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「アルメニア・ソビエト社会主義共和国」の版間の差分

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|日本語国名 = アルメニア・ソビエト社会主義共和国
|日本語国名 = アルメニア・ソビエト社会主義共和国
|公式国名 = '''{{Lang|hy|Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն}}'''<br /><small>(アルメニア語)</small><br />'''{{Lang|ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}}'''<br /><small>(ロシア語)</small>
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|亡国時期 = 1991年
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|先代1 = アルメニア民主共和国
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|標語追記 = <br >([[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者よ、団結せよ!]])
|国歌 = アルメニア・ソビエト社会主義共和国国歌
|国歌 = {{仮リンク|アルメニア・ソビエト社会主義共和国家|label=アルメニア・ソビエト社会主義共和国賛|en|Anthem of the Armenian Soviet Socialist Republic}}
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|位置画像説明 = ザカフカスでのアルメニア・ソビエトの位置(中央下)
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|首都 = [[エレバン|エレヴァン]]
|首都 = [[エレバン]]
|元首等肩書 = [[アルメニアの大統領一覧|アルメニア共産党第一書記]]
|元首等年代始1 = 1991年
|元首等肩書 = アルメニア共産党第一書記
|元首等年代1 = 1991
|元首等年代1 = 192012月
|元首等年代終1 = [[1921年]]4月
|元首等氏名1 = [[:en:Aram Gasparovich Sarkisyan|アラム・ガスパロヴィチ・サルキシャン]]
|元首等氏名1 = ゲヴォルク・アリハニャン([[:ru:Алиханян, Геворк Саркисович|ru]])
|首相等肩書 = [[:en:Prime Minister of Armenia|首相]]
|首等年代始1 = 1990
|首等年代始2 = [[1991]]5月14日
|首等年代終1 = 1991年
|首等年代終2 = 1991年9月7日
|元首等氏名2 = {{仮リンク|アラム・サルキシャン|ru|Саркисян, Арам Завенович}}
|首相等氏名1 = [[:en:Vazgen Manukyan|ヴァズゲン・ミハイロヴィチ・マヌキャン]]
|首相等肩書 = [[人民委員会議議長]]([[1946年]]から[[閣僚評議会議長]])
|面積測定時期1 = 1989年
|首相等年代始1 = [[1922年]]5月21日
|首相等年代終1 = [[1925年]]6月24日
|首相等氏名1 = セルゲイ・ルカシン([[:ru:Лукашин, Сергей Лукьянович|ru]])
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|首相等年代終2 = 1991年9月23日
|首相等氏名2 = [[ワズゲン・マヌキャン]]
|面積測定時期1 = [[1989年]]
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|人口測定時期1 = 1989年
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|人口測定時期1 = 1920年
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|人口値2 = 3,287,700
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|通貨 = [[ソビエト連邦ルーブル]]
|変遷1 = ソビエト
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|変遷2 = [[ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国]]を構成
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|変遷3 = ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国から分離
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|注記 = 註1 : [[首相]]の肩書は[[1946年]]までは[[人民委員会議議長]]、それ以降は[[閣僚評議会議長]]である。
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'''アルメニア・ソビエト社会主義共和国'''(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、{{翻字併記|hy|'''Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն'''|''Haykakan Sovetakan Soc’ialistakan Hanrapetut’yun''}}; {{翻字併記|ru|'''Армянская Советская Социалистическая Республика'''|''Armjanskaja Sovetskaja Sotsialističeskaja Respublika''}})は、[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連]]の構成共和国の
'''アルメニア・ソビエト社会主義共和国'''(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、'''{{lang-hy|Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն}}''''''{{lang-ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}}''')は、[[ソビエト]]体制としては[[1920年]]に成立した[[社会主義国家]]である。[[1922年]]に[[グルジア]]、[[アゼルバイジャン]]とともに[[ソビエト連邦構成共和国]]となり、[[1936年]]にその2国と分離してからは[[1991年]]の[[ソ崩壊]]まで存在した。[[アルメニア民主共和国|アルメニア第一共和国]]と対比から'''アルメニア第二共和国'''と呼ばれることもある。{{仮リンク|アルメニア歴史|label=アルメニア史|fr|Histoire de l'Arménie}}においては、それまで[[農業国]]だった[[アルメニア]]が[[工業国]]への転換を果たした時代でもある。ソ連から独立を宣言したのは1991年のこだが、[[1995年]]の{{仮リンク|アルメニアの憲法|label=憲法|fr|Constitution de la République d'Arménie}}改正まではソビエト国家の機構を保持したままだった

== 歴史 ==
=== ソビエト化 ===
{{see also|アルメニア民主共和国}}
[[File:11thRedArmyYerevan.jpg|thumb|left|240px|エレバンに侵攻する{{仮リンク|赤軍第11軍|ru|11-я армия (СССР)}}(1920年)]]
[[1828年]]から[[1917年]]の[[十月革命]]に至るまで、[[アルメニア]]は{{仮リンク|エレバン県|ru|Эриванская губерния}}として[[ロシア帝国]]の一部に組み込まれていた。革命後、[[ボリシェヴィキ]]指導者の[[ウラジーミル・レーニン]]は、帝国内の[[少数民族]]は[[自決権]]を求めることができると発表した。やがてロシア帝国が崩壊すると、翌[[1918年]]5月にアルメニア、そして隣国の[[グルジア]]と[[アゼルバイジャン]]は各々で共和国の独立を宣言した<ref>{{lang|en|The full history of the Armenian republic is covered by Richard G. Hovannisian, ''Republic of Armenia''. 4 vols. Berkeley: University of California Press, 1971-1996.}} {{en icon}}</ref>。しかし、この新たな独立国家[[アルメニア民主共和国]](第一共和国)も、{{仮リンク|トルコ・アルメニア戦争|es|Guerra turco-armenia}}で疲弊したところを[[赤軍]]に侵攻され、短期間のうちに[[共産主義]]勢力へ権力を移譲した。[[エレバン]]に暫定軍事革命員会が発足したのは、[[1920年]]12月3日午前0時のことである(この委員会は5人の[[共産主義者]]と2人の左派[[ダシナク党|ダシナク党員]]から成っていた)<ref>中島、バグダサリヤン(2009) 93頁</ref>。続く[[1921年]]から翌年までに1400人の元第一共和国軍将校が逮捕され、[[リャザン]]へ送られた<ref name="Melkonian6">{{lang|en|Melkonian, Eduard.}} [http://www.laender-analysen.de/cad/pdf/CaucasusAnalyticalDigest22.pdf {{lang|en|"Repressions in 1930s Soviet Armenia," ''Caucasus Analytical Digest No. 22''}}] {{lang|de|Zürich: Heinrich Böll Stiftung, 2010, p. 6.}} {{en icon}}</ref>。

1921年、[[オスマン帝国]]の後を継いだ[[トルコ共和国]]とアルメニア、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア]]、[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]の各[[ソビエト]]共和国の間で{{仮リンク|カルス条約|en|Treaty of Kars}}が結ばれ、これによってトルコは[[アジャリア]]を手放す代わりに[[カルス県|カルス地方]]を得ることが定められた<ref name="吉ブ41">吉村(2009) 41-42頁</ref>。この時にトルコ側に割譲された地域の中には、[[中世]]アルメニアの[[首都]]であった{{仮リンク|アニ (カルス県)|label=アニ|en|Ani}}や、[[アルメニア人]]の精神的[[シンボル]]である[[アララト山]]が含まれていた<ref name="吉ブ41"/>。さらにその後、ソ連の民族問題[[人民委員]]であった[[ヨシフ・スターリン]]は[[ナヒチェヴァン自治共和国|ナヒチェヴァン]]と[[ナゴルノ・カラバフ]]をアゼルバイジャンへ割譲すると決定した<ref name="Mato">{{lang|en|{{cite book |last=Matossian |first=Mary Kilbourne |title=The Impact of Soviet Policies in Armenia |publisher=E.J. Brill |location=Leiden |year=1962 |page=30 |isbn=0-8305-0081-2}}}} {{en icon}}</ref>。この二つの地域はどちらも、1920年にボリシェヴィキがアルメニアの領土であると保証していたはずのものだった<ref name="Mato"/><ref>中島、バグダサリヤン(2009) 153頁</ref>。

[[1922年]]3月12日から[[1936年]]12月5日までの間、アルメニアはグルジアとアゼルバイジャンと共に[[ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国]]を構成した。この頃のアルメニア・ソビエトの革命委員会はサルキス・カシヤン([[:ru:Касьян, Саркис Иванович|ru]])やアヴィス・ヌリジャニャン({{lang|hy|Ավիս Նուրիջանյան}})といった、若く経験の浅い急進的共産主義者によって率いられていた。彼らのとった政策は、国家の厳しい情勢や紛争による[[人民]]の疲弊を考慮しない、威圧的な手法によるものだった<ref>{{lang|en|Suny, Ronald Grigor. ''Looking Toward Ararat: Armenia in Modern History''. Bloomington: Indiana University Press, 1993, p. 139.}} {{en icon}}</ref>。アルメニア・ソビエトの歴史家であるバグラット・ボリヤン({{lang|und|Bagrat Bor'ian}})は[[1929年]]に次のように書いている<ref>アレム(1986) 81頁</ref>。
{{quotation|革命委員会は、手加減せず断固として、社会層の区別も無視し、農民の一般的経済状態も、心理状態も考慮することなく、[[徴発]]にとりかかった。徴発は無秩序なやり方で行なわれた。極端な暴力を使って実施されたのである。組織的でなく、方針もなく、国の特殊な条件を考えることなく、革命委員会は徴用人に命令を下し、とくに都市住民への食糧供給と農民の食糧の貯蔵を国有化する命令を発した。混乱したやり方のなかであらゆるものが集められた。軍服、職人の道具、蜜蜂籠、下着類、衣類、家具、等々。}}
地元の[[チェーカー]]によって引き起こされたこのような徴発行動と[[テロ]]に対して、共和国の元指導者たちに率いられたアルメニア人たちは、1921年2月に反乱を起こし、エレバンから共産勢力を一度は追放している<ref name="HU">吉村貴之 「[http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/95/yoshimura.pdf アルメニア民族政党間関係とソヴィエト・アルメニア(1920-23年)]」『東欧・中央ユーラシアの近代とネイションIII』 [[林忠行]]、帯谷知可編、[[北海道大学スラブ研究センター]]〈スラブ研究センター・研究報告シリーズ No.95〉、2004年。 3頁</ref>。しかし、グルジアを支配していた赤軍が呼び戻され、反乱は鎮圧された<ref name="HU"/><ref>{{lang|en|Hovannisian, Richard G. ''Republic of Armenia, Vol. IV: Between Crescent and Sickle, Partition and Sovietization''. Berkeley: University of California Press, 1996, pp. 405-07.}} {{en icon}}</ref> 。

やがて[[モスクワ]]は、それらの強硬な政策が地元住民との乖離を招いていると気付き、よりアルメニア人の心情に通じた経験豊富な穏健派の{{仮リンク|アレクサンドル・ミャスニコフ|ru|Мясников, Александр Фёдорович}}を現地に派遣した。さらに同時期に[[ネップ]]が重なり、アルメニアは相対的に安定した状態となった。この頃のアルメニアはオスマン帝国末期の激動とは対照的な平穏を保ち、人民は中央政府から薬品や食糧などの物資を受け取り、また[[識字率]]にも大幅な向上が見られた<ref>{{lang|en|Matossian. ''Impact of Soviet Policies'', p. 80.}}</ref>。一方で、[[アルメニア使徒教会]]には共産主義の下で苦難の時代が続いた。

=== スターリン時代 ===
[[1924年]]1月にレーニンが死去すると、ソ連の最高権力はスターリンの手に渡った。それに伴い、アルメニアの社会・経済政策も変化を迎えた。[[1936年]]12月、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国はスターリンによって解体され、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの3つの社会主義共和国として分割された<ref>アレム(1986) 86頁</ref>。スターリン支配による25年間でアルメニアの状況は悪化した。工業化と教育政策が厳格に規定され、[[ナショナリズム]]は厳しく抑制された<ref>{{lang|hy|Ամատունի Սասունիկի Վիրաբյան, ''Հայաստանը Ստալինից մինչև Խրուշչով'' ՀՀ ԳԱԱ «Գիտություն» հրատ, 2001.}} {{hy icon}} ISBN 9785808004993</ref>。

教会はアルメニア人虐殺とロシア帝国の[[同化政策]]によりすでに弱体化していたが、スターリンはさらに教会を迫害する措置を講じた<ref>{{lang|en|Matossian. ''Impact of Soviet Policies'', pp. 90-95, 147-151.}}</ref>。[[1920年代]]には教会の[[私有財産]]が没収され、[[司祭]]は迫害を受けた。[[1930年]]には{{仮リンク|アルメニア人ディアスポラ|en|Armenian diaspora}}のいる各国との関係改善のため、一時期教会への弾圧は緩和された<ref>{{lang|en|Matossian. ''Impact of Soviet Policies'', p. 150.}}</ref>。[[1932年]]には{{仮リンク|ホレン1世|hy|Խորեն Ա Տփղիսեցի}}が[[カトリコス]]に叙されている。しかし、[[1930年代]]後半になると教会に対する当局の攻撃は再開され<ref>{{lang|en|Matossian. ''Impact of Soviet Policies'', p. 194.}}</ref>、この年代に{{仮リンク|アルメニア・カトリック教会|en|Armenian Catholic Church}}からの7人と{{仮リンク|アルメニア・プロテスタント教会|ru|Армянская евангелистская церковь}}からの1人を含めた160人以上の司祭が逮捕され、そのうち91人が銃殺された<ref name="Melkonian8">{{lang|en|Melkonian. "Repressions in 1930s Soviet Armenia," p. 8.}}</ref>。[[1938年]]4月6日に[[大粛清]]の一環としてホレン1世が殺害され、8月4日に[[エチミアジン]]の総本山が閉鎖されたことで、弾圧は頂点に達した。だが、教会は地下へ潜伏し、あるいは[[ディアスポラ]]の間に信仰を伝えることで命脈を保った<ref name="Bauer">{{lang|en|Bauer-Manndorff, Elisabeth (1981). ''Armenia: Past and Present''. New York: Armenian Prelacy, p. 178.}} {{en icon}}</ref>。

大粛清は教会のみならず、共産党員に対しても犠牲をもたらした。[[1937年]]9月、スターリンはアルメニア人の中央政治局員[[アナスタス・ミコヤン]]の忠誠心を試すために、300人の名前の入ったリストを持たせ、{{仮リンク|オールド・ボリシェヴィキ|ru|Старые большевики}}が中核をなしていたアルメニア共産党([[:en:Communist Party of Armenia (Soviet Union)|en]])の人員整理を監督させるためにエレバンへ派遣した<ref name="モンテフィオーリ">モンテフィオーリ(2010) 449頁</ref>。リストに従って党指導者のヴァガルシャク・テル=ヴァガニャン([[:ru:Тер-Ваганян, Вагаршак Арутюнович|ru]])は[[モスクワ裁判]]の最初の被告として処刑され、同じく党幹部のアガシ・ハンジャン([[:ru:Ханджян, Агаси Гевондович|ru]])も中央政治局員[[ラヴレンチー・ベリヤ]]との会見の直後に不審な死を遂げた<ref>モンテフィオーリ(2010) 365頁</ref>。この時、ミコヤンは友人一名の名を粛清リストから削ったが、その友人は見せしめとしてアルメニア共産党でのミコヤンの演説中にベリヤによって逮捕された<ref name="モンテフィオーリ"/>。最終的に千人が逮捕され、その中にはアルメニアの政治局員9人のうちの7人も含まれていた<ref name="モンテフィオーリ"/><ref>{{lang|en|{{cite book | last =Tucker | first = Robert | author =Robert C. Tucker | title = Stalin in Power: The Revolution from Above, 1928-1941 | publisher =W. W. Norton & Company | location= New York | year = 1992 | pages=488–489 | isbn =0-393-30869-3}}}} {{en icon}}</ref> 。その後ベリヤはアルメニアでの自身の影響力を増すために、政治局に贔屓の部下を多く登用した<ref>{{lang|en|Melkonian. "Repressions in 1930s Soviet Armenia," p. 7.}}</ref>。

{{仮リンク|アクセル・バクンツ|hy|Ակսել Բակունց}}や{{仮リンク|エギシェ・チャレンツ|fr|Yéghiché Tcharents}}など、多くの科学者や芸術家も[[亡命]]を余儀なくされるか粛清の対象となった<ref name="Melkonian8"/>。歴史家のアルメナク・マヌキャン({{lang|und|Armenak Manukian}})の推定によれば、1930年から1938年までにアルメニアでは14,904人が大粛清の犠牲となり、うち4,639人が殺害されたという(このうち4,530人は1937年から1938年の間に銃殺された)<ref>{{lang|en|Melkonian. "Repressions in 1930s Soviet Armenia," p. 9.}}</ref>。

<gallery widths="100px">
File:Aghasi Khanjian 1934.jpg|アガシ・ハンジャン<br >1936年、変死
File:Vaganian1925o.jpg|ヴァガルシャク・テル=ヴァガニャン<br >1936年、銃殺
File:Bakunts.png|アクセル・バクンツ<br >1937年、銃殺
File:L Karahan 02.jpg|[[レフ・カラハン]]<br >1937年、銃殺
File:Stamp of USSR 2126.jpg|エギシェ・チャレンツ<br >1937年、獄死
File:MovsesSilikyan.jpeg|{{仮リンク|モフセス・シリキャン|en|Movses Silikyan}}<br >1937年、銃殺
File:Gayk Bzhishkyan.jpg|{{仮リンク|ガヤ・ガイ|ru|Гай, Гая Дмитриевич}}<br >1937年、銃殺
File:Khoren I of Armenia.jpg|ホレン1世<br >1938年、変死
File:Bekzadianyoung.jpg|{{仮リンク|アレクサンドル・ベグザジャン|ru|Бекзадян, Александр Артемьевич}}<br >1938年、銃殺
File:Զապէլ Եսայեան.jpg|{{仮リンク|ザベル・エサヤン|fr|Zabel Essayan}}<br >1943年、収容所で死亡
</gallery>

ソ連の多くの少数民族と同様、アルメニア人も数万人単位で粛清や強制移住の対象とされた。1936年にスターリンとベリヤはアルメニアの人口を70万人まで減らしてグルジアへ併合することを目論んで、アルメニア人を[[シベリア]]へ追放した<ref name="Bauer"/>。[[1944年]]には、およそ20万人の[[ヘムシン人]]がグルジアから[[カザフスタン]]や[[ウズベキスタン]]へ移住させられた。[[1948年]]には[[ギリシャ人]]とダシナク党の支持者5万8千人が沿海地域からカザフスタンへ移住させられている<ref>{{lang|en|{{cite web | url= http://www.usanogh.com/content/view/418/93/ |title= Hamshenis denied return to Armenian SSR|accessdate=2007-02-06}}}}{{リンク切れ|date=2013年9月}}</ref>。

==== 大祖国戦争期 ====
[[File:ArmenianStamps-066-069.jpg|thumb|right|260px|4人のアルメニア人元帥。左から、<br >[[イワン・バグラミャン]]、<br >[[イワン・イサコフ]]、<br >{{仮リンク|アマザスプ・ババジャニャン|ru|Бабаджанян, Амазасп Хачатурович}}、<br >{{仮リンク|セルゲイ・フジャコフ|ru|Худяков, Сергей Александрович}}。]]
ソ連の西部地域は[[大祖国戦争]]に沿って甚大な被害を受けたが、アルメニアを含めた[[ザカフカス]]は主戦場にならず、破壊と荒廃を免れている<ref>吉村(2006) 128頁</ref>。しかし、アルメニアは食糧、人材、戦争物資の供給地として大きな役割を担った。推定で30万人から50万人のアルメニア人が出征し、そのうち半数が戻らなかった<ref>{{lang|en|{{cite book | last = Walker | first = Christopher J. | author =Christopher J. Walker | title = Armenia The Survival of a Nation, 2nd ed. | publisher = St. Martin's Press | year =1980 | location = New York | pages= 355–356 | isbn = 0-7099-0210-7}}}} {{en icon}}</ref><ref>{{lang|und|Harutyunyan, Kliment.}} {{lang|hy|''Հայ ժողովրդի մասնակցությունը Երկրորդ համաշխարհային պատերազմին (1939-1945 թթ.)'' Հրազդան, 2001.}} {{hy icon}} ISBN 9789993073314</ref>。[[ソ連邦英雄]]の最高位を与えられた者も数多い<ref name="SAE">{{lang|und|Khudaverdyan, Konstantine.}} {{lang|hy|''«Սովետական Միության Հայրենական Մեծ Պատերազմ, 1941-1945»''}} {{lang|en|Armenian Soviet Encyclopedia. Yerevan: Armenian Academy of Sciences, 1984, vol. x, pp. 542-547.}} {{hy icon}}</ref>。60人以上のアルメニア人が[[将校]]となり、最終的に[[元帥]]までなった者も4人いる<ref name="SAE"/>。一方で、ドイツの[[捕虜]]となったアルメニア人の中には収容所でのリスクと引き換えにドイツ軍に仕えることを選んだ者もいた。彼らは戦後、他の多くのソ連兵捕虜と同様にスターリンによってシベリアの[[グラーグ]]へ送られた。

ソ連政府は戦意高揚のために従来のナショナリズムの抑圧政策を転換した。[[アルメニア語]]の小説が再版されるようになり、{{仮リンク|アルメニアの歴史|label=アルメニア史|fr|Histoire de l'Arménie}}の英雄{{仮リンク|ダヴィト・ベク|fr|David Bek}}を扱った映画も1944年に制作されている<ref name="Panossian">{{lang|en|{{cite book | last = Panossian | first = Razmik | title = The Armenians: From Kings And Priests to Merchants And Commissars | publisher =Columbia University Press | location= New York | year = 2006 | pages=351 | isbn =0-231-13926-8}}}} {{en icon}}</ref>。教会に対する規制も一時的に緩和された<ref name="Panossian"/>。[[1945年]]には{{仮リンク|ゲヴォルク6世|hy|Գևորգ Զ Նորնախիջևանցի}}が新たなカトリコスに選出され、エチミアジンへの常駐を許された<ref>{{lang|en|Matossian. ''Impact of Soviet Policies'', pp. 194-195.}}</ref><ref>アレム(1986) 123頁</ref>。

ドイツが降伏すると、アルメニア共産党第一書記のグリゴリ・アルチュノフ({{lang|hy|Գրիգորի Արությունով}})や他のアルメニア人ディアスポラは、かつてカルス条約でトルコに割譲されたカルス地方を取り戻すことを再考するよう、スターリンに働きかけた<ref>{{lang|en|Dekmejian, R. Hrair (1997). "The Armenian Diaspora" in ''The Armenian People from Ancient to Modern Times, Volume II: Foreign Dominion to Statehood: The Fifteenth Century to the Twentieth Century''. Richard G. Hovannisian (ed.) New York: St. Martin's Press, pp. 416-417.}} {{en icon}} ISBN 0-312-10168-6</ref>。1945年3月、ソ連外相[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]は1925年に調印されていたソビエト・トルコ友好条約(期限満了まではまだ8か月あった)の破棄を通告し、トルコに対してカルス地方の返還を要求した<ref name="中397">中島(1990) 397-398頁</ref>。同年秋までにはすでに[[カフカス]]のソ連軍はトルコへの侵攻を目的として編成されたが、これに対してトルコには[[超大国]]と化していたソ連に対抗できるだけの力はなかった。しかし、その後の[[冷戦]]によってトルコが[[NATO]]に加盟すると、[[アメリカ]]の軍事介入を恐れたソ連は[[1953年]]5月にトルコに対する領土の要求を取り下げた<ref name="中397"/><ref>{{lang|en|Krikorian, Robert O. "Kars-Ardahan and Soviet Armenian Irredentism, 1945-1946," in ''Armenian Kars and Ani'', ed. Richard G. Hovannisian. Costa Mesa, CA: Mazda Publishers, 2011, pp. 393-410.}} {{en icon}} ISBN 978-1568591575</ref>。

==== 戦後 ====
スターリンは戦争によって疲弊したアルメニア経済の復興を期待して、アルメニアの人口増大と労働力強化のためにディアスポラを積極的に国内に呼び寄せるキャンペーンを開始した。帰還の費用をソ連政府が負担したために、多くのディアスポラがこれに応え、[[1946年]]から48年までに推定15万人のディアスポラが[[キプロス]]、[[フランス]]、[[ギリシャ]]、[[イラク]]、[[レバノン]]、[[シリア]]などから帰還し、エレバン、[[ギュムリ|レニナカン]]、[[ヴァナゾル|キロヴァカン]]などに定着した<ref>{{lang|en|Dekmejian. "The Armenian Diaspora", p. 416.}}</ref>。彼らには食品券やよい住宅などの優遇措置が与えられたために、在来のアルメニア人との間に衝突がもたらされた<ref name="中401">中島(1990) 401-402頁</ref>。ソ連で話されていた{{仮リンク|東アルメニア語|en|Eastern Armenian}}とは異なる{{仮リンク|西アルメニア語|ru|Западноармянский язык}}を話すディアスポラは、在来のアルメニア人からは「兄弟」({{lang|und|aghbars}})と呼ばれるようになり、当初は冗談交じりに使われていたこの単語は、やがて[[侮蔑語]]へと変わっていった<ref>{{lang|en|Bournoutian, George A. (2006). ''A Concise History of the Armenian People''. Costa Mesa, California: Mazda Publishing, p. 324.}} {{en icon}} ISBN 1-56859-141-1.</ref>。

しかし、ディアスポラに対するソ連政府の扱いが際立ってよかったわけではなかった。1946年に[[オデッサ]]に到着した際に彼らは金やダイヤモンドや布などすべての持ち物を没収され、たとえソ連に失望したとしても国を出ることは許されなかった。元ディアスポラの多くが[[秘密警察]]の監視対象とされ、[[民族主義]]組織との関わりを疑われてシベリアなどの収容所送りとなった<ref>吉村(2006) 129頁</ref>。

=== フルシチョフ・ブレジネフ時代 ===
[[File:Armenian Genocide Memorial - Yerevan (2903020364).jpg|thumb|right|230px|ツィツェルナカベルト(アルメニア人虐殺記念館)。モニュメントは高さ44メートル。]]
1953年にスターリンが世を去り、新たなソ連指導者となった[[ニキータ・フルシチョフ]]は[[1956年]]に[[スターリン批判]]を行い、体制に変化が訪れた。消費財や住宅に重点を置くフルシチョフの政策により、アルメニアは急速に文化的・経済的復興を始めた。教会に対しても僅かに自由が与えられ、[[1955年]]には{{仮リンク|ヴァズゲン1世|ru|Вазген I}}がカトリコスに選出された。

[[1954年]]、ミコヤンはエレバンでの演説でアルメニアの党官僚に批判を加え、{{仮リンク|ラッフィ (作家)|label=ラッフィ|hy|Րաֆֆի}}やチャレンツなどの禁止されていた文学作品の再版を許可し、奨励すると述べた<ref name="中401"/><ref>{{lang|en|Matossian. ''Impact of Soviet Policies'', p. 201.}}</ref>。エレバンにそびえていたスターリン像は[[1962年]]に軍によって一晩で撤去され、その跡には{{仮リンク|アルメニアの母|fr|Mère Arménie}}の像が置かれた<ref>{{lang|en|Suny, Ronald Grigor (1983). ''Armenia in the Twentieth Century''. Chico, CA: Scholars Press, pp. 72-73.}} {{en icon}}</ref>。

[[1964年]]に[[レオニード・ブレジネフ]]が権力を握ると、フルシチョフ時代の改革は停止され、ソ連の製品は質、量ともに不足するようになった。その影響は建材にも表れ、[[1988年]]に[[アルメニア地震]]が発生した際も、破壊されたのはブレジネフ時代に建てられた建造物がそれ以前の時代のものよりも多かった<ref>{{lang|en|{{cite book | last = Bobelian | first = Michael | title = Children of Armenia: A Forgotten Genocide and the Century-long Struggle for Justice | publisher =Simon & Schuster | location= New York | year = 2009 | pages=121ff | isbn =1-4165-5725-3}}}} {{en icon}}</ref>。

ソ連政府はナショナリズムに対する警戒を続けていたが、それでもスターリン時代よりも制限は弱まり、[[1965年]]4月24日には10万人<ref>{{lang|en|{{cite book|last=Shelley|first=Louise I.|title=Policing Soviet society|year=1996|publisher=Routledge|location=New York|isbn=9780415104708|page=183}}}} {{en icon}}</ref><ref>{{lang|en|{{cite book|last=Beissinger|first=Mark R.|title=Nationalist mobilization and the collapse of the Soviet State|year=2002|publisher=Cambridge Univ. Press|location=Cambridge|isbn=9780521001489|page=71}}}} {{en icon}}</ref>のアルメニア人が、[[1915年]]の[[アルメニア人虐殺]]への抗議とオスマン帝国内の歴史的なアルメニア人居住地域(いわゆる{{仮リンク|西アルメニア|en|Western Armenia}})の回復を訴えてエレバンで[[デモ]]を行っている<ref>{{lang|en|{{cite book|last=Cornell|first=Svante E.|title=Small nations and great powers: a study of ethnopolitical conflict in the Caucasus|year=2001|publisher=Curzon|location=Richmond|isbn=9780700711628|page=63}}}} {{en icon}}</ref><ref>{{lang|en|{{cite book|last=Lindy|first=Jacob D.|title=Beyond invisible walls: the psychological legacy of Soviet trauma, East European therapists and their patients|year=2001|publisher=Brunner-Routledge|location=New York|isbn=9781583913185|page=192}}}} {{en icon}}</ref> 。当局はこれを受けて[[1967年]]に虐殺を追悼するモニュメント「{{仮リンク|ツィツェルナカベルト|en|Tsitsernakaberd}}」を、[[1968年]]には50年前の対オスマン戦争での{{仮リンク|サルダラパートの戦い|en|Battle of Sardarabad}}を顕彰するモニュメントを建造した<ref name="中バ106">中島、バグダサリヤン(2009) 106頁</ref>。4月24日は公式に記念日として定められ、この日に行進を行うことも許可されるようになった<ref name="中バ106"/>。

=== ゴルバチョフ時代 ===
[[File:Yerevan-summer88 - 019.jpg|thumb|right|240px|ナゴルノ・カラバフ併合を支持するデモ(1988年、エレバン)]]
[[1980年代]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]によって[[グラスノスチ]]と[[ペレストロイカ]]が導入されると、スターリン時代にカザフスタンに強制移住させられた[[ヘムシン人]]が、アルメニアへの帰還を求めて請願を開始した。しかし、[[イスラム教徒]]である彼らの帰還によって[[キリスト教徒]]のアルメニア人との間に[[民族紛争]]が発生することを恐れたソ連政府は、その要求を拒否した<ref name="Cheterian87">{{lang|en|{{cite book|last = Cheterian|first = Vicken|title = War and Peace in the Caucasus: Russia's Troubled Frontier|publisher =Columbia University Press|location= New York|year = 2009|pages=87–154|isbn =0-231-70064-4}}}} {{en icon}}</ref>。

だが、民族紛争はそれとは別の原因で発生した。かつてボリシェヴィキがアルメニアとの約束を反故にしてアゼルバイジャンへ編入した[[ナゴルノ・カラバフ]]で、そこに住むアルメニア人たちがナゴルノ・カラバフの「アゼルバイジャン化」を懸念し、同地とアルメニアの統合を求める運動を開始した<ref name="Cheterian87"/>。1988年2月20日、{{仮リンク|ナゴルノ・カラバフ自治州 (ソビエト連邦)|ru|Нагорно-Карабахская автономная область}}最高会議は、投票によってアルメニアとの統合に賛意を示した<ref>{{lang|en|{{cite book|last = Kaufman|first = Stuart|title = Modern Hatreds: The Symbolic Politics of Ethnic War|publisher = Cornell Studies in Security Affairs|year = 2001|location = New York|page= 61|isbn = 0-8014-8736-6}}}} {{en icon}}</ref>。ナゴルノ・カラバフのアルメニア人を支援するデモが共産党の制止を無視してエレバンで行われ<ref>吉村貴之 「[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2007_04_11_03.pdf アルメニア再独立期に見るアルメニア本国と在外社会との関係 ―ナゴルノ・カラバフ問題を手がかりに―] 」『調査研究報告書 移住と「帰郷」 ―離散民族と故地―』 岡奈津子編、[[日本貿易振興機構]][[アジア経済研究所]]、2008年。 50頁</ref>、非公認団体の推計で100万人以上がこれに参加した<ref>デューク、カラトニツキー(1995) 230頁</ref>。アゼルバイジャン側もカウンター・デモを奨励した。アルメニア側はゴルバチョフに対してナゴルノ・カラバフの併合を求める請願を行ったが、ゴルバチョフがこれを拒否したために、それまでアルメニア人の間で好意的に見られていたゴルバチョフの評判は下落した<ref>藤野(1991) 198頁</ref>。

さらに、同年12月7日に{{仮リンク|スピタク|hy|Սպիտակ (քաղաք)}}で数万人が死亡するアルメニア地震が発生した際も、中央政府に先んじて救援活動を行ったのが対アゼルバイジャン強硬派の非公認団体「カラバフ委員会」であったため<ref>デューク、カラトニツキー(1995) 225-226頁</ref><ref name="吉ブ53">吉村(2009) 53-54頁</ref>、彼らに対する支持からアゼルバイジャンとの関係も悪化した。ほどなくしてアゼルバイジャンの[[スムガイト]]で多数の死者を出す民族暴動({{仮リンク|スムガイト事件|ru|Сумгаитский погром}})が発生し、これが後のナゴルノ・カラバフ戦争へと繋がってゆく。
{{see also|ナゴルノ・カラバフ戦争}}

=== 独立 ===
ソ連中央政府の威信が低下するなか、[[1989年]]11月末の第29回党大会において、アルメニア共産党は[[ソ連共産党]]からの自立を宣言した<ref name="吉ブ53"/>。同年にはカラバフ委員会を中心として新党「{{仮リンク|アルメニア全国民運動|en|Pan-Armenian National Movement}}」が結成され、[[ソ連憲法]]の改正で導入された[[複数政党制]]に基づく[[1990年]]5月の最高会議選挙で、全国民運動の[[レヴォン・テル=ペトロシャン]]が共産党のウラジーミル・モフセシャン([[:ru:Мовсесян, Владимир Мигранович|ru]])を破って議長に就任した<ref name="吉ブ53"/>。軍事組織も前年には[[ソ連軍]]から独立した活動を行っており、その非公式活動はすでに共産党の手を離れていた<ref>廣瀬(2005) 188頁</ref>。

[[1991年]]2月9日には社会政治団体法によって共産党が事実上非合法化され、同年の[[8月クーデター]]で中央政府の保守派が敗れたことを受け、9月23日、アルメニア最高会議はソビエト連邦からのアルメニアの独立を宣言した<ref name="吉ブ53"/>。

== 政治・経済 ==
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center"
|+ アルメニアの人口推移<ref>[http://bse.sci-lib.com/article071649.html {{lang|ru|Армянская Советская Социалистическая Республика: IV. Население}}] {{ru icon}} - {{lang|ru|[[БСЭ]]}}</ref>
! 年度 !! 総人口 !! 都市人口 !! 農村人口
|-
! 1913年
| 100万人 || 10万4千人 || 89万6千人
|-
! 1920年
| 78万人 || 11万2千人 || 66万8千人
|-
! 1926年
| 88万1千人 || 16万7千人 || 71万4千人
|-
! 1939年
| 128万2千人 || 36万6千人 || 91万6千人
|-
! 1959年
| 176万3千人 || 88万2千人 || 88万1千人
|-
! 1970年
| 249万3千人 || 148万2千人 || 101万1千人
|}
アルメニア・ソビエトも他のソ連の共和国と同様に、政治権力は最高司法府と[[最高裁判所]]を内包するアルメニア最高会議({{lang|hy|Հայկական ՍՍՀ Գերագույն Խորհուրդ}})にあった。この[[一院制]]の最高会議では人民6千人に1人の割合で選ばれた代表が4年の任期を務め、そのうち民族会議には32の代表がいた<ref name="bse">[http://bse.sci-lib.com/article071649.html {{lang|ru|Армянская Советская Социалистическая Республика: II. Государственный строй}}] {{ru icon}} - {{lang|ru|БСЭ}}</ref>。一方、地区市町村の代表の任期は2年間だった<ref name="bse"/>。1936年に[[スターリン憲法]]が制定されてからは、アルメニアでも18歳以上の男女に対して[[普通選挙|普通選挙権]]が与えられたが、代表候補者は共産党などの推薦を受けた者が各選挙区に1人だけ置かれたため、上のような選挙も単なる[[信任投票]]に過ぎなかった<ref>吉村貴之(2011年2月27日) “[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~dbmedm06/me_d13n/database/armenia/democratization.html アルメニア・民主化の経緯]” NIHUプログラム・イスラーム地域研究東京大学拠点 中東・イスラーム諸国の民主化 - 2013年9月16日閲覧。</ref>。

最高裁判所[[裁判官|判事]]は最高会議によって選出され任期は5年間、[[検察官]]はソビエト連邦検事総長([[:ru:Генеральный прокурор СССР|ru]])によって任命され任期は5年間だった<ref name="bse"/>。

[[私有財産]]を禁止するソ連の経済体制に対してはアルメニアの農民が活発な抵抗を繰り返していたが、1929年秋から私有農地の国有化が政府によって開始された<ref name="中バ99">中島、バグダサリヤン(2009) 99-100頁</ref>。同年末に[[コルホーズ]]化されていた農村世帯の割合は3.5パーセントだったが、1936年には80パーセントに<ref name="中バ99"/>、1947年には99.7パーセントに達した<ref name="中バ102">中島、バグダサリヤン(2009) 102-103頁</ref>。同時期には工業化も開始され、工業生産額は[[1940年]]に[[1913年]]の9倍に達し、[[1950年]]には産業総生産額に占める工業総生産額も81パーセントまで上昇した<ref name="中バ102"/>。しかし代償として村落や家族のあり方は破壊され、農村の住民は都市への定住を強制され、民間企業も事実上消滅した<ref>{{lang|en|Matossian. ''Impact of Soviet Policies'', pp. 99-116.}}</ref>。

工業化が進んでからは[[鉱業]]や[[冶金]]が主要産業となり、[[1980年]]の各ソビエト共和国の中でアルメニアの[[モリブデン]]精鉱と[[硫酸銅]]の生産高は2位、製錬[[銅]]の生産高は3位だったが、[[化石燃料]]に関してはほとんどをアゼルバイジャンと[[北カフカス]]からの輸入でまかなっていた<ref name="ГЭ">[http://www.mining-enc.ru/a/armyanskaya-sovetskaya-socialisticheskaya-respublika/ {{lang|ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}}] {{ru icon}} - {{lang|ru|Горная энциклопедия}}</ref>。元来が資源に乏しいアルメニアでは、産業の維持のため中央政府からの[[利益誘導]]が必要となり、見返りとして政治家への[[賄賂]]も横行した<ref>吉村(2006) 130-131頁</ref>。

1980年の国内総発電量は3,516メガワットで、うち[[原子力発電]]が815メガワット、[[水力発電]]が945メガワットだった<ref name="ГЭ"/>。

== 社会 ==
[[File:Namus.jpg|thumb|left|240px|「ナムス」(1925年制作)]]
ソ連において、中央政府は連邦の結束を維持するためにナショナリズムや宗教などの排除に励んだ。初期のソ連の政治家から見て、[[ロシア人]]とともにソ連成立当初からのメンバーである[[ウクライナ人]]、[[ベラルーシ人]]、[[グルジア人]]、[[ドイツ人]]、[[ユダヤ人]]、そしてアルメニア人は、「高度な」民族とし西欧の民族と同列にグループ化された<ref>{{lang|en|Martin, Terry (2001).}} [http://books.google.com/books?id=rdlSX2hsb1kC&pg=PP1&dq=The+Affirmative+Action+Empire {{lang|en|''The Affirmative Action Empire: Nations and Nationalism in the Soviet Union, 1923-1939''}}]{{lang|en|. New York: Cornell University, p. 23.}} {{en icon}} ISBN 0-8014-8677-7.</ref>。また、ソ連の教科書ではカフカス、とりわけアルメニアがソ連の「領土内で最古の文明を持っている」と書かれた<ref>{{lang|en|Panossian. ''The Armenians'', pp. 288-289.}}</ref>。

レーニンの時代にはアルメニアがその政策の影響を受けることは少なかった。しかし、病で衰弱してからのレーニンは共和国の{{仮リンク|コレニザーツィヤ|en|Korenizatsiya}}(民族化政策)や「母語化」を推奨し、さまざまな民族に「彼らの共和国を管理」させるために、現地語の語学学校、新聞、劇場などを造らせた<ref>{{lang|en|Martin, ''The Affirmative Action Empire'', pp. 10-13.}}</ref>。アルメニアでは当局が、50歳までのすべての[[文盲]]の市民に学校に出てアルメニア語を学ぶよう義務付けた。「歴史・言語学ジャーナル」([[:en:Patma-Banasirakan Handes|en]])を始めとしたアルメニア語の新聞や雑誌が多数発行され、1921年にエチミアジンに文化・歴史研究所が、1920年代と[[1930年代|30年代]]には{{仮リンク|エレバン・オペラ劇場|ru|Армянский академический театр оперы и балета им. А. Спендиарова}}が、[[1959年]]には古文書収集所[[マテナダラン]]が設立されている。アルメニア最初の国産映画は[[1925年]]制作の「{{仮リンク|ナムス|en|Namus (film)}}」(「名誉」)で、最初の国産[[トーキー]]は[[1935年]]制作の「{{仮リンク|ペポ|ru|Пэпо}}」である(監督はどちらも{{仮リンク|アモ・ベク=ナザーロフ|ru|Бек-Назаров, Амбарцум Иванович}})<ref>{{lang|en|Suny, "Soviet Armenia," pp. 356-57.}}</ref>。

== 脚注 ==
{{commonscat|Armenian Soviet Socialist Republic}}
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* ジャン=ピエール・アレム 『アルメニア』 [[藤野幸雄]]訳、[[白水社]]〈{{仮リンク|文庫クセジュ|fr|Que sais-je ?}}〉、1986年。 ISBN 978-4560056790
* ナーディア・デューク、エイドリアン・カラトニツキー 『ロシア・ナショナリズムと隠されていた諸民族 ソ連邦解体と民族の解放』 [[田中克彦]]監訳、李守、早稲田みか、大塚隆浩訳、[[明石書店]]、1995年。 ISBN 978-4750306988
* 中島偉晴 『閃光のアルメニア ナゴルノ・カラバフはどこへ』 J. P. P. 神保出版会、1990年。 ISBN 978-4915757037
* 中島偉晴、メラニア・バグダサリヤン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店〈[[エリア・スタディーズ]]〉、2009年。 ISBN 978-4750329895
* [[廣瀬陽子]] 『旧ソ連地域と紛争 石油・民族・テロをめぐる地政学』 [[慶應義塾大学出版会]]、2005年。 ISBN 978-4766411928
* [[藤野幸雄]] 『悲劇のアルメニア』 [[新潮社]]〈[[新潮選書]]〉、1991年。 ISBN 978-4106004056
* [[サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ]] 『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち 上』 染谷徹訳、白水社、2010年。 ISBN 978-4560080450
* 吉村貴之 「ソ連邦の地方か独立王国か――第二次大戦後のコーカサス」『コーカサスを知るための60章』 北川誠一ほか編著、明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2006年。 ISBN 978-4750323015
* 吉村貴之 『アルメニア近現代史 民族自決の果てに』 [[東洋書店]]〈ユーラシア・ブックレットNo.142〉、2009年。 ISBN 978-4885958779


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2013年9月18日 (水) 09:02時点における版

アルメニア・ソビエト社会主義共和国
Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն
Армянская Советская Социалистическая Республика
アルメニア民主共和国 1920年 - 1991年 アルメニア
アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国旗 アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国章
国旗国章
国の標語: Պրոլետարներ բոլոր երկրների, միացե՜ք
万国の労働者よ、団結せよ!
国歌: アルメニア・ソビエト社会主義共和国賛歌英語版
アルメニア・ソビエト社会主義共和国の位置
ザカフカスでのアルメニア・ソビエトの位置(中央下)
公用語 アルメニア語
ロシア語
首都 エレバン
アルメニア共産党第一書記
1920年12月 - 1921年4月 ゲヴォルク・アリハニャン(ru)
1991年5月14日 - 1991年9月7日アラム・サルキシャン
人民委員会議議長1946年から閣僚評議会議長
1922年5月21日 - 1925年6月24日セルゲイ・ルカシン(ru)
1990年8月13日 - 1991年9月23日ワズゲン・マヌキャン
面積
1989年29,800km²
人口
1920年780,000人
1989年3,287,700人
変遷
ソビエト化 1920年12月3日
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を構成1922年3月12日
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国から分離1936年12月5日
ソ連崩壊により独立1991年9月23日
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アルメニア・ソビエト社会主義共和国(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、アルメニア語: Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետությունロシア語: Армянская Советская Социалистическая Республика)は、ソビエト体制としては1920年に成立した社会主義国家である。1922年グルジアアゼルバイジャンとともにソビエト連邦構成共和国となり、1936年にその2国と分離してからは1991年ソ連崩壊まで存在した。アルメニア第一共和国との対比からアルメニア第二共和国と呼ばれることもある。アルメニア史においては、それまで農業国だったアルメニア工業国への転換を果たした時代でもある。ソ連から独立を宣言したのは1991年のことだが、1995年憲法フランス語版改正まではソビエト国家の機構を保持したままだった。

歴史

ソビエト化

エレバンに侵攻する赤軍第11軍ロシア語版(1920年)

1828年から1917年十月革命に至るまで、アルメニアエレバン県ロシア語版としてロシア帝国の一部に組み込まれていた。革命後、ボリシェヴィキ指導者のウラジーミル・レーニンは、帝国内の少数民族自決権を求めることができると発表した。やがてロシア帝国が崩壊すると、翌1918年5月にアルメニア、そして隣国のグルジアアゼルバイジャンは各々で共和国の独立を宣言した[1]。しかし、この新たな独立国家アルメニア民主共和国(第一共和国)も、トルコ・アルメニア戦争で疲弊したところを赤軍に侵攻され、短期間のうちに共産主義勢力へ権力を移譲した。エレバンに暫定軍事革命員会が発足したのは、1920年12月3日午前0時のことである(この委員会は5人の共産主義者と2人の左派ダシナク党員から成っていた)[2]。続く1921年から翌年までに1400人の元第一共和国軍将校が逮捕され、リャザンへ送られた[3]

1921年、オスマン帝国の後を継いだトルコ共和国とアルメニア、グルジアアゼルバイジャンの各ソビエト共和国の間でカルス条約が結ばれ、これによってトルコはアジャリアを手放す代わりにカルス地方を得ることが定められた[4]。この時にトルコ側に割譲された地域の中には、中世アルメニアの首都であったアニ英語版や、アルメニア人の精神的シンボルであるアララト山が含まれていた[4]。さらにその後、ソ連の民族問題人民委員であったヨシフ・スターリンナヒチェヴァンナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャンへ割譲すると決定した[5]。この二つの地域はどちらも、1920年にボリシェヴィキがアルメニアの領土であると保証していたはずのものだった[5][6]

1922年3月12日から1936年12月5日までの間、アルメニアはグルジアとアゼルバイジャンと共にザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を構成した。この頃のアルメニア・ソビエトの革命委員会はサルキス・カシヤン(ru)やアヴィス・ヌリジャニャン(Ավիս Նուրիջանյան)といった、若く経験の浅い急進的共産主義者によって率いられていた。彼らのとった政策は、国家の厳しい情勢や紛争による人民の疲弊を考慮しない、威圧的な手法によるものだった[7]。アルメニア・ソビエトの歴史家であるバグラット・ボリヤン(Bagrat Bor'ian)は1929年に次のように書いている[8]

革命委員会は、手加減せず断固として、社会層の区別も無視し、農民の一般的経済状態も、心理状態も考慮することなく、徴発にとりかかった。徴発は無秩序なやり方で行なわれた。極端な暴力を使って実施されたのである。組織的でなく、方針もなく、国の特殊な条件を考えることなく、革命委員会は徴用人に命令を下し、とくに都市住民への食糧供給と農民の食糧の貯蔵を国有化する命令を発した。混乱したやり方のなかであらゆるものが集められた。軍服、職人の道具、蜜蜂籠、下着類、衣類、家具、等々。

地元のチェーカーによって引き起こされたこのような徴発行動とテロに対して、共和国の元指導者たちに率いられたアルメニア人たちは、1921年2月に反乱を起こし、エレバンから共産勢力を一度は追放している[9]。しかし、グルジアを支配していた赤軍が呼び戻され、反乱は鎮圧された[9][10]

やがてモスクワは、それらの強硬な政策が地元住民との乖離を招いていると気付き、よりアルメニア人の心情に通じた経験豊富な穏健派のアレクサンドル・ミャスニコフを現地に派遣した。さらに同時期にネップが重なり、アルメニアは相対的に安定した状態となった。この頃のアルメニアはオスマン帝国末期の激動とは対照的な平穏を保ち、人民は中央政府から薬品や食糧などの物資を受け取り、また識字率にも大幅な向上が見られた[11]。一方で、アルメニア使徒教会には共産主義の下で苦難の時代が続いた。

スターリン時代

1924年1月にレーニンが死去すると、ソ連の最高権力はスターリンの手に渡った。それに伴い、アルメニアの社会・経済政策も変化を迎えた。1936年12月、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国はスターリンによって解体され、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの3つの社会主義共和国として分割された[12]。スターリン支配による25年間でアルメニアの状況は悪化した。工業化と教育政策が厳格に規定され、ナショナリズムは厳しく抑制された[13]

教会はアルメニア人虐殺とロシア帝国の同化政策によりすでに弱体化していたが、スターリンはさらに教会を迫害する措置を講じた[14]1920年代には教会の私有財産が没収され、司祭は迫害を受けた。1930年にはアルメニア人ディアスポラのいる各国との関係改善のため、一時期教会への弾圧は緩和された[15]1932年にはホレン1世アルメニア語版カトリコスに叙されている。しかし、1930年代後半になると教会に対する当局の攻撃は再開され[16]、この年代にアルメニア・カトリック教会英語版からの7人とアルメニア・プロテスタント教会ロシア語版からの1人を含めた160人以上の司祭が逮捕され、そのうち91人が銃殺された[17]1938年4月6日に大粛清の一環としてホレン1世が殺害され、8月4日にエチミアジンの総本山が閉鎖されたことで、弾圧は頂点に達した。だが、教会は地下へ潜伏し、あるいはディアスポラの間に信仰を伝えることで命脈を保った[18]

大粛清は教会のみならず、共産党員に対しても犠牲をもたらした。1937年9月、スターリンはアルメニア人の中央政治局員アナスタス・ミコヤンの忠誠心を試すために、300人の名前の入ったリストを持たせ、オールド・ボリシェヴィキが中核をなしていたアルメニア共産党(en)の人員整理を監督させるためにエレバンへ派遣した[19]。リストに従って党指導者のヴァガルシャク・テル=ヴァガニャン(ru)はモスクワ裁判の最初の被告として処刑され、同じく党幹部のアガシ・ハンジャン(ru)も中央政治局員ラヴレンチー・ベリヤとの会見の直後に不審な死を遂げた[20]。この時、ミコヤンは友人一名の名を粛清リストから削ったが、その友人は見せしめとしてアルメニア共産党でのミコヤンの演説中にベリヤによって逮捕された[19]。最終的に千人が逮捕され、その中にはアルメニアの政治局員9人のうちの7人も含まれていた[19][21] 。その後ベリヤはアルメニアでの自身の影響力を増すために、政治局に贔屓の部下を多く登用した[22]

アクセル・バクンツアルメニア語版エギシェ・チャレンツフランス語版など、多くの科学者や芸術家も亡命を余儀なくされるか粛清の対象となった[17]。歴史家のアルメナク・マヌキャン(Armenak Manukian)の推定によれば、1930年から1938年までにアルメニアでは14,904人が大粛清の犠牲となり、うち4,639人が殺害されたという(このうち4,530人は1937年から1938年の間に銃殺された)[23]

ソ連の多くの少数民族と同様、アルメニア人も数万人単位で粛清や強制移住の対象とされた。1936年にスターリンとベリヤはアルメニアの人口を70万人まで減らしてグルジアへ併合することを目論んで、アルメニア人をシベリアへ追放した[18]1944年には、およそ20万人のヘムシン人がグルジアからカザフスタンウズベキスタンへ移住させられた。1948年にはギリシャ人とダシナク党の支持者5万8千人が沿海地域からカザフスタンへ移住させられている[24]

大祖国戦争期

4人のアルメニア人元帥。左から、
イワン・バグラミャン
イワン・イサコフ
アマザスプ・ババジャニャン
セルゲイ・フジャコフロシア語版

ソ連の西部地域は大祖国戦争に沿って甚大な被害を受けたが、アルメニアを含めたザカフカスは主戦場にならず、破壊と荒廃を免れている[25]。しかし、アルメニアは食糧、人材、戦争物資の供給地として大きな役割を担った。推定で30万人から50万人のアルメニア人が出征し、そのうち半数が戻らなかった[26][27]ソ連邦英雄の最高位を与えられた者も数多い[28]。60人以上のアルメニア人が将校となり、最終的に元帥までなった者も4人いる[28]。一方で、ドイツの捕虜となったアルメニア人の中には収容所でのリスクと引き換えにドイツ軍に仕えることを選んだ者もいた。彼らは戦後、他の多くのソ連兵捕虜と同様にスターリンによってシベリアのグラーグへ送られた。

ソ連政府は戦意高揚のために従来のナショナリズムの抑圧政策を転換した。アルメニア語の小説が再版されるようになり、アルメニア史の英雄ダヴィト・ベクフランス語版を扱った映画も1944年に制作されている[29]。教会に対する規制も一時的に緩和された[29]1945年にはゲヴォルク6世アルメニア語版が新たなカトリコスに選出され、エチミアジンへの常駐を許された[30][31]

ドイツが降伏すると、アルメニア共産党第一書記のグリゴリ・アルチュノフ(Գրիգորի Արությունով)や他のアルメニア人ディアスポラは、かつてカルス条約でトルコに割譲されたカルス地方を取り戻すことを再考するよう、スターリンに働きかけた[32]。1945年3月、ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフは1925年に調印されていたソビエト・トルコ友好条約(期限満了まではまだ8か月あった)の破棄を通告し、トルコに対してカルス地方の返還を要求した[33]。同年秋までにはすでにカフカスのソ連軍はトルコへの侵攻を目的として編成されたが、これに対してトルコには超大国と化していたソ連に対抗できるだけの力はなかった。しかし、その後の冷戦によってトルコがNATOに加盟すると、アメリカの軍事介入を恐れたソ連は1953年5月にトルコに対する領土の要求を取り下げた[33][34]

戦後

スターリンは戦争によって疲弊したアルメニア経済の復興を期待して、アルメニアの人口増大と労働力強化のためにディアスポラを積極的に国内に呼び寄せるキャンペーンを開始した。帰還の費用をソ連政府が負担したために、多くのディアスポラがこれに応え、1946年から48年までに推定15万人のディアスポラがキプロスフランスギリシャイラクレバノンシリアなどから帰還し、エレバン、レニナカンキロヴァカンなどに定着した[35]。彼らには食品券やよい住宅などの優遇措置が与えられたために、在来のアルメニア人との間に衝突がもたらされた[36]。ソ連で話されていた東アルメニア語とは異なる西アルメニア語を話すディアスポラは、在来のアルメニア人からは「兄弟」(aghbars)と呼ばれるようになり、当初は冗談交じりに使われていたこの単語は、やがて侮蔑語へと変わっていった[37]

しかし、ディアスポラに対するソ連政府の扱いが際立ってよかったわけではなかった。1946年にオデッサに到着した際に彼らは金やダイヤモンドや布などすべての持ち物を没収され、たとえソ連に失望したとしても国を出ることは許されなかった。元ディアスポラの多くが秘密警察の監視対象とされ、民族主義組織との関わりを疑われてシベリアなどの収容所送りとなった[38]

フルシチョフ・ブレジネフ時代

ツィツェルナカベルト(アルメニア人虐殺記念館)。モニュメントは高さ44メートル。

1953年にスターリンが世を去り、新たなソ連指導者となったニキータ・フルシチョフ1956年スターリン批判を行い、体制に変化が訪れた。消費財や住宅に重点を置くフルシチョフの政策により、アルメニアは急速に文化的・経済的復興を始めた。教会に対しても僅かに自由が与えられ、1955年にはヴァズゲン1世ロシア語版がカトリコスに選出された。

1954年、ミコヤンはエレバンでの演説でアルメニアの党官僚に批判を加え、ラッフィアルメニア語版やチャレンツなどの禁止されていた文学作品の再版を許可し、奨励すると述べた[36][39]。エレバンにそびえていたスターリン像は1962年に軍によって一晩で撤去され、その跡にはアルメニアの母フランス語版の像が置かれた[40]

1964年レオニード・ブレジネフが権力を握ると、フルシチョフ時代の改革は停止され、ソ連の製品は質、量ともに不足するようになった。その影響は建材にも表れ、1988年アルメニア地震が発生した際も、破壊されたのはブレジネフ時代に建てられた建造物がそれ以前の時代のものよりも多かった[41]

ソ連政府はナショナリズムに対する警戒を続けていたが、それでもスターリン時代よりも制限は弱まり、1965年4月24日には10万人[42][43]のアルメニア人が、1915年アルメニア人虐殺への抗議とオスマン帝国内の歴史的なアルメニア人居住地域(いわゆる西アルメニア英語版)の回復を訴えてエレバンでデモを行っている[44][45] 。当局はこれを受けて1967年に虐殺を追悼するモニュメント「ツィツェルナカベルト英語版」を、1968年には50年前の対オスマン戦争でのサルダラパートの戦い英語版を顕彰するモニュメントを建造した[46]。4月24日は公式に記念日として定められ、この日に行進を行うことも許可されるようになった[46]

ゴルバチョフ時代

ナゴルノ・カラバフ併合を支持するデモ(1988年、エレバン)

1980年代ミハイル・ゴルバチョフによってグラスノスチペレストロイカが導入されると、スターリン時代にカザフスタンに強制移住させられたヘムシン人が、アルメニアへの帰還を求めて請願を開始した。しかし、イスラム教徒である彼らの帰還によってキリスト教徒のアルメニア人との間に民族紛争が発生することを恐れたソ連政府は、その要求を拒否した[47]

だが、民族紛争はそれとは別の原因で発生した。かつてボリシェヴィキがアルメニアとの約束を反故にしてアゼルバイジャンへ編入したナゴルノ・カラバフで、そこに住むアルメニア人たちがナゴルノ・カラバフの「アゼルバイジャン化」を懸念し、同地とアルメニアの統合を求める運動を開始した[47]。1988年2月20日、ナゴルノ・カラバフ自治州 (ソビエト連邦)ロシア語版最高会議は、投票によってアルメニアとの統合に賛意を示した[48]。ナゴルノ・カラバフのアルメニア人を支援するデモが共産党の制止を無視してエレバンで行われ[49]、非公認団体の推計で100万人以上がこれに参加した[50]。アゼルバイジャン側もカウンター・デモを奨励した。アルメニア側はゴルバチョフに対してナゴルノ・カラバフの併合を求める請願を行ったが、ゴルバチョフがこれを拒否したために、それまでアルメニア人の間で好意的に見られていたゴルバチョフの評判は下落した[51]

さらに、同年12月7日にスピタクで数万人が死亡するアルメニア地震が発生した際も、中央政府に先んじて救援活動を行ったのが対アゼルバイジャン強硬派の非公認団体「カラバフ委員会」であったため[52][53]、彼らに対する支持からアゼルバイジャンとの関係も悪化した。ほどなくしてアゼルバイジャンのスムガイトで多数の死者を出す民族暴動(スムガイト事件)が発生し、これが後のナゴルノ・カラバフ戦争へと繋がってゆく。

独立

ソ連中央政府の威信が低下するなか、1989年11月末の第29回党大会において、アルメニア共産党はソ連共産党からの自立を宣言した[53]。同年にはカラバフ委員会を中心として新党「アルメニア全国民運動」が結成され、ソ連憲法の改正で導入された複数政党制に基づく1990年5月の最高会議選挙で、全国民運動のレヴォン・テル=ペトロシャンが共産党のウラジーミル・モフセシャン(ru)を破って議長に就任した[53]。軍事組織も前年にはソ連軍から独立した活動を行っており、その非公式活動はすでに共産党の手を離れていた[54]

1991年2月9日には社会政治団体法によって共産党が事実上非合法化され、同年の8月クーデターで中央政府の保守派が敗れたことを受け、9月23日、アルメニア最高会議はソビエト連邦からのアルメニアの独立を宣言した[53]

政治・経済

アルメニアの人口推移[55]
年度 総人口 都市人口 農村人口
1913年 100万人 10万4千人 89万6千人
1920年 78万人 11万2千人 66万8千人
1926年 88万1千人 16万7千人 71万4千人
1939年 128万2千人 36万6千人 91万6千人
1959年 176万3千人 88万2千人 88万1千人
1970年 249万3千人 148万2千人 101万1千人

アルメニア・ソビエトも他のソ連の共和国と同様に、政治権力は最高司法府と最高裁判所を内包するアルメニア最高会議(Հայկական ՍՍՀ Գերագույն Խորհուրդ)にあった。この一院制の最高会議では人民6千人に1人の割合で選ばれた代表が4年の任期を務め、そのうち民族会議には32の代表がいた[56]。一方、地区市町村の代表の任期は2年間だった[56]。1936年にスターリン憲法が制定されてからは、アルメニアでも18歳以上の男女に対して普通選挙権が与えられたが、代表候補者は共産党などの推薦を受けた者が各選挙区に1人だけ置かれたため、上のような選挙も単なる信任投票に過ぎなかった[57]

最高裁判所判事は最高会議によって選出され任期は5年間、検察官はソビエト連邦検事総長(ru)によって任命され任期は5年間だった[56]

私有財産を禁止するソ連の経済体制に対してはアルメニアの農民が活発な抵抗を繰り返していたが、1929年秋から私有農地の国有化が政府によって開始された[58]。同年末にコルホーズ化されていた農村世帯の割合は3.5パーセントだったが、1936年には80パーセントに[58]、1947年には99.7パーセントに達した[59]。同時期には工業化も開始され、工業生産額は1940年1913年の9倍に達し、1950年には産業総生産額に占める工業総生産額も81パーセントまで上昇した[59]。しかし代償として村落や家族のあり方は破壊され、農村の住民は都市への定住を強制され、民間企業も事実上消滅した[60]

工業化が進んでからは鉱業冶金が主要産業となり、1980年の各ソビエト共和国の中でアルメニアのモリブデン精鉱と硫酸銅の生産高は2位、製錬の生産高は3位だったが、化石燃料に関してはほとんどをアゼルバイジャンと北カフカスからの輸入でまかなっていた[61]。元来が資源に乏しいアルメニアでは、産業の維持のため中央政府からの利益誘導が必要となり、見返りとして政治家への賄賂も横行した[62]

1980年の国内総発電量は3,516メガワットで、うち原子力発電が815メガワット、水力発電が945メガワットだった[61]

社会

「ナムス」(1925年制作)

ソ連において、中央政府は連邦の結束を維持するためにナショナリズムや宗教などの排除に励んだ。初期のソ連の政治家から見て、ロシア人とともにソ連成立当初からのメンバーであるウクライナ人ベラルーシ人グルジア人ドイツ人ユダヤ人、そしてアルメニア人は、「高度な」民族とし西欧の民族と同列にグループ化された[63]。また、ソ連の教科書ではカフカス、とりわけアルメニアがソ連の「領土内で最古の文明を持っている」と書かれた[64]

レーニンの時代にはアルメニアがその政策の影響を受けることは少なかった。しかし、病で衰弱してからのレーニンは共和国のコレニザーツィヤ英語版(民族化政策)や「母語化」を推奨し、さまざまな民族に「彼らの共和国を管理」させるために、現地語の語学学校、新聞、劇場などを造らせた[65]。アルメニアでは当局が、50歳までのすべての文盲の市民に学校に出てアルメニア語を学ぶよう義務付けた。「歴史・言語学ジャーナル」(en)を始めとしたアルメニア語の新聞や雑誌が多数発行され、1921年にエチミアジンに文化・歴史研究所が、1920年代と30年代にはエレバン・オペラ劇場ロシア語版が、1959年には古文書収集所マテナダランが設立されている。アルメニア最初の国産映画は1925年制作の「ナムス英語版」(「名誉」)で、最初の国産トーキー1935年制作の「ペポロシア語版」である(監督はどちらもアモ・ベク=ナザーロフロシア語版[66]

脚注

  1. ^ The full history of the Armenian republic is covered by Richard G. Hovannisian, Republic of Armenia. 4 vols. Berkeley: University of California Press, 1971-1996. (英語)
  2. ^ 中島、バグダサリヤン(2009) 93頁
  3. ^ Melkonian, Eduard. "Repressions in 1930s Soviet Armenia," Caucasus Analytical Digest No. 22 Zürich: Heinrich Böll Stiftung, 2010, p. 6. (英語)
  4. ^ a b 吉村(2009) 41-42頁
  5. ^ a b Matossian, Mary Kilbourne (1962). The Impact of Soviet Policies in Armenia. Leiden: E.J. Brill. p. 30. ISBN 0-8305-0081-2  (英語)
  6. ^ 中島、バグダサリヤン(2009) 153頁
  7. ^ Suny, Ronald Grigor. Looking Toward Ararat: Armenia in Modern History. Bloomington: Indiana University Press, 1993, p. 139. (英語)
  8. ^ アレム(1986) 81頁
  9. ^ a b 吉村貴之 「アルメニア民族政党間関係とソヴィエト・アルメニア(1920-23年)」『東欧・中央ユーラシアの近代とネイションIII』 林忠行、帯谷知可編、北海道大学スラブ研究センター〈スラブ研究センター・研究報告シリーズ No.95〉、2004年。 3頁
  10. ^ Hovannisian, Richard G. Republic of Armenia, Vol. IV: Between Crescent and Sickle, Partition and Sovietization. Berkeley: University of California Press, 1996, pp. 405-07. (英語)
  11. ^ Matossian. Impact of Soviet Policies, p. 80.
  12. ^ アレム(1986) 86頁
  13. ^ Ամատունի Սասունիկի Վիրաբյան, Հայաստանը Ստալինից մինչև Խրուշչով ՀՀ ԳԱԱ «Գիտություն» հրատ, 2001. (アルメニア語) ISBN 9785808004993
  14. ^ Matossian. Impact of Soviet Policies, pp. 90-95, 147-151.
  15. ^ Matossian. Impact of Soviet Policies, p. 150.
  16. ^ Matossian. Impact of Soviet Policies, p. 194.
  17. ^ a b Melkonian. "Repressions in 1930s Soviet Armenia," p. 8.
  18. ^ a b Bauer-Manndorff, Elisabeth (1981). Armenia: Past and Present. New York: Armenian Prelacy, p. 178. (英語)
  19. ^ a b c モンテフィオーリ(2010) 449頁
  20. ^ モンテフィオーリ(2010) 365頁
  21. ^ Tucker, Robert (1992). Stalin in Power: The Revolution from Above, 1928-1941. New York: W. W. Norton & Company. pp. 488–489. ISBN 0-393-30869-3  (英語)
  22. ^ Melkonian. "Repressions in 1930s Soviet Armenia," p. 7.
  23. ^ Melkonian. "Repressions in 1930s Soviet Armenia," p. 9.
  24. ^ Hamshenis denied return to Armenian SSR”. 2007年2月6日閲覧。[リンク切れ]
  25. ^ 吉村(2006) 128頁
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参考文献


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