いろは丸

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いろは丸(いろはまる)は、江戸時代末期の1860年代にイギリスで建造され、伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していた蒸気船蒸気機関のほかマスト3本を持ち帆走も可能であった。坂本龍馬海援隊による運航中に紀州藩の明光丸と衝突事故を起こしたことで知られる。

なお、同時期に薩摩藩が建造した日本最初の西洋型帆走船も「いろは丸」であるが、関係はない。

要目[編集]

  • 母港 伊予国大洲藩長浜(現在の愛媛県大洲市長浜町
  • 全長 30間
  • 全幅 3間
  • 深さ 2間
  • トン数 160トン
  • 機関、 45馬力、 蒸気内車(スクリュー船)、マスト3本あり、帆走可能

年譜[編集]

1862年イギリスバーミンガムで建造、アビソ号(アビゾ号[1])と命名される[注 1]

1866年
9月22日(旧暦8月14日)。大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が、長崎において坂本龍馬と薩摩藩の五代友厚の仲介によりポルトガル領事ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロから4万メキシコ・パタカ万延小判で換算すれば3万3600両となる)で購入し、いろは丸と改名する[注 2][1][3][4]
12月。大洲藩は幕府にいろは丸を、城下町人の購入船として届け出る。また、1867年1月30日(慶応2年12月25日)に国島六左衛門が切腹(享年38)。切腹の原因については、表向き独断購入の責任を取らされたためとされるが、藩内世論の激変が背景にあったようである。国島六左衛門は長崎で切腹したが、遺体は大洲に搬送され、大洲の寿永寺の墓地に埋葬された。
1867年
4月。大洲藩は、いろは丸を坂本龍馬の海援隊の海運業務のため、一航海15日につき500両の使用契約をした。
5月22日(旧暦4月19日)。龍馬は大坂に物資(鉄砲?)を運ぶために長崎を出航した。
5月26日(旧暦4月23日)。紀州藩明光丸と衝突し積荷もろとも沈没した。

いろは丸 沈没事件[編集]

経緯[編集]

坂本龍馬が泊まった桝屋清右衛門宅跡は2011年から一般公開されている。(広島県福山市地図

1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃に伊予国大洲藩所有で海援隊が借り受けて長崎港から大坂に向かっていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島北緯34度18分16.0秒 東経133度31分53.7秒 / 北緯34.304444度 東経133.531583度 / 34.304444; 133.531583 (六島))付近で正面から向かい合う形となった。いろは丸が取り舵、明光丸が面舵をとり、同じ方角に回避行動をとった両船は衝突した。明光丸はイギリスで建造された長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であり、彼我の差はあまりにも大きく、更にいったん後退した明光丸が再び前進した時に2度目の衝突を起こした[5]

いろは丸は大破し自力航行不能となり、船舶の修理施設の整った近くの備後国沼隈郡鞆の浦まで明光丸で曳航することとなったが、風雨が激しくなった翌実早朝、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島北緯34度18分52.7秒 東経133度27分55.8秒 / 北緯34.314639度 東経133.465500度 / 34.314639; 133.465500 (宇治島))沖で沈没した。搭乗していた坂本龍馬はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は全員明光丸に乗り移っており、死者は発生しなかった[5]

その後、龍馬らは鞆の浦に上陸した。龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の桝屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を行った。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたが、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりで自身が精通している万国公法を持ち出し、紀州藩側の過失を追及した。事故に至るまでのいろは丸の操船は当時の国際ルール(欧米では1863年にイギリスで制定された海上衝突予防規則が標準となっていた[6])に照らしても重大な過失があったが(横切り船であるいろは丸は面舵を取って回避する義務があり、逆に明光丸は進路を維持していれば問題なかった。また、紀州藩はいろは丸が灯火を点灯していなかったと主張している[7])、国際ルールに精通していない紀州藩は龍馬の巧みな交渉術に翻弄された。明光丸船長の高柳楠之助に対し、龍馬は「万国公法に基づき非は明光丸にある」と一方的に主張し、急場の難を救うためとして1万両を要求した。動揺を隠せない高柳は明光丸に搭乗している勘定奉行の茂田一次郎と相談した結果、「金一封(千両)を出す」と返答したが、強気の龍馬はこれを拒絶した。藩命を受けて長崎に向かわなければならず焦る高柳は「1万両を立て替えるから、返済期限を決めよ」とさらに提案するも、龍馬は「1万両は賠償金の一部。それを返済期限を明示せよとは何事か」と反発した。交渉は決裂し、明光丸は長崎に向けて出港し、龍馬は停泊中の長州藩船に乗り込んでその後を追った[4][8][9]

慶応3年5月15日に長崎で交渉が再開された。初日は土佐藩から龍馬・小谷耕蔵腰越次郎岩崎弥太郎ら、紀州藩からは高柳楠之助・岡本覚十郎成瀬国助福田熊楠ら出席したとされる。龍馬らはミニエー銃400丁など銃火器3万5630や金塊など4万7896両198を積んでいたと主張し、航海日誌や談判記録をもとに万国公法にのっとり判断すべきとしたが、紀州藩側は長崎奉行所での公裁を仰ぐべきと反論した。龍馬は「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」と民衆を煽り紀州藩を批判する自作の俗謡を花街で流行らせた[9]

紀州藩は龍馬ら海援隊との交渉を避けるようになり、茂田一次郎が土佐藩参政の後藤象二郎と交渉を行った。このとき茂田は後藤に対し「一戦も覚悟」と激怒していたが、五代友厚のとりなしもあり、事故から1か月後に紀州藩が折れて賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した[9][10]日本銀行高知支店の計算によれば、この賠償金額は現在の貨幣価値に換算して164億円に相当する[11][12]。紀州藩の現地責任者だった茂田は紀州藩の下級藩士の家に生まれ事務方としての能力や人脈を生かして重役の勘定奉行にまで出世した苦労人であったが、この交渉失敗の詰め腹を切らされる形で御役御免(免職)となった[13]

沈没したいろは丸の船体は1980年代に海底で発見された。その後複数回実施された潜水調査では、いろは丸から鮫皮などの交易品は見つかったものの、龍馬らが主張した積荷代金の大部分を占めた銃火器などはまったく確認されておらず、紀州藩から多額の賠償金をせしめるための「はったり」であったとみられている[2][9][14]。賠償金は7万両に減額されたうえで11月7日に長崎で土佐藩に支払われ、更にその後龍馬に支払われるはずだったが、8日後の11月15日に龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された[9][2]

この事故は、蒸気船同士の衝突事故としても海難審判事故としても日本で最初の事例とされている[4][9]

いろは丸と明光丸の海路図
御手洗航路上を西進していた明光丸を発見したいろは丸は、左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。衝突後、いろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったが、当直士官が甲板にいなかったという。またその後明光丸はいったん後進していろは丸から離れたが、再び前進して再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。明光丸は乗組員全員を乗せ、いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが途中で沈没した。[15]


後年の調査[編集]

発見されたいろは丸とみられる絵図
1988年
鞆の浦の有志で結成された「鞆を愛する会」が沈没船を水深27mの海底で発見、「水中考古学研究所」が潜水調査を実施し、積載品の種類や年代がいろは丸の記録とほぼ一致することを確認[2]
1990年
2月にいろは丸沈没場所が、水中遺跡に指定された[誰?]
2005年
第4次海底調査で、船体近辺では龍馬等が主張した銃火器等は発見されなかった[2][14]
2010年
7月27日に長崎市歴史民俗資料館は、いろは丸とみられる絵図が見つかったと発表した。幕末に佐賀藩士が長崎港に入港した艦船などをつづった記録誌「白帆注進外国船出入注進」全3巻(佐賀市の鍋島報效会徴古館所蔵)に掲載されており、旗印が購入した大洲藩の《赤地に蛇の目》であることから間違いないと結論づけた[16]

国島六左衛門について[編集]

国島六左衛門招徳墓 大洲市寿永寺

国島六左衛門のルーツは美濃国岐阜市黒野)であることを、岐阜市郷土史研究グループ「歴史伝承フォーラム」代表の田中豊が2010年6月6日付「岐阜新聞」紙上で明らかにした。

  • 国島家の祖先の古文書には、国島重光が、美濃国黒野城主加藤貞泰に仕え、主君貞泰が関ヶ原の戦いで徳川軍にくみし、慶長15年(1610年)に2万石を加増され現在の鳥取県米子城へ、さらに大坂冬・夏の陣に参戦し、その功によって元和3年(1617年)に大洲に転封する際にお供したと記されており「重光の子孫今に大洲加藤家にあり」という記述があった。
  • 国島家は、土岐頼国の五男国仲を祖としている。国島将監重周---国島将監重範---国島将監隆重---国島恒重---国島重政---国島重光--------と系図には書かれている。
  • 国島家は「土岐の三将」または「土岐の三重(さんしげ)」国島相模守隆重、村山越後守芸重、中島監物政重、と称された名門である。
  • 司馬遼太郎の小説の記述において、『国盗り物語』では「土岐家一門の重鎮斉藤彦九郎、国島将監隆重、芦敷左近……」、『竜馬がゆく』では「伊予の大洲藩で顔見知りの国島六左衛門というのが、商務でやってきた」と書かれている。
  • 津本陽の小説の記述において、『龍馬』では「大洲藩郡中奉行国島六左衛門が苦境に立っていた」、『龍馬残影』では、「郡中奉行国島六左衛門と井上将策である。国島六左衛門は、郡中三十七カ村を支配する奉行で国島六左衛門は新極流、正木流、荻野流の砲術の心得がある。時勢に遅れた火縄筒ではあるが、扱い方を心得た鉄砲の専門家であった」と書かれている。

伊予史談会双書の大洲藩の伝記・家臣の記録・役職等を記述した『大洲秘録』には、国島家の記録が記されている。

  • 大洲藩初代加藤貞泰より勤める/国島徳右衛門重紹---加藤泰興の小姓/国島六右衛門常慶---作事奉行/国島弥次右衛門義紹---加藤泰温の作事奉行/国島六右衛門紹昌---加藤泰候の作事奉行/国島弥時右衛門紹直----郡中奉行/国島六左衛門紹徳(1866年12月没)

関連項目[編集]

平成いろは丸

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ イギリスのグリーノック(Greenock)で建造された原名サーラ号(Sarah)とも言われている[2]
  2. ^ 長年、オランダ商人アルフォンス・ボードウィンから42,500両で購入したとされてきたが、2009年12月にポルトガル語の購入契約書が見つかり定説が覆った。また、沈没時までに大洲藩の代金支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。

出典[編集]

  1. ^ a b 竜馬の「いろは丸」契約書発見 瀬戸内で沈没 共同通信 2010年4月23日
  2. ^ a b c d e INC., SANKEI DIGITAL (2017年12月16日). “【水中考古学へのいざない(19)】瀬戸内海に眠る龍馬の「いろは丸」、日本の夜明け夢見た志士たち” (日本語). 産経WEST. https://www.sankei.com/west/news/171216/wst1712160010-n1.html 2018年9月28日閲覧。 
  3. ^ 龍馬の船 購入経緯示す新史料 NHK 2010年4月23日
  4. ^ a b c “龍馬が乗った「いろは丸」オランダ購入説覆る”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月25日). http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100425-OYT1T00381.htm 2010年4月25日閲覧。 
  5. ^ a b INC., SANKEI DIGITAL (2013年8月18日). “【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(上) 怒りの龍馬、本邦初の「損害賠償」請求提訴へ…海難事故で大量の武器が海の藻くずに” (日本語). 産経WEST. https://www.sankei.com/west/news/130818/wst1308180062-n1.html 2018年9月27日閲覧。 
  6. ^ 藤原紗衣子. “国際海上予防規則が日本人船員の法意識に与えた影響についての史的考察 (PDF)”. 神戸大学. 2018-10‐02閲覧。
  7. ^ 坂本茂樹. “坂本龍馬と万国公法 (PDF)”. 日本海洋政策研究所. 2010年12月4日閲覧。
  8. ^ INC., SANKEI DIGITAL (2013年8月25日). “【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(中) 崩れる龍馬のイメージ…国際法タテに1万両要求した〝銭ゲバ〟ぶり、紀州藩の無知につけこむ” (日本語). 産経WEST. https://www.sankei.com/smp/west/news/130825/wst1308250087-s.html 2018年10月1日閲覧。 
  9. ^ a b c d e f INC., SANKEI DIGITAL (2013年9月1日). “【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(下) 龍馬暗殺真相〝異説〟=身内の裏切り?「賠償金7万両」支払い直前に急襲、その金は…” (日本語). 産経WEST. https://www.sankei.com/west/news/130901/wst1309010068-n1.html 2018年9月27日閲覧。 
  10. ^ いろは丸事件での龍馬の対応 - 高知県立坂本龍馬記念館|調べる|龍馬Q&A
  11. ^ 坂本龍馬とおかね(いろは丸賠償金83,526両)|日本銀行高知支店”. www3.boj.or.jp. 2018年10月1日閲覧。
  12. ^ 坂本龍馬とおかね|日本銀行高知支店”. www3.boj.or.jp. 2018年10月1日閲覧。
  13. ^ INC., SANKEI DIGITAL (2018年2月11日). “幕末の紀州藩士・茂田一次郎の壮絶人生、わかやま歴史館で企画展示” (日本語). 産経ニュース. https://www.sankei.com/region/news/180211/rgn1802110017-n1.html 2018年9月27日閲覧。 
  14. ^ a b リーフレット京都 No.216(2006年12月) - (財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
  15. ^ 坂本龍馬といろは丸事件(2008年 二葉印刷有限会社)
  16. ^ 「これが竜馬のいろは丸」 毎日新聞縮刷版2010年7月号:7月28日(水)23面
  17. ^ http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=5609

外部リンク[編集]