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1984年のロッテオリオンズでは、1984年シーズンのロッテオリオンズの動向についてまとめる。
この年のロッテオリオンズは、稲尾和久監督の1年目のシーズンである。
球団OBではない稲尾和久監督が就任し、前年最下位からのチーム再建が図られた。佐藤道郎投手コーチの下で投手陣が整備され[2]、深沢恵雄(15勝8敗、防御率3.74)、仁科時成(13勝11敗、防御率3.71)、石川賢(15勝4敗、防御率3.79)の先発3本柱がローテーションを守って二桁勝利を上げた。一方で前年まで4年連続2桁勝利の水谷則博は不調で、5勝11敗、防御率5.09と苦しいシーズン
となった。救援陣では右田一彦が26試合登板、梅沢義勝が33試合登板、西井哲夫が37試合登板で8セーブと活躍した。打撃陣では巨人から移籍した山本功児が一塁手レギュラーに定着し、打っては打率.301(初の規定打席到達)、守ってはダイヤモンドグラブ賞獲得と33歳にして能力を開花させた。山本の加入に伴って野手陣がコンバートされ、前年まで三塁手の有藤通世が右翼手に、前年一塁手の落合博満が三塁手に移動した。打撃陣は好調で、山本、落合、指名打者レロン・リー、中堅手高沢秀昭の4人が打率3割をクリアし、チーム打率は.275でリーグ1位。プロ3年目の西村徳文も二塁手レギュラーに定着して25盗塁を上げた。チームは開幕から5割弱と中々波に乗れずにいたが、6月以降は勝ち星を伸ばし、7月29日対南海戦から8月12日対西武戦まで10勝1分の快進撃を繰り広げた。最終成績は優勝の阪急ブレーブスに及ばなかったが、貯金13の2位でシーズン終了し、稲尾監督によるチーム再建はまず成功の形となった。
チーム成績[編集]
レギュラーシーズン[編集]
1984年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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最終成績
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1位
|
近鉄 |
--
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阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
阪急 |
0.5
|
近鉄 |
4.0
|
近鉄 |
7.0
|
近鉄 |
6.5
|
ロッテ |
6.5
|
ロッテ |
8.5
|
3位
|
南海 |
1.0
|
南海 |
6.5
|
ロッテ |
7.5
|
ロッテ |
7.0
|
近鉄 |
12.5
|
西武 |
14.5
|
4位
|
西武 |
2.0
|
ロッテ |
8.5
|
南海 |
9.5
|
南海 |
11.5
|
西武 |
14.0
|
近鉄 |
16.5
|
5位
|
ロッテ |
2.5
|
西武 |
9.0
|
西武 |
12.0
|
西武 |
13.0
|
南海 |
20.0
|
南海 |
21.0
|
6位
|
日本ハム |
3.0
|
日本ハム |
14.0
|
日本ハム |
15.0
|
日本ハム |
19.0
|
日本ハム |
25.0
|
日本ハム |
29.5
|
オールスターゲーム1984[編集]
できごと[編集]
選手・スタッフ[編集]
[3][4]
表彰選手[編集]
リーグ・リーダー
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選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
|
石川賢
|
最高勝率 |
.789 |
初受賞
|
ドラフト[編集]
- ^ 一塁手部門で1度、二塁手部門で2度受賞しており、通算4度目。
- ^ 外野手部門で2度受賞しており、通算3度目。
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1958年開幕直前に大映ユニオンズと球団合併 |