イギリス連邦
コモンウェルス・オブ・ネイションズ Commonwealth of Nations | |
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コモンウェルスの加盟国 | |
本部 | ロンドン |
公用語 | 英語 |
加盟 | #加盟国の一覧 |
指導者 | |
• 連邦の長 | エリザベス2世 |
• 事務総長 | スコットランド・オブ・アスタル男爵夫人 |
• 事務局長 | ボリス・ジョンソン |
設立 | |
• バルフォア報告書 | 1926年11月18日 |
1931年12月 | |
• ロンドン宣言 | 1949年4月28日 |
面積 | |
• 合計 | 29,958,050 km2 (11,566,870 sq mi) |
人口 | |
• 2016年の推計 | 2,418,964,000 |
• 人口密度 | 75/km2 (194.2/sq mi) |
ウェブサイト thecommonwealth.org |
コモンウェルス・オブ・ネイションズ(英: Commonwealth of Nations)、通称コモンウェルス(英: Commonwealth)[1]は、大英帝国のほぼすべての旧領土である54の加盟国からなる政治連合[2]。旧名(英語: British Commonwealth)に由来するイギリス連邦、英連邦と称されることも多い[3][4]。この組織の主な機関は、政府間の関係に焦点を当てたコモンウェルス事務局(Commonwealth Secretariat)と、加盟国間の非政府関係に焦点を当てたコモンウェルス基金(Commonwealth Foundation)である[5]。
コモンウェルスの歴史は20世紀前半にさかのぼり、大英帝国の脱植民地化に伴い、領土の自治が強化されたことで始まった。もともとは、1926年の帝国会議でのバルフォア宣言によってイギリス連邦[6](英: British Commonwealth of Nations)として設立され、1931年にはウェストミンスター憲章によってイギリスによって正式に制定された。現在のコモンウェルスは、1949年のロンドン宣言によって正式に構成され、共同体を近代化し、加盟国を「自由で平等」なものとして確立した[7]。
コモンウェルスの長は現在イギリス女王エリザベス2世であり、2018年の英連邦元首会議ではウェールズ公チャールズが女王の指定後継者に指名されたが、その地位は継承されていない。女王は君主国である加盟国のうち16か国の元首であり(英連邦王国)、他の5つの君主国は独自の君主を持つ。他の33の加盟国は共和国である。
加盟国はお互いに法的義務を負っていないが、英語の使用や歴史的な繋がりを通じて繋がっている。民主主義、人権、法の支配といった共通の価値観は、コモンウェルス憲章[8]に明記されており、4年に1度のコモンウェルスゲームズによって推進されている。
英連邦の国々の面積は29,958,050 km2 (11,566,870 sq mi)以上で、これは世界の国土面積の20%に相当する。総人口は2016年時点で2,418,964,000人と推定されており、これは世界人口の3分の1近くに相当し、人口別では国連に次いで2番目に大きな政府間組織となっている。
歴史
前史
19世紀には世界最大の帝国として覇を唱えていた大英帝国は、20世紀に入るとアメリカ合衆国やドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうしたなか、19世紀後半以降イギリス本国は世界各地の入植型植民地の権限を強化していき、特に白人が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、自治領(ドミニオン)とするようになっていった。1867年、英領北アメリカ法によって3つのイギリス北米植民地が連邦を組み、カナダとしてドミニオン化したのを皮切りに、1901年にはオーストラリア大陸の6植民地が連邦化してオーストラリア連邦が成立し、1907年にはニュージーランドとニューファンドランドが、1910年には南アフリカの4植民地が合同して連邦化し南アフリカ連邦が成立した。これらの自治領とイギリスとの間には1887年から協議機関として植民地会議が開催されていたが、1907年にはこれは帝国会議と改称され、帝国会議に出席できる自治領は「植民地」(Colony)ではなく「ドミニオン」(Dominion)と呼称するようになった。この動きの中で、1911年にはオーストラリアとカナダが独自の海軍創設を認められるなど、自治領諸国は自立の動きを強めていった。
こうした動きは第一次世界大戦においてより強まった。この大戦にはすべてのドミニオン・植民地が参戦したが、オーストラリアで1916年に徴兵制導入が拒否されたり[9]、ボーア戦争以来反英感情のくすぶる南アフリカにおいては1914年にボーア人によるマリッツ反乱が起きるなど、各ドミニオンにおいてイギリスからの自立を目指す動きが活発化した。この動きが最も激しかったのはイギリス本国に組み込まれていたアイルランドであり、1919年にはついにアイルランド独立戦争が勃発し、1921年にはアイルランド自由国としてドミニオンの地位を獲得した。こうしたなか、各植民地の協力を得るためにイギリス本国はさらに融和的な姿勢を取るようになり、1917年には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約が1919年に締結された際には各ドミニオンの代表は出席を許され、国際連盟の委任統治領としてオーストラリアがニューギニアを、南アフリカが南西アフリカを、ニュージーランドが西サモアをそれぞれ本国とは別に獲得し、連盟にもそれぞれ加盟を許された[10]。こうして、各ドミニオンはすでに実質的には独立国と変わりないものとなっていった。
第一次世界大戦後、イギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、それにともない各ドミニオンはさらに独立傾向を強めていき、1926年の帝国会議では特に反英感情に強かったアイルランド自由国とアフリカーナー主体の南アフリカ連邦がついに帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、これを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定されることとなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章である[11]。
始まり
1931年、イギリス議会におけるウェストミンスター憲章(英: Statute of Westminster)において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国(のちに脱退)、カナダ、ニューファンドランド(のちにカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦をメンバーとして発足した[12]。この時点では旧来のドミニオンの連合に過ぎず、白人自治領の連合体としての性格を持っていた。また、この時点においては旧来のイギリス帝国はいまだ存続しており、帝国とコモンウェルスが併存する体制を取っていた[13]。
ブロック経済化とその崩壊
成立期は、ブロック経済としての側面を強める傾向にあった。1929年に始まった世界恐慌はコモンウェルスにも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは従来取っていた自由貿易主義を放棄し、他国からの輸入に関税をかけた一方で、コモンウェルス内においては1932年のオタワ協定において相互に関税率を引き下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによってポンド圏(スターリング・ブロック)が成立した[14]。ただし、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダはこのブロックには加入していなかった[15]。逆にイギリスと非常に強い経済関係にあったアルゼンチンはこのブロックに加入する[16]など、コモンウェルスとスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していたわけではない。この帝国特恵関税およびスターリング・ブロックは第二次世界大戦中に崩壊し[17]、以後コモンウェルスが経済ブロック化することはなかった。
非同君連合化
第二次世界大戦後、1947年にインドおよびパキスタンが独立したことで白人連合としての性格が消滅した。さらにこの独立の際にインドは近日中に制定される予定の憲法において共和制を取ることを表明し、なおかつその後もコモンウェルスにとどまることを希望した。この要望は受け入れられ、1950年にインドが共和制をとった後も残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった[18]。こうして、同君連合である英連邦王国とコモンウェルスが制度的に分離した。これにより、政治体制にかかわらずイギリスから新たに独立した国家がコモンウェルスにとどまることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった[19]。一方で、1947年には当時まだ形式上は同君連合である印パ両国が第一次印パ戦争に至るなど、連邦や同君連合の拘束力の形骸化も顕わとなった。1949年には、従来の加盟国の中で最も反英的だったアイルランドが脱退した[20]。
独立主権国家連合
戦後、イギリスは海上覇権をほぼ喪失した形となり、1940年代から1950年代にはアジア諸国が次々とイギリスから独立した。1956年に起きたスエズ動乱において、エジプトに軍事介入したイギリスの行動はコモンウェルス内でほとんど支持を得ることができず、さらに戦後の超大国である米ソの反対によって軍事介入自体が失敗に終わった。これによりイギリスの軍事的威信は失墜し、脱植民地化の流れはとどめようのないものとなっていった[21]。イギリスも植民地を独立させたうえでコモンウェルスにとどめて影響力を維持する戦略へと転換し、1960年代にはアフリカ諸国が次々とイギリスから独立した。こうした新独立国のほとんどはコモンウェルスにとどまった。
一方で、1961年には創設時からの加盟国であった南アフリカ共和国が脱退した。南アフリカは1961年に国民投票を行って英連邦王国から共和制を取ることとなったが、共和制でも加盟はできるため、南アフリカ政府は当初は脱退する意向は持っていなかった。しかしいまや有色人種国家が多数を占めるコモンウェルスにおいて南アフリカのアパルトヘイト政策への批判が噴出し、これで態度を硬化させた南アフリカが脱退を通告した[22]。こうした流れは、1964年に起きたローデシア問題においてよりいっそう明確なものとなった。1923年以降広範な自治権をもっていた南ローデシアはコモンウェルスの準加盟国に近い立場にあったが、その後身であるローデシア・ニヤサランド連邦が1963年に解体し、そこから独立したマラウイとザンビアが加盟すると、いまだ人種差別主義を取る南ローデシアの完全独立および加盟が焦点となった。コモンウェルス加盟国のほとんどは南ローデシアに対し強硬な姿勢を取り、人種差別が撤廃されない限り独立およびコモンウェルス加盟を認めない立場を取ったため、宗主国であるイギリスもこれを考慮せざるを得なくなった。これに南ローデシア政府は反発し、1965年にはローデシア共和国として一方的に独立を宣言した。この対立は、1980年にローデシアが崩壊し黒人国家であるジンバブエ共和国がコモンウェルスに加盟するまで続いた。
また同じく創設時からの加盟国であるカナダ・オーストラリア・ニュージーランドが軍事および経済においてアメリカ合衆国に依存するようになる一方、新独立国の経済規模は当時まだ大きくなかった。こうした流れの中で、イギリス本国もコモンウェルスよりも、統一化の進むヨーロッパ大陸を志向するようになり、1961年には保守党のハロルド・マクミラン政権のもとで欧州経済共同体(EEC)加盟を申請した。この申請はフランスのシャルル・ド・ゴールに拒否されて実現しなかったものの、結局1973年にエドワード・ヒース政権のもとでEEC加盟は実現し、イギリスはコモンウェルスからヨーロッパへと重心を移すこととなった。
事務局創設と首相会議の持ち回り化
創設時のコモンウェルスにおける事務は1926年に植民地省から分離独立したイギリス政府内の自治領省が担っていた。自治領省は1947年にコモンウェルス省に改名され、その後も事務を担っていたが、英領植民地の急速な独立とそれによる加盟国の急増によってイギリスの地位は低下し、ガーナのクワメ・エンクルマなどによってイギリス政府からの事務の独立が要求されることになった。こうして1965年にコモンウェルスの独立事務局が創設され、コモンウェルスはイギリス政府から独立した機構となった[23]。さらにそれまでロンドンにおいて行われていたコモンウェルスの首相会議が1966年にはナイジェリアのラゴスにおいて開催された。1971年には首相会議がシンガポールで行われ、これ以降会議はイギリス本国での開催から加盟国間における持ち回りでの開催となった[24]。
1971年に発せられたシンガポール宣言において、コモンウェルスは「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(連邦国家ではない)。1970年代から1980年代には残されたイギリス植民地のほとんどが独立し、コモンウェルス加盟国家となった。1994年にはアパルトヘイトを撤廃した南アフリカが再加盟した。
1995年、旧イギリス領または旧ドミニオン諸国領以外のはじめての加盟国としてモザンビーク(旧ポルトガル領)の加盟が承認され、コモンウェルスは旧英領以外にも加盟国の範囲を広げることとなった。さらに、ルワンダ紛争による新政権樹立を経て親フランスから親英米へと外交方針を転換したルワンダ(旧ドイツ帝国領→ベルギー委任・信託統治領)が2009年に加盟した。この前年にルワンダは、ルワンダ語やフランス語に加えて新たに英語を公用語としている。
制度
コモンウェルスは独立した事務局および各種機関を備えており、それらの多くはロンドンのマールボロ・ハウスにおかれている。
高等弁務官
加盟国同士では、通常の国対国のように特命全権大使を交換せず、「高等弁務官」を外交使節長として、大使館のかわりに高等弁務官事務所を置いている。これは、大使が国家元首の代理、およびその大使の駐在先を大使館として呼ぶことが、各国の国家元首が同一人物たる同君連合にあたる諸国間では不適当であったためだが、加盟国の中でイギリス国王を君主・元首としなくなった国においても、伝統的にこの名称が使われている。
市民権
イギリスは加盟国国民に国政および地方選挙における選挙権および被選挙権を認めている。また加盟国国民には査証発給(免除)やワーキング・ホリデーに関する優遇措置がある。さらに自国の在外公館が置かれていないコモンウェルス外の国において、イギリスの在外公館による援護を受けることができる。これらの特典はコモンウェルス市民権(英: Commonwealth Citizenship)と称される。この市民権は旧来の「イギリス帝国臣民」に対応するもので、1948年のイギリス国籍法において制定された[25]。ただし市民権は互恵的なものではなく、加盟国国民に対する待遇は加盟国によってまちまちである。
コモンウェルス首脳会議
年 | 開催日 | 国 | 開催都市 | リトリート(会議合宿) | 議長 |
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1971年 | 1月14-22日 | シンガポール | シンガポール | なし | リー・クアンユー |
1973年 | 8月2-10日 | カナダ | オタワ | モントランブラン | ピエール・トルドー |
1975年 | 4月29日-5月6日 | ジャマイカ | キングストン | なし | マイケル・マンリー |
1977年 | 6月8-15日 | イングランド | ロンドン | グレンイーグルス・ホテル | ジェームズ・キャラハン |
1979年 | 8月1-7日 | ザンビア | ルサカ | ルサカ | ケネス・カウンダ |
1981年 | 9月30日-10月7日 | オーストラリア | メルボルン | キャンベラ | マルコム・フレーザー |
1983年 | 11月23-29日 | インド | ニューデリー | ゴア | インディラ・ガンディー |
1985年 | 10月16-22日 | バハマ | ナッソー | Lyford Cay | リンドン・ピンドリング |
1986年 | 8月3-5日 | イングランド | ロンドン | なし | マーガレット・サッチャー |
1987年 | 10月13-17日 | カナダ | バンクーバー | オカナガン | ブライアン・マルルーニー |
1989年 | 10月18-24日 | マレーシア | クアラルンプール | ランカウイ | マハティール・ビン・モハマド |
1991年 | 10月16-21日 | ジンバブエ | ハラレ | ヴィクトリアフォールズ | ロバート・ムガベ |
1993年 | 10月21-25日 | キプロス | リマソール | なし | グラフコス・クレリデス |
1995年 | 11月10-13日 | ニュージーランド | オークランド | ミルブルック | ジム・ボルジャー |
1997年 | 10月24-27日 | スコットランド | エディンバラ | セント・アンドリュース | トニー・ブレア |
1999年 | 11月12-14日 | 南アフリカ共和国 | ダーバン | ジョージ | ターボ・ムベキ |
2002年 | 3月2-5日 | オーストラリア | クーラム | なし | ジョン・ハワード |
2003年 | 12月5-8日 | ナイジェリア | アブジャ | Aso Rock | オルセグン・オバサンジョ |
2005年 | 11月25-27日 | マルタ | バレッタ | メリッハ | ローレンス・ゴンズィ |
2007年 | 11月23-25日 | ウガンダ | カンパラ | Munyonyo | ヨウェリ・ムセベニ |
2009年 | 11月27-29日 | トリニダード・トバゴ | ポートオブスペイン | Laventille Heights | パトリック・マニング |
2011年 | 10月28-30日 | オーストラリア | パース | キングスパーク | ジュリア・ギラード |
2013年 | 11月15-17日 | スリランカ | コロンボ | スリジャヤワルダナプラコッテ | マヒンダ・ラージャパクサ |
2015年 | 11月27-29日 | マルタ | バレッタ; メリッハ | Fort St Angelo | ジョゼフ・ムスカット |
2018年 | 4月19-21日 | イングランド | ロンドン; ウィンザー | ウィンザー城 | テリーザ・メイ |
2020年 | 6月22-27日 | ルワンダ | キガリ | en:Kigali Convention Centre | ポール・カガメ |
2022年 | 未定 | 未定 | 未定 | 未定 | 未定 |
加盟国の政府の長(首相または大統領)は2年に1度、西暦の奇数年に会議を行う。開催地は1971年以降、加盟各国による持ち回りとなっている。 前身は以下のとおり[27]。
- 1887年 - 1909年: 植民地会議(英: Colonial Conference)
- 1911年 - 1937年: 帝国会議(英: Imperial Conference)
- 1944年 - 1966年: 英連邦首相会議(英: Commonwealth Prime Ministers Meeting)(ほぼ毎年)
- 1971年 - : 英連邦首脳会議(英: en:Commonwealth Heads of Government Meeting、CHOGM)
加盟国の国家元首
加盟国には、国家元首として独自の大統領や君主を置く国と、イギリス国王(現在は女王エリザベス2世)を元首たる国王とする国(英連邦王国)とがある。後者では、国王から任命された総督が国王の役割を代行しているが、現代では総督は実質的には首相による指名制とする場合が多い。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどがこの事例に含まれる(詳細は現在の英連邦王国を参照)。
文化・国内制度
共通語としての英語
モザンビーク(旧ポルトガル領、公用語はポルトガル語)を除くほとんどの国では、英語を公用語かそれに準じる言語としている。ルワンダはベルギー統治時代以降、ベルギーの主要公用語であったフランス語を第二公用語としてきたが、親仏(および旧フランス植民地)的な政府が打倒されたルワンダ紛争後は、英語が公用語に追加された。
教育
イギリスの旧植民地やコモンウェルス加盟国は、統治時代に英語教育と共に導入されたイングランド式の教育制度を独立後もそのまま引き継いだり、一部を変更して継続する国が多い。資格制度においてもイギリスの制度設計が導入されていることが多い。
このためイギリスへの留学時に優遇される措置や、本国での資格を有していればイギリスで同じ資格を取得する際に試験の一部が免除されるなどの共通化制度がある。
法と政治の制度
イングランドに倣いコモン・ロー(英米法)を導入した国が多い。ただし、コモン・ローは土着の慣行を柱とする法体系でもあるため、それ以前から大陸法が根付いていた地域(南アフリカ共和国など)では大陸法ないし大陸法的な要素が取り入れられている。ウェストミンスター・システムを採用する国も多いが、これにもナイジェリアのような例外もある。
人権尊重と法の支配が求められ、これらに対して重大な侵害があるという理由で資格停止とされる国もある。
交通
世界的には右側通行が多くを占めているが、コモンウェルスやイギリスの影響が強い国では左側通行が大半を占める(それ以外では日本やタイ、インドネシアなど)。また2階建てバスの運行さらにイギリス本国との航空便数が多かったり、フラッグキャリアの唯一の長距離国際線がロンドンと首都を結ぶ便でことであることも多い(ロイヤルブルネイ航空やビーマン・バングラデシュ航空など)。
生活・スポーツ
加盟国や旧加盟国ではイギリス本国の影響で、食文化では紅茶を飲む習慣など、元々現地には無かった文化や風習が導入され定着している。またイギリス英語が定着している国が殆どである。
スポーツではラグビーやクリケット、ポロやモータースポーツなどが盛んな国が多い。1930年以降、4年に1回コモンウェルスゲームズと呼ばれる、加盟国による総合競技大会も行われている[28]。
加盟国の一覧
現在の加盟国
英連邦王国は太字で記載。
国 | 最初の加盟日 | 領域 | 備考[A] |
---|---|---|---|
アンティグア・バーブーダ | 1981年11月1日 | カリブ海・南北アメリカ | |
オーストラリア | 1926年11月19日 | 大洋州 | |
バハマ | 1973年7月10日 | カリブ海・南北アメリカ | |
バングラデシュ | 1972年4月18日 | アジア | |
バルバドス | 1966年11月30日 | カリブ海・南北アメリカ | 2021年11月30日までにエリザベス2世を国家元首から外し、共和制となることが決まっている[29]。 |
ベリーズ | 1981年9月21日 | カリブ海・南北アメリカ | |
ボツワナ | 1966年9月30日 | アフリカ | |
ブルネイ | 1984年1月1日 | アジア | |
カメルーン | 1995年11月13日 | アフリカ | |
カナダ | 1926年11月19日 | カリブ海・南北アメリカ | |
キプロス | 1961年3月13日 | ヨーロッパ | |
ドミニカ国 | 1978年11月3日 | カリブ海・南北アメリカ | |
エスワティニ | 1968年9月6日 | アフリカ | 当初「スワジランド」として加盟していたが、2018年に現名称に改名。 |
フィジー | 1970年10月10日 | 大洋州 | クーデターにより1987年に脱退。1997年の改正憲法公布により再加盟。 2000年に軍の戒厳令により加盟停止[30]。2001年に総選挙を実施して加盟停止解除[31]。 2006年に再びクーデターが発生し、加盟停止[32][33]。2014年に停止処分解除。 |
ガンビア | 1965年2月18日 | アフリカ | 新植民地主義を理由に2013年に脱退[34][35]。 2018年に再加盟申請を提出し、再加盟[36][37]。 |
ガーナ | 1957年3月6日 | アフリカ | |
グレナダ | 1974年2月7日 | カリブ海・南北アメリカ | |
ガイアナ | 1966年5月26日 | アメリカ | |
インド | 1947年8月15日 | アジア | |
ジャマイカ | 1962年8月6日 | カリブ海・南北アメリカ | |
ケニア | 1963年12月12日 | アフリカ | |
キリバス | 1979年7月12日 | 大洋州 | |
レソト | 1966年10月4日 | アフリカ | |
マラウイ | 1964年7月6日 | アフリカ | |
マレーシア | 1957年8月31日 | アジア | 1957年の加盟当時は「マラヤ連邦」。 |
モルディブ | 1982年7月9日 | アジア | |
マルタ | 1964年9月21日 | ヨーロッパ | |
モーリシャス | 1968年3月12日 | アフリカ | |
モザンビーク | 1995年11月13日 | アフリカ | 1975年にポルトガルから独立。イギリス領となった経験のない最初の加盟国[38]。 |
ナミビア | 1990年3月21日 | アフリカ | |
ナウル | 1968年11月1日 | 大洋州 | 1968年にオーストラリア・ニュージーランド・イギリスの共同信託統治から独立。 加盟時は特別加盟国だったが、1999年に正加盟国に昇格[33]。 2006年に特別加盟国に戻った[34]が、2011年に再び正加盟国となった[39]。 |
ニュージーランド | 1926年11月19日 | 大洋州 | |
ナイジェリア | 1960年10月1日 | アフリカ | クーデターにより1995年に加盟停止、1999年に停止解除[36]。 |
パキスタン | 1947年8月14日 | アジア | 1972年に脱退、1989年に再加盟。 クーデターにより1999年に加盟停止、2004年に加盟停止解除。 2007年に再び加盟停止[40]、2008年に加盟停止解除[41]。 |
パプアニューギニア | 1975年9月16日 | 大洋州 | |
ルワンダ | 2009年11月29日 | アフリカ | 1962年にベルギーから独立。 |
セントクリストファー・ネイビス | 1983年9月19日 | 大洋州 | |
セントルシア | 1979年2月22日 | カリブ海・南北アメリカ | |
セントビンセント・グレナディーン | 1979年10月27日 | カリブ海・南北アメリカ | 1979年から1985年まで特別加盟国。 |
サモア | 1970年8月28日 | 大洋州 | 当初「西サモア」として加盟していたが、1997年に現名称に改名[42]。 |
セーシェル | 1976年6月29日 | アフリカ | |
シエラレオネ | 1961年4月27日 | アフリカ | |
シンガポール | 1966年8月9日[43] | アジア | 1963年にマレーシア連邦に加盟し資格消滅。1965年に独立し、資格回復[44]。 |
ソロモン諸島 | 1978年7月7日 | 大洋州 | |
南アフリカ | 1926年11月19日 | アフリカ | 1961年にアパルトヘイトへの批判に対抗して脱退、1994年に再加盟[45]。 |
スリランカ | 1948年2月4日 | アジア | 当初「セイロン」として加盟していたが、1972年に現名称に改名した。 |
タンザニア | 1961年12月9日 | アフリカ | 1964年にタンガニーカとザンジバルが合併[46]。 |
トンガ | 1970年6月4日 | 大洋州 | |
トリニダード・トバゴ | 1962年8月31日 | カリブ海・南北アメリカ | |
ツバル | 1978年10月1日 | 大洋州 | 1978年から2000年まで特別加盟国[47]。 |
ウガンダ | 1962年10月9日 | アフリカ | |
イギリス | 1926年11月19日 | ヨーロッパ | |
バヌアツ | 1980年7月30日 | 大洋州 | フランスとイギリスの共同統治(コンドミニアム)から独立。 |
ザンビア | 1964年10月24日 | アフリカ |
脱退した国
国名 | 加盟日 | 脱退日 | 備考 |
---|---|---|---|
エール | 1926年11月19日 | 1949年4月18日 | 1948年にアイルランド共和国法を可決した後に脱退。 |
ジンバブエ | 1980年10月1日 | 2003年12月7日 | 土地没収政策により2002年に加盟停止[48]、2003年に脱退[49]。 2018年にムナンガグワ大統領が再加盟を申請した。 |
消滅した国・自治領
旧国名 | 加盟日 | 消滅日 | 備考 |
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ニューファンドランド | 1926年11月19日 | 1949年3月31日 | 1934年2月16日に政府停止、1949年3月31日にカナダに合併[50]。 |
ローデシア・ニヤサランド連邦 | 1953年8月1日 | 1963年12月31日 | 1963年に3つの植民地に再分割され資格消滅。現在のマラウイ、ザンビア、ローデシア。 |
マラヤ | 1957年8月31日 | 1963年7月31日 | 1963年にシンガポール、北ボルネオ、サラワクを加えてマレーシア連邦を結成。 |
西インド連邦 | 1958年 | 1962年 | 1963年に12の植民地に分割され資格消滅。 |
タンガニーカ | 1961年12月9日 | 1964年4月26日 | 1964年4月26日にタンザニアと合併[51]。 |
ザンジバル | 1963年12月10日 |
加盟申請中(加盟経験なし)
国 | 申請年 | 備考 |
---|---|---|
南スーダン | 2011年 | 1956年にスーダンの一部としてイギリスから独立。2011年にスーダンから独立し、まもなく加盟を申請[52]。 |
スリナム | 2012年 | 17世紀から19世紀までイギリスの支配下にあった。2012年にコモンウェルスに加盟する計画を発表した[53]。 |
ブルンジ | 2013年 |
脚注
- ^ “BBC News – Profile: The Commonwealth”. (2012年2月)
- ^ “About us”. The Commonwealth. 2013年10月3日閲覧。
- ^ 小川浩之「「新コモンウェルス」と南アフリカ共和国の脱退 (一九六一年) -拡大と制度変化-」『国際政治』第2004巻第136号、日本国際政治学会、2004年、79-96,L10、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.136_79、2020年6月1日閲覧。
- ^ 大阪大学大学院 文学研究科 藤川研究室 (2011年). “Commonwealth of Nations”. 大阪大学大学院文学研究科・文学部 西洋史学研究室. 2020年5月30日閲覧。
- ^ “The Commonwealth”. The Commonwealth. 2010年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月30日閲覧。
- ^ “Imperial Conference 1926 Inter-Imperial Relations Committee Report, Proceedings and Memoranda” (1926年11月). 2018年6月14日閲覧。 “Their position and mutual relation may be readily defined. They are autonomous Communities within the British Empire, equal in status, in no way subordinate one to another in any aspect of their domestic or external affairs, though united by a common allegiance to the Crown, and freely associated as members of the British Commonwealth of Nations.”
- ^ “The London Declaration”. The Commonwealth. 2010年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月4日閲覧。
- ^ “Charter of the Commonwealth”. The Commonwealth. 2013年6月30日閲覧。
- ^ 『西洋の歴史――近現代編』p248 大下尚一・服部春彦・望田幸男・西川正雄編(ミネルヴァ書房, 1988年)
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p201 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p202 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ レナード・トンプソン 『南アフリカの歴史』p480 宮本正興・峯陽一・吉国恒雄訳、明石書店、1995年6月、新訂増補版第1刷。ISBN 4-7503-0699-1
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p202 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p207 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p210 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p209-210 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p223 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 「世界民族問題事典」(新訂増補)p440 平凡社 2002年11月25日新訂増補第1刷
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p234 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 「イギリス史10講」p281 近藤和彦 岩波書店 2013年12月20日第1刷発行
- ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p242 秋田茂(中公新書, 2012年)
- ^ 「南部アフリカ政治経済論」p119 林晃史 アジア経済研究所 1999年4月15日
- ^ 「二〇世紀後半のコモンウェルス 新しい統合の展望」p140 旦祐介:「現代世界とイギリス帝国」(イギリス帝国と20世紀第5巻)所収 ミネルヴァ書房 2007年6月30日初版第1刷
- ^ 「二〇世紀後半のコモンウェルス 新しい統合の展望」p144 旦祐介:「現代世界とイギリス帝国」(イギリス帝国と20世紀第5巻)所収 ミネルヴァ書房 2007年6月30日初版第1刷
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- ^ South Sudan on Track to Join Commonwealth.
- ^ Staff Writer. “Suriname eying membership of Commonwealth”. Stabroek News. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
関連項目
外部リンク
- 公式ウェブサイト (英語)
- イギリス連邦 (commonwealthsec) - Facebook (英語)
- イギリス連邦 (@commonwealthsec) - X(旧Twitter) (英語)
- コモンウェルス制裁の正当性について (最近の研究)(英語)