栃錦清隆
栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年(大正14年)2月20日 - 1990年(平成2年)1月10日)は、東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身の大相撲の第44代横綱。本名、大塚清(おおつか きよし)(のちに栃木山の養子になり、中田姓)。身長178cm、体重132kg。春日野部屋所属。初代若乃花幹士との対決で相撲界に戦後屈指の黄金時代「栃・若時代」を築いた。軽量の業師のイメージで語られることが多いが、横綱昇進後は体重も増え寄り・押し中心の相撲。引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめ、両国国技館建設などに尽力した。JR小岩駅構内に彼の銅像が立っている。愛称・土俵の名人、マムシ。(小兵であるにもかかわらず廻しを取るとしぶとく寄る、食らいついたら離れない取り口から)
略歴
入門から横綱昇進まで
蛇の目傘の製造を営む家の二男として生まれる。少年時から運動神経は抜群で、近所の八百屋の勧めもあって春日野部屋の門を叩く。昭和14年1月場所初土俵。四股名の栃錦は師匠春日野が自分の現役名栃木山と師匠の兄弟弟子大錦からつけた。この場所4日目、横綱双葉山が前頭4枚目安藝ノ海に敗れて連勝が69でストップしたが、この「世紀の一番」を兄弟子の世話のために花道の奥にいて目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」とのちのちまで語った。
はじめ兄弟子の付き人についたが、年端もいかないうちからこきつかわれるのを見かねた春日野が自分付きにした。その食事の世話などをしながら、さまざまな訓話を聞かされた。新十両が決まった時、親方の指示で靴磨きをしていたが関取にしか着用を許されないドテラを着ていることに気がついた親方に「おお、すまん、おまえはもう関取だったな」と言われたことがあった。
「自分にとって栃木山と双葉山は神様です」と語っていた。幕下時代、双葉山が春日野部屋の幕下力士全員を呼んで稽古をつけた時、この日栃錦はちゃんこ番だったにも関わらずこれに参加した。そして双葉山と組んだ瞬間に「おまえ魚くさいな」と冗談交じりに言われて放り投げられたらしい。また、師匠のつかいで料亭の双葉山を訪ねた時、その場にいた芸妓の美しさと、そんな美女をはべらせて悠然としている双葉山の姿に胸を打たれ、強くならなくてはと誓った逸話を、後に明かしている。
新弟子検査は、飯と水を腹一杯に詰め込み、はかりの上に飛び乗って針を大きく揺らして通過したというほどの軽量で、周囲からの期待はさほど大きくなかった。ただ、春日野だけは「三段目にあがってさすがに厳しいかと思っていると、ちゃんと相応の相撲を取る」と評価していた。というより、有望な弟子たちをつぎつぎ兵役にとられていくなかで、春日野としては彼に期待するしかなかったのだろう、とも言われている。後に春日野は「新十両の頃はこれが唯一の関取経験になると思ったら十両でも通用した、そう思った頃には幕内になって、それでも上位には通用しないと思ったら三役、三役はつらいかと思ったら大関になった、大関になって流石に横綱は無理だと思ったら横綱、こんなことなら若い頃からもっと稽古をつけるべきだった」と語っている。
昭和19年5月場所十両昇進。しかし、同時に徴兵され終戦まで軍隊生活を送る。その体格のため、最初は関取とは思ってもらえなかった。上官との訓練としての草相撲でも手心を加えることがなく連戦連勝、それでようやく十両力士だと知ってもらえた。
昭和22年6月場所入幕。入幕時の体重はわずか75kgしかなかった。この場所は4勝6敗と負け越しだったが、このときはまだ東西制が実施されており翌場所の陥落を免れる。翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、これは強運だった。この後、幕内に定着する。
昭和26年1月場所、前頭2枚目で初日から7連敗したが、8連勝して勝ち越した。当人によれば、「上に負けて下に勝ったというだけ」となるが、もうひとつも負けられないところからの復活は恐るべき集中力といえるだろう。翌場所再小結、以降三役に定着し大関横綱へ駆け上がっていくので、この勝ち越しは大きかった。昭和27年9月場所、途中高熱を発したが14勝1敗で初優勝、感涙に暮れた。場所後大関に昇進、このとき体重98kg。
平幕から三役にかけては、「相撲の技はすべて使った」といわれる業師ぶりを発揮した(その相撲ぶりを技の展覧会と評されたりもした)。幕内を通して記録した決まり手の数が48なので、必ずしも大げさな比喩ではない。現在でも反り技など滅多にでないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞するなど、「技能賞は栃錦のためにある」とまで言われた。
一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、横綱昇進のころ(106kg)から見違えるように体重も増え140キロにもなるほどになり、無駄を排した寄り押し相撲中心の取り口に変わった。一人の力士がその土俵人生でこれほど明らかに取り口が変化し、そして大成した例は少ない。
大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、新弟子検査の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。
横綱昇進と「栃若時代」
1954年(昭和29年)5月に14勝1敗の好成績で大関では2度目、通算では3度目の優勝を果たす。この当時横綱審議委員会の連続優勝に関する内規は成立しておらず、諮問されたが見送られる。当時すでに東富士、千代の山、鏡里、吉葉山の4横綱がいたため、前例のない5横綱時代が実現しかねなかった。翌9月場所は初日黒星ながらその後は白星を順調に積み重ね、連続優勝しそうな気配だったが、下手をすると今度も見送られる可能性があった。だが、東富士が14日目に突然自ら引退を申し出た。同じ江戸っ子力士同士通じ合うものがあったのだろう。栃錦もすぐに付き人を使者に立てて、自分のために引退しないようにと願ったが、東富士もそういう栃錦だからこそ後事を託すに足ると感じたかもしれない。
そして、栃錦は千秋楽に吉葉山に勝ち14勝1敗で連続優勝を決め、場所後に第44代横綱に昇進した。結果的に東富士の引退と栃錦の横綱昇進は重なることになり、「一瞬の5横綱時代」とされている。番付面で5横綱が並ぶことは現在までないが、まだ髷を落とす前の東富士を交えて、5人の横綱がそろった写真が数枚残されている。
横綱昇進を果たした夜、彼は師匠の春日野から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された。横綱になったその日のうちに引退の話をされ、さすがに驚いたというが、そう言った春日野自身、3場所連続優勝という絶頂期に「力が衰えてから辞めるのは本意ではない」と言いつつ周囲の反対を押し切って突如引退した過去を持つ人物であった。その教えは重く受け止めた。
若い頃、部屋は違うが同門の弟弟子千代の山が自分より若いにも関わらず出世で追い越され、一時期千代の山との稽古を嫌っていた。しかし師匠に「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には「儂は昔千代の山との稽古で歯をやられたから儂だけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山自慢の突っ張りを何発も顔に当てた影響で早く歯を失なったという。元・千代の山の九重が一門から破門されても決して険悪にはならず、後に理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。
昭和34年7月場所では14日目に優勝を決めたものの、その日の晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故にあい死亡するという悲運に見舞われた。しかし翌日の千秋楽に若乃花を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした。最後の優勝となった昭和35年1月場所では、この年からエール・フランス航空が毎年、初場所の優勝力士を欧州に招待することになり、栃錦は武藏川とともに渡欧した。
若乃花とは昭和26年5月場所の初対決からいきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(この初対決は若乃花の勝ち)、以来常に熱戦、好勝負を演じ続けてきた。昭和28年3月場所にはあまりの大勝負に栃錦の水引が切れて髷がほどけ、しばらくそのまま取組を続けたが動きが止まったところで行司が待ったをかけ、土俵下でとりあえずの髷を結って勝負再開、大熱戦の末に栃錦が勝った。栃若の対戦となれば水入りは当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場したテレビを通して全国のファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士たちをなぎ倒す二人の姿に、敗戦から復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々は多かった。土俵狭しとめまぐるしく動き回る二人の攻防がテレビ時代の到来にふさわしいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士たちの活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に 「栃若時代」という。
相撲っぷりだけでなく、土俵上の立ち居振る舞いも栃錦の人気の源であった。両の歯を食いしばり気迫に満ちた仕切りを重ねる毎に肌が朱に染まっていき、立合いの時には足の親指が土俵にめり込むかのようにじりじりと腰を割り、一気に立ち上がるという栃錦の姿はファンを虜にした。
その一方で小兵のハンディをカバーするため早く立ち合おうとする余り両手をつかずに立ち上がるようになり、それが後年の力士の立ち合いの乱れにつながったと指摘する人は多い。彼が戦後の時代における相撲界の大功労者であることは間違いのない事実だが、立ち合いだけは唯一の汚点であるとされ、栃木山は滅多に栃錦の相撲を批判することはなかったが、立合いについては「下ろさないと損だ」と注意していたという。しかし師匠に敬服していた栃錦もそれだけは譲らず、どんな先輩や識者の言う事も聞かなかったという。現役時は注意されてばかりだったが、理事長時代は逆に手を下ろす事を皆に勧め、現在のように一般化させた。
昭和33年後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体(本人は照れ混じりに「年増太りだよ」と語っていた)を逆に生かし正攻法の相撲に変え昭和34年3月場所で「奇跡」とまで言われた復活優勝を果たし、その後引退まで12勝を下回る事がない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率9割0分5厘)という驚異の成績を続ける。
まだ現役中の昭和34年に師匠が亡くなると、前年に原則廃止されていた二枚鑑札が特例として認められ部屋を継承する。昭和35年3月場所、若乃花と史上初めて14戦全勝同士で千秋楽に対決し、敗れる。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗(優勝決定戦を含むなら19勝16敗。うち一回は昭和31年9月場所、栃錦の不戦勝。この場所は直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった)。翌5月場所、初日から2連敗すると、「衰えてから辞めるのは本意ではない」という師匠の教えを忠実に守るかのように潔く引退を表明した。
栃若 全対戦一覧
栃若両雄の対戦は、1951年5月場所~1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦1不戦勝含む)し、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(うち、相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は、水入りになることが多かった。
千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
場所 | 対戦日 | 栃錦勝敗 (通算成績) |
若乃花勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1951年5月場所 | 8日目 | ●(0) | ○(1) | 千代の山 | 初対戦 |
1951年9月場所 | 12日目 | ○(1) | ●(1) | 東富士 | |
1952年1月場所 | 12日目 | ●(1) | ○(2) | 羽黒山 | |
1952年5月場所 | 6日目 | ○(2) | ●(2) | 東富士 | |
1952年9月場所 | - | - | - | 栃錦(1) | 対戦なし。 |
1953年1月場所 | 初日 | ○(3) | ●(2) | 鏡里 | 栃錦新大関 |
1953年3月場所 | 7日目 | ○(4) | ●(2) | 栃錦(2) | |
1953年5月場所 | 4日目 | ○(5) | ●(2) | 時津山 | |
1953年9月場所 | 3日目 | ●(5) | ○(3) | 東富士 | |
1954年1月場所 | 10日目 | ●(5) | ○(4) | 吉葉山 | |
1954年3月場所 | 11日目 | ●(5) | ○(5) | 三根山 | |
1954年5月場所 | 12日目 | ○(6) | ●(5) | 栃錦(3) | |
1954年9月場所 | 14日目 | ○(7) | ●(5) | 栃錦(4) | |
1955年1月場所 | 12日目 | ●(7) | ○(6) | 千代の山 | 栃錦新横綱 |
1955年3月場所 | 千秋楽 | ○(8) | ●(6) | 千代の山 | |
1955年5月場所 | 12日目 | ○(9) | ●(6) | 栃錦(5) | |
1955年9月場所 | - | - | - | 鏡里 | 栃錦休場により対戦なし。 |
1956年1月場所 | 9日目 | ○(10) | ●(6) | 鏡里 | 若乃花新大関 |
1956年3月場所 | 千秋楽 | ●(10) | ○(7) | 朝潮 | |
1956年5月場所 | - | - | - | 若乃花(当時若ノ花)(1) | 栃錦休場により対戦なし。 |
1956年9月場所 | 千秋楽 | □(11) | ■(7) | 鏡里 | |
1957年1月場所 | 14日目 | ○(12) | ●(7) | 千代の山 | |
1957年3月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(8) | 朝潮 | |
1957年5月場所 | 12日目 | ○(13) | ●(8) | 安念山 | |
1957年9月場所 | 13日目 | ○(14) | ●(8) | 栃錦(6) | |
1957年11月場所 | 14日目 | ○(15) | ●(8) | 玉乃海 | |
1958年1月場所 | 14日目 | ●(15) | ○(9) | 若乃花(2) | |
1958年3月場所 | 14日目 | ●(15) | ○(10) | 朝潮 | 若乃花新横綱 |
1958年5月場所 | 14日目 | ○(16) | ●(10) | 栃錦(7) | |
1958年7月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(11) | 若乃花(3) | 千秋楽2敗同士相星決戦 |
1958年9月場所 | - | - | - | 若乃花(4) | 栃錦休場により対戦なし。 |
1958年11月場所 | - | - | - | 朝潮 | 栃錦休場により対戦なし。 |
1959年1月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(12) | 若乃花(5) | |
1959年3月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(12) | 栃錦(8) | 千秋楽栃錦1敗、若乃花2敗で対戦 |
1959年5月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(13) | 若乃花(6) | 千秋楽栃錦全勝、若乃花1敗で対戦 優勝決定戦も若乃花勝利。若乃花優勝。 |
1959年7月場所 | 千秋楽 | ○(18) | ●(13) | 栃錦(9) | |
1959年9月場所 | 千秋楽 | ●(18) | ○(14) | 若乃花(7) | 千秋楽栃錦2敗、若乃花1敗で対戦 |
1959年11月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(14) | 若羽黒 | 千秋楽両者3敗で対戦 栃錦勝利。(千秋楽対決は年間最多勝をかけた対戦であった。) |
1960年1月場所 | - | - | - | 栃錦(10) | 若乃花休場により対戦なし。 |
1960年3月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(15) | 若乃花(8) | 千秋楽全勝同士の相星決戦 最後の栃若対戦。 |
- 若乃花横綱昇進前まで(1958年1月場所まで)の対戦成績は、栃錦の15勝9敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1958年3月場所以降)は、若乃花の6勝4敗。
引退後
引退後は先代から引き継いだ栃ノ海を横綱、栃光を大関にまで育て、それ以外にも数多くの関取を育てた。年寄春日野としては、「力士とは力の紳士と書く、ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。本人いわくこれは現役時代に師匠から受けた指導を受け継いだものだという。審判部長、事業部長などを歴任。審判部長としては昭和44年3月場所2日目の前頭筆頭戸田 - 横綱大鵬戦[1]昭和47年1月場所8日目の関脇貴ノ花 - 横綱北の富士戦[2]といった判定を巡る歴史的な大事件に関わった。昭和49年日本相撲協会理事長の職を武蔵川親方から継ぐ。この時、武蔵川親方の娘婿である出羽海親方(元横綱佐田の山)が理事長になるまでの繋ぎの短期政権と見られていた。
しかし理事長となってからは新両国国技館への移転という相撲協会にとっての大事業に際して、これを無借金で建設する(理事長就任の際、武蔵川前理事長から「新(両国)国技館を建てるのは君しかいない」とメッセージを託されている)、椅子席観覧客の待遇を改善する、相撲茶屋制度を改革するなど、後の若貴兄弟人気につながる相撲人気の復興のための数々の改革を大鵬、鏡山(元柏戸)、出羽海、時津風(元豊山)などの若手親方を協会の要職に起用しながら推進し、現役時代を髣髴とさせる多彩な技と大きく素早い動きを見せて7期14年の長期安定政権を維持した。理事長就任当時は協会内部で主流派、反主流派の派閥争いが展開されており前述の「短期政権になる」と見られる原因となっていたが、派閥に関係なく能力次第で協会の要職に登用するなどして争いは沈静化し、「すぐに『理事長に一任します』と言われて拍子抜けするんだ」と本人が述べるほどスムーズな協会運営ができるようになり長期政権を維持する元となった。その後、糖尿病などの影響で、一時は歩けなくなるほど体調が悪化するが、これを克服。昭和60年には落成したばかりの國技館で露払いに出羽海(元佐田の山)・太刀持ちに二子山(元初代若乃花)を従え還暦土俵入りを披露した。
昭和63年、理事長職を二子山に譲る。平成元年11月、11月場所の開幕直前に脳梗塞で体調を崩し、福岡市の病院で停年を目前にして平成2年1月10日死去。64歳であった。二子山理事長はその訃報に関しての記者会見に臨もうとするも言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてもらえるかな」と数分間会見の席を立ち去った。その後会見場に戻ってからの二子山理事長は、まだ動揺を抑えきれずに「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を拭いつつ、共に土俵を盛り上げた好敵手の死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙祷などを行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。
エピソード
- 新弟子の頃、部屋の先輩を贔屓にしていた六代目尾上菊五郎に気に入られていた。のちに「春日野部屋にいた“マムシ”は今どうしてる?」と聞き、幕内にいる栃錦がそうだと教えられて驚いたという。
- 同郷で仲が良かった大江戸(元前頭16枚目)と映画を見に行ったとき、「俺は天下第一等の力士になってみせる」と言うと、「大塚さん(栃錦)が天下第一等の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と笑われた。後に栃錦が大関に昇進したとき、大江戸に「おい、何か忘れてないか」と言うと、大江戸は頭を抱えて「降参、降参、勘弁して下さい」と苦笑したという。
- 先述の通りの人気を誇ったが、尻がおできやその痕で汚いと言われており、「尻が汚いときの栃錦は好調だ」というあまりありがたくない言われ方もされていた。
- 土俵入りは師匠栃木山直伝の雲竜型だったが、当人によればむしろ出羽一門伝統の常陸山型(→常陸山谷右エ門を参照)と呼ぶべきものだったという。テンポの速い土俵入りでせわしないなどの批判もあったが、現役時代取口も土俵入りも早いことで有名だった師匠に体の小さい者が大型力士のようにゆったり演じても格好がつかないと指導されたのと、新横綱の場所に初日を落としてからしばらく序盤で取りこぼす負け癖がついてしまい、観客の野次が気になって土俵入りは早く終わらせたいと思っているうち、癖になってしまったためだった。
- 本人によれば、師匠栃木山守也から相撲を誉められたのはただ一番、昭和30年5月場所千秋楽の新大関大内山戦のみだったという。大内山の猛突っ張りを受けながら乾坤一擲の首投げで破ったという死闘だったが、師匠からは前日に優勝が決まっていたのにもかかわらず「最後まで一生懸命よくやった」と誉められたという。
- 理事長時代、天覧相撲の席で昭和天皇に「蔵間は大関になります」と胸を張ったが、当の蔵間はなかなか出世せず、天皇は「蔵間、大関にならないね」と漏らした。春日野(栃錦)は「私は陛下に嘘を申し上げました」と謝罪し、その後蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという。
- 新両国国技館建設の折り、鹿島建設が当初出した工事の見積もりは161億5千万円であったが、二子山事業部長(当時)と二人で社長に会い、端数の11億5千万円を値引きさせて150億円に負けてもらった。社長には「相撲取りは相手を負かすのが仕事です。今日は負かしに来ました。相撲には横綱五人掛かりがあるが、社長には栃若二人掛かりです」と言ったという。
- ゴルフが趣味で、自慢は「角界第一号のホールインワン」。ある時のラウンドで大たたきするがバンカーショットは上手いので、一緒に回っていたプロに皮肉られると「こちとらは土俵の砂の上でさんざん苦労してきましたからね」とやり返した。
- 昭和34年7月18日の大相撲名古屋場所14日目で栃錦は9度目の優勝を決めた。この日の優勝祝賀会に向かっていた父の大塚夏五郎が東京都江戸川区小岩の千葉街道でオート3輪に轢かれる交通事故に遭い脳底骨折で翌19日午前1時に73歳で死亡した。自分の優勝が結果として父親の死亡に結びついた事に栃錦はひどく心を痛めたという。弔い合戦となった千秋楽は見事勝って全勝優勝を決め父への餞とした。
- ジョン・フォード監督の映画の大ファンでもあって、横綱時代の1954年頃に、淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けて、「西部劇の魅力」について存分に語ったことがある[3]。
- 角界では別格の話好きで、取材に来た報道陣をつかまえては面白おかしく聞かせる話上手でもあった。晩年の代表作は、幕内最高優勝者に送られる「全農賞」の副賞、米30俵について。「俺が頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋じゃ、米を買ったことがないっていうじゃないか」と言ったことも。
- 徴兵経験があるが相撲部屋は軍隊の訓練より厳しいというのが持論だった。
- にわのまことの漫画『THE MOMOTAROH』に「カス日野理事長」という名のパロディキャラクターが登場している。役職は河童族の伝統的な神事である河童相撲の理事長というもの。
- 相撲部屋の親方としては珍しく実子がおらず部屋の若衆が子供のようなものだと述べたこともある。一門の横綱北の湖を養子に迎える意向を持っていたともいわれる。
主な成績
通算成績
- 通算成績:578勝245敗1分1預44休
- 幕内成績:513勝203敗1分32休 勝率.716
- 横綱成績:292勝84敗32休 勝率.777
- 幕内在位:52場所
- 横綱在位:28場所
- 大関在位:8場所
- 三役在位:7場所(関脇4場所、小結3場所)
- 連勝記録:24(1959年7月場所初日~1959年9月場所9日目)※初代若乃花と同じである。
- 年間最多勝(1957年設立):1957年(59勝16敗・当時年5場所制)、1959年(77勝13敗)
- 連続6場所勝利:81勝(1959年3月場所~1960年1月場所、1959年5月場所~1960年3月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:18場所(1950年9月場所~1955年5月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:10場所(1956年9月場所~1958年7月場所)
- 幕内12勝以上連続勝利記録:7場所(当時1位・現在歴代6位、1959年3月場所~1960年7月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝 10回(全勝1回)※初代若乃花と同じ優勝回数、全勝回数である。
- 同点 1回
- 次点 9回
三賞・金星
- 三賞:10回
- 殊勲賞1回
- 技能賞9回
- 金星 1個(東冨士)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1939年 (昭和14年) |
(前相撲) | x | 西序ノ口 2–1 新序 |
x | x | x |
1940年 (昭和15年) |
西序ノ口4枚目 6–2 |
x | 西序二段26枚目 3–5 |
x | x | x |
1941年 (昭和16年) |
東序二段26枚目 5–3 |
x | 東三段目46枚目 5–3 |
x | x | x |
1942年 (昭和17年) |
東三段目18枚目 6–2 |
x | 西幕下24枚目 6–2 |
x | x | x |
1943年 (昭和18年) |
西幕下7枚目 4–4 |
x | 西幕下6枚目 4–4 |
x | x | x |
1944年 (昭和19年) |
西幕下5枚目 6–2 |
x | 東十両9枚目 6–4[4] |
x | x | x |
1945年 (昭和20年) |
x | x | x | x | 西十両 6–4 |
x |
1946年 (昭和21年) |
x | x | x | x | 東十両筆頭 6–6 (痛分1) |
x |
1947年 (昭和22年) |
x | x | 西前頭18枚目 4–6 |
x | 西前頭16枚目 9–2 |
x |
1948年 (昭和23年) |
x | x | 西前頭8枚目 5–5–0 (引分1) |
x | 西前頭7枚目 7–4 |
x |
1949年 (昭和24年) |
西前頭3枚目 7–6 技 |
x | 西前頭3枚目 4–11 |
x | 西前頭7枚目 12–3 技 |
x |
1950年 (昭和25年) |
西小結 8–7 技 |
x | 東小結 5–10 |
x | 東前頭3枚目 8–7 技★ |
x |
1951年 (昭和26年) |
東前頭2枚目 8–7 |
x | 東小結 9–6 技 |
x | 西関脇 9–6 技 |
x |
1952年 (昭和27年) |
東関脇 10–5 技殊 |
x | 東関脇 10–5 技 |
x | 西関脇 14–1 技 |
x |
1953年 (昭和28年) |
東大関 11–4 |
東大関 14–1 |
東大関 13–2 |
x | 西大関 8–7 |
x |
1954年 (昭和29年) |
西大関 9–6 |
西大関 9–6 |
西大関 14–1 |
x | 東大関 14–1 |
x |
1955年 (昭和30年) |
西横綱 10–5 |
西横綱 12–3 |
西横綱 14–1 |
x | 東横綱 4–3–8 |
x |
1956年 (昭和31年) |
西横綱 9–6 |
東横綱 9–6 |
西横綱 5–5–5 |
x | 西横綱 11–4 |
x |
1957年 (昭和32年) |
東横綱 11–4 |
西横綱 11–4 |
東横綱 12–3 |
x | 東横綱 13–2 |
東横綱 12–3 |
1958年 (昭和33年) |
東横綱 11–4 |
西横綱 11–4 |
東横綱 14–1 |
東横綱 12–3 |
西横綱 6–5–4 |
休場 0–0–15 |
1959年 (昭和34年) |
西横綱 10–5 |
西横綱 14–1 |
東横綱 14–1 |
東横綱 15–0 |
東横綱 12–3 |
西横綱 12–3 |
1960年 (昭和35年) |
東横綱 14–1 |
東横綱 14–1 |
西横綱 引退 0–3–0 |
x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
関連項目
脚注
- ^ 立行司22代式守伊之助ともども大鵬の勝ちと主張。しかし春日野以外の勝負審判は戸田の勝ちを支持し、1-4で行司差し違えとなり戸田の勝ち・大鵬46連勝ならずとなるが、誤審であることが判明。相撲の判定にビデオ判定を導入する用意はすでに行なわれていたが、この相撲が前倒し導入の直接のきっかけとなった。
- ^ 北の富士の「つき手」か「かばい手」かを巡って大物言いとなる。立行司25代木村庄之助は「つき手」として貴ノ花に軍配を上げたが、しかし春日野は「かばい手」=貴ノ花は「死に体」だったと主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。
- ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
- ^ 場所後兵役