クリート・ボイヤー

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クリート・ボイヤー
Clete Boyer
1962年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ミズーリ州バリー郡
生年月日 (1937-02-09) 1937年2月9日
没年月日 (2007-06-04) 2007年6月4日(70歳没)
身長
体重
182 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1955年
初出場 MLB / 1955年6月5日
NPB / 1972年4月11日
最終出場 MLB / 1971年5月23日
NPB / 1975年10月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴

コーチ歴

  • 大洋ホエールズ (1976)
  • オークランド・アスレチックス (1980 - 1985)
  • ニューヨーク・ヤンキース (1988, 1992 - 1995)

クリート・ボイヤーCletis Leroy "Clete" Boyer , 1937年2月9日 - 2007年6月4日)は、アメリカ合衆国ミズーリ州出身のプロ野球選手内野手)・野球指導者。

来歴・人物

ボイヤー家は野球一家で、クリートの兄のクロイド・ボイヤーケン・ボイヤーもメジャーリーガーで、その他の兄弟も6人全員がプロになっている[1]

1955年5月31日にカンザスシティ・アスレチックスと契約し、同年6月5日にメジャーデビュー。1957年シーズン途中にニューヨーク・ヤンキースへトレードされ、ヤンキースでは1959年にメジャー昇格を果たす。1960年から正三塁手に定着し、同年から1964年にかけてヤンキースのアメリカンリーグ5連覇に貢献。

1967年アトランタ・ブレーブスに移籍し、1969年にはナショナルリーグゴールドグラブ賞(三塁手)を獲得している。

本来であれば当時の日本でプレーするようなクラスの選手ではないが、1971年、在籍していたアトランタ・ブレーブスの首脳陣に対する批判を行い解雇され[1]、メジャー他球団との契約をブレーブスによって阻害されたため[1]1972年はアメリカ独立リーグのハワイ・アイランダース[2]でプレーしていたところ、大洋ホエールズスカウトの牛込惟浩に声を掛けられ、アメリカを見返すために入団した。

打撃は日本プロ野球の外国人選手としてみれば低い方だが、その打撃を補って余りある守備力を持ち、1973年1974年には連続してダイヤモンドグラブ賞を獲得している。当時、セ・リーグ三塁手には長嶋茂雄という絶対的スターがいたが、その長嶋を差し置いて選出されるほどだった。長嶋と違い派手さはないものの、無駄を徹底的に削ぎ落し、確実性を求めたその守備は日本球界に強い印象を与え、高く評価されていた。

当時、ボイヤー・シピン米田慶三郎松原誠の内野陣は12球団でも屈指の堅守を誇った。なお、日本では問題児として知られていたシピンも、自身よりもはるかに格上な名門ヤンキースのレギュラー選手であったボイヤーの言うことにだけは絶対に逆らわなかったという。

1975年に引退した後も守備コーチとして大洋に残り、コーチ就任1年目の1976年には自分の後継者としてゲーリー・ジェスタッドを入団させている。ジェスタッドは1975年に日本ハムファイターズに入団し、ジェスターの登録名でプレーしていたが、打率.242、9本塁打、45打点と成績が振るわず、その年限りで解雇されていた。しかし、ボイヤーの「俺の引退後の三塁のポジジョンは彼しかいない」との一言で入団にこぎつけている。大洋での登録名はゲーリー。ゲーリーは大洋では18本塁打とホームランこそ前年から倍増したものの、打率は.236とさらに低迷。加えてボイヤーが育てた田代が三塁手として成長したために退団となった。こうしてボイヤーもゲーリーと共に退団した。

山下大輔田代富雄を指導したことでも知られる。そして、ボイヤーの教えを受けた者が後にコーチとなって技術を伝承したため、大洋・横浜を通じて鉄壁の内野陣が代々継承されている。周囲の選手からは「ティーチャー」と慕われた[3]

1973年シーズンオフ、当時無名の選手であった高木由一が戦力外として解雇されようとしていたが、球団にかけあい、撤回させた[4]。高木の素質を見抜いていたボイヤーは退団の際、高木に背番号6番を譲り渡した。

金銭面では高潔な人物で、大洋在籍中は年俸交渉を一切せず「君らの評価通りの金額を書き込んでくれ」と言い残し、契約書には金額欄を白地のまま署名だけして帰国したという逸話がある[4]

引退後ハワイで行われた、名球会対メジャーOB連合のエキシビジョンゲームでは稲尾和久からタイムリーヒットを放っている。

2007年6月4日、脳内出血のためアトランタの病院で逝去。満70歳没。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1955 KCA 47 82 79 3 19 1 0 0 20 6 0 0 0 0 3 0 0 17 3 .241 .268 .253 .521
1956 67 143 129 15 28 3 1 1 36 4 1 1 2 0 11 1 1 24 2 .217 .284 .279 .563
1957 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1959 NYY 47 124 114 4 20 2 0 0 22 3 1 0 3 1 6 2 0 23 2 .175 .215 .193 .408
1960 124 431 393 54 95 20 1 14 159 46 2 3 7 5 23 1 3 85 7 .242 .285 .405 .690
1961 148 578 504 61 113 19 5 11 175 55 1 3 1 8 63 4 2 83 13 .224 .308 .347 .656
1962 158 633 566 85 154 24 1 18 234 68 3 2 5 8 51 8 3 106 17 .272 .331 .413 .745
1963 152 596 557 59 140 20 3 12 202 54 4 2 2 2 33 11 2 91 5 .251 .295 .363 .657
1964 147 554 510 43 111 10 5 8 155 52 6 1 3 4 36 11 1 93 12 .218 .269 .304 .573
1965 148 561 514 69 129 23 6 18 218 58 4 1 2 4 39 10 2 79 16 .251 .304 .424 .728
1966 144 558 500 59 120 22 4 14 192 57 6 0 4 6 46 4 2 48 9 .240 .303 .384 .687
1967 ATL 154 619 572 63 140 18 3 26 242 96 6 3 0 6 39 3 2 81 14 .245 .292 .423 .715
1968 71 291 273 19 62 7 2 4 85 17 2 0 0 0 16 3 2 32 8 .227 .275 .311 .586
1969 144 562 496 57 124 16 1 14 184 57 3 7 4 3 55 6 4 87 16 .250 .328 .371 .699
1970 134 525 475 44 117 14 1 16 181 62 2 5 3 5 41 8 1 71 11 .246 .305 .381 .686
1971 30 108 98 10 24 1 0 6 43 19 0 0 1 1 8 2 0 11 1 .245 .299 .439 .738
1972 大洋 99 372 347 38 99 12 0 18 165 51 0 3 1 0 22 1 2 38 10 .285 .332 .476 .807
1973 86 333 306 22 69 13 0 14 124 39 0 2 1 2 24 1 0 43 13 .225 .280 .405 .685
1974 118 458 432 44 122 16 1 19 197 65 0 0 1 2 22 0 1 48 13 .282 .317 .456 .773
1975 116 426 401 38 92 10 1 20 164 63 1 1 2 1 21 0 1 52 16 .229 .269 .409 .678
MLB:16年 1725 6365 5780 645 1396 200 33 162 2148 654 41 28 37 53 470 74 25 931 136 .242 .299 .372 .670
NPB:4年 419 1589 1486 142 382 51 2 71 650 218 1 6 5 5 89 2 4 181 52 .257 .300 .437 .737

表彰

MLB
NPB
MLBとNPBの両方でゴールドグラブ(ダイヤモンドグラブ)を受賞した最初の選手(他にはウェス・パーカーデーブ・ジョンソンイチロー)である。

背番号

  • 12 (1955年 - 1957年)
  • 34 (1959年 - 1961年途中)
  • 6 (1961年途中 - 1971年、1973年 - 1975年、1988年途中 - 同年終了、1993年 - 1995年)
  • 4 (1972年)
  • 41 (1980年 - 1985年)
  • 40 (1988年 - 同年途中)
  • 47 (1992年)

脚注

  1. ^ a b c 恩師と慕われた喧嘩のボイヤー(上)”. デイリースポーツ. 2015年1月13日閲覧。
  2. ^ この時アイランダースにはのちにボイヤーとともに大洋へ入団することとなるジョン・シピンも在籍していた。
  3. ^ ベースボールマガジン、2011年9月号 P71
  4. ^ a b 恩師と慕われた喧嘩のボイヤー(下)”. デイリースポーツ. 2015年2月10日閲覧。

関連項目

外部リンク