馬場敏史

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馬場 敏史
阪神タイガース 一軍内野守備コーチ #81
横浜DeNAベイスターズコーチ時代
(2014年9月23日、横浜スタジアム)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県三潴郡大木町
生年月日 (1965-02-10) 1965年2月10日(59歳)
身長
体重
173 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手
プロ入り 1989年 ドラフト5位
初出場 1990年4月10日
最終出場 2000年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

馬場 敏史(ばば としふみ、1965年2月10日 - )は、福岡県三潴郡大木町出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ

経歴

プロ入り前

柳川高卒業後の1984年新日本製鐵堺へ入社し、全日本の3番打者も務めた。1989年の都市対抗では本塁打を放つなど、チームのベスト4進出に貢献。社会人時代のチームメイトに野茂英雄がいた。

同年のドラフト5位で福岡ダイエーホークスに入団。

ダイエー時代

1年目の1990年4月10日オリックス戦(GS神戸)で10回裏に三塁手として初出場を果たし、同14日西武戦(平和台)で6回裏に渡辺久信から初安打を放つ。翌15日に7番・三塁手として初先発し、5月11日の西武戦(平和台)で9回裏に渡辺智男から初打点、6月15日の西武戦(西武)では5回表に石井丈裕から初本塁打を記録。同年は54試合に出場したが、2年目の1991年は一軍出場ゼロに終わる。1993年のシーズンオフ、高木晃次との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。

オリックス時代

1995年は115試合出場で初めて規定打席に到達し、ヤクルトとの日本シリーズでは好守を連発。三塁手としてゴールデングラブ賞を獲得すると、1996年は111試合に出場してリーグ2連覇と19年ぶりの日本一に貢献し、2年連続でゴールデングラブ賞を受賞[1]。同僚だった岡田彰布は「自衛隊でゴールデングラブを獲ったヤツやからな。守備はうまかったよ」と述べている[2]

1997年のシーズン途中、若手起用を図る球団の方針と、2年前の日本シリーズで守備力を目の当たりにして「あそこに飛んだら地獄」と評した野村克也監督の目に止まり、岩崎久則と共に小倉恒広永益隆との2対2の交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍。

ヤクルト時代

ヤクルトでは二塁手も務めたが、岩村明憲など若手内野手の台頭もあって出場機会が減り、2000年に現役を引退。

引退後

埼玉西武ライオンズでのコーチ時代
(2019年4月2日)

引退後はオリックスに復帰して二軍「サーパス神戸」内野守備・走塁コーチ(2001年 - 2002年)→一軍内野守備・走塁コーチ(2003年)、退団後はヤクルトに復帰して一軍守備・走塁コーチ(2004年 - 2008年)を務めた。

2009年からは再びオリックス一軍内野守備・走塁コーチで復帰するが、同年退団。

2010年からは横浜ベイスターズ一軍内野守備・走塁コーチに就任し、主に三塁ベースコーチとして、どんなに厳しくても走者を回すことから「壊れた信号機」と呼ばれていた。2012年二軍内野守備・走塁コーチ、2013年は一軍内野守備・走塁コーチを務め、2014年は総合兼内野守備走塁コーチとなる。2015年は再び一軍内野守備・走塁コーチを務めて退団。

2016年韓国KBOハンファ・イーグルス一軍作戦走塁コーチを務め、ウィリン・ロサリオを指導。

帰国後の2017年からは埼玉西武ライオンズ一軍内野守備・走塁コーチに就任し、2019年からは一軍作戦兼守備・走塁コーチに配置転換され、ヘッドコーチ格の役割を担う。西武ではヤクルト時代から仲の良い辻発彦監督とタッグを組んだことにより正確性が向上し、持ち前の判断力でチームの得点へと繋げていき、西武の機動力野球復活の立役者となった。守備の指導には定評があり、就任前の2015年の91失策、2016年の101失策はいずれもリーグ最多だったが、2020年は69失策、源田壮亮外崎修汰の二遊間コンビをゴールデン・グラブ賞を獲得させるまでに育て上げ、2度のリーグ優勝に貢献[3]2021年辞任。

2022年からは神戸学院大学硬式野球部コーチ[4]、少年野球チーム「兵庫神戸ボーイズ」総合アドバイザーに就任する傍ら、デイリースポーツ(ウェブ版)のコラムに随時担当。

2023年からは阪神タイガース一軍内野守備走塁コーチに就任[5]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1990 ダイエー 54 85 67 7 11 3 0 1 17 3 0 0 5 1 10 0 2 15 1 .164 .288 .254 .541
1992 10 25 20 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 5 0 0 6 1 .100 .280 .100 .380
1993 67 153 138 9 34 5 0 0 39 9 1 0 5 0 8 0 2 16 6 .246 .297 .283 .580
1994 オリックス 59 110 91 11 21 3 0 1 27 7 0 0 12 0 7 0 0 14 2 .231 .286 .297 .582
1995 115 404 344 25 90 14 3 1 113 33 4 2 29 1 28 0 2 51 4 .262 .320 .328 .648
1996 111 288 263 25 67 8 2 6 97 27 1 0 14 0 9 0 2 43 7 .255 .285 .369 .653
1997 18 32 29 1 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 1 4 4 .172 .250 .172 .422
ヤクルト 57 160 140 16 38 7 1 3 56 18 2 1 4 3 12 0 1 25 3 .271 .327 .400 .727
'97計 75 192 169 17 43 7 1 3 61 18 2 1 4 3 14 0 2 29 7 .254 .314 .361 .675
1998 71 56 45 4 8 0 0 0 8 4 0 1 6 0 4 0 1 7 0 .178 .260 .178 .438
1999 85 230 191 13 48 10 0 0 58 14 0 1 17 0 17 4 4 38 4 .251 .325 .304 .629
2000 28 36 29 2 4 1 0 0 5 3 0 0 5 1 0 0 1 10 2 .138 .161 .172 .334
通算:10年 675 1579 1357 114 328 51 6 12 427 119 8 5 97 6 102 4 16 229 34 .242 .301 .315 .616
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録

背番号

  • 39(1990年 - 1993年)
  • 35(1994年)
  • 2(1995年 - 1997年途中)
  • 54(1997年途中 - 同年終了)
  • 4(1998年 - 2000年)
  • 76(2001年 - 2003年)
  • 83(2004年 - 2015年、2017年 - 2021年)
  • 73(2016年)
  • 81(2023年 - )

メディア出演

脚注

関連項目

外部リンク