ナゴルノ・カラバフ
座標: 北緯39度48分55秒 東経46度45分07秒 / 北緯39.815278度 東経46.751944度

ナゴルノ・カラバフ(アルメニア語: Լեռնային Ղարաբաղ Leṙnayin Ġarabaġ, アゼルバイジャン語: Dağlıq Qarabağ, ロシア語: Нагорный Карабах Nagorniy Karabakh)は、アゼルバイジャンの西部にある地域(ナゴルノ・カラバフ自治州[1])である。面積は約4400平方キロメートルで、中心都市はステパナケルト[1][2]。人口は約14万7000人で、その9割以上がアルメニア人系である[1]。ナゴルノ・カラバフ紛争最中の1991年9月2日[1]に「アルツァフ共和国」(別称「ナゴルノ・カラバフ共和国」)としてアゼルバイジャンからの独立を宣言したが、国際連合加盟国から国家の承認は得られていない。
「カラバフ」と呼ばれる地域中部の山岳地帯に当たる。「ナゴルノ・カラバフ」は「山地の黒い庭」を意味する[1]。アルメニア人が使う呼称アルツァフ(アルメニア語: Արցախ)は、紀元前に存在したアルメニア王国の州名からとられている。
概要[編集]
ソビエト連邦時代の1923年7月、書記長ヨシフ・スターリンがアゼルバイジャンに帰属する自治州であることを確定させた[1]。ソビエト連邦の崩壊後は国際的にはアゼルバイジャンの一部とされているが、アルメニア人が多く居住しており、隣国アルメニアとアゼルバイジャンの対立の火種となっている。1990年代のナゴルノ・カラバフ戦争で推定100万人が避難し、約3万人が死亡した。1994年に停戦して、アルメニア側が、北部と東部の一部を除くナゴルノ・カラバフの大半と、アルメニアとの間に挟まれた地域(ラチン回廊など)を含む周辺は、ナゴルノ・カラバフ外の東側の一部を含めて実効支配するに至った。その後も膠着状態は続き、断続的に軍事衝突も起きていたが、2020年の大規模な衝突でアルメニア側は実効支配地域を多く失った(2020年ナゴルノ・カラバフ紛争)。
この地域近隣には、アゼルバイジャン側のカスピ海からジョージアに向けた石油と天然ガスを輸出するパイプラインがあり、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争に至る対立・衝突は世界経済にも影響を与える[3][4]。アゼルバイジャンは人種的に近いトルコの支援を受ける一方、アルメニアはロシアの軍事基地を後ろ盾に持つ(「国外駐留ロシア連邦軍部隊の一覧#アルメニア」参照)。そして、トルコとアゼルバイジャンがイスラム教、ロシアとアルメニアがキリスト教の信仰国であることも事態を複雑化させている[4]。
名称について[編集]
カラバフという名は、「黒い庭」を意味するアゼルバイジャン語をロシア語で表した言葉である。
「ナゴルノ・カラバフ」という呼称は、カラバフ地方の東部山岳地方に対してロシア語で「ナゴールヌィ・カラバフ」(Нагорный Карабах, 高地カラバフ)と名付けられたことが元になっており、現地のアルメニア語やアゼルバイジャン語には基づかない。
また「アルツァフ」と呼ばれることがあるが、これはかつてナゴルノ・カラバフを治めていたアルメニア王国のアルツァフ州や10世紀に建国されたアルツァフ王国に由来する。アルツァフ自体の語源は、アルメニア王国君主アルタクシアス1世に由来する[5]。
歴史[編集]
ナゴルノ・カラバフを含むカラバフは、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台となっており、ロシア帝国崩壊後に両民族がアルメニア第一共和国とアゼルバイジャン民主共和国を建国すると遂には軍事衝突(アルメニア・アゼルバイジャン戦争)にまで発展した。その後、両者は労農赤軍(ソ連軍)の圧力によって1920年末までに共産化し、ソビエト連邦の構成体であるアルメニア社会主義ソビエト共和国とアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国になった。だが、アルメニアがソ連構成体となる時にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がナゴルノ・カラバフとシュニク地方をアゼルバイジャンに割譲することを提案すると、追放されたアルメニア革命連盟が反ボリシェヴィキ運動を激化させ、1921年4月26日にはナゴルノ・カラバフを含むアルメニア南部において山岳アルメニア共和国の独立を宣言したが、赤軍との熾烈な戦闘の末に1921年7月13日に消滅した。
帰属が確定したのは共産化の翌年である1921年7月4日のことで、現地のボリシェヴィキによる国境画定交渉によってナゴルノ・カラバフはアルメニア領とされた。しかしアゼルバイジャン側は猛反発し、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属決定として覆されてしまった。領土紛争の解決において、アゼルバイジャン側のナリマン・ナリマノフは自治州の帰属問題で重要な役割を果たし、その結果、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンの一部であり続けた[6]。こうしてアゼルバイジャン領となったナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられることとなり、1923年7月7日にアゼルバイジャン内の自治州としてナゴルノ・カラバフ自治州が設置された。
自治州成立後もアルメニア人はソビエト連邦の政局が変わる度にアルメニアへの編入を求めた。1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連邦共産党書記長に就任してペレストロイカなどの自由化政策が開始されるとアルメニアへの編入運動は一層大きくなった。1988年以降[1]、アルメニアとアゼルバイジャンは衝突し始め、ナゴルノ・カラバフ戦争にまで発展。ソ連崩壊後はアルメニアへの合流を求めてナゴルノ・カラバフ自治州はアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)として1991年9月2日に独立宣言を発し、2020年紛争で領土を大きく減らしたものの、その後も独立状態を保っている。しかしアブハジア、南オセチア、沿ドニエストル以外に独立を承認している国はなく、しかも全て一部・未承認国家であるため、あくまで事実上独立した地域である。承認を受けた3か国とは「民主主義と民族の権利のための共同体」を結成している。
地理[編集]
アルメニア高原の東端に位置し、3000メートル級の山地に囲まれ、標高1000 - 2000メートルの高地にある。クラ川やアラクス川の流域を見下ろす地である。森林に恵まれ、高地には高山性植物が群生している。
脚注[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f g 「自治州紛争1週間 アゼルバイジャン攻勢 アルメニア領にも飛び火」「スターリンの線引き争いの種 住民9割超、アルメニア系」『読売新聞』朝刊2020年10月5日(国際面)の記事・地図参照。
- ^ 「ナゴルノカラバフ紛争1カ月/止まらぬ戦闘 見えぬ解決/停戦合意 三たび破棄」記事及び添付地図『毎日新聞』朝刊2020年10月31日(国際面)
- ^ “Armenia and Azerbaijan fight over disputed Nagorno-Karabakh”BBC 2020年9月28日参照
- ^ a b 『日本経済新聞』朝刊2020年9月30日(10面)
- ^ Lang, David M.The Armenians: a People in Exile. London: Unwin Hyman, 1988, p. x. 978-0-04-956010-9.
- ^ Qasımlı, Hüseynov (2005) səh. 43
関連項目[編集]
- 2020年7月アルメニア-アゼルバイジャン紛争
- 2020年ナゴルノ・カラバフ紛争
- 2014年アルメニア-アゼルバイジャン紛争
- 2016年ナゴルノ・カラバフ紛争 -4日間戦争(Four-Day War)とも
外部リンク[編集]
- 「ナゴルノ・カラバフ:国家のようで国家でない地域」(Hinako Hosokawa),Global NewsView/2017年7月
参考文献[編集]
- Qasımlı, Musa; Hüseynov, Cavid (2005). Azərbaycanın Baş Nazirləri. Bakı: Adiloğlu. ISBN 9952-25022-3
- Ali; Ekinciel (1 August 2015). Karabakh Diary (1 ed.). Russia: Sage. ISBN 9786059932196.