぎ江戸藩邸にありし乾退助へこれを報告。手紙を受けた乾(板垣)は、職を辞し決死の覚悟で上洛し、山内容堂に謁見を請うが許可あらせらせず、慎太郎は5月18日(太陽暦6月20日)、京都東山の料亭「近安楼」で、乾退助福岡藤次や、広島藩船越洋之助らとともに会見し武力討幕を議した[2]。さらに5月21日(太陽暦6月23日)、慎太郎は乾退助を薩摩西郷隆盛に会わせることにし、以下の手紙を書いた[3]

一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日、午後、乾退助、同道御議論に罷り出で申したく、よっては大久保先生吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情に御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第之御事と存じたてまつり候。尚又、今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。

(慶応三年)五月廿一日  清之助[4]再拝

(西郷)南洲先生[5]玉机下

これにより、慎太郎は同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老小松清廉寓居[6]で、土佐藩の谷干城毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力討幕を議する事となった[3]。退助は「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と約束し、慎太郎は自らその人質となって薩藩邸に籠ると決意を述べたが、西郷の「それには及ばず(信頼する)」との言葉を得て、薩土討幕の密約を結ぶ。翌日5月22日(太陽暦6月24日)、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、密約締結の事後報告と江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げた[3]

また、薩摩藩側も討幕の密約締結の翌日にあたる5月22日(太陽暦6月24日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。

中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため土佐の土佐勤王党の同志に「乾退助を盟主として、薩摩土佐の間で武力討幕の密約」が締結されたことを知らせる「檄文」を飛ばし賛同者を集めた[7]。(この密約が、のちに鳥羽・伏見の戦いで土佐藩士・山田平左衛門吉松速之助山地元治北村重頼ら率いる土佐藩兵が初戦から参戦する根拠となり、後に続く戊辰戦争を勝利に導く結果となった[3])

武器を調達し兵制改革の要を担う

更に退助の命を受け大坂アルミニー銃英語版(Albini-Braendlin_rifle)300挺を購入。乾退助はその銃を元に土佐で弓隊を廃し、銃砲隊を組織し、土佐藩の軍制を改革。軍隊を一新して士格別撰隊を組織し近代式練兵を行った[3]

土佐藩の軍制改革

薩土討幕の密約を履行するため土佐藩は乾を筆頭として軍制改革・近代式練兵を行うことを決定し、6月13日(太陽暦7月14日)に乾は藩の大監察に復職。中岡慎太郎は討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著し、乾退助らに捧呈。

大監察に復職した乾は「薩土討幕の密約」を基に藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし安岡正美島村雅事ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、七郡勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。6月16日(太陽暦7月17日)、退助は町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可の令を布告。乾(板垣)が陸軍を掌握し大隊司令として、藩兵を率いて軍事演習を行った(迅衝隊の前身部隊)

薩土盟約の締結

薩藩とは討幕の密約を結んだものの山内容堂は徳川宗家への強い恩顧意識があり、心中の揺れ動きの幅が大きく、討幕への意欲が不安定であったため、更に幕府の力を段階的に削ぐための方策として、6月22日(太陽暦7月23日)、京都三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(大久保利通)、西郷吉之助、土佐の寺村道成(日野春章)、後藤象二郎、福岡藤次(福岡孝弟)、石川誠之助(中岡)、才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、大政奉還の策を進めるために薩土盟約が締結される。(この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、同年6月26日(太陽暦7月27日)、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展する)

7月8日、江戸から土佐へ帰藩する途中の真辺正精と京都で会い、互いに時勢を話し会う。

7月17日(太陽暦8月16日)、中岡慎太郎の意見を参考にした乾退助は銃隊設置の令を発した。さらに退助によって7月22日(太陽暦8月21日)、「古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向き」として廃止され、銃隊編成が行われ、士別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊が設置され、近代式銃隊を主軸とする兵制改革が行われた。

この日、中岡慎太郎(石川清之助)は、土佐藩・大目付(大監察)本山只一郎宛へ幕府の動静を記した密書を送る[8]

(前文欠)又、乍恐窃に拝察候得者、君上御上京之思食も被爲在哉に而、難有仕合に奉存候。然此度之事、御議論周旋而己に相止り候得者、再度上京の可然候得共、是より忽ち天下之大戰争と相成候儀、明々たる事に御座候。然れば、實は上京不被爲遊方宜敷樣相考申候。斯る大敵を引受、奇變之働を爲し候に、本陣を顧み候患御座候而は、少人數之我藩別而功を爲す事少かるべしと奉存候。

乍恐、猶名君英斷、先じて敵に臨まんと被爲思召候事なれば、無之上事にて、臣子壹人が生還する者有之間敷に付、何之異論可申上哉、只々敬服之次第也。此比長藩政府之議論を聞に、若(し)京師(に)事有ると聞かば、即日にても出兵せんと決せり。依て本末藩共、其内令を國中に布告せり。諸隊、之が爲めに先鋒を争ひ、弩を張るの勢也との事に御座候。
右者、私内存之處相認、御侍中、并(ならびに)、乾(退助)樣あたりへ差出候樣、佐々木(高行)樣より御氣付に付、如此御座候。誠恐頓首。
(慶應三年)七月廿二日、(石川)清之助。
本山(只一郎)樣玉机下。

匆々相認、思出し次第に而、何時も失敬奉恐謝候[9]

中岡は本山宛の書簡に「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き綴っている。

陸援隊を組織

慶応3年7月27日(1867年8月26日)、中岡慎太郎は長州で見聞した奇兵隊を手本として、京都白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定め、陸援隊を組織し、自ら隊長となる。

揺れ動く土佐藩

8月20日(太陽暦9月17日)、山内容堂後藤象二郎の献策による大政奉還を幕府へ上奏する意思を示す[8]。藩庁は、大政奉還論に反対する乾退助へアメリカ派遣の内命を下し、政局から遠避けようと画策。

8月21日(太陽暦9月18日)、乾退助が、土佐藩軍備用兼帯致道館掛を解任される[8]

9月14日(太陽暦10月11日)、土佐藩(勤王派)上士小笠原謙吉、別府彦九郎が、江戸より上洛して、京都藩邸内の土佐藩(佐幕派)重役へ討幕挙兵を説得す[8]

9月20日(太陽暦10月17日)、坂本龍馬が、長州の木戸孝允へ「後藤象二郎討幕挙兵を躊躇った場合は、後藤を捨て乾退助に接触する」との旨を記した書簡を送る[8]

9月22日(太陽暦10月19日)、中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く[8]

9月24日(太陽暦10月21日)、在京の土佐藩(佐幕派)上士らが、幕吏の嫌疑を恐れて白川藩邸から陸援隊の追放を計画[8]。坂本龍馬が、銃1000挺を持って安芸藩・震天丸で5年ぶりに土佐に帰国。土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す[8]

9月29日(太陽暦10月26日)、乾退助が、土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜらる[8]

10月8日(太陽暦11月3日)、乾退助が、土佐藩歩兵大隊司令役を解任される[8]

大政奉還

10月14日(太陽暦11月9日)、大政奉還が成されるが、そのため武力討幕論は遠避けられ、頼みの綱の乾退助も国許で失脚。中岡慎太郎は日記に「(坂本龍馬大政奉還論に関して)言うべきにして行うべからず」と書き、同志である本山只一郎宛ての書簡には「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き記している[8]

暗殺

11月15日(太陽暦12月10日)、京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死となる(近江屋事件)。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語った。また、乾退助へ対して「幕吏の手が迫っている。潰される前に(討幕を)早くお遣り下さい」という言葉を託した。11月17日に死去。享年30。

死後の影響

天満屋事件

中岡慎太郎の死後、海援隊士らは犯人をいろは丸沈没事故で多額の賠償金を支払わされた紀州藩であると考え、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、海援隊陸援隊士ら総勢16名(15名とも)が、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新選組と戦った(天満屋事件)。

高野山挙兵

天満屋事件の翌日にあたる、慶応3年12月8日(1868年1月2日)、陸援隊は岩倉具視から「鷲尾隆聚を擁して高野山で挙兵し紀州藩に対抗するよう」密命を受け[10]慶応3年12月12日(1868年1月6日)、陸援隊士らが侍従鷲尾隆聚を奉じて高野山で挙兵(高野山挙兵)。紀州藩を恭順させ、戊辰戦争が始まると、転戦して奥州追討軍に加わった[10]

薩土密約の履行

中岡慎太郎は11月17日に死去したが、中岡が奔走し締結させた薩土討幕の密約が、その後の土佐藩の将来を決定づけることとなる。慶応3年12月(1867年12月下旬~1868年1月上旬)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。同12月28日(1868年1月22日)、土佐藩・山田平左衛門吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。

慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立。1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治北村重頼二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月8日(太陽暦2月1日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した[8]

鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦いが始まると、山内容堂は在京の土佐藩兵に「此度の戦闘は薩摩・長州と会津・桑名の私闘であると解するゆえ、何分の沙汰ある迄は、此度の戦闘に手出しすることを厳禁す[8]」と告ぐが、土佐藩兵は薩土密約に基づき独断で戦闘に参加し、慶応4年1月7日(1868年1月31日)、徳川慶喜が「朝敵」として討伐の勅が下るや、翌1月8日(太陽暦2月1日)には乾の謹慎が解かれ、1月9日(太陽暦2月2日)、迅衝隊の大司令に任ぜられる。同1月13日(太陽暦2月6日)土佐を出陣し、高松藩伊予松山藩を帰順させて上洛を果たす。京都に到着した乾の率いる迅衝隊は、先の伏見の戦いでの土佐藩士の参戦者と合流し、隊の編成を組み直し、乾が総督を兼任して、戊辰戦争で東征の途についた。

土佐藩が初戦より戊辰戦争に参戦し、錦の御旗を下され、戦争で勝利を収め、その後の国会開設などを含めた近代日本国家を形成する契機を作ったのは、ひとえに中岡慎太郎の盡力によるものである[11]

墓所と銅像

墓所
銅像

評価

  • 板垣退助 -「中岡慎太郎という男は本当に立派で西郷、木戸らと肩を並べて参議になるだけの智略と人格を備えていた」
  • 西郷隆盛 -「倶に語るべき一種の人物なり」「節義の士なり」
  • 坂本龍馬 -「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」
  • 佐久間象山 -「土州藩の使者(中岡)は頗る頑固な人で、これを辞したら殆ど刺違へぬばかりに議論をした」
  • 岩倉具視 -「誼を条公(三条実美)に通じ、交を西郷、木戸、広沢、品川、五子に結びたるは中岡、坂本、二子の恵みなり」
  • 土方久元 -「至誠剛直の真丈夫であって、一頭地を抜ておった」[14]
  • 品川弥二郎 -「石川は資性恬憺の人物なり」
  • 大江卓
    • 「元来、土佐の王政復古論の筆頭は坂本龍馬だということになってはいるが、或は中岡慎太郎の方ではないかと自分は思っている。一寸ここで坂本と中岡の人物を評して見るなれば、中岡は後の板垣(退助)、坂本は後藤(象二郎)という形である。中岡坂本両人共に(武市)瑞山の後継で二重鎮であった。ちょうど長州を例にとっていえば、松蔭門下の久坂玄瑞、高杉東行というところである。人物の風格も似ていないではない」
    • 「中岡は台閣の器であり、坂本は広野の猛獣であった。一は宰相の風があり、一は豪傑の面影があった。此の二人を土佐が早くも失ったのは返す返すも惜しいことをしたものである」
  • 正親町三条実愛 -「随分たしかなる人」
  • 尾崎旦爾 (熊吉) -「才略と胆力と人格を有し、而して彼の如く刻苦し、彼の如く忍従し、克く結び、克く尽し、回天の大業を空挙に築き、維新の元勲として功績最も多く、稀世の英傑なり」
  • 香川敬三 -「略を好む、大志あり」
  • 川北茂馬 -「中岡先生は背筋をピンと伸ばして、はるかむこうに目をやり、両手を大きく振りながら、すっ、すっと歩く人であった。えろうなる人は、子供の時から違うちょったぞ」
  • 楢崎龍 -「面白い人で、私を見ると『お龍さん、僕の顔に何か附いていますか』などと、何時もでがうて居りました」
  • 縫 「中岡先生はひとときも無駄という時間のない人じゃった」「秋の刈入れの時、先生は所用から夕方烏ヶ森を越えて帰ってくると、百姓たちが稲の取り入れに追われている。先生は家に帰り着くなり稲ざすを持って、すっと手伝いにくるといった人じゃった」
  • 山本左右吉妻女 -「中岡さんは大変足の早い人で、私の所にかくれて居た時にも『ちょっとそこで煙草を買うて来る』と言って、夕食を済まして出たまま、幾ら経っても戻って来なかったから、如何したかと心配していると程経て手紙が来て、それによると何でもその夜のうちに十八里歩いて、脱藩したという事で、皆驚きました」[15]
  • 三宅謙四郎 -「中岡は予と同年か一つ兄か位の人にて身丈も予と同様、五尺ばかりの男なりき。予と頗る馬合いにて極めて親密にしたり。剣は予と同じく武市先生に学びたるも、余り熱心にてもなく、どちらかといえば文学の人なりしが、それかといいて学問も深邃なりしとはいい難し。平生、大の議論好きなり。その風貌、写真の伝うのごとし。似たりとは愚か全くその儘なり。ただし眼光炯々として蒼鷹の羽ばたかんとするがごとき感なるも、実際の人となりは温和にして色白く、声音も尋常なりき」
  • 早川勇
    • 「其誠心可感、其達見可嘉」
    • 「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというも過言ではないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおる。ことに遊撃隊に身をおいて、その苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国に帰った後に来た人であるから、どれだけ功労があったかは知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」
    • 「長州における坂本と中岡の周旋を見るに、はでなことは坂本に属するが、中岡はどうかというに、この人ほど苦心した者はないと思う」
  • 田中光顕
    • 「中岡氏は東群の大里正なり。その在群にあるや郷民皆その徳に伏す。其人となり深沈にして胆力あり。当時土州脱藩士五六十在せりと雖も、恐らくはその巨魁なるべし」
    • 「中岡を以て策士と見做すは誤っている。彼は西郷南州と其型を一にする君子人であった」
    • 「非常に真面目な男であっただけに、坂本が大ビラにお龍を連れて歩いたのに比し、彼は極めて秘密の裡に閑日月を楽しんだものである」
    • 「何時か一人で外出して帰ってきて『今日、祇園で湯に入ったが、素的な代物が一緒に入っていて僕は湯から出られなくて困った』という笑い話をしたことがあった。中岡は大体謹厳な人であったけれども、一方のこともなかなか剛の者であった」
    • 「中岡先生は坂本先生と終始仕事を一緒に致しましたけれども、坂本先生の名が最も広く世界に伝わって居ります。しかし、私は其の識見に於て、其の手腕に於て、中岡先生の方が遥かに優って居ったと思います。維新の原動力が三条、岩倉両公にあることを達観して、両公を握手させたのも先生であります。坂本、後藤に先だって政権を朝廷に奉還せねばならんと言う意見を唱道したのも先生であります。こう言う活眼の人が維新後まで生残って居たなら、吾々土佐人の肩身も一層広かったであろうと誠に遺憾に堪えないのであります」
    • 「先生は弁舌さわやかで、剣をもって坂本龍馬より上であったろう。障害になる人物が現れると、先生が行けば一時間の猶予も必要でなかった。一時間以内に意のままに説き伏せて帰って来た」
    • 「頗る真面目な人で即ち精神家であった。精神家であるだけ、なかなか神経質な所があって、一時は脳を悪くし養生かたがた水戸の住谷寅之介を訪ねたり、信州に佐久間象山を訪ねたりした。品行なども絶対に酒色を遠ざけるという程に融通の利かぬ男ではなく、終始その起居を共にした自分としては天機漏らす可らざる事も知って居るが、大体に於いて謹厳な男で、その性格がよく西郷に似ていた。中岡は何時も西郷の人物を推賞し、西郷もまた中岡を賞賛して居た」

系譜

  • 中岡氏の藤原氏家紋は「丸に綿の実」。中岡家は名字帯刀を許された大庄屋で、土佐藩では庄屋は転勤の制度があったため、中岡氏の発祥は北川村(柏木村)ではなく、同家が北川郷14ヶ村の大庄屋に赴任したのは、慎太郎の祖父・要七の代からである。そのため、要七以前の中岡家の先祖代々の墓は高知県内の各所に点在していたが、現在は移されて北川村にある。

※実線は実子、点線は養子

 
前代略
 
 
 
 
 
 
 
要七
(5代目)
 
 
 
 
 
 
 
 
ウシ
 
小傳次
(6代目)
 
先妻
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
慎太郎かつ
 
源平照久
(7代目)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
照行照行
 
 
 
 
 
 

(女子)
 
 
 
 
 
 

(女子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

(女子)
 

実姉の夫 川島総次の末裔に劇団ひとりがいる。

備考

ファイル:Nakaoka-Shintaro statue.jpg
室戸岬の中岡慎太郎像
中岡慎太郎生家(安芸郡北川村柏木・北緯33度27分23.4秒 東経134度03分25.1秒
中岡慎太郎寓居跡(京都市中京区四条河原町上ル・北緯35度00分16.7秒 東経135度46分07.3秒
幕末では珍しい笑顔の写真。隣に女性がいると想定されているが、中岡の頬に当てられた手と膝にかかった着物を除いて塗りつぶされている。(1866年11月24日撮影)
  • 生誕の地である高知県安芸郡北川村柏木地区に「中岡慎太郎館」が建てられ、生家も復元・保存されている。土佐くろしお鉄道阿佐線(ごめん・なはり線)奈半利駅より北川村営バスで約20分。近隣には、幼少時代、慎太郎が奈半利川に飛び込みをして遊んだ崖や、村外の私塾や田野学館に通った山越えの道など(「向学の道」)、彼の生い立ちにまつわる跡が多い。
  • 近江屋坂本龍馬と一緒に襲われたが、彼は即死せず二日間生き延びて、刺客が「こなくそ」(四国方言)と言いながら襲ってきたと話している。また、焼飯(焼きおにぎり)を食べたいとも話したらしい。
  • 今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある」という言葉を残している。
  • 親しかった高杉晋作とは、漢詩好きという共通点があり、互いに詩を通じて交流を深めた。第二次長州征伐(四境戦争、幕長戦争)の直前にも、晋作は慎太郎に自作の詩を贈っている。
  • 高杉晋作、太田民吉(本名・広田精一。宇都宮浪士)と共に、島津久光の暗殺を企てたことがあったが、未遂に終わった。後年、薩長同盟が成立すると、慎太郎は薩摩へおもむき、久光との対面を果たしているが、当然ながら、かつての暗殺計画について明かした形跡はない。
  • おりょうの談話によれば、坂本龍馬ら土佐浪士の、京都における隠れ家だった、大仏南・河原屋五兵衛の隠居所(下京区塩小路町、現在は「土佐志士寓居跡」の碑がある)に、慎太郎も出入りしていたという。この隠れ家は、「池田屋事件」の残党狩りで幕吏に踏み込まれたが、慎太郎や龍馬は在しておらず、難を逃れた。
  • 第一次長州征伐」において、長州が要求された降伏条件の一つに、「三条実美五卿の身柄を、長州藩外に移す」というものがあった。この実施に際し、慎太郎は長州側の代表として、五卿の受け入れ先である太宰府を管理する福岡藩や、仲介を務める薩摩藩との交渉を行った。また、この交渉過程で、西郷隆盛と初めて対面した。
  • 自著『時勢論』の中で、西郷隆盛、高杉晋作、久坂玄瑞桂小五郎について、人物評を残している。
  • 薩長連合、薩土密約、大政奉還等は、坂本龍馬が中心に描かれたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動において真の立役者は本当はどちらであったかは議論が分かれるところである。実際は、中岡であったという歴史家の意見もある。また、中岡が龍馬の西洋的な議会主義的思想にどの程度まで理解を示したのかも今日まで不明な点が多い。
  • 2000年にアメリカで発行された『JAPAN』という日本を紹介する本では、何故か坂本龍馬の銅像として室戸の中岡の銅像が紹介されている。
  • 中岡の故郷の北川村では、飢饉から塩に困窮した村の農民らのために、その知らせを受けて江戸から帰郷して塩の代用として使おうと奔走した中岡が柚子の生産に貢献したものの、あえなくも柚子の性質上に無理が出たため北川村は柚子の生産と収穫するのを一時的に中止したが、昭和後半期を迎えた機に再開された。今や高知県は柚子の生産量が日本の半分を占める日本一屈指の割合となり、柚子の消費を高める観光PRとして暗殺された中岡を弔うかのように10月の下旬頃で「慎太郎とゆずの郷祭」が開催されている。

全集

伝記

脚注

  1. ^ NPO法人『板垣会会報』第1号
  2. ^ 『行行日記』中岡慎太郎筆記
  3. ^ a b c d e 『板垣退助君傳記』宇田朋猪編
  4. ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。
  5. ^ 西郷隆盛のこと。
  6. ^ 室町通り鞍馬口下る西入森之木町462附近
  7. ^ 『中岡慎太郎先生』尾崎卓爾
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
  9. ^ 『保古飛呂比』佐々木高行筆、『維新土佐勤王史』瑞山會、『中岡慎太郎』尾崎卓爾著より)
  10. ^ a b 『幕末諸隊100』三才ブックス
  11. ^ 『薩土討幕之密約紀念碑除幕式祭文』より
  12. ^ 中岡慎太郎銅像 - 高知県立坂本龍馬記念館、2016年4月4日閲覧。
  13. ^ 龍馬の小箱(9) 龍馬の銅像 - 創造広場「アクトランド」、2016年4月4日閲覧。
  14. ^ 『坂本中岡両先生五十年祭記念講演集』
  15. ^ 『中岡慎太郎』尾崎卓爾著、大正15年

参考文献

関連作品

中岡慎太郎が主人公の作品

小説

中岡慎太郎が登場する作品

小説
映画
テレビドラマ
NHK大河ドラマ
ゲーム
アニメ
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外部リンク