ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム

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ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム
محمد بن راشد آل مكتوم
ドバイ首長国アミール
Mohammed Bin Rashid Al Maktoum at the World Economic Forum Summit on the Global Agenda 2008 1.jpg
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(2008年)
在位 2006年1月5日 - 在位中
別号 アラブ首長国連邦第4代副大統領首相
出生 1949年7月22日(65歳)
Flag of the Trucial States.svg 休戦海岸ドバイ
配偶者 ヒンド・ビント・マクトゥーム
  ハヤー・ビント・アル=フセイン
子女
王家 マクトゥーム家
父親 ラーシド
宗教 イスラム教スンナ派
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ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームアラビア語: محمد بن راشد آل مكتوم, ラテン文字転写: Muḥammad bin Rāshid al Maktūm英語: Mohammed bin Rashid Al Maktoum1949年7月22日 - )は、ドバイ首長国アミール(首長)。アラブ首長国連邦副大統領首相(在任:2006年2月11日 - )も兼任する。世界でも有数の競走馬オーナーブリーダーでもあり、その場合は英語読みに近いシェイク・モハメッド(あるいはモハメド英語: Sheikh Mohammed)の名で紹介されることが多い。なお、この場合の「シェイク」(標準アラビア語では「シャイフ」)は、一種の称号である。日本の報道などではムハンマド・ビン・ラシド・マクトムと表記される。

経歴[編集]

ラーシド英語版首長の三男。少年期をドバイで過ごし、1966年イギリス留学、語学学校と士官学校で学んだ。ドバイへ帰国後、1971年にドバイなどイギリスの保護国である6首長国が独立、アラブ首長国連邦を結成すると、その国防大臣に就任する。1973年に発生した日本赤軍による日本航空機ハイジャック事件では交渉人を務め、人質の解放、犯人グループの投降に貢献した。

イギリス帰りのムハンマドはアラブの君主国の指導者としては進取の気性に富み、首長国連邦の軍事、ドバイの内政において辣腕を振るった。1990年、父の死去により兄のマクトゥームが即位すると、兄により太子に指名された。

太子時代は海外での滞在が多いマクトゥーム首長に代わってドバイの政務を執り、海外からの投資を積極的に受け入れ、ドバイを湾岸地域における観光商業の中心都市に成長させた。また、現在中東ハブ空港として知られるドバイ国際空港エミレーツ航空も、ムハンマドの構想によるものである。

2006年1月、兄のマクトゥーム首長が滞在先のオーストラリアで急逝したため、ドバイの首長に即位した。

2009年11月、ドバイの政府系金融機関の信用不安が発生し、世界各国の経済に大きな影響を与えた。経済破綻を回避するための、ムハンマドの首長としての手腕が注目される。

家族[編集]

2012年4月現在で20人の子供達の父親となっている。

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詳細な経歴などは全く紹介されていない。5男7女の母親。
  • ハヤー・ビント・アル=フセイン(2004年 - )
ヨルダン国王フセイン1世の三女。2007年10月に第1子アル=ジャリーラ、第2子ザーイドを出産。

ヒンド妃との息子達[編集]

息子達のうちの数人が2006年のドーハアジア大会におけるエンデュランス馬術競技で金メダルを獲得した。

2008年2月1日にドバイ首長国の太子に指名された。ドバイ執行評議会議長、ハムダーン・ビン・ムハンマド電子大学(HBMe-U)学長を務めている。2008年12月にシェイハ・ビント・サイード・ビン・ターニー・アール・マクトゥームと婚約した。
ちなみに「ハムダーン・ビン・ムハンマド」で「ムハンマドの息子ハムダーン」、「アール・マクトゥーム」で「マクトゥーム家の」の意味があり、「マクトゥーム家のムハンマドの息子ハムダーン」という意味になる。
2008年2月1日にドバイ執行評議会の第一副議長に任命された。
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム基金の理事長を務めている。

ヒンド妃との娘達[編集]

2008年12月にサーイド・ビン・ダルムーク・ビン・ジュマ・アール・マクトゥームと結婚した。
ドーハアジア大会における馬術の障害飛越競技で銅メダルを獲得した。
2009年2月フジャイラ首長国の太子ムハンマド・ビン・ハマド・ビン・ムハンマド・アール・シャルキー英語版と結婚した。
2009年10月バーレーン王子のナースィル・ビン・ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ英語版ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファの四男)と結婚した。

他の女性達との間の子供達[編集]

母親の名前は公表されていない。

ムハンマドの第1子。アラブ首長国連邦副首相のマンスール・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン英語版ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンの弟)と結婚した。
2006年6月9日に第1子ファーティマ、2007年12月4日に第2子ムハンマドを出産した。
ドバイ女性組織(DWE)の会長を務めている。
  • マンスール
ドバイ文化芸術庁の長官を務めている。
おそらくドイツ人女性との間の子供。

競馬との関わり[編集]

ムハンマド首長とハムダーン太子(2010年のロイヤルアスコット開催にて)

イギリスで高等教育を受けたムハンマドは競馬に関心が深く、前述した通り、世界でも有数のオーナーブリーダーとして知られる。

早くからイギリスなどで馬主として活動し、1994年に兄のマクトゥームと共に競走馬の生産・管理・調教などを行う組織ゴドルフィンを設立して本格的に活動を開始した。

また、1996年には世界最高額賞金を誇る競走ドバイワールドカップを創設した。1999年にはエミレーツ航空スポンサーとしてワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップを創設(後にエミレーツ航空は撤退、2006年以降休止状態)、世界の名馬がその能力を競う場を提供した。

日本の競馬にも関心を持っており、第3回ジャパンカップハイホークを出走させて以来、ハートレイク安田記念優勝)など多くの馬を出走させている。また2003年には日本現地法人ダーレー・ジャパン・レーシングを設立し、法人として地方競馬の馬主免許を取得。船橋競馬場川島正行厩舎などを拠点として活動していた。

2006年に同年のゴドルフィンマイルを優勝した直後のユートピア2002年全日本2歳優駿2003年ダービーグランプリ2004年2005年マイルチャンピオンシップ南部杯優勝)を400万ドルの移籍金で獲得してゴドルフィンに移籍させている。

ダーレージャパンは関連会社であるダーレー・ジャパン・ファーム有限会社2007年中央競馬の馬主免許を取得し、約40億円のトレードで獲得したアドマイヤムーン(2007年ドバイデューティーフリー宝塚記念優勝)を中央競馬における所有馬第1号とするなど、今後の動向が注目されていた。しかし、11月1日にダーレージャパングループの代表である高橋力を解任、11月27日に中央競馬馬主登録を抹消申請したため、日本への進出計画がほぼ白紙に戻る形になった。

本人はエンデュランス馬術競技の優秀な騎手であり、数々の大会で優秀な成績を残しており、また自身が大会を主宰する事もある。

近年はドバイの首長としての忙しさから、競馬に関することはGMに任せっきりだという。高橋もムハンマドに意見を聞こうとしたが、忙しすぎて全然話す機会がなかったことを述べている。

2009年11月25日、JRAは同年から認めることになった日本国外居住者の馬主登録についてムハンマドが登録したことを発表した。JRAでの馬主登録名は「H.H.シェイク・モハメド」。また勝負服の柄は「海老、白袖、海老一本輪」。ムハンマドの登録に合わせて、ハヤー妃(登録名:H.R.H.プリンセス・ハヤ)とハムダーン太子(登録名:H.H.シェイク・ハムダン)もJRAに馬主登録したと発表された。2010年3月には所有するルナーレガシーが中央競馬「メイクデビュー中山」で1着となった。2011年には所有馬のデボネア東京優駿に出走することとなり、観戦のために訪日している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
シャイフ・マクトゥーム
ドバイ首長
2006年 -
次代:
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先代:
シャイフ・マクトゥーム
アラブ首長国連邦副大統領首相
2006年 -
次代:
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