八戸戦争

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八戸戦争(はちのへせんそう)は、青森県八戸市をほぼ二分する政争である。

いつ頃から二分する政争と化したのかは定かではないが、1929年の八戸市成立当初には既に存在したようである[1]。市長選・衆院選をはじめとして、市議選・県議選・県知事選などで市内では様々な思惑から権謀術数が巡らされ[2][3]、有権者に八戸独特のバランス感覚が養成された。ここでは代表的なものを以下に列挙する。

なお青森県南部地方では八戸市以外にも本市における政争と同様に、昭和の大合併後は自治体内対立があった模様である。この点で同県津軽地方における金権選挙として存在する津軽選挙と対比される[4]

八戸市長の交代劇[編集]

八戸市では長期政権を築いた市長と短命に終わった市長とで交代を繰り返す歴史があり、市長公選となる以前からそのような法則が存在した。平成に入ってからも中里信男元市長を除きこの法則は破られていない。なお親子で市長を務めた中村拓道中村寿文はどちらも一期に終わっている[5]

熊谷義雄 対 田名部匡省[編集]

第34回衆議院議員総選挙では同じ自民党内でも旧青森1区で八戸戦争が先鋭化した。現職の熊谷義雄候補(三木派)に対し新人の田名部匡省候補(福田派)が裏切って出馬する形となった選挙戦である[6]。この時は衆院議員任期中に死去した中村拓道の後継として若き日の中村寿文も出馬していたため、中村と田名部の関係についても必ずしも良好ではなかった(後述)[7]

熊谷候補は岩手県普代村の出身であることから八戸市内・階上町内では漁業者を中心に支持を集めた(なお、これらの漁業者は新井田川以東の浜通りと呼ばれる地域に多く住んでいた)。一方、田名部候補は八戸市内の旧市街地の票や建設業界内グループ票、一族票を中心に集めた(浜通りに対して旧市街地は八戸城下と呼ばれる)。結果は熊谷候補が当選し田名部候補が敗れるも、第35回衆議院議員総選挙では田名部候補が当選し熊谷候補が落選という逆転現象が起きた[8]

このような政争が生じた背景としては前述の支持基盤の違いに加え、当時は中選挙区制であったことが大きい。さらに、旧青森1区は津軽地方の青森市も選挙区に含んでいたため、津軽選挙の影響もあり青森市出身の保守候補が落選し自民系の代議士が育たないという事態が相次いだ。この点における批判は後の小選挙区比例代表並立制導入の伏線ともなった[4]

田名部匡省 対 大島理森[編集]

熊谷は落選後大島理森河本派)を後継指名して引退した。大島は第36回衆議院議員総選挙で敗れるも中村が出馬しなかった第37回衆議院議員総選挙で初当選し、以後連続当選を維持している。浜通りの安定した支持基盤を引き継ぎつつも大島自身は八戸市西部の農家の出身であったため[9]、以後支持者の顔ぶれには微妙な変化が生じる[8]

転機となったのは小選挙区比例代表並立制に切り替わった第41回衆議院議員総選挙であった[10][11]。田名部も大島も連続して当選してきていたが、三六戦争を経ていた田名部(加藤グループ)は自民党下野に伴い離党していたため[12]、ここに来て全面対決となった。結果は大島の勝利で重複立候補を認められなかった田名部は「田名部党」として参院に鞍替えし、以後衆院青森3区では匡省の娘である田名部匡代民主党)と大島との政争が展開されることになる[13]

木村守男知事辞職[編集]

八戸戦争の中でも史上稀に見る代理戦争を展開したのが、2003年木村守男知事の女性スキャンダル発覚時である。当時は国政選挙こそ無かったものの、田名部は守男おろしに奔走し、大島は自民所属議員として同党寄りの守男支援の形を採った。さらにこの時の事情を複雑化させたのは、津島雄二衆院議員(橋本派)と守男の息子である木村太郎衆院議員(森派)のすれ違いが表面化したことである。江渡聡徳のライバルであった三村申吾を守男辞任後擁立した橋本派に対し、守男続投を世話した森派という津軽地方内の対立は、さながら自民分裂戦争の様相であった[14][15][16]

小林眞 対 中村寿文[編集]

青森県知事辞任劇による影響をもっとも受けた選挙戦が、2005年に行われた八戸市長選挙である。民主党推薦現職の中村寿文に対し自民党推薦新人の小林眞が挑む構図であったが、この頃八戸市内の旧市街地では前述の辞任劇に嫌気がさしており、同じ民主党推薦でも中村を支持する一方で田名部は支持せず大島を当選させるというねじれ現象が生じていた(第43回衆議院議員総選挙第44回衆議院議員総選挙[17])。この結果田名部一族・グループ内で中村離れが起き、小林は自身の出身地の浜通りの票をまとめ上げ、郵政選挙の風にも乗って初当選を果たした。

田名部匡代 対 大島理森[編集]

2009年第45回衆議院議員総選挙では青森県でも猛烈に自民党へ逆風が吹き荒れたが、結果は1区を除き小選挙区は自民党が確保した。大島も匡代に367票差に詰め寄られての辛勝であった[18][19]。しかし2012年第46回衆議院議員総選挙では青森県から民主系の代議士が全員落選した。匡代自身も久々に比例復活に届かなかった[20]2014年第47回衆議院議員総選挙でも青森県の小選挙区は自民党が独占し、匡代は再び比例復活に届かずに終わった[21][22][23][24][25]。一方、五戸町2区への区割り変更や記録的低投票率などもあり、大島は大幅に得票を減らす結果となった。

その後、匡代は参議院に転じ、第24回参議院議員通常選挙で当選。2017年の第48回衆議院議員総選挙4区が廃止されたことにより、青森県全体で小選挙区の区割りが大きく変更されたが、引き続き自民党が青森県の小選挙区を独占した。八戸市を含む旧3区の区域と五戸町は2区へ区割り変更され、2区から立候補した大島が12選を果たした。

脚注[編集]

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  1. ^ 1946年の市長公選運動(2)
  2. ^ 戦後青森県政治史序説 ⑤(1961年∼1964年)
  3. ^ 戦後青森県政治史序説 ⑥(1965年∼1968年)
  4. ^ a b 木村良一 『青森県の政治風土』 北方新社、1997年4月ISBN 978-4-89-297012-2
  5. ^ 八戸市 『新編八戸市史通史編Ⅲ近現代』 八戸市、2014年3月
  6. ^ このため田名部は熊谷に比して当初から支持基盤が弱かった。
  7. ^ この時の衆院選では上北郡の森田重次郎(落選により引退)の後継として佐川由三郎も出馬していたが、八戸市の候補者乱立の前に埋没した。以後上北郡からは小選挙区比例代表並立制に移行してから当選した江渡聡徳まで自民系の代議士を出せなかった。
  8. ^ a b 木村良一 『検証 戦後青森県衆議院議員選挙』 北方新社、1989年2月
  9. ^ 自民党 衆議院議員 大島 理森(おおしま ただもり)WEBサイト プロフィール
  10. ^ 中里信男 『道を求めて 中里信男回想録』 デーリー東北新聞社、2003年2月ISBN 978-4-99-014452-4
  11. ^ 環境庁長官時代
  12. ^ 非自民勢力の衰退 <04参院選 奔流・保守王国(上)>
  13. ^ 最少数、最長の戦い 3区・過熱
  14. ^ 守男の後任の知事となる三村申吾は新潮社の出身であるが、守男の女性関係を最初に公にリークしたのも週刊新潮であった。
  15. ^ 自民勢力のきしみ <04参院選 奔流・保守王国(下)>
  16. ^ 世代交代論、影に思惑 1区・乱立
  17. ^ 八戸とむつ、市長選控え静と動
  18. ^ この時の衆院選では日本共産党が候補擁立を見送り幸福実現党が候補を擁立したため、結果的に大島有利に働いた。
  19. ^ 大島理森さん 逆風かわす/3区
  20. ^ この時の衆院選では民主党と袂を分かつことで結成された日本未来の党から山内卓も出馬していたが、卓の票と匡代の票を合算すれば匡代は比例復活できた票数であった。なお卓の父である山内正孝(一期に終わった山内亮元市長の孫)は中村寿文と関係が近く、かつて中村から県議の地盤を譲り受けた仲であった。
  21. ^ 【青森3区】6度目の“八戸戦争” 大島、田名部氏の争い軸に (2014/11/22)
  22. ^ 【青森3区】同じ顔ぶれ5度目 「新鮮味ない」高まらぬ関心 (2014/11/28)
  23. ^ 【青森3区】返り咲き目指す田名部氏 民主、懸ける組織の浮沈 (2014/11/30)
  24. ^ 田名部氏結果出せず 民主県連 退潮止まらず (2014/12/15)
  25. ^ (中)明暗分かれた維新・民主 連携継続 考えに温度差 (2014/12/17)

関連項目[編集]