御宿町
おんじゅくまち 御宿町 | |
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御宿海岸 | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 千葉県 |
郡 | 夷隅郡 |
市町村コード | 12443-5 |
法人番号 | 5000020124435 |
面積 |
24.85km2 (境界未定部分あり) |
総人口 |
6,510人 [編集] (推計人口、2024年4月1日) |
人口密度 | 262人/km2 |
隣接自治体 | いすみ市、勝浦市 |
町の木 | キョウチクトウ |
町の花 | なし |
他のシンボル | なし |
御宿町役場 | |
町長 | 石田義廣 |
所在地 |
〒299-5192 千葉県夷隅郡御宿町須賀1522 |
外部リンク | 御宿町 |
ウィキプロジェクト |
御宿町(おんじゅくまち)とは、千葉県南部に位置する夷隅郡内にある町。海岸には砂浜が広がり、海水浴場も多い。房総を代表する海岸である。また、童謡「月の沙漠」発祥の地としても知られる。
地理
千葉県の南東部、房総半島中央部東端にある。太平洋に面する、いわゆる外房のほぼ真ん中にあたる。
隣接する自治体
歴史
沿革
- 1913年(大正2年)6月20日 - 御宿駅が開業。
- 1914年(大正3年)4月1日 - 御宿村が町制施行し御宿町となる。
- 1953年(昭和28年)5月18日 - 国道128号が制定。
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 御宿町・布施村の大半(下布施と上布施の一部)・浪花村の一部(岩和田)が合併し、御宿町が発足。
行政区域変遷
- 変遷の年表
御宿町町域の変遷(年表) | ||
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年 | 月日 | 現御宿町町域に関連する行政区域変遷 |
1889年(明治22年) | 4月1日 | 町村制施行に伴い、以下の村がそれぞれ発足。[1] |
1914年(大正3年) | 4月1日 | 御宿村が町制施行し御宿町となる。 |
1955年(昭和30年) | 3月31日 | 御宿町・布施村の大半(下布施と上布施の一部)・浪花村の一部(岩和田)が合併し、御宿町が発足。 |
- 変遷表
御宿町町域の変遷表 | |||||||
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1868年 以前 |
明治22年 4月1日 |
明治22年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和64年 | 平成元年 - 現在 | 現在 | ||
須賀村 | 御宿村 | 大正3年4月1日 町制 |
昭和30年3月31日 御宿町 |
御宿町 | 御宿町 | ||
浜村 | |||||||
高山田村 | |||||||
久保村 | |||||||
上布施村 | 布施村 の一部 |
布施村の一部 | |||||
下布施村の一部 | |||||||
岩和田村 | 浪花村 の一部 |
浪花村の一部 |
人口
御宿町(に相当する地域)の人口の推移 | |||
総務省統計局 国勢調査より |
産業
漁業
- 岩和田漁港
- 御宿漁港
御宿の海女
- 千葉県御宿町は、三重県の志摩地方、舳倉島とならび日本の三大海女地帯のひとつとしてあげられている。御宿の海人たちは、その昔に遭難したスペイン人たちを助けた人情味あふれる心意気を忘れず今に伝えている。日に焼けた顔、逞しく健康美にあふれた体に、紺がすり、磯パンツ、ウケ樽など七つ道具を身につけた海女たちは、5月中旬から9月中旬までの4か月間黒潮に潜り、アワビ、サザエ、ワカメなどを採る。一回の作業(2時間)は”いっぽん”といわれ、このいっぽんを繰り返すのが”ひとっぺり”で、平均で一日にみっぺり(約6時間)ほど働いている。
教育
中学校
- 御宿町立御宿中学校
小学校
- 布施学校組合立布施小学校
- 御宿町立御宿小学校
- 毎年、11月後半もしくは12月前半あたりに午前中、御宿中央海岸で、毎年恒例の御宿小学校の「なぎさマラソン」がおこなわれており、大勢の保護者も応援に駆けつけるほどの恒例行事となっている。砂浜を走るというのが、このマラソン大会の最大のポイントとなり、各学年の男女別に走り、距離は5,6年生の1000mが最長となっている。参加する小学生児童は、寒い中でも白無地の丸首半袖体操服に濃紺無地のハーフパンツまたはショートパンツ、ソックスに運動靴、紅白帽子を赤または白にしてかぶりゴム紐を耳の後ろに通してあごにしっかりかけた恰好で走っている。
交通
鉄道
バス路線
高速バス
一般路線バス
道路
観光
霊園
姉妹・提携都市
- 1978年8月7日 第15回国際姉妹都市会議(メキシコ国クエルナバカで開催)に御宿町長、議長が出席、姉妹都市協定を締結する。(1961年11月当時、通産政務次官だった森清代議士が政府の経済代表としてメキシコ政府を訪問。その歓迎宴の席上、1609年(※)の史実を知った事から友好が始まっていた)
- (※)1609年(慶長14年)9月4日(今日の暦では9月30日)の朝、田尻の浜で、ドン・ロドリゴ総督 が乗った、スペイン船籍「サン・フランシスコ号」がフィリピンでの任務を終え、メキシコへ帰還する途中遭難、沈没。岩和田村の人々が乗組員317人を救助した(死亡・行方不明者56名)、その後乗組員は幕府が造らせた船で無事帰還した。