三浦和義
| みうら かずよし 三浦和義 |
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| 本名 | 三浦 和義 |
|---|---|
| 生年月日 | 1947年7月27日 |
| 没年月日 | 2008年10月10日(満61歳没) |
| 出生地 | |
| 死没地 | |
| 民族 | 日本人 |
| 血液型 | B |
| 職業 | 実業家、随筆家、タレント、俳優 |
| 公式サイト | 三浦和義のホームページ プロフィール(所属事務所HP) |
| 主な作品 | |
| 「コミック雑誌なんかいらない!」(出演) 『弁護士いらず 本人訴訟必勝マニュアル』(著作) |
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三浦 和義(みうら かずよし、1947年7月27日 - 2008年10月10日)は、山梨県出身の実業家、随筆家、タレント、俳優。タレント事務所のアルファ・ジャパンプロモーションに所属し、株式会社エヌジーユー代表取締役であった。身長181cm、体重78kg。父方の叔母に元女優・映画プロデューサーの水の江瀧子がいる。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
父は建築会社に勤める土木技師、母は料亭の娘。母の疎開先の山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市)で生まれ、幼い時期を北海道で過ごしたのち千葉県市川市で育つ。
小学生当時、映画プロデューサーだった叔母の水の江瀧子の家へ遊びに行くと俳優たちから多額のお年玉を貰い、その額が30万~40万円に達していたという[1]。このことについて三浦自身は「嬉しかったけど、大人を見くびることにはなったよね。どうしても歪むだろうね」と語っている[2]。水の江は石原裕次郎を育てた日活のプロデューサーでもあり、三浦自身も石原宛の何万枚という年賀状のお年玉くじの整理を頼まれ、当選品を石原からプレゼントされるなど、石原とは当時接触があった[3]。
[編集] 子役時代
水の江から俳優になることを勧められ[4]、水の江のプロデュースする映画で石原裕次郎の少年時代を演じる子役として出演したことがある[5][6]。子役時代、撮影所のスチール担当者から「水の江さんの子供なんだから、やっぱり大きくなったら役者になるんだろう」と話しかけられたことがあり、三浦自身もこの実子説を信じていた時期があったが、1985年には「水の江滝子の実子説というのはなんの根拠もありませんよ」とはっきり否定するようになった[4]。日立市へロケに行ったとき、芸能界の嫌らしさに愛想が尽きて勝手に帰宅、そのまま芸能界から引退した[7]。
[編集] 青年時代
神奈川県大和市立渋谷中学校在学中、複数回の家出を経験[8]。教師と喧嘩して窓から飛び出し、そのまま家から数十万円を持ち出して大阪に行ったこともある[8]。このころ、精神病院に入れられたこともあるという[8]。
ミッキー安川の『ふうらい坊留学記』に影響されて海外に出ることを志し、中学卒業後は技術を身につけるために陸上自衛隊少年工科学校を受験するも失敗し、整備工となる[9]。左利きであるため、整備工としては重宝されていたという[10]。
やがて学歴の必要性を感じ、横浜市立戸塚高等学校に進学。同校では生徒会長でありながら副会長の女子生徒と共に授業をサボタージュして箱根で一泊し停学処分を受けた他、強盗傷害やオートバイ泥棒や日本刀不法所持で逮捕されるなどの問題行動を起こしていたという[11]。1966年、放火などの容疑で逮捕され水戸少年刑務所で7年間服役した[5]。この間、横浜少年鑑別所からの脱走歴があるが、その動機は「アニマルズの公演のチケットを買っていたから」というものだった[12]。
[編集] 実業家
出所後はビニ本の制作や『土曜漫画』編集部に入り、高井研一郎やはらたいらといった漫画家の原稿を取りに行き、家に泊まりこんでいたこともある。1974年には『週刊漫画』編集部に入り、主に雑用係を務めていた。その後ロサンゼルスの先鋭的カルチャー誌『WET』の日本駐在員を経て、1976年に、雑貨輸入会社「フルハムロード」を設立[13]した。
[編集] 「ロス疑惑」
1981年に当時の妻がカリフォルニア州ロサンゼルスで何者かに銃撃されて意識不明の重態となる事件が発生し、自らも足を撃たれて負傷した。当初マスコミは「悲劇の夫」として三浦を扱い、アメリカ軍の協力を取り付けて妻を日本の病院に移送する際に、妻を乗せた上空のヘリコプターに対して地上から発炎筒で誘導する場面を好意的に報道していた。その後1982年11月に、妻が死亡したことで、この事件の報道は収束することになった。
しかし、1984年に『週刊文春』をはじめとするマスコミにより『保険金目当ての殺人であり、その黒幕である』との報道がなされ(いわゆる「ロス疑惑」)、また三浦自身もテレビなどのメディアに積極的に露出し(逮捕時はテレビ朝日の「独占密着取材」中であった)、ミッキー安川やジミー佐古田などと丁々発止のやりとりを行うなど、その特異なキャラクターが視聴者(読者)の興味を引いたことも相まって、ワイドショーや雑誌、全国紙など日本中のマスコミによる過熱報道が行われた。
前後して1979年から行方不明になっていたフルハムロードの元・取締役だった女性が失踪後、ロサンゼルス郊外で遺体として発見されていた事実が判明。失踪直後に三浦が本人の銀行口座から400万円もの現金を引き出していたことも判明した。
その結果、マスコミによる三浦の報道がエスカレートし、「プライバシーの尊重」の概念が発達していなかった当時の日本のマスコミによって、三浦本人のプライバシーが著しく侵害された[14]だけでなく、マスコミによる住居不法侵入や私信の無断開封などの行為が公然と行われていた。
[編集] 銃撃事件の無罪判決
過剰報道騒動の最中の1985年、三浦夫人銃撃事件の4ヶ月前に起こった三浦夫人殴打事件(知人の元ポルノ女優に、宿泊先のニューオータニホテルで妻をハンマーで殴打させた事件)での殺人未遂容疑で逮捕され、後に銃撃事件での殺人罪と詐欺罪で再逮捕された。
殴打事件では懲役6年の有罪が確定したが、銃撃事件の裁判では検察側は実行犯の証明がネックとなり三浦の関与の事実を立証する事ができず、1994年には東京地裁は氏名不詳者との殺人の共謀として有罪判決、1998年の東京高裁で無罪判決となり、2003年には最高裁でも無罪判決となった。この事件に絡み三浦が拘置所や刑務所にいたのは13年間にものぼる。この事件を機に報道被害の問題などでも積極的に発言を行っていた。
[編集] 万引き
2003年5月8日に東京都港区赤坂で書籍(わんわん共和国880円)を万引きして現行犯逮捕されたが、不起訴処分となった[15]。また、2007年4月5日にも神奈川県平塚市のコンビニエンスストアで、サプリメントを万引きした容疑で逮捕される[15][16]。三浦はその少し前に当該コンビニで万引きの疑いが濃い不審な行動をしていたところを防犯カメラに撮影されており、防犯カメラに残されていた映像を見た店側が三浦の顔を覚えて警戒していた最中の犯行であった[15]。
小田原簡裁が罰金30万円の略式命令をして、三浦は罰金を納付した。しかしその後、三浦は正式に裁判を申し立て、万引きを否認して審理中であったが[16]、2008年12月15日、横浜地裁小田原支部は被告人の死亡を理由に公訴棄却を決定した[17]。
[編集] アメリカ当局が逮捕
2008年2月22日に、旅行中の三浦がサイパン島(アメリカ自治領)にてアメリカ当局に殺人罪及び殺人の共謀罪の容疑で逮捕された[18]。弁護側は一事不再理を根拠に逮捕状の無効を主張して争っていたが、ロサンゼルス郡上級裁判所が殺人罪を無効、共謀罪を有効とする判決を下した。サイパン・北マリアナ上級裁判所は身柄をロサンゼルスに移送する事を決定した。
なお、一部マスコミは三浦のことを「三浦容疑者」ではなく、「三浦元社長」と呼称した。
[編集] 死亡
ロサンゼルスに到着した2008年10月10日(現地日時)に三浦はロサンゼルス市警の留置施設にてシャツを用い、首をつって自殺した[19]。なお、三浦の死亡が確認された搬送先の病院は偶然にも1981年11月の銃撃事件で三浦と妻が搬送された病院と同じであった。遺体はロサンゼルスで荼毘に付され、2008年10月25日、妻らとともに日本に「帰国」した。
身柄移送当時に被っていたベースボールキャップには、「PEACE POT MICRODOT」(多幸、大麻、LSDなどの幻覚剤のこと。PPMDは、ヒッピーのスラングで「あばよ」)の刺繍がされていたため、これが何かのメッセージだったのではないかと評されている。日本語の「あばよ」は死に際のメッセージとも受け取れるが、英語のPPMDはSee you later.(じゃあまたね)程度のニュアンスである。
[編集] もう一つのロス疑惑の起訴予定
アメリカ捜査当局は、1979年に腐乱死体で発見された三浦の交際相手であったD子の殺人容疑(ジェーン・ドゥ・88事件)で訴追、再逮捕する方針を固めていたことを現地日時2009年1月10日に元捜査官が明らかにした[20]。
元捜査担当者によると、死因や殺害の状況の詳細は不明だが、被害者の銀行口座から426万円が引き出された状況証拠に基づき、三浦による単独犯行と断定。三浦が死亡する直前の段階で死刑求刑が可能な第1級殺人と窃盗容疑で近く逮捕状を請求する方針を固めており、捜査トップにも報告していた。三浦の弁護側はロサンゼルス・タイムズ紙に「死人に鞭打つとは滅多にない話だ」とコメントしている[21]。
[編集] 出演
[編集] 映画
- 「今日に生きる」 1959年 子役
- 「喧嘩太郎」 1960年 子役
- 「コミック雑誌なんかいらない!」 1986年 本人役
- 「実写版まいっちんぐマチコ先生」 2003年 浦田校長役
- 「三浦和義事件 もう一つのロス疑惑の真実」監修 東真司監督・企画 2004年8月
- 「長者番付に挑んだ男 風雲児」初プロデュース、出演 2006年6月
[編集] テレビ
[編集] バラエティ
[編集] 著作
- 『不透明な時』 二見書房、1984年5月
- 『ロス・コネクション』 講談社、1985年3月
- 『情報の銃弾:検証ロス疑惑報道』 日本評論社、1989年3月
- 『ネヴァ』 モッツ出版、2001年7月
- 『弁護士いらず 本人訴訟必勝マニュアル』 太田出版、2003年6月
- 『弁護士いらず 本人訴訟必勝マニュアル 改訂新版』 太田出版、2007年8月
- 河村シゲル三浦和義対談集『敗れざる者たち』ぶんか社 2008年12月 ISBN 978-4821142248 鈴木邦男 北芝健 ほかが対談協力
[編集] 参考文献
- 沢木耕太郎『馬車は走る』(文春文庫、1989年〉 ISBN 4-16-720908-X
[編集] 脚注
- ^ 沢木、301頁。
- ^ 沢木、300頁。
- ^ 沢木、300-301頁。
- ^ a b 沢木、304頁。
- ^ a b 「三浦和義が崩壊させた5つの家族」『文藝春秋』1988年12月号、文藝春秋。
- ^ 舛田利雄『映画監督 舛田利雄』シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年、74頁、90頁。
- ^ 沢木、303-304頁。
- ^ a b c 沢木、314頁。
- ^ 沢木、312-313頁。
- ^ 沢木、313頁。
- ^ 吉田豪『人間コク宝』p.72(コアマガジン、2004年)
- ^ 吉田豪『人間コク宝』p.75(コアマガジン、2004年)
- ^ 吉田豪『人間コク宝』p.67(コアマガジン、2004年)
- ^ 写真週刊誌『Emma』(文藝春秋)がスワッピング・パーティでの全裸写真を、ほとんど無修正で掲載。編集部がわいせつ容疑で警察の事情聴取を受ける事件もあった。
- ^ a b c 「「ロス疑惑」三浦和義容疑者、また万引き逮捕」。2007年4月6日、スポーツ報知。2008年3月2日閲覧。
- ^ a b 「三浦和義被告「万引は一切していない」」。2007年7月13日、スポニチ。2008年3月2日閲覧。
- ^ 「横浜地裁小田原支部、故三浦和義元社長の窃盗罪の公訴棄却/ロスでの死亡受け」。2008年12月15日、神奈川新聞。2008年12月28日閲覧。
- ^ 「容疑は殺人と共謀罪、逮捕状の詳細判明/三浦容疑者逮捕」。2008年2月22日、MSN産経。2009年1月2日閲覧。
- ^ 弁護人のマーク・ゲラゴスは、「遺体を検視した病理学者が自殺ではなく他殺であったと結論づけた」と語った。三浦元社長は他殺」/病理学者が結論と弁護側 愛媛新聞 10月20日付
- ^ 三浦元社長:米捜査当局、「殺害」訴追方針だった 白石さん事件で 毎日新聞2009年1月11日付
- ^ ロス市警、三浦元社長の白石さん殺害容疑を公式発表 弁護側反発 産経新聞 2009年1月15日付
[編集] 関連項目
- ロス疑惑
- 一事不再理
- ジミー佐古田
- 弘中惇一郎
- 水の江瀧子
- 景山民夫
- ミッキー安川
- 団鬼六(週刊朝日の「私が見た「三浦和義」容疑者」にて彼のSMグラビアの撮影の際に縄を縛ったとコメントしている)
- 須田哲夫(フジテレビアナウンサー。ロス疑惑報道の際、自身がキャスターを務める番組で三浦犯人説を展開し、後に三浦から名指しで批判される。2008年の万引き逮捕の際にも第一報を伝えている。)
- 安部譲二(1987年に『週刊現代』誌上で三浦への判決文に擬して「絶対仮釈放ナシの無期懲役に処す」と書き、名誉毀損で三浦に訴えられて敗れ、100万円の損害賠償金を払った)
[編集] 外部リンク
- 0823.org(本人のサイト)
- 所属事務所サイトにあるプロフィール
- 三浦和義氏の逮捕に怒る市民の会
- 「三浦和義独占手記「逮捕の瞬間、怒りで体が燃えるように感じた」 おりなかった出国許可」(月刊「創」ブログ: 「三浦和義さんの死を悼み、独占手記を公開します。」2008年11月14日 22:30)