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興浜南線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
興浜南線
基本情報
日本の旗 日本
所在地 北海道
起点 興部駅
終点 雄武駅
駅数 6駅
開業 1935年9月15日
廃止 1985年7月15日[1]
所有者 日本国有鉄道
運営者 日本国有鉄道
路線諸元
路線距離 19.9 km
軌間 1,067 mm
線路数 単線
電化方式 非電化
最大勾配 20
最小曲線半径 300 m
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興浜南線(こうひんなんせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線地方交通線)である。 浜頓別駅を終点とする興浜線の先行開業部分として、北海道紋別郡興部町興部駅名寄本線から分岐し、同郡雄武町雄武駅まで開通した。その後、全線開通を目指して延伸工事が行われたが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行により第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)7月15日に全線廃止となった[1]

路線データ

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  • 管轄:日本国有鉄道
  • 区間(営業キロ):興部 - 雄武 (19.9km)
  • 駅数:6(起点駅を含む。駅4、仮乗降場2)
  • 複線区間:なし(全線単線)
  • 電化区間:なし(全線非電化
  • 閉塞方式:タブレット閉塞式
    交換可能駅:なし(全線1閉塞)
1966年の網走支庁地図。
1966年の網走支庁地図。

歴史

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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
名寄本線
exABZq+l exBHFq
0.0 興部駅
exSKRZ-G2u
国道238号
exhKRZWae
興部川橋梁 興部川
exhKRZWae
御西川橋梁 御西川
exBHF
8.3 沢木駅
exHST
(10.3) 元沢木仮乗降場(仮)
exhKRZWae
元沢木川橋梁 元沢木川
exhKRZWae
シケトシナイ川橋梁 シケトシナイ川
exhKRZWae
8.3 オタコムシュベ川橋梁 オタコムシュベ川
exBHF
13.4 栄丘駅
exhKRZWae
トーフツ川橋梁 当沸川
exHST
(16.2) 雄武共栄仮乗降場(仮)
WASSER+l exhKRZWae
第一雄武川橋梁 共栄川
WABZqr exhKRZWae
第二雄武川橋梁 雄武川
exhKRZWae
雄古都内川橋梁 オコツナイ川
19.9 雄武駅
exLSTR
興浜線(未成区間)

名寄線開通により鉄道が敷設された興部村、その北側の雄武村は幾多の恩恵を受けたが、興部と雄武の間は道路が整っておらず、融雪期や多雨期の水産・農産物輸送に支障が出ていた。1922年(大正11年)4月に公布された鉄道敷設法に、興部駅より幌内・枝幸を経て浜頓別駅に至る路線(興浜線)が含まれた。鉄道敷設請願が実った形で期待を寄せたが、政府の予算不成立などにより着工は遅延する一方で、これを待たずに私設鉄道を作る機運が高まるほどであった。着手は1933年(昭和8年)春までずれ込み、1935年(昭和10年)9月15日、沿線の漁場や山林開発を目的として興部駅 - 雄武駅間の興浜南線が開通した[2][3]

その後は雄武 - 枝幸間の開通を目指して積極的な陳情を行ったが、太平洋戦争の拡大により同区間の着工は棚上げされ、興浜南線自体は1944年(昭和19年)10月5日不要不急線に指定。同年11月1日より営業休止を余儀なくされ、省営自動車による代替輸送が行われた。この休止により剥がされた線路などは樺太の軍用施設に転用される予定であったが、運ばれる前に終戦を迎えたことからいち早く復旧に着手し、1945年(昭和20年)12月5日に営業を再開した[4][3]

再開後は通学生や鮮魚商で活況を見せ、1955年(昭和30年)12月には新たに仮乗降場が設置され、同年12月20日には蒸気機関車牽引列車に替えてレールバスの運行を開始した。さらに1966年(昭和41年)3月24日には大型気動車が導入され、若干ではあるがスピードアップした[5][6]

昭和30年代前半までが興浜南線の最盛期で、同年代中盤より客貨量が徐々に減少し始め、1959年(昭和34年)3月には線内各駅を興部駅の管理とするなど合理化も進められた。黒字とはならなかったが営業係数は125から200前後であったことから1960年(昭和35年)4月13日には雄武 - 北見枝幸間の着工が決定し、1966年(昭和41年)5月25日に雄武中学校で起工式と祝賀会が行われて工事が進められ、雄武 - 北見音標間の路盤造成工事が完了した[5][7]

昭和40年代に入ると、過疎モータリゼーションの進行により営業成績が急速に低下した。1960年(昭和35年)の年間輸送人員は42万4千人程であったが、1970年(昭和45年)は29万8千人に減少。以降も減少の一途であった。貨物取扱量も最盛期の半分以下に落ち込んだ。これを受けて、雄武 - 北見枝幸間の工事は1977年(昭和52年)度をもって中止となった[5][7]

各地で鉄道路線の赤字問題が取り上げられる中、1981年(昭和56年)9月11日には稚内駅から興浜南線などオホーツク海沿いの鉄路を経て釧路駅へ至る「オホーツク本線敷設構想」を沿線自治体で立ち上げた。興浜線の工事再開や需要喚起を狙ってのことであったが、この1週間後となる同年9月18日に興浜南線は、接続する予定であった興浜北線と共に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法を受けた第1次廃止対象路線に選定された。1981年度の年間輸送人員は8万4千人だった。興浜南・北線特定地方交通線対策協議会でもオホーツク本線の実現を要望してきたが[8]、後に興部町と雄武町は興浜線の工事再開やオホーツク本線どころではなくなり、興浜南線の存続運動に注力したが、1982年(昭和57年)度の営業係数は1,734にまで悪化。万策尽き、廃止を認めざるを得ない状態であった。1983年(昭和58年)度の営業係数は2,325、赤字額は5億700万円だった。1984年(昭和59年)2月に貨物取扱を廃止し、1985年(昭和60年)7月14日の旅客営業を最後に半世紀にわたる歴史に幕を閉じた[9][7][10]

年表

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駅一覧

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接続路線の事業者名・駅の所在地は廃止時点のもの。全駅北海道網走支庁管内に所在。

駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 所在地
興部駅 - 0.0 日本国有鉄道:名寄本線 紋別郡興部町
沢木駅 8.3 8.3   紋別郡雄武町
元沢木仮乗降場 - (10.3)  
栄丘駅 5.1 13.4  
雄武共栄仮乗降場 - (16.2)  
雄武駅 6.5 19.9  

※仮乗降場には営業キロが設定されていなかった。括弧内に実キロを記す。

脚注

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  1. ^ a b “興浜北線など三線の旅客営業廃止軽微認定 運輸審議会”. 交通新聞 (交通協力会): p. 1. (1984年5月24日) 
  2. ^ 『興部町百年史』 p. 1008
  3. ^ a b 『雄武町百年史』 pp. 1084 - 1085
  4. ^ 『興部町百年史』 pp. 1008 - 1009
  5. ^ a b c 『興部町百年史』 p. 1009
  6. ^ 『雄武町百年史』 p. 1085
  7. ^ a b c 『雄武町百年史』 p. 1086
  8. ^ 「オホーツク本線実現を要望 興浜南・北線対策協初会合」『北海道新聞』1982年10月2日、朝刊。
  9. ^ 『興部町百年史』 pp. 1009 - 1010
  10. ^ a b “興浜南線 半世紀の歴史閉じる”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1985年7月15日)
  11. ^ a b c d 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、913頁。ISBN 978-4-533-02980-6 
  12. ^ 「運輸通信省告示第483号」『官報』1944年10月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
  14. ^ “代替バスが発車 国鉄興浜南線”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1985年7月15日)

参考文献

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  • 『興部町百年史』興部町、1993年。 
  • 『雄武町百年史』雄武町、2006年。 

関連項目

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外部リンク

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