音重鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
音 重鎮
中日コーチ時代
(2008年6月25日 阪神鳴尾浜球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 石川県松任市(現:白山市
生年月日 (1963-11-18) 1963年11月18日(60歳)
身長
体重
178 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1987年 ドラフト5位
初出場 1988年4月8日
最終出場 1999年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2002 - 2008)

音 重鎮(おと しげき、1963年11月18日 - )は、石川県松任市(現:白山市)出身の元プロ野球選手外野手一塁手、左投左打)・コーチ。現在は中日ドラゴンズスカウトを務めている[1][2]

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

星稜高校では、1年生ながら右翼手として1979年夏の甲子園に出場。3回戦に進み石井毅嶋田宗彦のバッテリーを擁する箕島高と対戦、球史に残る延長18回の熱戦の末にサヨナラ負け[3]。この試合では六番打者として2安打を放つ。2年上のチームメイトに北安博がいた。1981年には甲子園に春夏連続出場。春の選抜は2回戦に進むが秋田経大付のエース松本豊に抑えられ完封負けを喫する[4]夏の選手権は1回戦で和歌山工に完封負け[3]

高校卒業後は、名古屋商科大学に進学。愛知大学野球リーグでは優勝に届かず、1985年秋季リーグで愛知工大に次ぐ2位が最高成績だった。リーグ通算99試合出場、385打数118安打、打率.306、4本塁打、49打点。ベストナイン1度受賞。

大学卒業後は、社会人野球新日本製鐵名古屋に進み、1987年ドラフト会議中日ドラゴンズから5位指名を受け入団。背番号は引退した同じく左打ちの外野手・藤波行雄40を引継ぐ[5]

中日時代(1度目)[編集]

1年目の1988年から強肩好守を活かし、中堅手の座を彦野利勝と争う。リーグ優勝に貢献し、同年の西武ライオンズとの日本シリーズは4試合に出場。第2戦では8回に山根和夫からダメ押しとなる2点適時打を放ち、最終第5戦では3安打を記録。しぶとい打撃と好守で貴重な戦力として活躍するが、故障も多かった。

1989年も55試合に先発出場。8月12日の中日対巨人戦(ナゴヤ球場)では9回裏一死までノーヒットノーランに抑え込まれていた巨人の先発・斎藤雅樹から代打で右翼線にヒットを打ち、斎藤のノーヒットノーランを阻止した。

広島時代[編集]

1991年1月に山田和利と共に長嶋清幸との交換トレードで広島東洋カープに移籍。

1994年には、右翼手として73試合に先発出場。広島市民球場の外野フェンスをよじ登って横浜佐伯貴弘の本塁打性の飛球を好捕[6]。この守備の映像が松下電器の大画面カラーテレビ「プレイバック・ヨコヅナ」のテレビコマーシャルに使われたこともある。

1995年は正一塁手ルイス・メディーナが故障離脱していた関係で開幕から山田和利と共に一塁で起用されていたが、前田智徳が故障離脱後は再び外野手での起用され、6月には3番打者に定着。同年はプロ生活唯一の規定打席(20位、打率.267)に到達し、守備でもゴールデングラブ賞を初受賞。アキレス腱断裂で戦線離脱した前田(前年まで4年連続ゴールデングラブ賞受賞)の穴を埋め、金本知憲緒方孝市と外野トリオを結成し、優勝争いに貢献した。

中日時代(2度目)[編集]

1995年シーズンオフ、若林隆信+金銭との交換で再び山田和利と共に中日に復帰。移籍初年の1996年は開幕から中堅手、五番打者として起用されるが7月に故障で先発を外れる。翌年以降は故障の影響で極度の打撃不振に陥りスタメンでの出場は激減。守備力の衰えも相まって愛甲猛に次ぐ左の代打としての起用がほとんどであったが結果には結び付けれなかった。

1999年限りで現役引退。

現役引退後[編集]

2000年から中日のスコアラーに転身。

2002年に二軍外野守備コーチに就任。

2004年から打撃・外野守備走塁コーチに転任。その後、打撃兼任を解かれて外野守備走塁コーチに戻る。

2009年からスカウトに転身した[7]

2012年からジュニアドラゴンズの監督と東海ラジオの解説者を務める。

2013年にジュニアドラゴンズの監督を退任した。現在は北陸地区担当のスカウトとして活動している[2]

選手としての特徴[編集]

勝負強い打撃と高い守備力が魅力の外野手[8][9]

人物[編集]

実家は真宗大谷派寺院

娘の音華花(おとはるか)は子役、アイドル(元「ナト☆カン[10])を経て現在は舞台女優・パチスロライター(パチマガスロマガFREE所属)[11][12]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1988 中日 66 171 151 17 33 7 3 3 55 18 0 1 7 3 8 0 2 27 2 .219 .262 .364 .626
1989 78 253 219 29 55 12 2 1 74 16 4 2 15 2 14 0 3 34 3 .251 .303 .338 .641
1990 10 40 32 3 11 2 0 0 13 4 2 1 0 0 7 1 1 0 0 .344 .475 .406 .881
1991 広島 61 73 64 7 13 2 0 1 18 7 0 1 1 2 4 0 2 15 1 .203 .264 .281 .545
1992 85 76 73 12 19 5 0 2 30 4 0 0 2 0 1 0 0 10 1 .260 .270 .411 .681
1993 12 14 14 0 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .214 .214 .214 .428
1994 115 344 306 40 90 17 1 5 124 39 2 3 8 5 24 3 1 60 9 .294 .342 .405 .747
1995 118 442 404 49 108 15 2 9 154 49 4 5 3 5 28 1 2 68 13 .267 .314 .381 .695
1996 中日 86 305 275 43 73 13 0 11 119 41 3 1 1 4 21 1 4 42 11 .265 .322 .433 .755
1997 55 149 130 9 21 3 1 1 29 9 2 0 8 2 8 1 1 24 5 .162 .213 .223 .436
1998 11 21 20 0 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 1 6 0 .100 .143 .150 .293
1999 76 83 74 2 15 4 0 0 19 7 1 0 1 0 7 0 1 16 2 .203 .280 .257 .537
通算:12年 773 1971 1762 211 443 81 9 33 641 195 18 14 46 23 122 7 18 304 48 .251 .303 .364 .667

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 40(1988年 - 1990年)
  • 30(1991年 - 1995年)
  • 50(1996年 - 1999年)
  • 83(2002年 - 2008年)

脚注[編集]

  1. ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P21
  2. ^ a b 12球団編成&スカウト布陣一覧&2021補強ポイント【セ・リーグ編】”. 週刊ベースボール (2021年1月24日). 2021年8月11日閲覧。
  3. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  5. ^ 日本プロ野球 背番号物語 ベースボールマガジン社
  6. ^ 広島 音重鎮 伝説のスーパー忍者キャッチ”. YouTube (2011年4月8日). 2021年11月3日閲覧。
  7. ^ 3コーチ退団へ 高橋、音、古久保氏”. 中日スポーツ/東京中日スポーツ (2008年9月24日). 2009年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月3日閲覧。
  8. ^ 中日・根尾昂は12歳から変わらない、目力も謙虚さも…少年時代から知る元用具担当者が明かす秘話【初本塁打が満塁弾】(小西斗真)page2”. Number Web (2021年5月9日). 2021年9月21日閲覧。
  9. ^ (3ページ目) 歴史に残る名脇役! プロ野球「いぶし銀」の職人選手BEST10”. 日刊大衆 (2015年8月19日). 2021年11月3日閲覧。
  10. ^ 往年のプロ野球選手たちの娘が芸能界で大活躍中!! パパは元プロ野球選手 Vol.04【音華花(おと・はるか)】”. livedoorSPORTS(週プレNEWS) (2012年4月16日). 2021年11月3日閲覧。
  11. ^ 三浦大輔の娘は競馬担当記者!芸能界の新潮流となった「パパは元一流プロ野球選手」リスト”. Smart FLASH (2023年1月13日). 2023年2月13日閲覧。
  12. ^ 音華花(おとはるか)”. パチマガスロマガFREE. 2023年2月13日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]