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「コンラート・アデナウアー」の版間の差分

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{{複数の問題
|独自研究=2018-05
|出典の明記=2018-05
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{{政治家
{{政治家
| 人名 = コンラート・アデナウアー
| 人名 = コンラート・アデナウアー
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| 所属政党 = [[ファイル:Flag of Deutsche Zentrumspartei.svg|border|25px]] [[中央党 (ドイツ)|中央党]]→<br />[[File:Cdu-logo.svg|35px]] [[ドイツキリスト教民主同盟]]
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| 称号・勲章 = [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[勲一等旭日大綬章]]<br />[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]<br />[[レジオンドヌール勲章]]<br />[[カール大帝賞]]<br />ケルン[[名誉市民]]<br />ケルン大学名誉博士
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| 配偶者 = エマ(1904年結婚、1916年死別)<br/>アウグステ・ツィンサー(1919年結婚、1948年死別)
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| 親族(政治家) =
| 親族(政治家) =
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'''コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー'''<ref>ドイツ語での発音に従えば「'''アーデナウア'''」と表記したほうが正確だが、[[日本]]では慣用的に「'''アデナウアー'''」と表記されている。</ref>([[ドイツ語]]: Konrad Hermann Joseph Adenauer、[[1876年]][[1月5日]] - [[1967年]][[4月19日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[西ドイツ]]の初代[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]]を[[1949年]]から[[1963年]]に亘って務めた。また[[1951年]]から[[1955年]]には、[[外務省 (ドイツ)|外相]]を兼任した。[[戦前]]は[[中央党 (ドイツ)|ドイツ中央党]]に属し、[[戦後]]は[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)の初代党首。[[欧州連合の父]]としても知られる<ref>{{Cite web|title=About the EU|url=https://europa.eu/european-union/about-eu_en|website=European Union|date=2016-06-16|accessdate=2021-07-21|language=en|last=Anonymous}}</ref>。
'''コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー'''{{refnest|group=*|ドイツ語での発音に従えば「'''アーデナウア'''」と表記したほうが正確だが、[[日本]]では慣用的に「'''アデナウアー'''」と表記されている。}}([[ドイツ語]]: Konrad Hermann Joseph Adenauer、[[1876年]][[1月5日]] - [[1967年]][[4月19日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[西ドイツ]]の初代[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]]を[[1949年]]から[[1963年]]に亘って務めた。また[[1951年]]から[[1955年]]には、[[外務省 (ドイツ)|外相]]を兼任した。[[戦前]]は[[中央党 (ドイツ)|ドイツ中央党]]に属し、[[戦後]]は[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)の初代党首。[[欧州連合の父]]としても知られる<ref>{{Cite web|title=About the EU|url=https://europa.eu/european-union/about-eu_en|website=European Union|date=2016-06-16|accessdate=2021-07-21|language=en|last=Anonymous}}</ref>。


== 歴 ==
== 歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生 ===
[[File:ArminiaVorstand2.jpg|thumb|left|200px|学生時代のアデナウアー(右端)([[1896年|1896]]/[[1897年|97年]])]]
[[File:ArminiaVorstand2.jpg|thumb|left|200px|学生時代のアデナウアー(右端)([[1896年|1896]]/[[1897年|97年]])]]
[[1876年]][[1月5日]]、ケルンにて5人兄妹の三男(三子)として出生<ref name = "uexküll_p20">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、20頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p26-27">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、26-27頁</ref><ref name = "itabashi_p10">[[#板橋|板橋]]、10頁</ref><ref name = "asahiro_p35">[[#朝広|朝広]]、35頁</ref><ref name = "ohtake_p3-4">[[#大岳|大岳]]、3-4頁</ref><ref name = "itabashi_p9">[[#板橋|板橋]]、9頁</ref><ref name = "itabashi_p11">[[#板橋|板橋]]、11頁</ref>。アデナウアーの父方の祖父はパン屋であった<ref name = "uexküll_p20"/><ref name = "itabashi_p10"/><ref name = "ohtake_p3-4"/><ref name = "kajima1965_1_p13-14">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、13-14頁</ref>。アデナウアーの父親の名前はヨハン・コンラート・アデナウアーであり、父・コンラートは小学校卒業後、公務員になるべく[[プロイセン陸軍]]に入隊<ref name = "uexküll_p20"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "itabashi_p10"/><ref name = "asahiro_p35"/><ref name = "ohtake_p3-4"/><ref name = "kajima1965_1_p13-14"/>。そして、[[普墺戦争]]に従軍し、[[ケーニッヒグレーツの戦い]]で重傷を負ったものの、この時の活躍が認められ、勲章を授与されたことがある<ref name = "uexküll_p20"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "itabashi_p10"/><ref name = "ohtake_p3-4"/><ref name = "kajima1965_1_p13-14"/>。結局父・コンラートは小学校卒業という最終学歴にハンディがありながら、プロイセン陸軍で中尉まで昇進した<ref name = "uexküll_p20"/><ref name = "asahiro_p35"/><ref name = "ohtake_p3-4"/><ref name = "kajima1965_1_p13-14"/>。そして、父・コンラートは軍を退役後、裁判所の書記に転じて、ケルン市の銀行員の娘・ヘレーナと結婚し、二人の間には4人の子供が生まれ、アデナウアーは三男(三子)として出生する<ref name = "asahiro_p35"/><ref name = "kajima1965_1_p13-14"/>。父・コンラートは、敬虔なカトリック教徒で、アデナウアーも父親の影響を受けて[[カトリック]]を信仰していた<ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "asahiro_p35"/><ref name = "uexküll_p20"/>。アデナウアーの生家は安定した生活ではあったものの、父・コンラートは下級役人であったため家計は苦しかった<ref name = "uexküll_p20"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "ohtake_p3-4"/>。アデナウアーの生家は3階建ての借家であったが、3階部分と2階の半分を転貸していたくらいであった<ref name = "uexküll_p21">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、21頁</ref><ref name = "itabashi_p12">[[#板橋|板橋]]、12頁</ref><ref name = "ohtake_p3-4"/><ref name = "kajima1965_1_p11-12">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、11-12頁</ref>。そのせいで、居住スペースは狭く、アデナウアーは17歳までベッド一つで兄と就寝していた<ref name = "uexküll_p21"/><ref name = "itabashi_p12"/><ref name = "ohtake_p3-4"/><ref name = "dharcourt_p2-4">[[#ダルクール|ダルクール]]、2-4頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p11-12"/>。
父は[[ケルン]]の控訴審裁判所の書記官{{仮リンク|ヨハン・コンラート・アデナウアー|de|Johann Conrad Adenauer}}、母はヘレーネ(旧姓シャルフェンベルク)。5人兄弟の3番目として生まれた。[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]は[[カトリック教会|カトリック]]である。[[1894年]]3月5日にケルンのアポステル[[ギムナジウム]]で[[アビトゥーア]]を取り、学業を始める。最初の7か月間は[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]に在籍。その後、[[1897年]]まで[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]、[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]でそれぞれ[[法学]]と[[政治学]]を学ぶ。


=== 大学進学と法曹の世界へ ===
=== 公務員時代 ===
1885年春、アデナウアーはケルンの[[ギムナジウム]]に入学する<ref name = "itabashi_p17-18">[[#板橋|板橋]]、17-18頁</ref><ref name = "asahiro_p39">[[#朝広|朝広]]、39頁</ref>。ギムナジウムはカトリック系で[[ラテン語]]と[[ギリシャ語]]教育に重点を置いていた<ref name = "itabashi_p17-18"/>。ギムナジウムでは、首席というわけではなかったが、常に6番以内の成績を維持していた<ref name = "asahiro_p37">[[#朝広|朝広]]、37頁</ref>。アデナウアーは[[1894年]]春に、ギムナジウムを卒業し、大学進学を志望するも、アデナウアーの兄二人がすでに大学進学しており、アデナウアーを進学させる経済的余裕はアデナウアーの生家にはなかった<ref name = "asahiro_p39"/><ref name = "ohtake_p5">[[#大岳|大岳]]、5頁</ref><ref name = "uexküll_p26-27">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、26-27頁</ref><ref name = "itabashi_p17-18"/><ref name = "kajima1965_1_p15-17">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、15-17頁</ref>。アデナウアーは、一旦ケルン市内の銀行に就職するも、後にこの銀行員生活を振り返って「いやな職業につくということがどんなものか、身に染みてわかった。」と述べている<ref name = "asahiro_p39"/>。また、この当時、銀行員で出世するためには大卒程度の学歴が必要であったため、アデナウアーは失意に暮れる<ref name = "kajima1965_1_p15-17"/>。銀行員の仕事に嫌気がさしているのを見かねた父・コンラートは、アデナウアーを大学へ進学させるために、奨学金の申請をした<ref name = "asahiro_p39"/><ref name = "ohtake_p5"/><ref name = "kajima1965_1_p15-17"/>。その結果、アデナウアーは奨学金を得ることができ、わずか2週間で銀行を退職し、大学へ進学する<ref name = "uexküll_p26-27"/><ref name = "itabashi_p17-18"/><ref name = "asahiro_p39"/><ref name = "kajima1965_1_p15-17"/>。
[[1897年]]に第1次、[[1901年]]に第2次[[司法試験|法曹国家資格試験]]に合格し、ケルンで[[公務員]]として試補採用された。[[1903年]]から[[1905年]]までケルン上級裁判所に判事として勤務する。[[1904年]]にエンマ・ヴァイヤーと結婚し、3人の子どもをもうけた。[[1906年]]に[[中央党 (ドイツ)|ドイツ中央党]]へ入党した。[[1909年]]にケルン市助役。エンマは1916年10月6日に死亡し、[[1919年]]にアウグステ・ツィンサーと再婚して5児をもうける。


1894年春、アデナウアーは、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]][[法学部]]に入学し、その後[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]を経て、[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]で学んだ<ref name = "uexküll_p26-27"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "itabashi_p17-18"/><ref name = "asahiro_p39"/><ref name = "ohtake_p5"/><ref name = "dharcourt_p148-149">[[#ダルクール|ダルクール]]、148-149頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p15-17"/><ref name = "kajima1965_1_p18-20"/>。大学時代のアデナウアーは、カトリック系の学生団体に入会していたものの、奨学金で進学していたことや生家が貧しかったこともあり、質素倹約に務め、飲酒喫煙もせず、交友関係も少なかった<ref name = "asahiro_p39"/><ref name = "ohtake_p5"/><ref name = "dharcourt_p148-149"/><ref name = "kajima1965_1_p15-17"/>。
=== ケルン市長 ===

アデナウアーは、大学在学時の[[1897年]][[5月22日]]に第一国家試験を突破し、司法官試補見習(無報酬の見習い弁護士)になる<ref name = "itabashi_p17-18"/>。[[1901年]][[10月19日]]には第二次国家試験に合格し、司法官試補になったものの、この時の成績は芳しくなかった<ref name = "itabashi_p19">[[#板橋|板橋]]、19頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p26-27">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、26-27頁</ref>。当時の法曹界は、国家試験の成績が良い者から弁護士になっていくシステムだったため、アデナウアーはこの時は弁護士にはなることができず、不本意ながら、ケルンの検察庁に奉職する<ref name = "itabashi_p19"/><ref name = "ohtake_p6">[[#大岳|大岳]]、6頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p18-20">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、18-20頁</ref>。しかし、アデナウアーにとっては検察庁の仕事は面白くなかったようで、まもなく仕事に飽きてしまい、2年間の奉職後に退職する<ref name = "itabashi_p20">[[#板橋|板橋]]、20頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p18-20"/>。

=== ケルン市助役と市長就任 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-05952, Wilhelmshaven, Stapellauf Kreuzer »Köln«.jpg|thumb|left|200px|ケルン市長時代(左から3人目)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 102-05952, Wilhelmshaven, Stapellauf Kreuzer »Köln«.jpg|thumb|left|200px|ケルン市長時代(左から3人目)]]
検察庁を退職したアデナウアーは、ケルン市内のカウゼン弁護士事務所に就職する<ref name = "uexküll_p26-27"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "itabashi_p20"/><ref name = "ohtake_p6"/><ref name = "kajima1965_1_p18-20"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/>。同弁護士事務所所長のカウゼンは、ケルン市内では民事弁護士として有名で、同市の[[中央党 (ドイツ)|カトリック中央党]]議員団長も務めていた<ref name = "itabashi_p20"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "ohtake_p6"/><ref name = "kajima1965_1_p18-20"/>。[[1906年]]、ケルン市の助役に欠員が出たため、アデナウアーは、カウゼンに頼み込み、助役に推薦してもらい、同年[[3月7日]]、アデナウアーは投票によって37票中35票の賛成票を得て、序列10番目の助役に選任され、税務を担当することになる<ref name = "uexküll_p28-29">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、28-29頁</ref><ref name = "ohtake_p7">[[#大岳|大岳]]、7頁</ref><ref name = "dharcourt_p7-9">[[#ダルクール|ダルクール]]、7-9頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p24-26">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、24-26頁</ref>。父・コンラートは、アデナウアーが助役に選任された3日後に死去している<ref name = "asahiro_p41-43">[[#朝広|朝広]]、41-43頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p24-26"/>。
[[中央党]]の政治家として[[1917年]]から[[1933年]]まで[[ケルン]]市長を務める。就任当時は41歳で、当時のドイツの大都市では最も若い市長だった。[[1918年]]、{{仮リンク|プロイセン王国枢密院|de|Preußischer Staatsrat (1817–1918)|label=プロイセン王国枢密院}}終身議員に選出されるが、11月の[[第一次世界大戦]]の敗北でその称号は有名無実のものとなった。敗戦直後の混乱期、中央党は[[ラインラント]]地方の分離運動を展開したためアデナウアーもその一味として攻撃に遭う。[[1922年]]から1933年には{{仮リンク|プロイセン自由州枢密院 (1921年-1933年)|de|Preußischer Staatsrat (1921–1933)|label=プロイセン自由州枢密院}}議長を務める。[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]時代には何度か首相候補として取りざたされたが、アデナウアーはケルン市長の座に満足しており、固辞していた。ケルン市長としては、[[戦後]]の混乱期に[[食品|食糧]]確保の指導、古い城壁の破壊と緑地化、[[ケルン大学]]の再建、[[フォード・モーター|フォード]]や[[シトロエン]]など外国企業の誘致、[[メッセ]]やドイツ初の[[アウトバーン]]の建設など多くの政策を実行し、ケルンを国内一の産業都市にまで育て上げた<ref>一方でカトリック中央党の政治家として[[反キリスト]]教的・「反道徳的」な芸術には厳しく臨み、[[ブレヒト]]の劇「三文オペラ」のセリフを変更させたり、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]の「[[中国の不思議な役人]]」の上演を禁止したり、印象派画家[[オットー・ディクス]]の作品を美術館から撤去させたりした。</ref>。

アデナウアーはテニスクラブで出会ったケルンの名家の娘、エマと[[1904年]]1月に結婚する。エマの父方の祖父は建築家で美術館も経営しており、600点以上の名画を所有していた<ref name = "uexküll_p26-27"/><ref name = "itabashi_senoh_p26-27"/><ref name = "itabashi_p20"/><ref name = "asahiro_p41-43"/><ref name = "kajima1965_1_p21-23">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、21-23頁</ref>。エマとの間には、3人の子供に恵まれるが(1906年長男、1910年次男、1912年長女)、長男出産時、難産であったため、エマは脊髄が湾曲し、腎不全になってしまい健康状態がすぐれず、1916年10月に死去する<ref name = "itabashi_senoh_p27">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、27頁</ref><ref name = "asahiro_p41-43"/><ref name = "kajima1965_1_p27-28">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、27-28頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p30-33">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、30-33頁</ref>。

1907年アデナウアーの妻・エマの叔父{{仮リンク|マックス・ヴァルラフ|en|Max Wallraf}}が市長に就任し、アデナウアーは、[[1909年]][[7月22日]]ケルン市の副市長並びに首席助役に就任する<ref name = "itabashi_p22">[[#板橋|板橋]]、22頁</ref>。ヴァルラフは公務で[[ベルリン|ベルリン市]]へ出張することが多く、アデナウアーが事実上のケルン市市長を務めていた<ref name = "asahiro_p41-43"/>。

[[1914年]][[第一次世界大戦]]が勃発する。戦争勃発当時、戦争は[[クリスマス]]で終戦するだろうと考えていた民衆が大多数であったが、アデナウアーは戦争の長期化を予想し、食糧問題を担当する<ref name = "itabashi_p22"/><ref name = "asahiro_p43-44">[[#朝広|朝広]]、43-44頁</ref><ref name = "dharcourt_p7-9"/><ref name = "kajima1965_1_p28-30">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、28-30頁</ref>。アデナウアーは、ケルン市周辺の農家と契約を結び、食糧を市へと引き渡すことを確約させ、その見返りに、ケルン市は、肥料を農家に供給することを確約するといった施策を実施した<ref name = "kajima1965_1_p28-30"/>。また、アデナウアーは市有地の大半の耕作を農家に委託するなど、ドイツ国内では比較的ケルン市の食糧を充実させることに成功した<ref name = "kajima1965_1_p28-30"/>。

首席助役として成果を上げたアデナウアーは、[[1917年]][[9月18日]]ケルン市市議会で賛成50票、反対0票、棄権2票で市長に選出され、11月29日、ケルン市市長に就任する<ref name = "itabashi_p24">[[#板橋|板橋]]、24頁</ref>。第一次世界大戦終戦間際の1918年11月、[[ドイツ革命|キールで水兵の反乱]]がおき、ケルン市内でも労兵レーテが市の権力を掌握し、市長であったアデナウアーは対応に追われる<ref name = "uexküll_p69-70">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、69-70頁</ref><ref name = "asahiro_p47-48">[[#朝広|朝広]]、47-48頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p39-40">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、39-40頁</ref>。アデナウアーは反乱軍と粘り強く交渉し、市内の秩序回復と市民への食糧の公正配分を行い、反乱軍をうまく懐柔することに成功した<ref name = "uexküll_p69-70"/><ref name = "asahiro_p47-48"/><ref name = "kajima1965_1_p39-40"/>。そして、第一次世界大戦終戦後、ケルン市にイギリス軍が進駐してくる<ref name = "kajima1965_1_p48-50">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、48-50頁</ref><ref name = "prittie_p126">[[#プリティ|プリティ]]、126頁</ref>。アデナウアーはイギリス軍により発表された、「ドイツ人男性はイギリス軍士官に対しては帽子をとって挨拶せよ」という指令には反対するなどしたが、この期間は概ねイギリス軍とうまく付き合っていた<ref name = "kajima1965_1_p48-50"/><ref name = "prittie_p126"/>。

第一次世界大戦終戦直後、この時点では[[ヴェルサイユ条約]]が未締結であり、ドイツの[[政体|国家政体]]がどうなるかが不透明であったため、[[ラインラント]]の処遇が盛んに議論された。ラインラントの処遇を巡ってはいくつかの方向性があるが、アデナウアーは、ラインラントをドイツの一つの州にすることを検討しており、ラインラントのプロイセン分離を支持し、ドイツからの分離は支持していなかった<ref name = "uexküll_p44-47">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、44-47頁</ref><ref name = "itabashi_p31-32">[[#板橋|板橋]]、31頁</ref><ref name = "ohtake_p18-19">[[#大岳|大岳]]、18-19頁</ref>。[[1918年]][[11月22日]]、アデナウアーを議長とするラインラントの処遇を議論する委員会を発足させ、アデナウアーはラインラントをドイツから独立させるのではなく、ドイツ国内に西ドイツ共和国を成立させるという構想を打ち出した<ref name = "kajima1965_1_p83">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、83頁</ref><ref name = "dharcourt_p16">[[#ダルクール|ダルクール]]、16頁</ref><ref name = "uexküll_p44-47"/><ref name = "kajima1965_1_p79">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、79頁</ref>。しかし、ヴェルサイユ条約には、アデナウアーの構想は盛り込まれず、ラインラント地方を中立化することで一旦妥協した<ref name = "kajima1965_1_p87">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、87頁</ref><ref name = "itabashi_p34">[[#板橋|板橋]]、34頁</ref><ref name = "ohtake_p21">[[#大岳|大岳]]、21頁</ref>。1923年、フランスはドイツからの賠償金が滞っているのを理由として、[[ルール地方]]を占領する<ref name = "ohtake_p21-23">[[#大岳|大岳]]、21-23頁</ref>。

[[フランス]]はラインラントの分離・独立の実現を図り、ラインラントの分離主義者を支援し始め、解体しようとした。アデナウアーは、ラインラント州を成立させて、フランスを懐柔することで和解を図り、ドイツとフランスの経済的結合を主張した<ref name = "ohtake_p21-23">[[#大岳|大岳]]、21-23頁</ref>。戦争遂行に必要な重工業については、[[ベルギー]]や[[オランダ]]とも統合して、戦争を不可能にするという構想が、アデナウアーには既にあった。ただ、周囲からの理解は得られず、構想だけで終わった<ref name = "ohtake_p21-23"/>。

アデナウアーは、1919年9月25日に再婚する<ref name = "uexküll_p49">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、49頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p28">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、28頁</ref><ref name = "itabashi_p44-45">[[#板橋|板橋]]、44-45頁</ref><ref name = "ohtake_p10">[[#大岳|大岳]]、10頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p50-55">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、50-55頁</ref>。結婚相手は、隣家の娘で18歳または19歳年下のアウグステ(グッシー)であった<ref name = "itabashi_p44-45"/><ref name = "ohtake_p10"/><ref name = "kajima1965_1_p50-55"/>。アウグステとの間には、4人の子供に恵まれる(正確には5人出産したが、1人は生後間も無く死亡している)<ref name = "itabashi_p44-45"/><ref name = "ohtake_p10"/>。

アデナウアーはケルン市の市長として、精力的に活動したがその手腕や手法はかなり強引なものであった。ケルン市は要塞都市で城壁があったが、第一次世界大戦終戦後、城壁はイギリス占領軍によって取り壊されてしまった<ref name = "itabashi_senoh_p27">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、27頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p64-65">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、64-65頁</ref>。アデナウアーはこの跡地に利権者との調整のために、法律を制定して、緑地化する権利を獲得し、緑地帯を建設させた<ref name = "kajima1965_1_p64-65"/>。また、[[ライン川]]に橋を建設する際に、アデナウアーは建設費用の安いブリッジ型の橋よりも、見栄えが良いが高コストな吊り橋の建設を、半ば強引に市議会の同意を取り付けて建設させた<ref name = "uexküll_p60">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、60頁</ref><ref name = "itabashi_p40-41">[[#板橋|板橋]]、40-41頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p71-74">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、71-74頁</ref>。

そのほか、アデナウアーは様々な公共工事を行なった。ナチスドイツの[[アウトバーン]]建設に先駆けて、ボンとケルン間に高速道路を建設し、運河の拡充や空港・港の建設、現在の[[1.FCケルン]]のホームスタジアムとなる[[ラインエネルギーシュタディオン|ミュンガースドルファー・シュタディオン]]や展示会場の建設など公共工事をふんだんに行ったため、ケルン市の資金運用はかなり放漫であった<ref name = "itabashi_senoh_p27"/><ref name = "itabashi_p43-44"/><ref name = "itabashi_p40">[[#板橋|板橋]]、40頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p56-60">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、56-60頁</ref>。アデナウアーは市議会からは、ドイツで一番金を使う市長だと揶揄された<ref name = "asahiro_p53">[[#朝広|朝広]]、53頁</ref>。また、アデナウアーは学問にも力を入れ、ケルン大学を再建させた<ref name = "itabashi_senoh_p28"/><ref name = "ohtake_p12-13">[[#大岳|大岳]]、12-13頁</ref><ref name = "dharcourt_p13-14">[[#ダルクール|ダルクール]]、13-14頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p56-60">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、56-60頁</ref>。

アデナウアーは、ケルン市の市長であったが、プロイセンの第二院である国家評議会にも所属していた<ref name = "itabashi_senoh_p28"/><ref name = "itabashi_p42-43">[[#板橋|板橋]]、42-43頁</ref>。国家評議会には1921年5月から1933年まで所属しており、ナチスドイツが政権を掌握するまでに、2度の首相就任の打診があった<ref name = "itabashi_p42-43"/><ref name = "itabashi_senoh_p28"/>。一度目は1921年のことで、組閣面がアデナウアーの意に沿わなかったことから辞退。二度目は1926年のことで、大連立政権を樹立する想定であったが、過渡期の一時しのぎの首相就任であったため、これも辞退した<ref name = "itabashi_p42-43"/>。そのほか、[[グスタフ・シュトレーゼマン]]との不和や妨害工作があったことや、ケルン市市長のほうが権勢を振るうことができたというのも首相就任を断った原因として挙げられている<ref name = "itabashi_senoh_p28"/><ref name = "ohtake_p25">[[#大岳|大岳]]、25頁</ref><ref name = "musulin_p56-57">[[#ムスリン|ムスリン]]、56-57頁</ref><ref name = "prittie_p126-127">[[#プリティ|プリティ]]、126-127頁</ref>。

=== ナチス・ドイツ時代 ===
1933年1月、[[アドルフ・ヒトラー]]が首相となる。ヒトラーは1933年2月17日、ケルン市を訪問するが、アデナウアーは、ヒトラーは3月の選挙運動の一環として来たのであって、国家元首として来たのではないとして、ヒトラーを出迎えなかった<ref name = "uexküll_p71">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、71頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p28"/><ref name = "itabashi_p46-47">[[#板橋|板橋]]、46-47頁</ref><ref name = "asahiro_p60-61">[[#朝広|朝広]]、60-61頁</ref><ref name = "ohtake_p31">[[#大岳|大岳]]、31頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p122-123">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、122-123頁</ref><ref name = "prittie_p126-127"/>。また、アデナウアーはライン川の橋に架けられていた[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]の旗の撤去を命じるなど、ナチス党の反感を買う<ref name = "uexküll_p71"/><ref name = "asahiro_p60-61"/><ref name = "ohtake_p31"/><ref name = "kajima1965_1_p124">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、124頁</ref><ref name = "prittie_p126-127"/>。ナチス党は反アデナウアーを扇動した<ref name = "ohtake_p31"/>。アデナウアーはケルン市市長として、市議会で自身の意見をかなり強引に通し、多額の税金を公共事業に使用しており、その当時としては多額の報酬を得ていたことから、市民の反感を買っていた<ref name = "ohtake_p31"/><ref name = "asahiro_p62-63">[[#朝広|朝広]]、62-63頁</ref>。現に1929年12月の市長選挙では、96票中49票の過半数に一票差で市長に再選されていた<ref name = "uexküll_p65-67">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、65-67頁</ref><ref name = "itabashi_p43-44">[[#板橋|板橋]]、43-44頁</ref><ref name = "dharcourt_p28">[[#ダルクール|ダルクール]]、28頁</ref>。当時ナチス党が優勢であったため、市民はナチス党からの報復を恐れ、アデナウアーの周辺から人が離れていった<ref name = "ohtake_p32">[[#大岳|大岳]]、32頁</ref>。[[1933年3月ドイツ国会選挙|同年3月5日の選挙]]は、ナチス党の勝利に終わり、ケルン市の市議会もナチス党が議席の大半を占め、アデナウアーは窮地に立たされ、報復を警戒したアデナウアーは3月13日、ベルリンへと出立し、[[ヘルマン・ゲーリング]]にナチス党に反抗する気はない旨を伝えようとしたが、効果は上げられなかった<ref name = "itabashi_p48">[[#板橋|板橋]]、48頁</ref><ref name = "asahiro_p62-63"/><ref name = "ohtake_p32"/><ref name = "kajima1965_1_p129">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、129頁</ref>。そして、アデナウアーは1933年4月4日、ケルン市市長を罷免される<ref name = "itabashi_p49-50">[[#板橋|板橋]]、49-50頁</ref>。

ケルン市市長を罷免されたアデナウアーは年金の受給資格を失い、銀行口座が凍結されるなどの不遇を受けた<ref name = "uexküll_p72-73">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、72-73頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p28"/><ref name = "ohtake_p32"/><ref name = "ohtake_p32-33">[[#大岳|大岳]]、32-33頁</ref>。アデナウアーは市長罷免直後、暗殺や逮捕を警戒し、家族と離れ離れになり[[修道院]]に身を寄せるなどしていた<ref name = "uexküll_p72-73"/><ref name = "itabashi_senoh_p28"/><ref name = "itabashi_p50-51">[[#板橋|板橋]]、50-51頁</ref><ref name = "asahiro_p64-65">[[#朝広|朝広]]、64-65頁</ref><ref name = "ohtake_p32-33"/><ref name = "dharcourt_p32-33">[[#ダルクール|ダルクール]]、32-33頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p134-135">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、134-135頁</ref>。また、ユダヤ人の友人に1万マルクを融通してもらうなどして露命を繋いだ<ref name = "uexküll_p72-73"/><ref name = "ohtake_p32-33"/><ref name = "dharcourt_p27">[[#ダルクール|ダルクール]]、27頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p134-135"/>。1934年にベルリン近郊に居住するが、同年6月30日[[長いナイフの夜]]が発生し、アデナウアーは逮捕される<ref name = "uexküll_p72-73"/><ref name = "itabashi_p50-51"/><ref name = "asahiro_p64-65"/><ref name = "ohtake_p33">[[#大岳|大岳]]、33頁</ref><ref name = "dharcourt_p32-33"/><ref name = "kajima1965_1_p148-149">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、148-149頁</ref>。アデナウアーは、[[エルンスト・レーム]]とは無関係である旨を供述すると、数日後に釈放された<ref name = "uexküll_p72-73"/><ref name = "itabashi_p50-51"/><ref name = "asahiro_p64-65"/><ref name = "ohtake_p33"/><ref name = "kajima1965_1_p152">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、152頁</ref>。1934年8月には、[[ヴィルヘルム・フリック]]内相に、自身が反ナチスでないことと、ケルン市市長を罷免されたのは不当であることを訴える手紙を送り、これが功を奏し、1936年春には年金受給資格の一部が回復され、月1000マルクが支給されることになった<ref name = "uexküll_p72-73"/><ref name = "ohtake_p32-33"/><ref name = "asahiro_p64-65">[[#朝広|朝広]]、64-65頁</ref>。アデナウアーは{{仮リンク|レーンドルフ|de| Rhöndorf }}に家族と共に隠棲し、バラづくりなど庭いじりや趣味の発明にいそしむ<ref name = "uexküll_p72-73"/><ref name = "itabashi_senoh_p28"/><ref name = "itabashi_p52">[[#板橋|板橋]]、52頁</ref><ref name = "dharcourt_p34">[[#ダルクール|ダルクール]]、34頁</ref>。

隠棲時のアデナウアーは、第二次世界大戦終戦まで平穏無事であったわけではなく、1943年には[[カール・ゲルデラー]]から[[ヒトラー暗殺計画]]参加の打診を受けたが、断った<ref name = "itabashi_p54-55">[[#板橋|板橋]]、54-55頁</ref><ref name = "asahiro_p66-67">[[#朝広|朝広]]、66-67頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p167">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、167頁</ref>。アデナウアーが反ヒトラー運動に参加しなかった理由は複数あり、以下がその理由とみられている。

#旧プロイセン軍人が主として反ヒトラー運動に加担しており、仮にヒトラー暗殺が成功して政権を掌握できたとしても、軍事独裁になる可能性があり、アデナウアーがそれを嫌ったため<ref name = "ohtake_p33"/>。
#ドイツの敗戦は最早不可避であり、完全敗北しなければ、ドイツの真の民主主義が実現できないと考えたため<ref name = "ohtake_p33"/>。
#アデナウアー自身がナチス党の監視下にあるため、秘密裏にヒトラー暗殺の計画と実行は不可能であり、アデナウアーが家族を巻き添えにするのを嫌がったため<ref name = "ohtake_p33"/>。


1944年7月20日、[[7月20日事件|ヒトラー暗殺]]は失敗に終わり、ヒトラー暗殺の関与を疑われたアデナウアーは1944年8月23日に逮捕される<ref name = "uexküll_p74-76">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、74-76頁</ref><ref name = "itabashi_p54-55"/><ref name = "asahiro_p66-67"/><ref name = "ohtake_p35-36">[[#大岳|大岳]]、35-36頁</ref>。アデナウアーは、皮肉なことに、自身がケルン市市長時代に建築させた展示会場(収容所として使われた)に収容される<ref name = "ohtake_p35-36"/>。アデナウアーと同房の囚人が、強制収容所行きの名簿リストにアデナウアーの名前があることを発見し、アデナウアーは囚人の医師と共謀し、仮病を使って病院に入院することができた<ref name = "ohtake_p35-36"/>。この時点で、アメリカ軍が[[アーヘン]]にまで到達しており、アーヘンから至近にあるケルンも解放間近と思われたが、ナチス政権は、撤退時に政敵を殺害するなどしていたため、アデナウアーは妻や反ナチスの[[ドイツ空軍 (国防軍)|空軍]]少佐の助けを得て、アデナウアーは病院から脱走し、隠れ家に移り住む<ref name = "ohtake_p35-36"/><ref name = "kajima1965_1_p183">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、183頁</ref>。しかし、ゲシュタポが、アデナウアーの妻・アウグステを拷問し、アウグステはアデナウアーの居場所を自白してしまい、アデナウアーは再び逮捕された<ref name = "kajima1965_1_p209-212">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、209-212頁</ref><ref name = "uexküll_p74-76"/>。アウグステはこの時[[壊血病]]を患ってしまい、入退院や転院を繰り返し、1948年3月3日に死去<ref name = "ohtake_p35-36"/><ref name = "itabashi_p101-102">[[#板橋|板橋]]、101-102頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p298-301">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、298-301頁</ref>。
アデナウアーは[[ナチス|国家社会主義ドイツ労働者党]]に否定的であり、[[1931年]]には無断で橋に党旗を掲げたナチ党員に旗の撤去を命じる事件も起こっている。しかし、1933年に[[ナチ党の権力掌握|ナチスは政権を掌握]]した際、アデナウアーはケルンを訪問した[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]との握手を拒否したため、ケルン市長とプロイセン自由州枢密院議長の座を追われた。


アデナウアーが逮捕されたという電報を受け取った息子のマックスは、当時[[ドイツ国防軍|国防軍]]中尉として勤務しており、彼はベルリンの[[ゲシュタポ]]本部へと赴き、アデナウアーがヒトラー暗殺とは無関係である旨を伝えアデナウアーは1944年11月釈放される<ref name = "kajima1965_1_p214-215">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、214-215頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p217">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、217頁</ref>。
=== 年金生活時代 ===
1945年3月、ケルンにアメリカ軍が進駐する。アメリカ軍はアデナウアーの自宅を訪れ、ケルン市の市長就任を打診するが、アデナウアーは終戦になるまで市長就任は極秘にしてほしいと要望し、市長職を再び引き受けた<ref name = "uexküll_p74-76">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、74-76頁</ref><ref name = "ohtake_p36">[[#大岳|大岳]]、36頁</ref><ref name = "dharcourt_p37">[[#ダルクール|ダルクール]]、37頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p229-231">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、229-231頁</ref><ref name = "itabashi_p60-61">[[#板橋|板橋]]、60-61頁</ref><ref name = "asahiro_p70-71">[[#朝広|朝広]]、70-71頁</ref><ref name = "prittie_p126-127"/>。
翌年ヒトラーが反対派を[[粛清]]した「[[長いナイフの夜]]」の直後には2日間[[拘留]]された。アデナウアーは引退して[[年金]]生活に追い込まれたが、[[1944年]]7月の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]の直後にも、かつて彼が作ったメッセの跡地に置かれた[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に入れられた<ref name = "volker227-228">[[#フォルカー|フォルカー(2022年)]]、227-228頁。</ref>。病気を理由に病院へ移され、そこから脱走して再び[[逮捕]]されるも、同年11月に[[保釈|釈放]]された<ref name = "volker227-228"/>。1945年3月16日、アデナウアーはケルンに進駐していたアメリカ軍にケルン市の市長になるよう依頼されるが、アーヘン市の市長である{{仮リンク|フランツ・オッペンホフ|de|Franz Oppenhoff}}が3月25日に暗殺されたのを知り、アドバイザーの役割にとどまっていたが、5月4日に市長に就任する<ref name = "volker229-230">[[#フォルカー|フォルカー(2022年)]]、229-230頁。</ref>。


=== 終戦と西ドイツ建国まで ===
=== 第二次世界大戦後 ===
{{Main|モネ・プラン|ジャン・モネ}}
{{See also|連合軍軍政期 (ドイツ)|バイゾーン|[[トライゾーン]]|{{仮リンク|ウェストゾーン|de|Westzone}}}}
{{See also|連合軍軍政期 (ドイツ)|バイゾーン|[[トライゾーン]]|{{仮リンク|ウェストゾーン|de|Westzone}}}}
{{See also|ルール地方|{{仮リンク|ルール国際機関|de|Ruhrstatut|en|International Authority for the Ruhr}}}}
{{See also|ルール地方|{{仮リンク|ルール国際機関|de|Ruhrstatut|en|International Authority for the Ruhr}}}}
戦災で廃墟と化したケルンの復興にいそしむアデナウアーであったが、ケルン市の占領をイギリス軍が引き継ぎ、イギリス軍は1945年10月6日アデナウアーを市長から解任した<ref name = "uexküll_p82-83">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、82-83頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p29">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、29頁</ref><ref name = "itabashi_p62">[[#板橋|板橋]]、62頁</ref><ref name = "asahiro_p72-73">[[#朝広|朝広]]、72-73頁</ref><ref name = "ohtake_p74-75">[[#大岳|大岳]]、74-75頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p238-239">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、238-239頁</ref><ref name = "prittie_p126-127"/>。イギリス軍がアデナウアーを解任した理由はいくつかあり、下記のとおりである。


#アデナウアー市長の下、ケルン市の復興が全く進んでおらず、アデナウアーの指導力に疑念があったため (実際にはケルン市は想定以上に廃墟と化していた) <ref name = "prittie_p126-127"/><ref name = "uexküll_p82-83">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、82-83頁</ref>。
アデナウアーはアメリカ軍とはうまくやっていたが、アメリカ軍は1945年6月21日にケルン市を離れ、代わって進駐した[[イギリス軍]]とは折り合いが悪かった<ref name = "volker231-232">[[#フォルカー|フォルカー(2022年)]]、231-232頁。</ref>。イギリス軍はケルン市周辺の森林を燃料補給のため伐採するよう、アデナウアーに依頼したが、アデナウアーは拒否する<ref name = "volker231-232"/>。これが尾を引いて、アデナウアーはケルン市市長を解任され、再び引退生活を余儀なくされる<ref name = "volker231-232"/>。<!-- 出典が無い文章とある文章でつながりが悪くなるためコメントアウト さらには占領軍に禁止されていた政党活動の咎で、再び引退生活に追い込まれる。これはアデナウアーが[[フランス]]と組んで[[ラインラント]]に独立国を作るのを防ぐ目的があったという。-->引退中もアデナウアーは[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)の設立に尽力する。アデナウアーが[[戦前]]所属した[[中央党]]はカトリック政党であったが、[[戦後]]、[[プロテスタント]]とともに[[キリスト教]]に基づいた政治を目指し、キリスト教民主同盟として生まれ変わり、その創設者のひとりとなった。
#イギリス軍占領当局がアデナウアーの年齢(当時70歳)を聞いて、復興に当たっては年寄りではだめだと判断したため<ref name = "dharcourt_p129">[[#ダルクール|ダルクール]]、129頁</ref>。
#イギリス本国では[[労働党 (イギリス)|労働党]]が与党になり、[[ドイツ社会民主党|SPD]]と良好な関係を築くために、カトリック中央党に所属していたアデナウアーを疎んじたため<ref name = "uexküll_p82-83"/><ref name = "itabashi_senoh_p29">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、29頁</ref><ref name = "itabashi_p60-61"/><ref name = "asahiro_p72-73">[[#朝広|朝広]]、72-73頁</ref><ref name = "ohtake_p72-73">[[#大岳|大岳]]、72-73頁</ref><ref name = "ohtake_p74-75">[[#大岳|大岳]]、74-75頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p238-239"/><ref name = "kajima1965_1_p268">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、268頁</ref>。
#冬が近づき、燃料(木材)が必要になり、ケルン市にある緑地帯の伐採をイギリス軍が命じたものの、アデナウアーは拒否し、アデナウアーはルール地方の[[石炭]]を占領軍にではなく、一般市民に流通するようにすればよいと反抗したため<ref name = "itabashi_p60-61"/> <ref name = "kajima1965_1_p238-239"/><ref name = "uexküll_p81">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、81頁</ref><ref name = "asahiro_p72-73"/><ref name = "prittie_p126-127"/>。


ケルンでは終戦直後より、旧プロイセン議員を中心としてカトリックとプロテスタント両宗派が連携したキリスト教民主主義の政党の設立が模索されていた<ref name = "itabashi_p72-74">[[#板橋|板橋]]、72-74頁</ref>。アデナウアーは市長解任後、この新たな政党の政治活動に身を乗り出し、キリスト教民主主義運動は、全国的に広まり、1945年12月に全国集会が行われ、[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)が誕生する<ref name = "itabashi_p72-74"/>。1946年1月、CDUイギリス占領地区委員会が開催され、ラインラント州代表のアデナウアーは、自分が最年長であるという理由で委員会の議長に就任した<ref name = "itabashi_senoh_p29">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、29頁</ref><ref name = "ohtake_p77-78">[[#大岳|大岳]]、77-78頁</ref><ref name = "prittie_p128">[[#プリティ|プリティ]]、128頁</ref>。
=== 初代連邦首相 ===
[[西ドイツ]](西側[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]占領地)で行われた[[1949年]]8月の第一回[[ドイツ連邦議会]]選挙に出馬し当選、CDUの連邦幹事長となり、9月15日の議会での投票で[[ドイツ社会民主党]](SPD)候補の[[クルト・シューマッハー]]に1票差で競り勝って初代[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]]に選出され、翌日初代[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]][[テオドール・ホイス]]により正式に任命された。当時はまだ西ドイツに防衛・外交の自主権はなく、連合国が管掌していた。
同年9月の連邦議会で、西ドイツの暫定首都が[[フランクフルト]]でなく[[ボン]]になったことは、アデナウアーの意思が大きな影響を与えたものとされている<ref>ドイツ文壇から30年 恒久化進む暫定首都『朝日新聞』1979年(昭和54年)10月1日朝刊 13版 6面</ref>。[[1950年]]にはCDUが全国組織として発足し、アデナウアーは初代党首に就任する。


1946年10月、イギリスは、ルール地方の重工業(石炭と鉄鋼)を国有化する案を公表した<ref name = "ohtake_p106-108">[[#大岳|大岳]]、106-108頁</ref>。イギリスはドイツの軍国主義復活を恐れ、それを防ぐにはドイツ国内の民主化が必要であると考えたためである<ref name = "ohtake_p106-108"/>。そのためには基幹産業の民主化、つまりルール地方の重工業の国有化が提唱された<ref name = "ohtake_p106-108"/>。これをうけてアデナウアーは、CDUの党綱領を作成することにした<ref name = "ohtake_p106-108"/>。新しい党綱領はアーレン綱領と呼ばれ、1947年2月に策定され、前半部分が労働者側の権利を尊重し、反資本主義の色が強いもので、後半は個人の自由が強調されるという、相互に矛盾しあう内容になってしまった<ref name = "ohtake_p106-108"/>。ただ、全体を通してみると[[キリスト教社会主義]]の色彩が強い内容になっており、鉄鋼業の社会化、金融業などの統制強化が謳われ、労働者の経営参加や、経済管理の必要性が強調されていた<ref name = "ohtake_p106-108"/>。
戦争被害者の社会復帰が西ドイツの復興に繋がり、壊滅的な敗戦で分散した国民を一体化させる効果が有るとして、[[1950年]]連邦援護法(Bundesversorgungsgesetz 戦争犠牲者の援護に関する法律)を制定し、一般国民も軍人と同等の援護を受けられるよう、医療費は無料とし、機能に障害の無い火傷の[[ケロイド]]も大変重い障害とした。連邦援護法の財源は、戦争被害の少ない企業からの税徴収と連邦政府で負担調整基金を設立し、被害の多い個人と企業を援護した。なお、後に東西が統一ドイツになると、ドイツ[[統一条約]]に基づき、東ドイツ居住の[[ドイツ人]]にも1991年1月から適用された<ref>[https://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0817.html 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」]</ref>。


アーレン綱領制定を受けて、中小企業経営者や農民はCDUを支持し、1947年4月の[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]での選挙結果は、CDU(得票率42.6%)がSPD(同29.6%)を抑えて第一党に立った<ref name = "ohtake_p108-109">[[#大岳|大岳]]、108-109頁</ref>。州議会選挙では第一党に立ったCDUであったが、単独過半数には至らず、CDUとSPDと中央党、[[ドイツ共産党|共産党]](KPD)による大連立政権となった<ref name = "ohtake_p109-110">[[#大岳|大岳]]、109-110頁</ref>。1947年6月、[[フランクフルト・アム・マイン]]に経済評議会が設置される<ref name = "ohtake_p174-176">[[#大岳|大岳]]、174-176頁</ref>。名前こそ経済を冠していたが、その実態は各州の議会から合計50人の議員からなる議院を構成し、経済領域に限って、米英の占領地区における立法機関となっていた<ref name = "ohtake_p174-176"/>。この評議会でもSPDは単独過半数を占めることができず、野党に回る<ref name = "ohtake_p174-176"/>。ここでCDUはCSUや[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党 ]](FDP)などと連立することになり、これが後のアデナウアー政権にも引き継がれた<ref name = "ohtake_p174-176"/>。
アデナウアーは[[1953年]]、[[1957年]]、[[1961年]]の連邦議会選挙を勝ち抜き、14年に亘って連邦首相を務めることになった<ref>[[ヘルムート・コール]]が1982年から1998年まで5期16年務めるまで、ドイツの民選宰相としては最長記録だった。</ref>。とりわけ1957年の選挙ではCDUと[[キリスト教社会同盟]](CSU、CDUの[[バイエルン州|バイエルン]][[地域政党]])が連邦議会議席の半数を獲得した。西ドイツの再建を指導し、[[ルートヴィヒ・エアハルト]]を重用して[[経済成長]]に寄与した。


1948年8月、アデナウアーはイギリス占領地区のCDU党大会へ通貨改革で成果を出していた[[ルートヴィヒ・エアハルト]]を招待し、経済政策に関する基調演説を依頼した<ref name = "ohtake_p189-190">[[#大岳|大岳]]、189-190頁</ref>。エアハルトは基調演説で、市場経済の政治的意義を強調し、党大会は成功をおさめ、アデナウアーのイギリス占領地区CDUは、自由化政策支持の方針を決定した<ref name = "ohtake_p189-190"/>。
=== アデナウアー外交 ===
[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-P106816, Paris, Unterzeichnung Elysée-Vertrag.jpg|300px|thumb|left|仏独協力条約に調印する独仏首脳<br /><SUB>左から'''アデナウアー'''、ド・ゴール、[[ジョルジュ・ポンピドゥー|ポンピドゥー]]</SUB>]]
[[File:Sculpture_of_Konrad_Adenauer_and_Charles_de_Gaulle_outside_the_Konrad_Adenauer_Stiftung.jpg|thumb|250px|right|[[ベルリン]]にある独仏関係修復記念碑<BR><SUB>右が'''アデナウアー'''、左がド・ゴール</SUB>]]
[[1951年]]に西ドイツの外交主権が回復されると、[[外務省 (ドイツ)|外務大臣]]を兼任したアデナウアーは[[フランス]]をはじめとする旧連合国との和解に強力な指導力を発揮し、[[1955年]]5月5日に連合国とパリ条約を締結して主権を正式に回復、[[1963年]]ドイツとフランスは[[仏独協力条約]](エリゼ条約)に調印した。この条約には[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]][[シャルル・ド・ゴール]]との個人的友好関係が大きく寄与したといわれる<ref>ただし政治に容喙してナチスの台頭を許した元軍人の大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]を引き合いに出して、軍人が大統領になることには懸念をもっていたという。</ref>。経済的にも[[マーシャル・プラン]]を基に経済復興を進め、[[欧州石炭鉄鋼共同体]]、[[欧州経済共同体]]、[[欧州原子力共同体]]に加盟。この外交関係は現在の[[欧州連合]]へと発展していく。[[1954年]]には、ヨーロッパの理念と平和に貢献した人を称える[[カール大帝賞]]を[[アーヘン]]市から受賞した。


第二次世界大戦終戦後、ドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって占領されたが、西側3か国(米英仏)とソ連が対立し、ドイツは東西に分割される。
アデナウアー政権下で西ドイツは再軍備を許され<ref>アデナウアーは1949年にすでに西ドイツの再軍備を主張していたが、表面上はNATO諸国の要望によるものという形式をとっていた。1950年、再軍備に抗議してCDUの重鎮[[グスタフ・ハイネマン]]内相が辞任している。1951年に連邦国境警備隊が、1955年11月12日に[[ドイツ連邦軍]]が創設され、アデナウアーの主張が実現した。</ref>、[[北大西洋条約機構]](NATO)に加入した。一方でアデナウアーは、[[ソビエト連邦]]や[[東側諸国]]との[[国交]]を結んだ。1955年には[[モスクワ]]を訪問しソ連に残っていたドイツ人[[戦争]][[捕虜]]の帰国を実現した。但し同年9月22日[[ハルシュタイン原則]]を掲げ、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]占領地に誕生した[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]は承認せず、また1955年に[[連邦情報局|BND]]を創設し、翌年には[[ドイツ共産党]]を非合法化するなど、[[共産主義]]に心を許していたわけではない。再軍備を進める一方で、1952年12月3日には[[ドイツ国防軍]]を含む歴代[[ドイツ軍]]の名誉回復演説をおこなっている<ref>「私は本日、本会議場において連邦政府の名において宣言したいと思います。われわれは皆、気高き軍人の伝統の名において、陸・海・空で名誉ある戦いを繰り広げたわが民族のすべての兵士の功績を承認します。われわれは近年のあらゆる誹謗中傷にもかかわらず、ドイツ軍人の名声と偉大な功績がいまなおわが民族のもとで命脈を保ち、今後も生き続けることを確信します。」これが[[ドイツ軍]]に対する戦後認識の基礎となった。</ref>。


1948年9月1日、西ドイツ建国のため憲法制定会議が開催され、西ドイツ11州の州議会から65名の代表が参加し、その中にはアデナウアーもいた<ref name = "itabashi_senoh_p11">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、11頁</ref><ref name = "asahiro_p107">[[#朝広|朝広]]、107頁</ref>。アデナウアーは憲法制定会議でも議長を務めた<ref name = "itabashi_senoh_p11"/><ref name = "asahiro_p107"/><ref name = "ohtake_p199-200">[[#大岳|大岳]]、199-200頁</ref><ref name = "dharcourt_p51">[[#ダルクール|ダルクール]]、51頁</ref><ref name = "prittie_p128">[[#プリティ|プリティ]]、128頁</ref>。アデナウアーはヴァイマル共和国時代からの政治家としての経験があったため、議長をつとめるのは必然ともいえたが、CDUと対立するSPD側は、当初、憲法制定会議の議長は名誉職のようなものであると考えており、年齢もあって首相にはなりえないだろうと考えていた<ref name = "ohtake_p199-200"/>。
1952年3月27日、[[ミュンヘン]][[警察署]]でアデナウアー宛の小包が爆発し、[[警察官]]1人が死亡した。[[捜査]]の結果この犯行には[[イスラエル]]の[[ユダヤ人]]テロ組織[[エツェル|イルグン]]やその指導者[[メナヘム・ベギン]](のち同国首相)の関与が明らかとなったが、ナチス政権下のドイツによる[[ホロコースト]]の記憶も生々しい当時、両国の間で外交問題に発展することを避けるため、事件背景は発表はされず[[被疑者|容疑者]]はイスラエルに国外追放された。この措置にイスラエル初代[[イスラエルの首相|首相]][[ダヴィド・ベン=グリオン]]は感謝したといわれる。


憲法制定にあたって、アデナウアーは西側連合国(米英仏、以下同じ)との調整を首尾よく行い、占領軍との特権的対話者と評される<ref name = "itabashi_senoh_p12">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、12頁</ref><ref name = "asahiro_p108-110">[[#朝広|朝広]]、108-110頁</ref>。1949年2月に憲法草案を西側連合国に提出するも差し戻され、1949年4月には、西側連合国は西ドイツ政府が成立した場合、西ドイツの連合軍政府は廃止され、高等弁務官が設置されることが通達され、憲法制定を急ぐようにとの督促があった<ref name = "kajima1965_1_p325">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、325頁</ref><ref name = "kajima1965_1_p347-348">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、347-348頁</ref>。憲法制定は、会議に参加した議員はヴァイマル共和国時代からの老齢な議員が多かったために、遅々として議論が進まなかったが、憲法は1949年5月8日に賛成53票反対12票で、賛成多数で成立し、5月23日に発効される<ref name = "asahiro_p108-110"/><ref name = "kajima1965_1_p360-361">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、360-361頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p12"/>。憲法制定と前後するが、5月10日に[[ボン]]を首都とすることが決められた。西ドイツの首都を決定するにあたり、SPDが支持するフランクフルトかCDUが支持するボンが有力であった<ref name = "asahiro_p116-118">[[#朝広|朝広]]、116-118頁</ref>。CDU(アデナウアー)がボンを支持したのは、フランクフルトであれば、西側連合国が同地を管理しており、そこを首都にすると西ドイツが西側連合国の傀儡国になってしまうことを危惧したのが表向きの理由であり、実際のところは、ボンがアデナウアーの選挙区に含まれていたからとする説がある<ref name = "asahiro_p116-118"/>。
1955年にはイスラエルとルクセンブルク協定を結び、ホロコースト生存者に対して1人当たり3000[[ドイツマルク|マルク]]、総計34億5000万マルクを支払った。1960年には[[ニューヨーク]]の[[ウォルドルフ=アストリア]]でベン=グリオンと初会談し、巨額の借款を実現した。さらに、1966年にはドイツの重鎮[[政治家]]として初めてイスラエルを訪問している。ただし[[ニュルンベルク法]]制定に関わった人物への激しい批判にも関わらず、ハンス・グロプケを[[連邦首相府 (ドイツ)|連邦首相府]]長官として重用し続けるなど、その姿勢は批判を受けた。


=== 退陣と余生 ===
=== 首相就任へ ===
1949年8月に[[1949年ドイツ連邦議会選挙|第一回連邦議会選挙]]が行われるにあたり、アデナウアーはCDUの党綱領を見直すことにした<ref name = "ohtake_p191-192">[[#大岳|大岳]]、191-192頁</ref>。アデナウアーは、党内からアーレン綱領をどうするつもりか?と批判を受けたが、アデナウアーは綱領というのは永久のものではないと回答した<ref name = "ohtake_p191-192"/>。また、アーレン綱領は社会福祉政策に関する綱領であって、経済政策にも綱領が必要であるとした<ref name = "ohtake_p191-192"/>。こうして、デュッセルドルフ綱領が制定された。デュッセルドルフ綱領は、社会的市場経済を重視する<ref name = "itabashi_p94-95">[[#板橋|板橋]]、94-95頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p34">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、34頁</ref>。社会的市場経済はエアハルトが提唱したもので、これは自由主義的な市場経済を原則とするが、一方で私的独占に対する統制の重要性を認めるものである<ref name = "ohtake_p192-193">[[#大岳|大岳]]、192-193頁</ref>。そして社会政策の必要性が強調されている<ref name = "ohtake_p192-193"/>。アデナウアーは、デュッセルドルフ綱領に対するCDU党内の反対者に対して、デュッセルドルフ綱領はアーレン綱領の延長線上にあるものであり、新たな経済路線を説いたものであると説得した<ref name = "ohtake_p192-193"/>。
[[File:Stamps of Germany (BRD) 1968, MiNr 557.jpg|thumb|200px|left|アデナウアーの死の直後に発行された切手([[1968年]])]]
[[File:Muenze 2dm adenauer.jpg|thumb|180px|right|2ドイツマルク硬貨の裏面にあしらわれたアデナウアーの横顔([[1969年]]発行)]]
[[1959年]]ごろから、アデナウアーの威信は低下し始める。この年、[[連邦大統領 (スイス)|連邦大統領]]を2期務め引退する[[テオドール・ホイス]]の後任大統領として[[ルートヴィヒ・エアハルト|エアハルト]]を据えようとしたが、これは「[[経済の奇跡]]」の立役者として人気を博し、アデナウアーの後継者と目されていたエアハルトを棚上げして自身の政権の延命を図るためだった。当時83歳<ref>アデナウアーは首相就任時にすでに73歳だった。[[ドイツの政治|ドイツ政治]]では円熟は求めても「活きの良さ」を重視する傾向があり、アデナウアー以外に70代の人物が連邦首相を務めたことはない。</ref>だった老宰相のこの態度が周囲の猛反対を受けると、アデナウアーは今度は「大統領が首相の職務に介入できる」ことを条件に自らが大統領になろうとするが、これも猛反発を受けて撤回。結局、[[ハインリヒ・リュプケ|ハインリッヒ・リュプケ]]を候補者とすることで落ち着いた。


第一回連邦議会選挙の事前予想ではSPDが有利とされており、SPDはイギリス労働党政権を参考とした計画経済と基幹産業の国有化を提唱し、一方のCDUはデュッセルドルフ綱領による社会的市場経済を重視していた<ref name = "kajima1965_1_p327">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、327頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p34">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、34頁</ref><ref name = "itabashi_p94-95"/>。選挙結果は、CDU/CSUが31%の得票率を獲得し、SPDは29%、FDPは12%で、CDU/CSUの勝利に終わる<ref name = "itabashi_senoh_p14">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、14頁</ref>。
[[1961年]]、[[ベルリンの壁]]が建設された際、アデナウアーは[[ベルリン]]に赴かず強い批判を受ける。当時西ベルリン市長であった[[ヴィリー・ブラント]]が事態をよく把握し西ドイツ国民の支持を集める一方、アデナウアーは「首相はどこに行った」と批判を受けた。アデナウアー自身、ブラントの人気に「西ドイツの首相は誰だ」と強く嫉妬心を抱いたといわれる。政府の意のままにならない[[ドイツ公共放送連盟]](ARD)に対抗する[[国営放送]]創設の企ても、[[連邦憲法裁判所]]に違憲とされ失敗した。なおこの放送局は、[[1963年]]に[[公共放送]]局・[[第2ドイツテレビ]](ZDF)として開局することとなる。


1949年8月21日、アデナウアーは組閣に当たり、CDU/CSU党内で会談の場を設けた<ref name = "kajima1965_1_p376-380">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、376-380頁</ref><ref name = "itabashi_p96-97">[[#板橋|板橋]]、96-97頁</ref><ref name = "itabashi_p96-97"/>。議題はCDU/CSUがSPDと連立するのか、それともFDPとDPの小党と連立するのかを議論するためであった<ref name = "kajima1965_1_p376-380"/><ref name = "itabashi_p96-97"/>。SPDは経済相のポストが与えられるならば、CDU/CSUの連立に前向きであった<ref name = "kajima1965_1_p376-380"/><ref name = "itabashi_p96-97"/>。しかし、アデナウアーは、SPDの東西ドイツ統一の外交政策を危険視し、また有権者は社会的市場経済を支持したため、SPDとは連立しないことを告げた<ref name = "kajima1965_1_p376-380"/><ref name = "itabashi_p96-97"/>。アデナウアーは自身を首相に推薦し、[[テオドール・ホイス]]を西ドイツ[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]に推薦した<ref name = "itabashi_p96-97"/>。もっともこの時、ホイスは会議の場所にはおらず、新聞で大統領に推薦されたことを知った<ref name = "kajima1965_1_p383">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、383頁</ref>。
[[1962年]]には雑誌『[[デア・シュピーゲル]]』の編集者および記者が国家反逆罪のかどで[[ドイツの警察|警察]]に逮捕されるスキャンダルがあり、この逮捕をアデナウアーが承認したことが明らかになり、[[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]]国防相の首を差し出して切り抜けたものの、指導力の低下は覆うべくもなかった。この年には初めての[[心臓発作]]を起こし健康不安も重なり、翌年に連邦首相を辞任、エアハルトへの禅譲を余儀なくされた。


1949年9月15日、アデナウアーは、首相選挙に出馬し、402票中賛成202票、反対142票、棄権44票で、過半数が202票であり、自分が投じた一票の僅差で首相に選ばれた<ref name = "kase_p171-172">[[#加瀬|加瀬]]、171-172頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p36">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、36頁</ref><ref name = "itabashi_p98-101">[[#板橋|板橋]]、98-101頁</ref>。
しかしアデナウアーはなおもCDU党首の座に[[1966年]]まで留まった。更に連邦議会議員も辞任せずその死去まで務めたが、当時の91歳という年齢はドイツ連邦議会史上最高齢である。1967年4月19日午後1時21分、[[インフルエンザ]]に[[心臓発作]]を併発したアデナウアーは自宅で死去した。最後の言葉は "Da jitt et nix zo kriesche!"([[ケルン語|ケルン方言]]で“泣くことなど何も無い!”)だった。故郷の[[ケルン大聖堂]]で国葬が行われ、その棺はドイツ連邦軍の[[Sボート|高速艇]]で[[ライン河]]を運ばれ、自宅近くの墓地に埋葬された。


=== 第一次から第二次にかけてのアデナウアー政権時代の政策 ===
== 表彰・評価 ==
==== ペータースベルク協定 ====
[[File:Mercedes Benz 300 d Adenauer.jpg|250px|thumb|メルセデス・ベンツ300D「アデナウアー」]]
アデナウアーが首相就任する前後には、西ドイツでは西側連合国によってデモンタージュ{{refnest | group = * |工場の解体や生産設備の接収などのこと}}が推進されていた<ref name = "itabashi_p107-108">[[#板橋|板橋]]、107-108頁</ref>。アデナウアーは西ドイツの主権回復のため、1949年11月、ペータースベルクでアメリカ・イギリス・フランの西側連合国の高等弁務官と協議を行い、11月15日に、協議内容を議会で発表した<ref name = "kajima1965_2_p7-8">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、7-8頁</ref>。協議内容は、西側連合国はドイツからの撤退に前向きであるが、西ドイツはルール管理機構、連合国安全保障委員会、欧州会議、これらへの加入と再軍備を控えることが求められた<ref name = "kajima1965_2_p7-8"/>。これにより、ドイツが二度と戦争ができない状態になる。SPDはこの提案に反発したが、アデナウアーは、これらの要求を受け入れない限りは、西側連合国のドイツ撤退はあり得ないと主張し、むしろ一切の譲歩を認めようとしない野党の姿勢を批判した<ref name = "kajima1965_2_p7-8"/>。
1919年、自らが再建したケルン大学から名誉博士号を与えられる。その後も同大学の各学部に3度に亘って名誉博士号を授与され、[[哲学]]、[[政治学]]、[[医学]]、[[法学]]などその名誉博士号は多岐にわたる。1955年には[[教皇|ローマ教皇]][[ピウス12世]]から、[[教会 (キリスト教)|教会]]に[[ウマ|馬]]で乗り入れる特権(Ritter vom Goldenen Sporn)を与えられた。またアデナウアーはケルンの[[名誉市民]]ともなっている。


{{仮リンク|ペータースベルク協定|en| Petersberg Agreement }}は11月22日、合意に達し、これによりアデナウアーは、18の工場をデモンタージュから外すことに成功した<ref name = "itabashi_p108-109">[[#板橋|板橋]]、108-109頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p10">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、10頁</ref>。除外対象となった工場は鉄鋼所が7か所、化学工場が11か所であった。造船も緩和され、時速12ノットまでの船舶であれば、無制限の建造が許可され、[[ハンブルク]]と[[ブレーメン]]の造船業が再開する<ref name = "kajima1965_2_p10"/>。11月25日、アデナウアーは連邦議会にて、ペータースベルク協定締結に至った経緯や動機を説明した。アデナウアーはペータースベルク協定によって、西ドイツが公的な場で初めて平等な交渉権を行使できたと述べたが、SPDは不信任決議の動議を提出した<ref name = "kajima1965_2_p16-18">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、16-18頁</ref>。SPDの不信任決議を提出した理由は、ペータースベルク協定で定められているルール管理機構への加入は、基本法で定められた連邦首相の権利を逸脱しているとしたためである<ref name = "kajima1965_2_p16-18"/>。アデナウアーは、この不信任決議に対しては、ルール管理機構は、ロンドン協定締結時点で存在していたものであり、既に義務として存在しているものあり、むしろルール管理機構の一員として、中から変革するほうが得策であると訴えた<ref name = "kajima1965_2_p18-19">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、18-19頁</ref>。また、ペータースベルク協定締結により、デモンタージュを回避できたと主張した<ref name = "kajima1965_2_p18-19"/>。SPDによる、不信任決議は否決された<ref name = "kajima1965_2_p24">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、24頁</ref>。
[[ケルン・ボン空港]]にはアデナウアーの名が冠されている。またドイツの各都市では例外なくアデナウアーの名を冠した大通りや橋、建築物を目にすることができる。アデナウアーの名を冠した財団もある。


この議場で、SPDの党首[[クルト・シューマッハー]]が、アデナウアーを「連合国の首相!」と批判し、連邦議会議長がシューマッハーの暴言を注意し、議事規則を侮辱したかどで、シューマッハーの20日間の議場出席停止を命じた<ref name = "kajima1965_2_p24"/>。
代表的な[[ドイツ車]]である[[メルセデス・ベンツ]]の中でも、第二次世界大戦後の1951年に発売され10年余り生産された大型[[高級車]]「300」({{仮リンク|メルセデス・ベンツ・W186|en|Mercedes-Benz W186}})は、当時の首相アデナウアーに公私で愛用されたことから、後年「アデナウアー」の[[愛称]]で知られている。


1951年3月には[[占領法|占領規約]]が改正され、外交権を回復し、[[外務省 (ドイツ)|外務省]]が再建されアデナウアーが外務大臣に就任し、1955年まで外務大臣を務めた<ref name = "itabashi_p119-120">[[#板橋|板橋]]、119-120頁</ref>。
[[2003年]]11月、ZDFの番組「偉大なドイツ人」の視聴者投票で、アデナウアーは「[[ドイツの歴史]]を通じて最も偉大な人物」に選ばれた。タブーであるヒトラーは言うに及ばず、[[軍国主義]]的な[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]への忌避感も強い現在のドイツでは、まずまず順当な選出と言える。


== 人物 ==
==== 再軍備へ ====
再軍備が禁止された西ドイツであったが、1950年6月に[[朝鮮戦争]]が勃発する。朝鮮戦争によりアメリカは朝鮮半島に軍事力を傾注することでヨーロッパが手薄になる可能性があった<ref name = "itabashi_senoh_p43">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、43頁</ref>。その年の8月29日、アデナウアーは、閣議に掛けることなく、アメリカ高等弁務官・[[ジョン・J・マクロイ]]に、西ドイツの安全保障に関する覚書を提出する<ref name = "miyata_p61">[[#宮田|宮田]]、61頁</ref>。覚書では「ドイツ国民があらゆる種類の犠牲を払わなければならないのならば、他の全ての西欧諸国民と同じように自由への道が開かなければならない」と述べた<ref name = "itabashi_senoh_p43"/>。内務大臣の[[グスタフ・ハイネマン]]は再軍備に反対であり、彼は重要な外交政策を独断で決定しているとアデナウアーを非難した<ref name = "miyata_p61"/><ref name = "uexküll_p102-103"/><ref name = "kajima1965_2_p66">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、66頁</ref><ref name = "dharcourt_p75-76">[[#ダルクール|ダルクール]]、75-76頁</ref>。また警察については内務省管轄であったため、ハイネマンは抗議の意を込めて内相を辞職する<ref name = "uexküll_p102-103">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、102-103頁</ref><ref name = "itabashi_p116-117">[[#板橋|板橋]]、116-117頁</ref><ref name = "dharcourt_p75-76"/>。

アデナウアーは、[[1950年]]10月に、[[テオドール・ブランク]]を長とするブランク局を設置し、再軍備準備組織を首相府に設置した<ref name = "itabashi_senoh_p39">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、39頁</ref>
<ref name = "itabashi_senoh_p43"/><ref name = "itabashi_p118">[[#板橋|板橋]]、118頁</ref>。また、アデナウアーは西欧の防衛に貢献すれば、西欧諸国と対等な地位に就くことができると考えていた<ref name = "itabashi_senoh_p44-45"/>。1950年9月、アメリカ、イギリス、フランス三か国外相会談で、アメリカが西ドイツの再軍備を認可する方針を打ち出したが、フランスとしては、西ドイツに国軍を設立するのではなく、国家を超越した欧州軍のみを受け入れるつもりであった<ref name = "itabashi_senoh_p44-45"/>。1950年10月、フランス首相[[ルネ・プレヴァン]]が、{{仮リンク|プレヴァン・プラン|en| Treaty establishing the European Defence Community }}を発表する<ref name = "itabashi_senoh_p44-45"/><ref name = "itabashi_p116-117"/><ref name = "asahiro_p174">[[#朝広|朝広]]、174頁</ref>。これは、欧州軍を創設し、欧州の集団防衛を提唱したもので、そこから発展し[[欧州防衛共同体]](EDC)構想が提案される<ref name = "dharcourt_p75-76">[[#ダルクール|ダルクール]]、75-76頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p44-45"/>。アデナウアーは、西ドイツの国軍と参謀本部設置が認められていない点は不満はあったものの、プレヴァン・プランには大筋で賛成した<ref name = "itabashi_p116-117"/>。

アデナウアーは、[[1954年]][[2月26日]]、再軍備を認める欧州防衛共同体条約発効を見越して、兵役義務と防衛の基本法改正を行った<ref name = "kajima1967_p45-46">[[#鹿島(1967)|鹿島(1967年)]]、45-46頁</ref>。これによって徴兵制による再軍備の明確な基礎ができた<ref name = "kajima1967_p45-46"/>。しかし、欧州防衛共同体は1954年8月にフランスで否決され、水泡に帰してしまった<ref name = "kajima1967_p45-46"/>。西ドイツ主権回復が遠のいて、窮地に立たされたアデナウアーであったが、イギリス外務大臣[[アンソニー・イーデン]]が1948年に締結された[[ブリュッセル条約]]を拡大して、西ドイツとイタリアを加えて、[[西欧同盟]]に発展させる構想を打ち出した<ref name = "itabashi_senoh_p44-45">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、44-45頁</ref><ref name = "itabashi_p133-134">[[#板橋|板橋]]、133-134頁</ref><ref name = "asahiro_p174-175">[[#朝広|朝広]]、174-175頁</ref>。そして、西ドイツの再軍備とNATO加盟を実現するという代案を提供し、西ドイツは、この提案に乗り、[[1955年]][[5月5日]]、[[パリ協定 (1954年)|パリ協定]]が締結され、西ドイツは主権を回復した<ref name = "itabashi_senoh_p44-45"/><ref name = "itabashi_p133-134"/>。1955年5月9日には、西ドイツNATO加盟が実現し、同年11月12日[[ドイツ連邦軍|西ドイツ連邦軍]]が発足し、再軍備が完了した<ref name = "itabashi_senoh_p44-45"/><ref name = "itabashi_p133-134"/><ref name = "kajima1965_2_p308-309">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、308-309頁</ref>。

==== イスラエルへの補償 ====
1951年3月、[[イスラエル]]は戦勝国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)に覚書を送付する<ref name = "itabashi_senoh_p50">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、50頁</ref>。内容は、ナチスドイツ時代のユダヤ人迫害によって受けた人命や財産の被害や、耐乏生活について述べ、そして、その被害に対する補償を要求する<ref name = "kajima1965_2_p157-158">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、157-158頁</ref>。要求が認められないのであれば、ドイツ再建を許すべきではないという内容であった<ref name = "kajima1965_2_p157-158"/>。覚書で、イスラエルが求める補償は、西ドイツから10億ドル(当時のレートで42億マルク)、東ドイツからは5億ドルの補償を要求する旨が記載されていた<ref name = "itabashi_senoh_p50"/>。東ドイツは、ドイツの[[継承国]]でないとして、無回答であった<ref name = "itabashi_senoh_p50"/>。アデナウアーにはこの覚書は送付されていなかったが、外相を務めていたこともあり、覚書の情報はすぐに伝わった<ref name = "kajima1965_2_p158-159">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、158-159頁</ref>。

アデナウアーは、ロンドンに駐在していた秘書に[[世界ユダヤ人会議]]議長{{仮リンク|ナハム・ゴールドマン|en| Nahum Goldman}}との接触を命じ、イスラエルとの仲介を依頼し、補償の範囲や程度を確認させた<ref name = "kajima1965_2_p158-159"/>。その結果、西ドイツ政府は、ナチスドイツ時代のユダヤ人政策の責任を認め、物質的損害の補償の確約を求められた<ref name = "kajima1965_2_p158-159"/>。アデナウアーは[[1951年]][[9月27日]]の声明で「ドイツ民族の名においてなされた言語を絶する犯罪」を認め、補償に応じる用意があるとした<ref name = "itabashi_senoh_p50"/><ref name = "itabashi_p151">[[#板橋|板橋]]、151頁</ref>。ただし、アデナウアーは、ドイツ人の集団罪責を否定し、むしろドイツ人はナチスの被害者であるとしていた<ref name = "itabashi_p148-149">[[#板橋|板橋]]、148-149頁</ref>。

1951年12月6日、アデナウアーは閣議を無視してゴールドマンと対談し、ユダヤ人への賠償問題は道徳上の義務であり、西ドイツ連邦政府は物資などを供給し、イスラエル国家建設に寄与することを明言した<ref name = "kajima1965_2_p170">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、170頁</ref>。補償金は10億ドル(42億マルク)をスタートとして交渉が始まる<ref name = "itabashi_p152-153">[[#板橋|板橋]]、152-153頁</ref>。

西ドイツとイスラエルの交渉が始まる前の1952年3月、西ドイツの交渉への抗議の一環として、アデナウアーの暗殺未遂が起きるなど({{仮リンク|アデナウアー暗殺未遂|de| Attentat auf Konrad Adenauer }})、西ドイツとイスラエルの交渉は難航が予想された<ref name = "kajima1965_2_p153-155">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、153-155頁</ref><ref name = "itabashi_p154-157"/>。

西ドイツとイスラエルの交渉は、1952年3月から始まり、西ドイツは、30億マルクの補償を提示するが、政府内では、補償が高いとして反対があり、国内世論も補償自体は支持するが高いという声があった<ref name = "itabashi_senoh_p50"/><ref name = "itabashi_p154-157">[[#板橋|板橋]]、154-157頁</ref>。また、当時西ドイツは外国への通貨支払いが厳しく制限されていたこと、そして対外債務も莫大な金額を抱えていたため、なかなか支持が得られなかった<ref name = "kajima1965_2_p173-174">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、173-174頁</ref>。しかし、[[1952年]][[9月10日]]、ルクセンブルク補償協定を締結し、西ドイツは[[フランツ・ベーム]]が交渉に当たり、12年から14年かけて30億マルク相当の物資を、年間で最低2億5000万マルクの条件で、イスラエルに供与し、現金4億5000万マルクをイスラエル外のユダヤ人対ドイツ物的請求会議に支払うことで妥結し、1966年までにこれらの補償は完了した<ref name = "itabashi_p148-149"/><ref name = "itabashi_p157-160">[[#板橋|板橋]]、157-160頁</ref>。

ルクセンブルク補償協定は、1953年3月18日に連邦議会で批准されたものの、賛成票239票のうち125票はSPDが投じたものであった<ref name = "itabashi_p157-160">[[#板橋|板橋]]、157-160頁</ref>。補償協定の附属議定書には、西ドイツにおいての補償法制定が求められていた<ref name = "itabashi_p157-160"/>。そのため、アデナウアー政権は1953年10月1日に、連邦補充法を制定し、1956年6月29日に連邦補償法を制定した<ref name = "itabashi_senoh_p50"/>。この法律はナチスドイツ体制により、政治的敵対・宗教・人種・世界観を理由に迫害された者を対象としたものであるが、適用範囲は西ドイツが外交関係を持つ国に限られたために、国交がない東欧諸国に対しては個別に一括支払協定を締結した<ref name = "itabashi_senoh_p50"/>。ただ、その時点での連邦補償法の適用範囲は1952年末時点で西ドイツに居住しているか、1937年末時点でドイツに居住にしていたことが条件とされた<ref name = "itabashi_p175-177">[[#板橋|板橋]]、175-177頁</ref>{{refnest | group = * | つまり、1933年1月にヒトラー政権が誕生した時点で亡命した場合は補償を受けられないことになる}}。

==== スターリンノート ====
1952年3月10日、スターリンより、ドイツ再統一と中立化に関する提案がなされる([[スターリン・ノート]])<ref name = "itabashi_p121-123">[[#板橋|板橋]]、121-123頁</ref>。スターリンノートは、1952年3月を1回目として、その後、1952年4月の二回目、同年5月の三回目、そして、9月の合計四回の覚書が発行された<ref name = "musulin_p72">[[#ムスリン|ムスリン]]、72頁</ref>。スターリンノートの内容は、ドイツに軍の創設を認め、再統一を行ない、ドイツは中立化され、外国の軍隊はドイツから撤収することになっていた<ref name = "uexküll_p115">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、115頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p47">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、47頁</ref><ref name = "itabashi_p121-123">[[#板橋|板橋]]、121-123頁</ref><ref name = "asahiro_p154">[[#朝広|朝広]]、154頁</ref><ref name = "musulin_p46-48">[[#ムスリン|ムスリン]]、46-48頁</ref>。そして、ドイツには民主主義的権利として、自由選挙や信仰、政治活動などこれらの自由を認めるというものであった<ref name = "asahiro_p154"/>。このスターリンノートの狙いは、当時交渉中であった、欧州防衛共同体条約の遅延や妨害を狙ったものとされる<ref name = "itabashi_senoh_p47">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、47頁</ref>。

アデナウアーは、このスターリンノートを受け入れた場合、ドイツには最低限の軍事力しかなく、中立化によってアメリカ軍が撤退してしまい、ヨーロッパでは、ソ連の強大な軍事力が幅を利かせることになるだろうと考えた<ref name = "itabashi_p121-123"/>。また、アデナウアーはソ連がドイツの自由選挙に応じるとは思えないとして、スターリンノートを拒絶した<ref name = "itabashi_p121-123"/>。アデナウアーは、西側連合国に対して、西ドイツを無視して、スターリンノートを受け入れることがないようにと釘を刺した<ref name = "itabashi_p121-123"/>。ドイツ国内並びに与党内部では、スターリンノートを支持する者が多くいた<ref name = "itabashi_p121-123"/>。

しかし、スターリンノート拒絶は、1953年6月東ベルリンで[[東ベルリン暴動|暴動]]が起き、この暴動を、ソ連軍は軍隊を使って鎮圧したことから、アデナウアーの決断が正しかったことが証明された<ref name = "itabashi_senoh_p48">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、48頁</ref>。

==== ザール地方のドイツ復帰 ====
1946年、フランスは[[ザール (フランス保護領)|ザール]]をフランス占領地区から切り離して、自治共和国としてフランスに編入し、ザールマルクという独自通貨を発行するなどしていたが、1950年には、フランスはザールの炭鉱を50年間にわたって租借することにした<ref name = "kajima1965_2_p37">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、37頁</ref><ref name = "asahiro_p221-223">[[#朝広|朝広]]、221-223頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p38">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、38頁</ref>。アデナウアーはザール地方をドイツに返還するよう交渉した<ref name = "asahiro_p221-223"/>。そして、1953年10月からボンでドイツとフランスのザール問題の会談がセッティングされ、パリでザール独立化に関する協定が調印されたが、1955年10月のザール住民投票で否決され、ザールのドイツ復帰が確定する<ref name = "asahiro_p221-223"/>。ザールの西ドイツ編入に関する意見調整は1956年9月に行われ、アデナウアーはフランス外相[[ギー・モレ]]と会談し、1957年1月1日、ザールは西ドイツに編入された<ref name = "asahiro_p221-223"/>。

==== 西側結合へ ====
アデナウアーは西側連合国に接近する西側結合を志していた。1950年5月、[[シューマン宣言|シューマンプラン]]が提示される<ref name = "uexküll_p106-107">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、106-107頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p43"/><ref name = "itabashi_p113">[[#板橋|板橋]]、113頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p47-50">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、47-50頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p325-326">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、325-326頁</ref><ref name = "asahiro_p146-147">[[#朝広|朝広]]、146-147頁</ref>。独仏両国の石炭や鉄鋼を国際管理し、軍拡や戦争計画の立案を不可能とするものであった<ref name = "uexküll_p106-107"/><ref name = "itabashi_senoh_p43"/><ref name = "geppert_p14">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、14頁</ref><ref name = "itabashi_p113"/><ref name = "kajima1965_2_p47-50"/><ref name = "asahiro_p146-147"/>。1950年6月20日、西ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6か国が交渉を行ない、1951年4月に[[欧州石炭鉄鋼共同体|欧州石炭鉄鋼共同体条約]]に調印し、1952年6月に同条約が発効した<ref name = "kajima1965_2_p325-326"/><ref name = "asahiro_p146-147"/>。これにより、アデナウアーにとっては西側結合を推進しやすい環境が整った。

アデナウアーはソ連を危険視しており、1951年の演説では、キリスト教の最も恐ろしい敵がソ連だと演説した<ref name = "itabashi_p69-70">[[#板橋|板橋]]、69-70頁</ref>。そして、フランスとドイツだけでなく、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、オーストリア、北欧諸国、イギリスも政治的に結合すべきだと演説した<ref name = "itabashi_p69-70"/>。

==== 共産党並びに極右への対応 ====
西ドイツでは、戦後も反共産主義の気風が蔓延しており、共産主義者は国家反逆罪という名目で何万件にも上る裁判を起こされていた<ref name = "geppert_p19">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、19頁</ref>。1951年11月、アデナウアー政権はドイツ共産党を違憲であると判断し、[[ドイツ社会主義帝国党]]と共に[[連邦憲法裁判所]]に、非合法化を申し立てる<ref name = "geppert_p19"/>。アデナウアー政権が両党を違憲とした根拠は、当時のボン基本法第21条第2項である<ref name = "kajima1967_p60-61">[[#鹿島(1967)|鹿島(1967年)]]、60-61頁</ref>。第21条1項には、「政党は国民の政治的意志の形成に参加する。政党の創設は自由である。政党の内部組織は民主主義の諸原則に準拠しなければならない。政党はその資金源を公表しなければならない」とあり、政党の自由の原則を述べているが、一方で第21条2項には「政党の目的または党員の行動から見て、自由にして民主的な基本秩序を侵害し、または除去し、もしくはドイツ連邦共和国の存立を危うくするような政党は違憲である。違憲性の問題は、連邦憲法裁判所が決定する」としている<ref name = "kajima1967_p60-61"/>。つまり政党の自由は無限に保証されるわけではないということを根拠としていた<ref name = "kajima1967_p60-61"/>。
ドイツ社会主義帝国党は、1952年10月に違憲判決が下る<ref name = "kajima1967_p61">[[#鹿島(1967)|鹿島(1967年)]]、61頁</ref><ref name = "geppert_p19">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、19頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p53">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、53頁</ref>。共産党の場合は、占領下のドイツではソ連との関係もあり、長引き、1955年7月に公判が終わり、違憲判決が下され、1956年に活動を停止した<ref name = "itabashi_senoh_p53"/><ref name = "geppert_p19"/><ref name = "kajima1967_p61"/>。

==== 国内政策 ====
戦中戦後のドイツの戦災喪失総額は約2310億マルクに上った<ref name = "kajima1965_2_p127"/>。1951年のドイツ国民の総所得は約900億マルクであり、これらの負担がありながら、被追放民への助成をどうするかがアデナウアー政権の課題であった<ref name = "kajima1965_2_p127">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、127頁</ref>。

アデナウアーは、1952年1月、被追放民{{refnest | group = * | 被追放民とは、第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて、東部ドイツ領、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーなどから追放されたドイツ系住民をさし、これらの住民は1950年時点で800万人もいた<ref name = "itabashi_senoh_p51-52">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、51-52頁</ref>。}}からの手紙を受け取る。手紙には、東部ドイツ領から追放され、さらには通貨改革でわずかな現金も失ったという窮状を訴える手紙であった<ref name = "kajima1965_2_p121-122">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、121-122頁</ref>。このような手紙が毎日数百通送られて来たため、アデナウアー政権は戦争によって被害を受けた者への補償として、1952年8月、負担調整法を制定する<ref name = "kajima1965_2_p121-122"/><ref name = "itabashi_senoh_p51">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、51頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p51-52"/><ref name = "itabashi_p175-177"/>。負担調整法は、戦争によって被害を受けなかった者には、全財産に50 %の課税をし、そして、戦争の被追放民や戦争によって財産の毀損を受けた者に再分配し、助成するという法律で、総調整額は1150億マルクに到達した<ref name = "kajima1965_2_p130">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、130頁</ref><ref name = "itabashi_p175-177"/>。被追放民にドイツ国籍を付与するなど法的地位を確立させ、アデナウアーは被追放民省を設置し、制定した負担調整法で支援するなどした。また、1953年には連邦被追放民法を制定し、生活状態の改善を図った<ref name = "itabashi_senoh_p51-52"/>。

==== 住宅不足対策 ====
被追放民を受け入れたことで、住宅不足が問題になり、1950年時点では、西ドイツの人口に対して、約480万戸が不足していた<ref name = "itabashi_senoh_p51-52"/>。そのため、1950年。住宅建設省を作り、4月に第一次住宅建設法を制定した<ref name = "itabashi_p175-177"/>。これは自治体などに、住宅建設の助成を行うもので、毎年40万戸から60万戸の住宅が建設された<ref name = "itabashi_senoh_p51-52"/>。

==== 労使共同 ====
1951年5月、共同決定法が成立する<ref name = "itabashi_senoh_p56-57">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、56-57頁</ref>。これは、企業の最高意思決定機関である監査役会に経営者だけでなく、経営者と労働組合の代表を同数に設定し、労働者の経営参加を認め、経済民主主義を達成するという試みの法律である<ref name = "itabashi_senoh_p56-57"/>。この法律は、当時イギリスでは、労働党が政権を獲得していたため称賛された<ref name = "kajima1965_2_p116-117">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、116-117頁</ref>。

==== 非ナチ化解除 ====
1950年12月、アデナウアー政権とSPDは[[非ナチ化]]の追放解除を推進し、連邦議会で非ナチ化の終了を宣言し、重罪者やナチスの積極分子を除いて追放解除する<ref name = "itabashi_senoh_p53">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、53頁</ref>。これによって、ナチス協力の廉で追放された公務員も再雇用でき、ナチス時代の犯罪を理由として、起訴される可能性があった数千人を恩赦し、公職追放された30万人以上の公務員や軍人に寛大な処置がとられた<ref name = "itabashi_senoh_p53"/>。これによって、官僚制度が維持された<ref name = "geppert_p18">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、18頁</ref>。また、アデナウアーは、1952年10月の議会演説で、「旧ナチス党員を暴き出すのはもうやめよう。」と演説した<ref name = "kajima1965_2_p368">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、368頁</ref>。

=== 第二次アデナウアー政権成立 ===
1953年9月6日の[[1953年ドイツ連邦議会選挙|第二回連邦議会選挙]]はCDU/CSUが圧勝し、投票率86%の内CDU/CSUは244議席(45.2%)、SPDは151議席(28.8%)を獲得した<ref name = "asahiro_p168-169">[[#朝広|朝広]]、168-169頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p37">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、37頁</ref>。アデナウアーは、FDPだけでなく、DPと、故郷被追放者・権利被剥奪者連盟(BHE)も連立政権に引き込んだ<ref name = "itabashi_senoh_p37"/><ref name = "itabashi_p130-131">[[#板橋|板橋]]、130-131頁</ref>。結果的に、議員数487人中336人が与党となった<ref name = "dharcourt_p102-103">[[#ダルクール|ダルクール]]、102-103頁</ref>。CDU/CSUが大勝した原因は複数あげられるが、西ドイツは経済成長を果たした一方、東ドイツでは東ベルリン暴動が起きるなどの東西の経済格差がわかったこと、たばこ税、コーヒー税の引き下げが原因とみられている<ref name = "dharcourt_p102-103"/><ref name = "asahiro_p171">[[#朝広|朝広]]、171頁</ref><ref name = "uexküll_p123-124">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、123-124頁</ref>。そして、アデナウアーは首相に再選される。

==== モスクワ訪問 ====
1955年、ソ連はアデナウアーに招待状を出した<ref name = "asahiro_p186">[[#朝広|朝広]]、186頁</ref>。ソ連は西ドイツに接近し、西側結合を緩める狙いと、西ドイツと国交樹立することで、東ドイツ政府承認を目論んでいた<ref name = "kajima1965_2_p294">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、294頁</ref><ref name = "asahiro_p186">[[#朝広|朝広]]、186頁</ref>。アデナウアーは招待を受けて、1955年9月にモスクワを訪問する<ref name = "itabashi_senoh_p48"/>。モスクワを訪問したアデナウアーは、[[ニキータ・フルシチョフ]]から、西ドイツのNATO加盟を非難されるが、一方のアデナウアーは、旧ドイツ軍の戦争捕虜の釈放を要求し、第一陣として約1万人の戦争捕虜と、約2万人の民間人抑留者の釈放を取り付けることに成功した<ref name = "musulin_p73">[[#ムスリン|ムスリン]]、73頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p48"/><ref name = "geppert_p15-16">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、15-16頁</ref><ref name = "itabashi_p137-138">[[#板橋|板橋]]、137-138頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p299">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、299頁</ref><ref name = "asahiro_p193">[[#朝広|朝広]]、193頁</ref>。これにより西ドイツにおけるアデナウアー人気は最高潮に達した<ref name = "itabashi_senoh_p48"/><ref name = "geppert_p15-16"/>。ただ、この捕虜釈放については、元々ソ連は国交樹立のカードとして、捕虜釈放を検討していたため、アデナウアーの交渉能力が功を奏したわけではない可能性がある<ref name = "itabashi_p139">[[#板橋|板橋]]、139頁</ref>。ソ連とはその後、貿易協定が締結されたものの、アデナウアーはソ連とは相容れないと考えており、1959年初めの演説では、「ソ連は西ヨーロッパ進出を考えており、ゆくゆくは全ヨーロッパを傘下に置くことを考えている。そのため西側諸国はソ連に対しての警戒を怠ってはならない。」と演説している<ref name = "kajima1965_2_p323-325">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、323-325頁</ref><ref name = "prittie_p145">[[#プリティ|プリティ]]、145頁</ref>。

1956年6月28日、東ドイツと国交を結ぶ国とは断交するという外務次官の[[ヴァルター・ハルシュタイン]]による[[ハルシュタイン原則]](ドクトリン)を打ち出し、1957年10月、[[ユーゴスラビア]]が東ドイツを国家承認した際には、ユーゴスラビアと断交した<ref name = "itabashi_senoh_p49">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、49頁</ref><ref name = "geppert_p15">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、15頁</ref><ref name = "itabashi_p140">[[#板橋|板橋]]、140頁</ref>。

西ドイツでは原子力エネルギーの開発の要求が高まっていた<ref name = "itabashi_p144-145">[[#板橋|板橋]]、144-145頁</ref>。パリ協定では、西ドイツの核兵器生産を禁止していたものの、これはあくまでも西ドイツ国内での禁止であって、外国との共同開発を禁止したものではなかった<ref name = "itabashi_p144-145"/><ref name = "miyata_p75-76">[[#宮田|宮田]]、75-76頁</ref>。そして西ドイツ国内ではアメリカ軍が核兵器を配備していた<ref name = "miyata_p75-76"/>。1957年4月、アデナウアーは、「戦術核兵器は大砲の延長であり、我々ドイツ人はその発展を止めることはできない」と言明した<ref name = "miyata_p75-76"/>。アデナウアーは、西ドイツの核の軍事転用を防ぐためには、フランスの[[ジャン・モネ]]が提唱した[[欧州原子力共同体|ユーラトム]]の設立が必要であると説いた<ref name = "itabashi_p144-145"/>。原子力の扱いについては、閣内でも意見が対立しており、原子力後進国の西ドイツがユーラトムに加盟した場合、フランスの傘下に置かれてしまうという意見があった<ref name = "itabashi_p146">[[#板橋|板橋]]、146頁</ref>。だが、アデナウアーはユーラトムに加盟することでヨーロッパ統合につながると主張し、反対派の意見を封じた<ref name = "itabashi_p148">[[#板橋|板橋]]、148頁</ref>。1957年に欧州経済共同体設立条約及びユーラトム設立条約を締結し、西ドイツは軍事・安保面では大西洋共同体に結び付けられ、経済・社会面では西欧に組み込まれた<ref name = "itabashi_p148"/>。

==== アデナウアー政権の閣僚 ====
第二次アデナウアー政権下では、非ナチ化が進んだため、ナチスドイツ時代ナチスとかかわりのあった人物が閣僚として起用されていた。アデナウアーが重用していた人物に{{仮リンク|ハンス・グロブケ|de|Hans Globke}}がおり、アデナウアーはグロブケを首相府次官に任命していたが、グロブケは1932年から1945年まで内務省の官僚を務めており、[[ニュルンベルク法]]の注釈を起草した人物として有名であった<ref name = "itabashi_senoh_p40">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、40頁</ref><ref name = "geppert_p17">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、17頁</ref><ref name = "itabashi_p167-168">[[#板橋|板橋]]、167-168頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p369">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、369頁</ref><ref name = "prittie_p134">[[#プリティ|プリティ]]、134頁</ref>。アデナウアーは当然その過去を知っていたが、グロブケの能力を評価したため周囲の批判にかかわらず、重用していた<ref name = "itabashi_senoh_p40"/><ref name = "geppert_p17"/><ref name = "itabashi_p167-168"/>。また、グロブケ以外にも[[ゲアハルト・シュレーダー (CDU)|シュレーダー]]内相や、{{仮リンク|テオドール・オベルレンダー|de|Theodor Oberländer}}難民相もナチス党員であった<ref name = "kajima1965_2_p369"/>。

==== 第二次アデナウアー政権の国内政策 ====
1955年イタリアとの間で労働者募集協定を締結し、ガストアルバイターと呼ばれる低賃金の外国人労働者の受け入れを行い、当初30万人程度の受け入れを行っていた<ref name = "itabashi_senoh_p55-56">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、55-56頁</ref><ref name = "geppert_p27">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、27頁</ref>。この協定はアデナウアー政権以降も引き継がれた<ref name = "geppert_p27"/>。

1954年11月に児童手当法が成立し、18歳未満の子供が3人いる家庭には1人につき、毎月25マルクを支給することになった<ref name = "itabashi_senoh_p60-61">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、60-61頁</ref>。そして、児童手当法成立を受けて、1956年6月、第二次住宅建設法を制定し、庭付き一戸建ての建設が促進された<ref name = "itabashi_senoh_p60-61"/>。

1950年代の西ドイツの経済成長率は目覚ましく、年平均8%を記録し、1955年には、11.8%の経済成長率を記録し、失業率も1%台にまで下がっていた<ref name = "itabashi_p179-180">[[#板橋|板橋]]、179-180頁</ref>
<ref name = "geppert_p20">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、20頁</ref>。現役世代は所得も増えていたが、一方で年金受給世代は不遇をかこっていた<ref name = "itabashi_senoh_p57-59">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、57-59頁</ref>。そのため、アデナウアー政権は年金改革を試み、カトリック企業経営者連盟事務局長ヴィルフリート・シュライバーを抜擢して、年金改革案を構想する<ref name = "itabashi_p178-179">[[#板橋|板橋]]、178-179頁</ref>。従来の年金制度は積立方式であったが、これを現役世代の保険料から徴収し、引退世代の年金を支給する方式に変更し、1957年1月に導入された<ref name = "itabashi_p178-179"/>。これによって労働者年金の支給額は65%の増額、職員年金は72%の増額が達成された<ref name = "itabashi_p178-179"/>。これが、第3回連邦議会選挙の大勝につながった<ref name = "itabashi_p178-179"/>。

1957年9月、[[1957年ドイツ連邦議会選挙|第三回連邦議会選挙]]が行われ、CDU/CSUは270議席を獲得し、FDPは41議席、DPは17議席を獲得した<ref name = "asahiro_p226">[[#朝広|朝広]]、226頁</ref>。野党のSPDは169議席であり、選挙は与党の大勝に終わった<ref name = "asahiro_p226"/>。この時の選挙のポスターでは、「あらゆるマルクス主義の道はモスクワに通じる」という選挙ポスターを掲示し、反共であるはずのSPDを非難していた<ref name = "itabashi_senoh_p38">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、38頁</ref>。

=== 第三次から第五次アデナウアー政権 ===
第三次アデナウアー政権にもなると、アデナウアーの専横や失策が目立ち、アデナウアーの権勢が低下し始める。

==== アデナウアーの大統領立候補と取りやめ ====
テオドール・ホイスが連邦大統領の任期を1959年で終了するため、後任の大統領を擁立する必要があった<ref name = "uexküll_p131-132">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、131-132頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p62-63">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、62-63頁</ref><ref name = "geppert_p31-32">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、31-32頁</ref><ref name = "itabashi_p184-186">[[#板橋|板橋]]、184-186頁</ref>。アデナウアーは、エアハルトを大統領候補に推薦した<ref name = "uexküll_p131-132"/><ref name = "itabashi_senoh_p62-63"/><ref name = "itabashi_p184-186"/>。エアハルトとアデナウアーは経済政策や外交政策において衝突が多く、後継首相と目されていたエアハルトを大統領にしようという狙いがあった<ref name = "itabashi_senoh_p62-63"/><ref name = "itabashi_p184-186"/>{{refnest | group = * | 西ドイツの連邦大統領は事実上の名誉職である}}。アデナウアーは、党内から露骨なやり方であるとして反発を受け、エアハルトも大統領推薦を拒否した<ref name = "itabashi_senoh_p62-63"/><ref name = "itabashi_p184-186"/>。そうすると今度はアデナウアーが大統領への立候補を試み、首相には{{仮リンク|フランツ・エッツェル|en|Franz Etzel}}を推薦する<ref name = "uexküll_p131-132"/>。エッツェルはこれという政治的野心や政治的立場も無く、アデナウアーはエッツェルを首相に祭り上げて、連邦大統領に首相と同等の職責を求めた<ref name = "uexküll_p131-132"/><ref name = "uexküll_p131-132"/><ref name = "itabashi_senoh_p62-63"/><ref name = "itabashi_p184-186"/>。基本法を無視したこの行動は世間から顰蹙を買う<ref name = "itabashi_senoh_p62-63"/>。結局アデナウアーは大統領出馬を取りやめ、[[ハインリヒ・リュプケ]]を大統領候補に指名し、投票の結果リュプケが大統領になった<ref name = "kajima1965_2_p354">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、354頁</ref>。この一連のアデナウアーの専横的な振る舞いにより自身の威信を低下させることとなった<ref name = "itabashi_senoh_p62-63"/>。

==== 元ナチス党員の閣僚辞任 ====
テオドール・オベルレンダー難民相は、ナチス・ドイツ時代は[[アプヴェーア]]出身で、東部問題を担当していた<ref name = "kajima1965_2_p370-371">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、370-371頁</ref>。オベルレンダーはナチス党員であることを認めたが、親ナチスとは言えず、反ヒトラー派の[[ヴィルヘルム・カナリス]]の下にいた<ref name = "kajima1965_2_p370-371"/>。終戦直前にイギリス軍の捕虜となったが、1946年には釈放。非ナチ化裁判では、東欧におけるナチスの政策を批判したために1943年に罷免されていた経歴があったことが証言された<ref name = "kajima1965_2_p370-371"/>。ここまでは第二次アデナウアー政権時代にわかっていたことであったが、1941年6月末にウクライナの[[リヴィウ]]にいたことがわかり、運命が暗転する<ref name = "kajima1965_2_p370-371"/>。同地は、[[アインザッツグルッペン]]の活動地域であったため虐殺に関与していた疑惑がもたれ、オベルレンダーは、1960年4月、辞職した<ref name = "kajima1965_2_p370-371"/>。

==== 訪日 ====
アデナウアーは、1960年3月25日から4月1日まで、日本に滞在していた<ref name = "kajima1965_2_p363">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、363頁</ref>。アデナウアーは[[岸信介]]と[[吉田茂]]と対面し、[[昭和天皇]]にも謁見した<ref name = "kajima1965_2_p363"/>。吉田茂と対談したときには、アデナウアーがおどけたやり取りが残されている<ref name = "kase_p171">[[#加瀬|加瀬]]、171頁</ref>。

<blockquote>
吉田「自分は投獄された経験がある。」

アデナウアー「何回ですか?」 

吉田は「もちろん、たった1回です。私は悪人ではないから。」

アデナウアー「では、二回も入った私は悪人ですな。」

<ref name = "kase_p171"/>
</blockquote>

==== ベルリンの壁建設時の対応 ====
第三次政権も任期が終わりに近づき、選挙運動をしている最中、東ベルリンで大事件が起きる。[[ベルリンの壁]]建設である。ベルリンの壁建設時、アデナウアーは側近の進言にも関わらず、ベルリンに行かずに選挙活動に勤しみ、[[西ベルリン]]市長の[[ヴィリー・ブラント]]の出自を嘲笑していた<ref name = "itabashi_senoh_p63-64">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、63-64頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p75">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、75頁</ref><ref name = "itabashi_p192">[[#板橋|板橋]]、192頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p391-392">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、391-392頁</ref>。また、アデナウアーは「ベルリンの問題は、NATOが事態を解消に向けて行動するだろう」と発言し、楽観的に構えていた<ref name = "kajima1965_2_p391-392"/>。一方のヴィリー・ブラントは西ベルリン市長として、ベルリンの壁構築について、東ドイツへ抗議をするなど積極的に活動した<ref name = "itabashi_senoh_p63-64"/>。結局、アデナウアーがベルリンに来たのは、壁が構築された9日後の8月22日のことであった<ref name = "itabashi_p192"/>。この結果、アデナウアーを不支持に転じたものが数多くいた<ref name = "itabashi_p192"/><ref name = "miyata_p38">[[#宮田|宮田]]、38頁</ref>。

[[1961年ドイツ連邦議会選挙|第四回連邦議会選挙]]はCDU/CSUが後退した。CDU/CSUの議席は281議席から242議席になり、SPDは169議席から190議席へと躍進し、FPDは43議席から67議席となった<ref name = "kajima1965_2_p398-399">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、398-399頁</ref>。

=== 首相退任へ ===
==== シュピーゲル事件 ====
1962年10月8日、[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル誌]](1962年10月10日号)が、NATO機動演習(ファレックス62)の内容を詳細に報道し、東からの攻撃に対して、ドイツ連邦軍による防衛体制に大きな欠陥があることを批判する記事を掲載した<ref name = "miyata_p93-94">[[#宮田|宮田]]、93-94頁</ref><ref name = "itabashi_p198-199">[[#板橋|板橋]]、198-199頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p418-419">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、418-419頁</ref>。国防相の[[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]](CSU党首)は、これを軍事機密漏洩と判断し、シュピーゲル誌社長の{{仮リンク|ルドルフ・アウグシュタイン|en| Rudolf Augstein }}はじめ十数名の記者を逮捕させた<ref name = "miyata_p93-94"/><ref name = "itabashi_senoh_p63-64"/><ref name = "geppert_p31-32"/><ref name = "kajima1965_2_p418-419"/><ref name = "musulin_p37">[[#ムスリン|ムスリン]]、37頁</ref>。シュピーゲル誌は、証拠物件と目された文書や写真を押収され、編集局は数週間にわたり官憲によって占拠され、編集業務が一切できなくなった<ref name = "miyata_p93-94"/>。アウグシュタインは、104日間にわたって拘留された<ref name = "musulin_p37"/>。

シュピーゲル誌の社長アウグシュタインは、「法治国家における基本的原則に違反するものである」と主張した<ref name = "miyata_p96">[[#宮田|宮田]]、96頁</ref>。また、逮捕に至った報道内容、ファレックス62に関する記事は、従来公表されていた資料を基に掲載された記事で軍事機密漏洩などではなかった<ref name = "miyata_p96"/>。連立与党を組んでいたFDPは閣僚5人が抗議の意味で辞職し、連立与党復帰の条件としてシュトラウスを国防相から辞任させることを要求した<ref name = "geppert_p31-32"/><ref name = "itabashi_p198-199"/>。こうして、シュトラウスは国防相を辞任した。そして、アデナウアーは翌年1963年秋の議会終了後に首相退任を約束させられている<ref name = "itabashi_senoh_p63-64"/><ref name = "itabashi_p198-199"/>。

==== テレビ局設立構想 ====
アデナウアーは政府傘下で、テレビ局を設立しようとしたが、ドイツ連邦憲法裁判所は、テレビは州レベルの管轄事項であると判断し、テレビ局設立は失敗した<ref name = "uexküll_p124">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、124頁</ref>。

==== ドゴールとの関係構築 ====
[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-P106816, Paris, Unterzeichnung Elysée-Vertrag.jpg|300px|thumb|left|仏独協力条約に調印する独仏首脳<br /><SUB>左から'''アデナウアー'''、ド・ゴール、[[ジョルジュ・ポンピドゥー|ポンピドゥー]]</SUB>]]
1958年9月に[[シャルル・ド・ゴール]]と初対談を果たし、ヨーロッパ統合と共同市場の関税の削減について話し合った<ref name = "kajima1965_2_p331-333">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、331-333頁</ref>。初対面時には、政治的決定は特になされず、雑談をするなどして親交を深める<ref name = "kajima1965_2_p331-333"/>。アデナウアーは、ドゴールを西ドイツにとって必要な盟友と考えており、ドゴールと6回ほど面談し、1963年1月22日、パリの[[エリゼ宮殿]]で[[仏独協力条約]]を調印する<ref name = "geppert_p40-42">[[#ゲッパート|ゲッパート]]、40-42頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p411-412">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、411-412頁</ref><ref name = "itabashi_p199">[[#板橋|板橋]]、199頁</ref>。条約調印により、ドイツとフランス両国の対立は終了した<ref name = "kajima1965_2_p411-412"/>。仏独協力条約では、西ドイツとフランスの両国の国家元首と外務大臣、国防大臣が定期的に協議することが求められた<ref name = "kajima1965_2_p411-412"/><ref name = "itabashi_senoh_p63-64"/><ref name = "geppert_p40-42"/>。

=== 首相退任と死去 ===
[[File:Stamps of Germany (BRD) 1968, MiNr 557.jpg|thumb|200px|left|アデナウアーの死の直後に発行された切手([[1968年]])]]
[[1963年]][[10月15日]]、アデナウアーは首相を退任する<ref name = "kajima1967_p91-92">[[#鹿島(1967)|鹿島(1967年)]]、91-92頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p65">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、65頁</ref><ref name = "itabashi_p201">[[#板橋|板橋]]、201頁</ref>。しかし、アデナウアーは首相を退任したものの、議席は連邦議会に置き、CDUの党首も引き続き務めた<ref name = "uexküll_p142">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、142頁</ref><ref name = "kajima1967_p91-92">[[#鹿島(1967)|鹿島(1967年)]]、91-92頁</ref><ref name = "itabashi_senoh_p65"/>。首相退任後は、回顧録の執筆に時間を割き、回顧録は1945年から1953年までの第一巻、1953年から1955年までの第二巻、1955年から1959年までの第三巻、1959年から1963年までの第四巻が刊行されたが、第四巻は未完の状態でアデナウアー死後の1968年に出版された<ref name = "itabashi_p203">[[#板橋|板橋]]、203頁</ref>。

アデナウアーは90歳を過ぎるとさすがに体調を崩すことが増えていた。そして1967年4月19日に死去<ref name = "itabashi_p204">[[#板橋|板橋]]、204頁</ref>。死去後、国葬が4月25日に執り行われた<ref name = "itabashi_p204"/><ref name = "itabashi_senoh_p65"/>。

== エピソード ==
=== エアハルトとの関係 ===
アデナウアーは、経済に素人であったため、経済の専門家であるエアハルトをCDUに引き入れて、経済相に任命するなど重用したが、両者の関係は良好とは言い難かった。両者は早くも1950年に衝突し始め、ことあるごとに意見が合わず衝突していた<ref name = "itabashi_p181-183">[[#板橋|板橋]]、181-183頁</ref>。アデナウアーは、エアハルトを政治家としての資質に欠けていると論じていた<ref name = "miyata_p101">[[#宮田|宮田]]、101頁</ref><ref name = "kajima1967_p123">[[#鹿島(1967)|鹿島(1967年)]]、123頁</ref><ref name = "kajima1965_2_p349">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、349頁</ref>
<ref name = "kajima1965_2_p450-451">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、450-451頁</ref>。アデナウアーは首相退任後もエアハルトを批判し続けていた<ref name = "itabashi_senoh_p82">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、82頁</ref>。エアハルトのあだ名はゴム製の獅子であった<ref name = "kajima1965_2_p451">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、451頁</ref>。その心は、エアハルトはアデナウアーがいない場所では、エアハルトは反抗したり怒ったりするが、アデナウアーがそばに来るとおとなしくなるからである<ref name = "kajima1965_2_p451"/>。しかし、エアハルトは(アデナウアー以外の)CDU党内や国民の間では経済成長の父として人気があった<ref name = "kajima1965_2_p452">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、452頁</ref>。

=== 趣味 ===
[[File:KonradAdenauerRose.jpg|250px|thumb|コンラート・アデナウアー薔薇]]
[[File:KonradAdenauerRose.jpg|250px|thumb|コンラート・アデナウアー薔薇]]
アデナウアーの趣味に発明があり、第一次世界大戦時の食糧問題時にその発明の才能を活かし、ケルンパン(とうもろこしとじゃがいもの粉の混合パン)や、ケルンソーセージ(主原料が大豆)を発明した<ref name = "uexküll_p23">[[#ユクスキュル|ユクスキュル]]、23頁</ref><ref name = "itabashi_p23">[[#板橋|板橋]]、23頁</ref><ref name = "prittie_p126">[[#プリティ|プリティ]]、126頁</ref>。ただし、これらは美味しくなかったそうである<ref name = "itabashi_p23"/>。その他の発明品としては、曲がらないヘアピンや、輝くストップウォッチ、自動車運転用のサングラスなどがあったが、いずれも珍発明の域を出ないものであった<ref name = "uexküll_p23"/>。
2度の結婚で8人の子供をもうけた。最初の妻エンマは[[ギャラリー (美術)|画廊]]主の娘で、1916年に36歳で病死。2番目の妻アウグステ(「グッシー」)は[[ゲシュタポ]]に[[逮捕]]された時に体調を崩し、1948年に死去している。孫の1人がノルトライン=ヴェストファーレン州ギュータースローの郡議会で議員を務めている。


アデナウアーは、庭いじりが趣味であり、バラをこよなく愛しており、もし政治家にならなければ、庭師になっていたほどであった<ref name = "dharcourt_p121-122">[[#ダルクール|ダルクール]]、121-122頁</ref><ref name = "dharcourt_p34"/><ref name = "ohtake_p33"/>。
政治家の傍ら、発明家としても活動した。第一次世界大戦時の食糧難に対応して大麦の加工食品や大豆製ソーセージを発明([[特許]]をとったのは1件のみ)。ナチスにより引退生活に追い込まれていた時には「害虫防止ブラシ」「車のライトに幻惑されないメガネ」など珍発明を連発し出願したが、いずれも特許権は認められなかった。庭いじりが好きで[[バラ]]の新種を開発し「アデナウアーのバラ」と名付けられた。


=== 評価や顕彰 ===
晩年よく休暇を過ごした北[[イタリア]]のスポーツ、[[ボッチャ]]にはまり、自宅や首相官邸に競技場を作ったほどだった。
[[File:Muenze 2dm adenauer.jpg|thumb|180px|right|2ドイツマルク硬貨の裏面にあしらわれたアデナウアーの横顔([[1969年]]発行)]]
[[File:Sculpture_of_Konrad_Adenauer_and_Charles_de_Gaulle_outside_the_Konrad_Adenauer_Stiftung.jpg|thumb|250px|right|[[ベルリン]]にある独仏関係修復記念碑<BR><SUB>右が'''アデナウアー'''、左がド・ゴール</SUB>]]
ドイツの調査機関、{{仮リンク|アレンスバッハ研究所|en| Allensbach Institute }}が1950年から1993年まで毎年、「最もドイツに貢献した偉大なドイツ人は?」というアンケートを取っていた<ref name = "itabashi_prologue">[[#板橋|板橋]]、前書き</ref>。第一回目の1950年のアンケートでは、アデナウアーは圏外で、[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が35%で一位、ヒトラーが10%を獲得していたが、1952年の同アンケートでは、アデナウアーは3%を獲得し、アデナウアーは首相在任10年目に当たる1958年には26%の票を獲得し、ビスマルク(23%)を抜いて一位に立ち、以後一位をキープした<ref name = "kajima1965_1_prologue">[[#鹿島(1965-1)|鹿島(1965年)]]、序文</ref><ref name = "prittie_p124-125">[[#プリティ|プリティ]]、124-125頁</ref><ref name = "itabashi_prologue"/>。ベルリンの壁崩壊時(1989年)には約30%がアデナウアーを支持していた。ドイツ第二テレビ(ZDF)の「わたしたちのベスト(Unsere Besten)」という視聴者参加型のランキングテレビ番組の第一回放送(2003年11月28日)では、最も偉大なドイツ人の順位を約182万人からアンケートを取った結果、一位はアデナウアーだった<ref name = "itabashi_prologue"/>。なお、ビスマルクは九位だった<ref name = "itabashi_prologue"/>。2009年にもアレンスバッハ研究所が「これまでで最も重要だった連邦首相は誰だと思うか?」というアンケートではブラントや[[ヘルムート・コール]]が挙げられたが、全体としてはアデナウアーが最も多かった<ref name = "itabashi_prologue"/>。


アデナウアーの政治スタイルには批判もある。アデナウアー自身は経済に明るくなかったため、ケルン市長時代は湯水のごとく金を使っていた<ref name = "asahiro_p53"/><ref name = "asahiro_p62-63"/><ref name = "asahiro_p102-103">[[#朝広|朝広]]、102-103頁</ref>。首相就任後は、外国人記者の取材には気軽に応じ、だが、政治決定はアデナウアー自身が一人で決断することが多々あったため、閣僚たちは翌日の新聞報道によって、政策を知る始末であった<ref name = "dharcourt_p67">[[#ダルクール|ダルクール]]、67頁</ref><ref name = "prittie_p141">[[#プリティ|プリティ]]、141頁</ref>。アデナウアーの政治スタイルを受けて、宰相民主主義や首相部隊という新語が作られた<ref name = "prittie_p141">[[#プリティ|プリティ]]、141頁</ref>。首相部隊というのは、排他的な顧問グループのことである<ref name = "prittie_p141"/>。
学生時代にクラスメイトと共にカンニングをしていた。その計画は巧妙で、頭の良いクラスメイトに問題の解答を作らせ、それぞれの生徒が間違えるところまで指示していた。

アデナウアーはケルン大学創設により、ケルン大学より政治学、法学、医学及び、哲学の名誉[[博士号]]を授与された<ref name = "kajima1965_2_p240">[[#鹿島(1965-2)|鹿島(1965年)]]、240頁</ref>。また、1953年4月、訪米した際には、[[メリーランド大学]]と[[ジョージタウン大学]]で法学の名誉博士を授与された<ref name = "kajima1965_2_p240"/><ref name = "dharcourt_p95-97">[[#ダルクール|ダルクール]]、95-97頁</ref>。

アデナウアーは、[[メルセデス・ベンツ]]の当時の[[高級車]]「[[メルセデス・ベンツ・Sクラス#タイプ300 W186/W188/W189(1951年-1960年)|300]]」を公私に渡り愛用しており、この車種は「アデナウアー」の異名で呼ばれた<ref name = "itabashi_senoh_p283">[[#板橋,妹尾|板橋,妹尾]]、283頁</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 注釈 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=フォルカー・ウルリヒ著|translator=[[松永美穂]]|year=2022|title=ナチ・ドイツ最後8日間 1945.5.1-1945.5.8|publisher=[[すばる舎]]|ISBN=978-4799110621|ref=フォルカー}}
*{{Cite book|和書|author=[[宮田光雄]]|year=1964|title=西ドイツ : そ政治的風土|publisher=[[筑摩書房]]|doi=10.11501/2977946|ref=宮田}}
*{{Cite book|和書|author=ゲスタ・V.ユクスキュル|translator=福田博行|year=1994|title=アデナウアーの生涯 : その人と業績|publisher=[[近代文芸社]]|isbn=4-7733-3254-9|ref=ユクスキュル}}
*{{Cite book|和書|author=[[加瀬俊一]]|year=1967|title= 現代史の巨人たち|publisher=[[文藝春秋]]|doi=10.11501/2988097|ref=加瀬}}
*{{Cite book|和書|author=アルフレッド・グローセル|translator=大島利治|year=1965|title=西ドイツ : ドイツ連邦共和国|publisher=[[白水社]]|doi=10.11501/3018748|ref=グローセル}}
*{{Cite book|和書|author=[[鹿島守之助]]|year=1967|title=日本と西ドイツの安全保障|publisher=[[鹿島研究所出版会]]|doi=10.11501/9581578|ref=鹿島(1967)}}
*{{Cite book|和書|author=[[板橋拓己]]、妹尾哲志|year=2023|title=現代ドイツ政治外交史 : 占領期からメルケル政権まで|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4-623-09486-8|ref=板橋,妹尾}}
*{{Cite book|和書|author=ドミニク・ゲッパート|translator=進藤修一,爲政雅代|year=2023|title=ドイツ人が語るドイツ現代史 : アデナウアーからメルケル、ショルツまで|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4-623-09526-1|ref=ゲッパート}}
*{{Cite book|和書|author=[[板橋拓己]]|year=2014|title=アデナウアー : 現代ドイツを創った政治家|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-102266-0|ref=板橋}}
*{{Cite book|和書|author=鹿島守之助|year=1965|title=コンラット・アデナウアー|publisher=鹿島研究所出版会|doi=10.11501/2984161|ref=鹿島(1965-1)}}
*{{Cite book|和書|author=鹿島守之助 |year=1965|title=新生西ドイツ : アデナウアーを中心にして|publisher=鹿島研究所出版会|doi=10.11501/2980535|ref=鹿島(1965-2)}}
*{{Cite book|和書|author=朝広正利|year=1959|title=現代ヨーロッパの悲劇 : 分裂ドイツの真相|publisher=[[東洋経済新報社]]|doi=10.11501/2980132|ref=朝広}}
*{{Cite book|和書|author=[[大岳秀夫]]|year=1986|title=アデナウアーと吉田茂|publisher=[[中央公論社]]|doi=10.11501/12231578|ref=大岳}}
*{{Cite book|和書|author=ヤンコ・ムスリン|translator=[[金森誠也 ]]|year=1967|title=アデナウアーとその時代 : 省察と展望|publisher=鹿島研究所出版会|doi=10.11501/3018833|ref=ムスリン}}
*{{Cite book|和書|author=ロベール・ダルクール|translator=[[小林珍雄 ]]|year=1958|title=アデナウアー|publisher=森の道社|doi=10.11501/2984076|ref=ダルクール}}
*{{Cite book|和書|author=テランス・プリティ|translator=[[朝日新聞社]]|year=1962|title=これがドイツ人だ|publisher=朝日新聞社|doi=10.11501/2977948|ref=プリティ}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

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コンラート・アデナウアー
Konrad Adenauer
肖像写真(1952年撮影)
生年月日 1876年1月5日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
ケルン
没年月日 (1967-04-19) 1967年4月19日(91歳没)
死没地 西ドイツの旗 西ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州
レーンドルフドイツ語版
出身校 フライブルク大学
ミュンヘン大学
ボン大学
前職 裁判所判事
所属政党 中央党
ドイツキリスト教民主同盟
称号 勲一等旭日桐花大綬章
勲一等旭日大綬章
聖マイケル・聖ジョージ勲章
レジオンドヌール勲章
カール大帝賞
ケルン名誉市民
ケルン大学名誉博士
配偶者 エマ(1904年結婚、1916年死別)
アウグステ・ツィンサー(1919年結婚、1948年死別)
サイン

内閣 第1次アデナウアー内閣
第2次アデナウアー内閣
在任期間 1951年3月15日 - 1955年6月6日
大統領 テオドール・ホイス

内閣 第1次アデナウアー内閣
第2次アデナウアー内閣
第3次アデナウアー内閣
第4次アデナウアー内閣
第5次アデナウアー内閣
在任期間 1949年9月15日 - 1963年10月16日
大統領 テオドール・ホイス
ハインリヒ・リュプケ

在任期間 1949年9月7日 - 1967年4月19日
連邦議会議長 エーリヒ・コーラー
ヘルマン・エーラース
オイゲン・ゲルステンマイアー

在任期間 1921年5月7日 - 1933年4月26日
大統領 フリードリヒ・エーベルト
パウル・フォン・ヒンデンブルク

その他の職歴
ドイツキリスト教民主同盟初代党首
1946年 - 1966年
ケルン市長
1917年 (1946年) - 1933年 (1966年))
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コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー[* 1]ドイツ語: Konrad Hermann Joseph Adenauer、1876年1月5日 - 1967年4月19日)は、ドイツ政治家西ドイツの初代連邦首相1949年から1963年に亘って務めた。また1951年から1955年には、外相を兼任した。戦前ドイツ中央党に属し、戦後ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の初代党首。欧州連合の父としても知られる[1]

来歴[編集]

生誕[編集]

学生時代のアデナウアー(右端)(1896/97年

1876年1月5日、ケルンにて5人兄妹の三男(三子)として出生[2][3][4][5][6][7][8]。アデナウアーの父方の祖父はパン屋であった[2][4][6][9]。アデナウアーの父親の名前はヨハン・コンラート・アデナウアーであり、父・コンラートは小学校卒業後、公務員になるべくプロイセン陸軍に入隊[2][3][4][5][6][9]。そして、普墺戦争に従軍し、ケーニッヒグレーツの戦いで重傷を負ったものの、この時の活躍が認められ、勲章を授与されたことがある[2][3][4][6][9]。結局父・コンラートは小学校卒業という最終学歴にハンディがありながら、プロイセン陸軍で中尉まで昇進した[2][5][6][9]。そして、父・コンラートは軍を退役後、裁判所の書記に転じて、ケルン市の銀行員の娘・ヘレーナと結婚し、二人の間には4人の子供が生まれ、アデナウアーは三男(三子)として出生する[5][9]。父・コンラートは、敬虔なカトリック教徒で、アデナウアーも父親の影響を受けてカトリックを信仰していた[3][5][2]。アデナウアーの生家は安定した生活ではあったものの、父・コンラートは下級役人であったため家計は苦しかった[2][3][6]。アデナウアーの生家は3階建ての借家であったが、3階部分と2階の半分を転貸していたくらいであった[10][11][6][12]。そのせいで、居住スペースは狭く、アデナウアーは17歳までベッド一つで兄と就寝していた[10][11][6][13][12]

大学進学と法曹の世界へ[編集]

1885年春、アデナウアーはケルンのギムナジウムに入学する[14][15]。ギムナジウムはカトリック系でラテン語ギリシャ語教育に重点を置いていた[14]。ギムナジウムでは、首席というわけではなかったが、常に6番以内の成績を維持していた[16]。アデナウアーは1894年春に、ギムナジウムを卒業し、大学進学を志望するも、アデナウアーの兄二人がすでに大学進学しており、アデナウアーを進学させる経済的余裕はアデナウアーの生家にはなかった[15][17][18][14][19]。アデナウアーは、一旦ケルン市内の銀行に就職するも、後にこの銀行員生活を振り返って「いやな職業につくということがどんなものか、身に染みてわかった。」と述べている[15]。また、この当時、銀行員で出世するためには大卒程度の学歴が必要であったため、アデナウアーは失意に暮れる[19]。銀行員の仕事に嫌気がさしているのを見かねた父・コンラートは、アデナウアーを大学へ進学させるために、奨学金の申請をした[15][17][19]。その結果、アデナウアーは奨学金を得ることができ、わずか2週間で銀行を退職し、大学へ進学する[18][14][15][19]

1894年春、アデナウアーは、フライブルク大学法学部に入学し、その後ミュンヘン大学を経て、ボン大学で学んだ[18][3][14][15][17][20][19][21]。大学時代のアデナウアーは、カトリック系の学生団体に入会していたものの、奨学金で進学していたことや生家が貧しかったこともあり、質素倹約に務め、飲酒喫煙もせず、交友関係も少なかった[15][17][20][19]

アデナウアーは、大学在学時の1897年5月22日に第一国家試験を突破し、司法官試補見習(無報酬の見習い弁護士)になる[14]1901年10月19日には第二次国家試験に合格し、司法官試補になったものの、この時の成績は芳しくなかった[22][3]。当時の法曹界は、国家試験の成績が良い者から弁護士になっていくシステムだったため、アデナウアーはこの時は弁護士にはなることができず、不本意ながら、ケルンの検察庁に奉職する[22][23][21]。しかし、アデナウアーにとっては検察庁の仕事は面白くなかったようで、まもなく仕事に飽きてしまい、2年間の奉職後に退職する[24][21]

ケルン市助役と市長就任[編集]

ケルン市長時代(左から3人目)

検察庁を退職したアデナウアーは、ケルン市内のカウゼン弁護士事務所に就職する[18][3][24][23][21][3]。同弁護士事務所所長のカウゼンは、ケルン市内では民事弁護士として有名で、同市のカトリック中央党議員団長も務めていた[24][3][23][21]1906年、ケルン市の助役に欠員が出たため、アデナウアーは、カウゼンに頼み込み、助役に推薦してもらい、同年3月7日、アデナウアーは投票によって37票中35票の賛成票を得て、序列10番目の助役に選任され、税務を担当することになる[25][26][27][28]。父・コンラートは、アデナウアーが助役に選任された3日後に死去している[29][28]

アデナウアーはテニスクラブで出会ったケルンの名家の娘、エマと1904年1月に結婚する。エマの父方の祖父は建築家で美術館も経営しており、600点以上の名画を所有していた[18][3][24][29][30]。エマとの間には、3人の子供に恵まれるが(1906年長男、1910年次男、1912年長女)、長男出産時、難産であったため、エマは脊髄が湾曲し、腎不全になってしまい健康状態がすぐれず、1916年10月に死去する[31][29][32][33]

1907年アデナウアーの妻・エマの叔父マックス・ヴァルラフ英語版が市長に就任し、アデナウアーは、1909年7月22日ケルン市の副市長並びに首席助役に就任する[34]。ヴァルラフは公務でベルリン市へ出張することが多く、アデナウアーが事実上のケルン市市長を務めていた[29]

1914年第一次世界大戦が勃発する。戦争勃発当時、戦争はクリスマスで終戦するだろうと考えていた民衆が大多数であったが、アデナウアーは戦争の長期化を予想し、食糧問題を担当する[34][35][27][36]。アデナウアーは、ケルン市周辺の農家と契約を結び、食糧を市へと引き渡すことを確約させ、その見返りに、ケルン市は、肥料を農家に供給することを確約するといった施策を実施した[36]。また、アデナウアーは市有地の大半の耕作を農家に委託するなど、ドイツ国内では比較的ケルン市の食糧を充実させることに成功した[36]

首席助役として成果を上げたアデナウアーは、1917年9月18日ケルン市市議会で賛成50票、反対0票、棄権2票で市長に選出され、11月29日、ケルン市市長に就任する[37]。第一次世界大戦終戦間際の1918年11月、キールで水兵の反乱がおき、ケルン市内でも労兵レーテが市の権力を掌握し、市長であったアデナウアーは対応に追われる[38][39][40]。アデナウアーは反乱軍と粘り強く交渉し、市内の秩序回復と市民への食糧の公正配分を行い、反乱軍をうまく懐柔することに成功した[38][39][40]。そして、第一次世界大戦終戦後、ケルン市にイギリス軍が進駐してくる[41][42]。アデナウアーはイギリス軍により発表された、「ドイツ人男性はイギリス軍士官に対しては帽子をとって挨拶せよ」という指令には反対するなどしたが、この期間は概ねイギリス軍とうまく付き合っていた[41][42]

第一次世界大戦終戦直後、この時点ではヴェルサイユ条約が未締結であり、ドイツの国家政体がどうなるかが不透明であったため、ラインラントの処遇が盛んに議論された。ラインラントの処遇を巡ってはいくつかの方向性があるが、アデナウアーは、ラインラントをドイツの一つの州にすることを検討しており、ラインラントのプロイセン分離を支持し、ドイツからの分離は支持していなかった[43][44][45]1918年11月22日、アデナウアーを議長とするラインラントの処遇を議論する委員会を発足させ、アデナウアーはラインラントをドイツから独立させるのではなく、ドイツ国内に西ドイツ共和国を成立させるという構想を打ち出した[46][47][43][48]。しかし、ヴェルサイユ条約には、アデナウアーの構想は盛り込まれず、ラインラント地方を中立化することで一旦妥協した[49][50][51]。1923年、フランスはドイツからの賠償金が滞っているのを理由として、ルール地方を占領する[52]

フランスはラインラントの分離・独立の実現を図り、ラインラントの分離主義者を支援し始め、解体しようとした。アデナウアーは、ラインラント州を成立させて、フランスを懐柔することで和解を図り、ドイツとフランスの経済的結合を主張した[52]。戦争遂行に必要な重工業については、ベルギーオランダとも統合して、戦争を不可能にするという構想が、アデナウアーには既にあった。ただ、周囲からの理解は得られず、構想だけで終わった[52]

アデナウアーは、1919年9月25日に再婚する[53][54][55][56][57]。結婚相手は、隣家の娘で18歳または19歳年下のアウグステ(グッシー)であった[55][56][57]。アウグステとの間には、4人の子供に恵まれる(正確には5人出産したが、1人は生後間も無く死亡している)[55][56]

アデナウアーはケルン市の市長として、精力的に活動したがその手腕や手法はかなり強引なものであった。ケルン市は要塞都市で城壁があったが、第一次世界大戦終戦後、城壁はイギリス占領軍によって取り壊されてしまった[31][58]。アデナウアーはこの跡地に利権者との調整のために、法律を制定して、緑地化する権利を獲得し、緑地帯を建設させた[58]。また、ライン川に橋を建設する際に、アデナウアーは建設費用の安いブリッジ型の橋よりも、見栄えが良いが高コストな吊り橋の建設を、半ば強引に市議会の同意を取り付けて建設させた[59][60][61]

そのほか、アデナウアーは様々な公共工事を行なった。ナチスドイツのアウトバーン建設に先駆けて、ボンとケルン間に高速道路を建設し、運河の拡充や空港・港の建設、現在の1.FCケルンのホームスタジアムとなるミュンガースドルファー・シュタディオンや展示会場の建設など公共工事をふんだんに行ったため、ケルン市の資金運用はかなり放漫であった[31][62][63][64]。アデナウアーは市議会からは、ドイツで一番金を使う市長だと揶揄された[65]。また、アデナウアーは学問にも力を入れ、ケルン大学を再建させた[54][66][67][64]

アデナウアーは、ケルン市の市長であったが、プロイセンの第二院である国家評議会にも所属していた[54][68]。国家評議会には1921年5月から1933年まで所属しており、ナチスドイツが政権を掌握するまでに、2度の首相就任の打診があった[68][54]。一度目は1921年のことで、組閣面がアデナウアーの意に沿わなかったことから辞退。二度目は1926年のことで、大連立政権を樹立する想定であったが、過渡期の一時しのぎの首相就任であったため、これも辞退した[68]。そのほか、グスタフ・シュトレーゼマンとの不和や妨害工作があったことや、ケルン市市長のほうが権勢を振るうことができたというのも首相就任を断った原因として挙げられている[54][69][70][71]

ナチス・ドイツ時代[編集]

1933年1月、アドルフ・ヒトラーが首相となる。ヒトラーは1933年2月17日、ケルン市を訪問するが、アデナウアーは、ヒトラーは3月の選挙運動の一環として来たのであって、国家元首として来たのではないとして、ヒトラーを出迎えなかった[72][54][73][74][75][76][71]。また、アデナウアーはライン川の橋に架けられていたナチス党鉤十字の旗の撤去を命じるなど、ナチス党の反感を買う[72][74][75][77][71]。ナチス党は反アデナウアーを扇動した[75]。アデナウアーはケルン市市長として、市議会で自身の意見をかなり強引に通し、多額の税金を公共事業に使用しており、その当時としては多額の報酬を得ていたことから、市民の反感を買っていた[75][78]。現に1929年12月の市長選挙では、96票中49票の過半数に一票差で市長に再選されていた[79][62][80]。当時ナチス党が優勢であったため、市民はナチス党からの報復を恐れ、アデナウアーの周辺から人が離れていった[81]同年3月5日の選挙は、ナチス党の勝利に終わり、ケルン市の市議会もナチス党が議席の大半を占め、アデナウアーは窮地に立たされ、報復を警戒したアデナウアーは3月13日、ベルリンへと出立し、ヘルマン・ゲーリングにナチス党に反抗する気はない旨を伝えようとしたが、効果は上げられなかった[82][78][81][83]。そして、アデナウアーは1933年4月4日、ケルン市市長を罷免される[84]

ケルン市市長を罷免されたアデナウアーは年金の受給資格を失い、銀行口座が凍結されるなどの不遇を受けた[85][54][81][86]。アデナウアーは市長罷免直後、暗殺や逮捕を警戒し、家族と離れ離れになり修道院に身を寄せるなどしていた[85][54][87][88][86][89][90]。また、ユダヤ人の友人に1万マルクを融通してもらうなどして露命を繋いだ[85][86][91][90]。1934年にベルリン近郊に居住するが、同年6月30日長いナイフの夜が発生し、アデナウアーは逮捕される[85][87][88][92][89][93]。アデナウアーは、エルンスト・レームとは無関係である旨を供述すると、数日後に釈放された[85][87][88][92][94]。1934年8月には、ヴィルヘルム・フリック内相に、自身が反ナチスでないことと、ケルン市市長を罷免されたのは不当であることを訴える手紙を送り、これが功を奏し、1936年春には年金受給資格の一部が回復され、月1000マルクが支給されることになった[85][86][88]。アデナウアーはレーンドルフドイツ語版に家族と共に隠棲し、バラづくりなど庭いじりや趣味の発明にいそしむ[85][54][95][96]

隠棲時のアデナウアーは、第二次世界大戦終戦まで平穏無事であったわけではなく、1943年にはカール・ゲルデラーからヒトラー暗殺計画参加の打診を受けたが、断った[97][98][99]。アデナウアーが反ヒトラー運動に参加しなかった理由は複数あり、以下がその理由とみられている。

  1. 旧プロイセン軍人が主として反ヒトラー運動に加担しており、仮にヒトラー暗殺が成功して政権を掌握できたとしても、軍事独裁になる可能性があり、アデナウアーがそれを嫌ったため[92]
  2. ドイツの敗戦は最早不可避であり、完全敗北しなければ、ドイツの真の民主主義が実現できないと考えたため[92]
  3. アデナウアー自身がナチス党の監視下にあるため、秘密裏にヒトラー暗殺の計画と実行は不可能であり、アデナウアーが家族を巻き添えにするのを嫌がったため[92]

1944年7月20日、ヒトラー暗殺は失敗に終わり、ヒトラー暗殺の関与を疑われたアデナウアーは1944年8月23日に逮捕される[100][97][98][101]。アデナウアーは、皮肉なことに、自身がケルン市市長時代に建築させた展示会場(収容所として使われた)に収容される[101]。アデナウアーと同房の囚人が、強制収容所行きの名簿リストにアデナウアーの名前があることを発見し、アデナウアーは囚人の医師と共謀し、仮病を使って病院に入院することができた[101]。この時点で、アメリカ軍がアーヘンにまで到達しており、アーヘンから至近にあるケルンも解放間近と思われたが、ナチス政権は、撤退時に政敵を殺害するなどしていたため、アデナウアーは妻や反ナチスの空軍少佐の助けを得て、アデナウアーは病院から脱走し、隠れ家に移り住む[101][102]。しかし、ゲシュタポが、アデナウアーの妻・アウグステを拷問し、アウグステはアデナウアーの居場所を自白してしまい、アデナウアーは再び逮捕された[103][100]。アウグステはこの時壊血病を患ってしまい、入退院や転院を繰り返し、1948年3月3日に死去[101][104][105]

アデナウアーが逮捕されたという電報を受け取った息子のマックスは、当時国防軍中尉として勤務しており、彼はベルリンのゲシュタポ本部へと赴き、アデナウアーがヒトラー暗殺とは無関係である旨を伝えアデナウアーは1944年11月釈放される[106][107]。 1945年3月、ケルンにアメリカ軍が進駐する。アメリカ軍はアデナウアーの自宅を訪れ、ケルン市の市長就任を打診するが、アデナウアーは終戦になるまで市長就任は極秘にしてほしいと要望し、市長職を再び引き受けた[100][108][109][110][111][112][71]

終戦と西ドイツ建国まで[編集]

戦災で廃墟と化したケルンの復興にいそしむアデナウアーであったが、ケルン市の占領をイギリス軍が引き継ぎ、イギリス軍は1945年10月6日アデナウアーを市長から解任した[113][114][115][116][117][118][71]。イギリス軍がアデナウアーを解任した理由はいくつかあり、下記のとおりである。

  1. アデナウアー市長の下、ケルン市の復興が全く進んでおらず、アデナウアーの指導力に疑念があったため (実際にはケルン市は想定以上に廃墟と化していた) [71][113]
  2. イギリス軍占領当局がアデナウアーの年齢(当時70歳)を聞いて、復興に当たっては年寄りではだめだと判断したため[119]
  3. イギリス本国では労働党が与党になり、SPDと良好な関係を築くために、カトリック中央党に所属していたアデナウアーを疎んじたため[113][114][111][116][120][117][118][121]
  4. 冬が近づき、燃料(木材)が必要になり、ケルン市にある緑地帯の伐採をイギリス軍が命じたものの、アデナウアーは拒否し、アデナウアーはルール地方の石炭を占領軍にではなく、一般市民に流通するようにすればよいと反抗したため[111] [118][122][116][71]

ケルンでは終戦直後より、旧プロイセン議員を中心としてカトリックとプロテスタント両宗派が連携したキリスト教民主主義の政党の設立が模索されていた[123]。アデナウアーは市長解任後、この新たな政党の政治活動に身を乗り出し、キリスト教民主主義運動は、全国的に広まり、1945年12月に全国集会が行われ、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)が誕生する[123]。1946年1月、CDUイギリス占領地区委員会が開催され、ラインラント州代表のアデナウアーは、自分が最年長であるという理由で委員会の議長に就任した[114][124][125]

1946年10月、イギリスは、ルール地方の重工業(石炭と鉄鋼)を国有化する案を公表した[126]。イギリスはドイツの軍国主義復活を恐れ、それを防ぐにはドイツ国内の民主化が必要であると考えたためである[126]。そのためには基幹産業の民主化、つまりルール地方の重工業の国有化が提唱された[126]。これをうけてアデナウアーは、CDUの党綱領を作成することにした[126]。新しい党綱領はアーレン綱領と呼ばれ、1947年2月に策定され、前半部分が労働者側の権利を尊重し、反資本主義の色が強いもので、後半は個人の自由が強調されるという、相互に矛盾しあう内容になってしまった[126]。ただ、全体を通してみるとキリスト教社会主義の色彩が強い内容になっており、鉄鋼業の社会化、金融業などの統制強化が謳われ、労働者の経営参加や、経済管理の必要性が強調されていた[126]

アーレン綱領制定を受けて、中小企業経営者や農民はCDUを支持し、1947年4月のノルトライン=ヴェストファーレン州での選挙結果は、CDU(得票率42.6%)がSPD(同29.6%)を抑えて第一党に立った[127]。州議会選挙では第一党に立ったCDUであったが、単独過半数には至らず、CDUとSPDと中央党、共産党(KPD)による大連立政権となった[128]。1947年6月、フランクフルト・アム・マインに経済評議会が設置される[129]。名前こそ経済を冠していたが、その実態は各州の議会から合計50人の議員からなる議院を構成し、経済領域に限って、米英の占領地区における立法機関となっていた[129]。この評議会でもSPDは単独過半数を占めることができず、野党に回る[129]。ここでCDUはCSUや自由民主党 (FDP)などと連立することになり、これが後のアデナウアー政権にも引き継がれた[129]

1948年8月、アデナウアーはイギリス占領地区のCDU党大会へ通貨改革で成果を出していたルートヴィヒ・エアハルトを招待し、経済政策に関する基調演説を依頼した[130]。エアハルトは基調演説で、市場経済の政治的意義を強調し、党大会は成功をおさめ、アデナウアーのイギリス占領地区CDUは、自由化政策支持の方針を決定した[130]

第二次世界大戦終戦後、ドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって占領されたが、西側3か国(米英仏)とソ連が対立し、ドイツは東西に分割される。

1948年9月1日、西ドイツ建国のため憲法制定会議が開催され、西ドイツ11州の州議会から65名の代表が参加し、その中にはアデナウアーもいた[131][132]。アデナウアーは憲法制定会議でも議長を務めた[131][132][133][134][125]。アデナウアーはヴァイマル共和国時代からの政治家としての経験があったため、議長をつとめるのは必然ともいえたが、CDUと対立するSPD側は、当初、憲法制定会議の議長は名誉職のようなものであると考えており、年齢もあって首相にはなりえないだろうと考えていた[133]

憲法制定にあたって、アデナウアーは西側連合国(米英仏、以下同じ)との調整を首尾よく行い、占領軍との特権的対話者と評される[135][136]。1949年2月に憲法草案を西側連合国に提出するも差し戻され、1949年4月には、西側連合国は西ドイツ政府が成立した場合、西ドイツの連合軍政府は廃止され、高等弁務官が設置されることが通達され、憲法制定を急ぐようにとの督促があった[137][138]。憲法制定は、会議に参加した議員はヴァイマル共和国時代からの老齢な議員が多かったために、遅々として議論が進まなかったが、憲法は1949年5月8日に賛成53票反対12票で、賛成多数で成立し、5月23日に発効される[136][139][135]。憲法制定と前後するが、5月10日にボンを首都とすることが決められた。西ドイツの首都を決定するにあたり、SPDが支持するフランクフルトかCDUが支持するボンが有力であった[140]。CDU(アデナウアー)がボンを支持したのは、フランクフルトであれば、西側連合国が同地を管理しており、そこを首都にすると西ドイツが西側連合国の傀儡国になってしまうことを危惧したのが表向きの理由であり、実際のところは、ボンがアデナウアーの選挙区に含まれていたからとする説がある[140]

首相就任へ[編集]

1949年8月に第一回連邦議会選挙が行われるにあたり、アデナウアーはCDUの党綱領を見直すことにした[141]。アデナウアーは、党内からアーレン綱領をどうするつもりか?と批判を受けたが、アデナウアーは綱領というのは永久のものではないと回答した[141]。また、アーレン綱領は社会福祉政策に関する綱領であって、経済政策にも綱領が必要であるとした[141]。こうして、デュッセルドルフ綱領が制定された。デュッセルドルフ綱領は、社会的市場経済を重視する[142][143]。社会的市場経済はエアハルトが提唱したもので、これは自由主義的な市場経済を原則とするが、一方で私的独占に対する統制の重要性を認めるものである[144]。そして社会政策の必要性が強調されている[144]。アデナウアーは、デュッセルドルフ綱領に対するCDU党内の反対者に対して、デュッセルドルフ綱領はアーレン綱領の延長線上にあるものであり、新たな経済路線を説いたものであると説得した[144]

第一回連邦議会選挙の事前予想ではSPDが有利とされており、SPDはイギリス労働党政権を参考とした計画経済と基幹産業の国有化を提唱し、一方のCDUはデュッセルドルフ綱領による社会的市場経済を重視していた[145][143][142]。選挙結果は、CDU/CSUが31%の得票率を獲得し、SPDは29%、FDPは12%で、CDU/CSUの勝利に終わる[146]

1949年8月21日、アデナウアーは組閣に当たり、CDU/CSU党内で会談の場を設けた[147][148][148]。議題はCDU/CSUがSPDと連立するのか、それともFDPとDPの小党と連立するのかを議論するためであった[147][148]。SPDは経済相のポストが与えられるならば、CDU/CSUの連立に前向きであった[147][148]。しかし、アデナウアーは、SPDの東西ドイツ統一の外交政策を危険視し、また有権者は社会的市場経済を支持したため、SPDとは連立しないことを告げた[147][148]。アデナウアーは自身を首相に推薦し、テオドール・ホイスを西ドイツ連邦大統領に推薦した[148]。もっともこの時、ホイスは会議の場所にはおらず、新聞で大統領に推薦されたことを知った[149]

1949年9月15日、アデナウアーは、首相選挙に出馬し、402票中賛成202票、反対142票、棄権44票で、過半数が202票であり、自分が投じた一票の僅差で首相に選ばれた[150][151][152]

第一次から第二次にかけてのアデナウアー政権時代の政策[編集]

ペータースベルク協定[編集]

アデナウアーが首相就任する前後には、西ドイツでは西側連合国によってデモンタージュ[* 2]が推進されていた[153]。アデナウアーは西ドイツの主権回復のため、1949年11月、ペータースベルクでアメリカ・イギリス・フランの西側連合国の高等弁務官と協議を行い、11月15日に、協議内容を議会で発表した[154]。協議内容は、西側連合国はドイツからの撤退に前向きであるが、西ドイツはルール管理機構、連合国安全保障委員会、欧州会議、これらへの加入と再軍備を控えることが求められた[154]。これにより、ドイツが二度と戦争ができない状態になる。SPDはこの提案に反発したが、アデナウアーは、これらの要求を受け入れない限りは、西側連合国のドイツ撤退はあり得ないと主張し、むしろ一切の譲歩を認めようとしない野党の姿勢を批判した[154]

ペータースベルク協定英語版は11月22日、合意に達し、これによりアデナウアーは、18の工場をデモンタージュから外すことに成功した[155][156]。除外対象となった工場は鉄鋼所が7か所、化学工場が11か所であった。造船も緩和され、時速12ノットまでの船舶であれば、無制限の建造が許可され、ハンブルクブレーメンの造船業が再開する[156]。11月25日、アデナウアーは連邦議会にて、ペータースベルク協定締結に至った経緯や動機を説明した。アデナウアーはペータースベルク協定によって、西ドイツが公的な場で初めて平等な交渉権を行使できたと述べたが、SPDは不信任決議の動議を提出した[157]。SPDの不信任決議を提出した理由は、ペータースベルク協定で定められているルール管理機構への加入は、基本法で定められた連邦首相の権利を逸脱しているとしたためである[157]。アデナウアーは、この不信任決議に対しては、ルール管理機構は、ロンドン協定締結時点で存在していたものであり、既に義務として存在しているものあり、むしろルール管理機構の一員として、中から変革するほうが得策であると訴えた[158]。また、ペータースベルク協定締結により、デモンタージュを回避できたと主張した[158]。SPDによる、不信任決議は否決された[159]

この議場で、SPDの党首クルト・シューマッハーが、アデナウアーを「連合国の首相!」と批判し、連邦議会議長がシューマッハーの暴言を注意し、議事規則を侮辱したかどで、シューマッハーの20日間の議場出席停止を命じた[159]

1951年3月には占領規約が改正され、外交権を回復し、外務省が再建されアデナウアーが外務大臣に就任し、1955年まで外務大臣を務めた[160]

再軍備へ[編集]

再軍備が禁止された西ドイツであったが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発する。朝鮮戦争によりアメリカは朝鮮半島に軍事力を傾注することでヨーロッパが手薄になる可能性があった[161]。その年の8月29日、アデナウアーは、閣議に掛けることなく、アメリカ高等弁務官・ジョン・J・マクロイに、西ドイツの安全保障に関する覚書を提出する[162]。覚書では「ドイツ国民があらゆる種類の犠牲を払わなければならないのならば、他の全ての西欧諸国民と同じように自由への道が開かなければならない」と述べた[161]。内務大臣のグスタフ・ハイネマンは再軍備に反対であり、彼は重要な外交政策を独断で決定しているとアデナウアーを非難した[162][163][164][165]。また警察については内務省管轄であったため、ハイネマンは抗議の意を込めて内相を辞職する[163][166][165]

アデナウアーは、1950年10月に、テオドール・ブランクを長とするブランク局を設置し、再軍備準備組織を首相府に設置した[167] [161][168]。また、アデナウアーは西欧の防衛に貢献すれば、西欧諸国と対等な地位に就くことができると考えていた[169]。1950年9月、アメリカ、イギリス、フランス三か国外相会談で、アメリカが西ドイツの再軍備を認可する方針を打ち出したが、フランスとしては、西ドイツに国軍を設立するのではなく、国家を超越した欧州軍のみを受け入れるつもりであった[169]。1950年10月、フランス首相ルネ・プレヴァンが、プレヴァン・プラン英語版を発表する[169][166][170]。これは、欧州軍を創設し、欧州の集団防衛を提唱したもので、そこから発展し欧州防衛共同体(EDC)構想が提案される[165][169]。アデナウアーは、西ドイツの国軍と参謀本部設置が認められていない点は不満はあったものの、プレヴァン・プランには大筋で賛成した[166]

アデナウアーは、1954年2月26日、再軍備を認める欧州防衛共同体条約発効を見越して、兵役義務と防衛の基本法改正を行った[171]。これによって徴兵制による再軍備の明確な基礎ができた[171]。しかし、欧州防衛共同体は1954年8月にフランスで否決され、水泡に帰してしまった[171]。西ドイツ主権回復が遠のいて、窮地に立たされたアデナウアーであったが、イギリス外務大臣アンソニー・イーデンが1948年に締結されたブリュッセル条約を拡大して、西ドイツとイタリアを加えて、西欧同盟に発展させる構想を打ち出した[169][172][173]。そして、西ドイツの再軍備とNATO加盟を実現するという代案を提供し、西ドイツは、この提案に乗り、1955年5月5日パリ協定が締結され、西ドイツは主権を回復した[169][172]。1955年5月9日には、西ドイツNATO加盟が実現し、同年11月12日西ドイツ連邦軍が発足し、再軍備が完了した[169][172][174]

イスラエルへの補償[編集]

1951年3月、イスラエルは戦勝国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)に覚書を送付する[175]。内容は、ナチスドイツ時代のユダヤ人迫害によって受けた人命や財産の被害や、耐乏生活について述べ、そして、その被害に対する補償を要求する[176]。要求が認められないのであれば、ドイツ再建を許すべきではないという内容であった[176]。覚書で、イスラエルが求める補償は、西ドイツから10億ドル(当時のレートで42億マルク)、東ドイツからは5億ドルの補償を要求する旨が記載されていた[175]。東ドイツは、ドイツの継承国でないとして、無回答であった[175]。アデナウアーにはこの覚書は送付されていなかったが、外相を務めていたこともあり、覚書の情報はすぐに伝わった[177]

アデナウアーは、ロンドンに駐在していた秘書に世界ユダヤ人会議議長ナハム・ゴールドマン英語版との接触を命じ、イスラエルとの仲介を依頼し、補償の範囲や程度を確認させた[177]。その結果、西ドイツ政府は、ナチスドイツ時代のユダヤ人政策の責任を認め、物質的損害の補償の確約を求められた[177]。アデナウアーは1951年9月27日の声明で「ドイツ民族の名においてなされた言語を絶する犯罪」を認め、補償に応じる用意があるとした[175][178]。ただし、アデナウアーは、ドイツ人の集団罪責を否定し、むしろドイツ人はナチスの被害者であるとしていた[179]

1951年12月6日、アデナウアーは閣議を無視してゴールドマンと対談し、ユダヤ人への賠償問題は道徳上の義務であり、西ドイツ連邦政府は物資などを供給し、イスラエル国家建設に寄与することを明言した[180]。補償金は10億ドル(42億マルク)をスタートとして交渉が始まる[181]

西ドイツとイスラエルの交渉が始まる前の1952年3月、西ドイツの交渉への抗議の一環として、アデナウアーの暗殺未遂が起きるなど(アデナウアー暗殺未遂ドイツ語版)、西ドイツとイスラエルの交渉は難航が予想された[182][183]

西ドイツとイスラエルの交渉は、1952年3月から始まり、西ドイツは、30億マルクの補償を提示するが、政府内では、補償が高いとして反対があり、国内世論も補償自体は支持するが高いという声があった[175][183]。また、当時西ドイツは外国への通貨支払いが厳しく制限されていたこと、そして対外債務も莫大な金額を抱えていたため、なかなか支持が得られなかった[184]。しかし、1952年9月10日、ルクセンブルク補償協定を締結し、西ドイツはフランツ・ベームが交渉に当たり、12年から14年かけて30億マルク相当の物資を、年間で最低2億5000万マルクの条件で、イスラエルに供与し、現金4億5000万マルクをイスラエル外のユダヤ人対ドイツ物的請求会議に支払うことで妥結し、1966年までにこれらの補償は完了した[179][185]

ルクセンブルク補償協定は、1953年3月18日に連邦議会で批准されたものの、賛成票239票のうち125票はSPDが投じたものであった[185]。補償協定の附属議定書には、西ドイツにおいての補償法制定が求められていた[185]。そのため、アデナウアー政権は1953年10月1日に、連邦補充法を制定し、1956年6月29日に連邦補償法を制定した[175]。この法律はナチスドイツ体制により、政治的敵対・宗教・人種・世界観を理由に迫害された者を対象としたものであるが、適用範囲は西ドイツが外交関係を持つ国に限られたために、国交がない東欧諸国に対しては個別に一括支払協定を締結した[175]。ただ、その時点での連邦補償法の適用範囲は1952年末時点で西ドイツに居住しているか、1937年末時点でドイツに居住にしていたことが条件とされた[186][* 3]

スターリンノート[編集]

1952年3月10日、スターリンより、ドイツ再統一と中立化に関する提案がなされる(スターリン・ノート[187]。スターリンノートは、1952年3月を1回目として、その後、1952年4月の二回目、同年5月の三回目、そして、9月の合計四回の覚書が発行された[188]。スターリンノートの内容は、ドイツに軍の創設を認め、再統一を行ない、ドイツは中立化され、外国の軍隊はドイツから撤収することになっていた[189][190][187][191][192]。そして、ドイツには民主主義的権利として、自由選挙や信仰、政治活動などこれらの自由を認めるというものであった[191]。このスターリンノートの狙いは、当時交渉中であった、欧州防衛共同体条約の遅延や妨害を狙ったものとされる[190]

アデナウアーは、このスターリンノートを受け入れた場合、ドイツには最低限の軍事力しかなく、中立化によってアメリカ軍が撤退してしまい、ヨーロッパでは、ソ連の強大な軍事力が幅を利かせることになるだろうと考えた[187]。また、アデナウアーはソ連がドイツの自由選挙に応じるとは思えないとして、スターリンノートを拒絶した[187]。アデナウアーは、西側連合国に対して、西ドイツを無視して、スターリンノートを受け入れることがないようにと釘を刺した[187]。ドイツ国内並びに与党内部では、スターリンノートを支持する者が多くいた[187]

しかし、スターリンノート拒絶は、1953年6月東ベルリンで暴動が起き、この暴動を、ソ連軍は軍隊を使って鎮圧したことから、アデナウアーの決断が正しかったことが証明された[193]

ザール地方のドイツ復帰[編集]

1946年、フランスはザールをフランス占領地区から切り離して、自治共和国としてフランスに編入し、ザールマルクという独自通貨を発行するなどしていたが、1950年には、フランスはザールの炭鉱を50年間にわたって租借することにした[194][195][196]。アデナウアーはザール地方をドイツに返還するよう交渉した[195]。そして、1953年10月からボンでドイツとフランスのザール問題の会談がセッティングされ、パリでザール独立化に関する協定が調印されたが、1955年10月のザール住民投票で否決され、ザールのドイツ復帰が確定する[195]。ザールの西ドイツ編入に関する意見調整は1956年9月に行われ、アデナウアーはフランス外相ギー・モレと会談し、1957年1月1日、ザールは西ドイツに編入された[195]

西側結合へ[編集]

アデナウアーは西側連合国に接近する西側結合を志していた。1950年5月、シューマンプランが提示される[197][161][198][199][200][201]。独仏両国の石炭や鉄鋼を国際管理し、軍拡や戦争計画の立案を不可能とするものであった[197][161][202][198][199][201]。1950年6月20日、西ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6か国が交渉を行ない、1951年4月に欧州石炭鉄鋼共同体条約に調印し、1952年6月に同条約が発効した[200][201]。これにより、アデナウアーにとっては西側結合を推進しやすい環境が整った。

アデナウアーはソ連を危険視しており、1951年の演説では、キリスト教の最も恐ろしい敵がソ連だと演説した[203]。そして、フランスとドイツだけでなく、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、オーストリア、北欧諸国、イギリスも政治的に結合すべきだと演説した[203]

共産党並びに極右への対応[編集]

西ドイツでは、戦後も反共産主義の気風が蔓延しており、共産主義者は国家反逆罪という名目で何万件にも上る裁判を起こされていた[204]。1951年11月、アデナウアー政権はドイツ共産党を違憲であると判断し、ドイツ社会主義帝国党と共に連邦憲法裁判所に、非合法化を申し立てる[204]。アデナウアー政権が両党を違憲とした根拠は、当時のボン基本法第21条第2項である[205]。第21条1項には、「政党は国民の政治的意志の形成に参加する。政党の創設は自由である。政党の内部組織は民主主義の諸原則に準拠しなければならない。政党はその資金源を公表しなければならない」とあり、政党の自由の原則を述べているが、一方で第21条2項には「政党の目的または党員の行動から見て、自由にして民主的な基本秩序を侵害し、または除去し、もしくはドイツ連邦共和国の存立を危うくするような政党は違憲である。違憲性の問題は、連邦憲法裁判所が決定する」としている[205]。つまり政党の自由は無限に保証されるわけではないということを根拠としていた[205]。 ドイツ社会主義帝国党は、1952年10月に違憲判決が下る[206][204][207]。共産党の場合は、占領下のドイツではソ連との関係もあり、長引き、1955年7月に公判が終わり、違憲判決が下され、1956年に活動を停止した[207][204][206]

国内政策[編集]

戦中戦後のドイツの戦災喪失総額は約2310億マルクに上った[208]。1951年のドイツ国民の総所得は約900億マルクであり、これらの負担がありながら、被追放民への助成をどうするかがアデナウアー政権の課題であった[208]

アデナウアーは、1952年1月、被追放民[* 4]からの手紙を受け取る。手紙には、東部ドイツ領から追放され、さらには通貨改革でわずかな現金も失ったという窮状を訴える手紙であった[210]。このような手紙が毎日数百通送られて来たため、アデナウアー政権は戦争によって被害を受けた者への補償として、1952年8月、負担調整法を制定する[210][211][209][186]。負担調整法は、戦争によって被害を受けなかった者には、全財産に50 %の課税をし、そして、戦争の被追放民や戦争によって財産の毀損を受けた者に再分配し、助成するという法律で、総調整額は1150億マルクに到達した[212][186]。被追放民にドイツ国籍を付与するなど法的地位を確立させ、アデナウアーは被追放民省を設置し、制定した負担調整法で支援するなどした。また、1953年には連邦被追放民法を制定し、生活状態の改善を図った[209]

住宅不足対策[編集]

被追放民を受け入れたことで、住宅不足が問題になり、1950年時点では、西ドイツの人口に対して、約480万戸が不足していた[209]。そのため、1950年。住宅建設省を作り、4月に第一次住宅建設法を制定した[186]。これは自治体などに、住宅建設の助成を行うもので、毎年40万戸から60万戸の住宅が建設された[209]

労使共同[編集]

1951年5月、共同決定法が成立する[213]。これは、企業の最高意思決定機関である監査役会に経営者だけでなく、経営者と労働組合の代表を同数に設定し、労働者の経営参加を認め、経済民主主義を達成するという試みの法律である[213]。この法律は、当時イギリスでは、労働党が政権を獲得していたため称賛された[214]

非ナチ化解除[編集]

1950年12月、アデナウアー政権とSPDは非ナチ化の追放解除を推進し、連邦議会で非ナチ化の終了を宣言し、重罪者やナチスの積極分子を除いて追放解除する[207]。これによって、ナチス協力の廉で追放された公務員も再雇用でき、ナチス時代の犯罪を理由として、起訴される可能性があった数千人を恩赦し、公職追放された30万人以上の公務員や軍人に寛大な処置がとられた[207]。これによって、官僚制度が維持された[215]。また、アデナウアーは、1952年10月の議会演説で、「旧ナチス党員を暴き出すのはもうやめよう。」と演説した[216]

第二次アデナウアー政権成立[編集]

1953年9月6日の第二回連邦議会選挙はCDU/CSUが圧勝し、投票率86%の内CDU/CSUは244議席(45.2%)、SPDは151議席(28.8%)を獲得した[217][218]。アデナウアーは、FDPだけでなく、DPと、故郷被追放者・権利被剥奪者連盟(BHE)も連立政権に引き込んだ[218][219]。結果的に、議員数487人中336人が与党となった[220]。CDU/CSUが大勝した原因は複数あげられるが、西ドイツは経済成長を果たした一方、東ドイツでは東ベルリン暴動が起きるなどの東西の経済格差がわかったこと、たばこ税、コーヒー税の引き下げが原因とみられている[220][221][222]。そして、アデナウアーは首相に再選される。

モスクワ訪問[編集]

1955年、ソ連はアデナウアーに招待状を出した[223]。ソ連は西ドイツに接近し、西側結合を緩める狙いと、西ドイツと国交樹立することで、東ドイツ政府承認を目論んでいた[224][223]。アデナウアーは招待を受けて、1955年9月にモスクワを訪問する[193]。モスクワを訪問したアデナウアーは、ニキータ・フルシチョフから、西ドイツのNATO加盟を非難されるが、一方のアデナウアーは、旧ドイツ軍の戦争捕虜の釈放を要求し、第一陣として約1万人の戦争捕虜と、約2万人の民間人抑留者の釈放を取り付けることに成功した[225][193][226][227][228][229]。これにより西ドイツにおけるアデナウアー人気は最高潮に達した[193][226]。ただ、この捕虜釈放については、元々ソ連は国交樹立のカードとして、捕虜釈放を検討していたため、アデナウアーの交渉能力が功を奏したわけではない可能性がある[230]。ソ連とはその後、貿易協定が締結されたものの、アデナウアーはソ連とは相容れないと考えており、1959年初めの演説では、「ソ連は西ヨーロッパ進出を考えており、ゆくゆくは全ヨーロッパを傘下に置くことを考えている。そのため西側諸国はソ連に対しての警戒を怠ってはならない。」と演説している[231][232]

1956年6月28日、東ドイツと国交を結ぶ国とは断交するという外務次官のヴァルター・ハルシュタインによるハルシュタイン原則(ドクトリン)を打ち出し、1957年10月、ユーゴスラビアが東ドイツを国家承認した際には、ユーゴスラビアと断交した[233][234][235]

西ドイツでは原子力エネルギーの開発の要求が高まっていた[236]。パリ協定では、西ドイツの核兵器生産を禁止していたものの、これはあくまでも西ドイツ国内での禁止であって、外国との共同開発を禁止したものではなかった[236][237]。そして西ドイツ国内ではアメリカ軍が核兵器を配備していた[237]。1957年4月、アデナウアーは、「戦術核兵器は大砲の延長であり、我々ドイツ人はその発展を止めることはできない」と言明した[237]。アデナウアーは、西ドイツの核の軍事転用を防ぐためには、フランスのジャン・モネが提唱したユーラトムの設立が必要であると説いた[236]。原子力の扱いについては、閣内でも意見が対立しており、原子力後進国の西ドイツがユーラトムに加盟した場合、フランスの傘下に置かれてしまうという意見があった[238]。だが、アデナウアーはユーラトムに加盟することでヨーロッパ統合につながると主張し、反対派の意見を封じた[239]。1957年に欧州経済共同体設立条約及びユーラトム設立条約を締結し、西ドイツは軍事・安保面では大西洋共同体に結び付けられ、経済・社会面では西欧に組み込まれた[239]

アデナウアー政権の閣僚[編集]

第二次アデナウアー政権下では、非ナチ化が進んだため、ナチスドイツ時代ナチスとかかわりのあった人物が閣僚として起用されていた。アデナウアーが重用していた人物にハンス・グロブケドイツ語版がおり、アデナウアーはグロブケを首相府次官に任命していたが、グロブケは1932年から1945年まで内務省の官僚を務めており、ニュルンベルク法の注釈を起草した人物として有名であった[240][241][242][243][244]。アデナウアーは当然その過去を知っていたが、グロブケの能力を評価したため周囲の批判にかかわらず、重用していた[240][241][242]。また、グロブケ以外にもシュレーダー内相や、テオドール・オベルレンダードイツ語版難民相もナチス党員であった[243]

第二次アデナウアー政権の国内政策[編集]

1955年イタリアとの間で労働者募集協定を締結し、ガストアルバイターと呼ばれる低賃金の外国人労働者の受け入れを行い、当初30万人程度の受け入れを行っていた[245][246]。この協定はアデナウアー政権以降も引き継がれた[246]

1954年11月に児童手当法が成立し、18歳未満の子供が3人いる家庭には1人につき、毎月25マルクを支給することになった[247]。そして、児童手当法成立を受けて、1956年6月、第二次住宅建設法を制定し、庭付き一戸建ての建設が促進された[247]

1950年代の西ドイツの経済成長率は目覚ましく、年平均8%を記録し、1955年には、11.8%の経済成長率を記録し、失業率も1%台にまで下がっていた[248] [249]。現役世代は所得も増えていたが、一方で年金受給世代は不遇をかこっていた[250]。そのため、アデナウアー政権は年金改革を試み、カトリック企業経営者連盟事務局長ヴィルフリート・シュライバーを抜擢して、年金改革案を構想する[251]。従来の年金制度は積立方式であったが、これを現役世代の保険料から徴収し、引退世代の年金を支給する方式に変更し、1957年1月に導入された[251]。これによって労働者年金の支給額は65%の増額、職員年金は72%の増額が達成された[251]。これが、第3回連邦議会選挙の大勝につながった[251]

1957年9月、第三回連邦議会選挙が行われ、CDU/CSUは270議席を獲得し、FDPは41議席、DPは17議席を獲得した[252]。野党のSPDは169議席であり、選挙は与党の大勝に終わった[252]。この時の選挙のポスターでは、「あらゆるマルクス主義の道はモスクワに通じる」という選挙ポスターを掲示し、反共であるはずのSPDを非難していた[253]

第三次から第五次アデナウアー政権[編集]

第三次アデナウアー政権にもなると、アデナウアーの専横や失策が目立ち、アデナウアーの権勢が低下し始める。

アデナウアーの大統領立候補と取りやめ[編集]

テオドール・ホイスが連邦大統領の任期を1959年で終了するため、後任の大統領を擁立する必要があった[254][255][256][257]。アデナウアーは、エアハルトを大統領候補に推薦した[254][255][257]。エアハルトとアデナウアーは経済政策や外交政策において衝突が多く、後継首相と目されていたエアハルトを大統領にしようという狙いがあった[255][257][* 5]。アデナウアーは、党内から露骨なやり方であるとして反発を受け、エアハルトも大統領推薦を拒否した[255][257]。そうすると今度はアデナウアーが大統領への立候補を試み、首相にはフランツ・エッツェル英語版を推薦する[254]。エッツェルはこれという政治的野心や政治的立場も無く、アデナウアーはエッツェルを首相に祭り上げて、連邦大統領に首相と同等の職責を求めた[254][254][255][257]。基本法を無視したこの行動は世間から顰蹙を買う[255]。結局アデナウアーは大統領出馬を取りやめ、ハインリヒ・リュプケを大統領候補に指名し、投票の結果リュプケが大統領になった[258]。この一連のアデナウアーの専横的な振る舞いにより自身の威信を低下させることとなった[255]

元ナチス党員の閣僚辞任[編集]

テオドール・オベルレンダー難民相は、ナチス・ドイツ時代はアプヴェーア出身で、東部問題を担当していた[259]。オベルレンダーはナチス党員であることを認めたが、親ナチスとは言えず、反ヒトラー派のヴィルヘルム・カナリスの下にいた[259]。終戦直前にイギリス軍の捕虜となったが、1946年には釈放。非ナチ化裁判では、東欧におけるナチスの政策を批判したために1943年に罷免されていた経歴があったことが証言された[259]。ここまでは第二次アデナウアー政権時代にわかっていたことであったが、1941年6月末にウクライナのリヴィウにいたことがわかり、運命が暗転する[259]。同地は、アインザッツグルッペンの活動地域であったため虐殺に関与していた疑惑がもたれ、オベルレンダーは、1960年4月、辞職した[259]

訪日[編集]

アデナウアーは、1960年3月25日から4月1日まで、日本に滞在していた[260]。アデナウアーは岸信介吉田茂と対面し、昭和天皇にも謁見した[260]。吉田茂と対談したときには、アデナウアーがおどけたやり取りが残されている[261]

吉田「自分は投獄された経験がある。」

アデナウアー「何回ですか?」 

吉田は「もちろん、たった1回です。私は悪人ではないから。」

アデナウアー「では、二回も入った私は悪人ですな。」

[261]

ベルリンの壁建設時の対応[編集]

第三次政権も任期が終わりに近づき、選挙運動をしている最中、東ベルリンで大事件が起きる。ベルリンの壁建設である。ベルリンの壁建設時、アデナウアーは側近の進言にも関わらず、ベルリンに行かずに選挙活動に勤しみ、西ベルリン市長のヴィリー・ブラントの出自を嘲笑していた[262][263][264][265]。また、アデナウアーは「ベルリンの問題は、NATOが事態を解消に向けて行動するだろう」と発言し、楽観的に構えていた[265]。一方のヴィリー・ブラントは西ベルリン市長として、ベルリンの壁構築について、東ドイツへ抗議をするなど積極的に活動した[262]。結局、アデナウアーがベルリンに来たのは、壁が構築された9日後の8月22日のことであった[264]。この結果、アデナウアーを不支持に転じたものが数多くいた[264][266]

第四回連邦議会選挙はCDU/CSUが後退した。CDU/CSUの議席は281議席から242議席になり、SPDは169議席から190議席へと躍進し、FPDは43議席から67議席となった[267]

首相退任へ[編集]

シュピーゲル事件[編集]

1962年10月8日、シュピーゲル誌(1962年10月10日号)が、NATO機動演習(ファレックス62)の内容を詳細に報道し、東からの攻撃に対して、ドイツ連邦軍による防衛体制に大きな欠陥があることを批判する記事を掲載した[268][269][270]。国防相のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス(CSU党首)は、これを軍事機密漏洩と判断し、シュピーゲル誌社長のルドルフ・アウグシュタイン英語版はじめ十数名の記者を逮捕させた[268][262][256][270][271]。シュピーゲル誌は、証拠物件と目された文書や写真を押収され、編集局は数週間にわたり官憲によって占拠され、編集業務が一切できなくなった[268]。アウグシュタインは、104日間にわたって拘留された[271]

シュピーゲル誌の社長アウグシュタインは、「法治国家における基本的原則に違反するものである」と主張した[272]。また、逮捕に至った報道内容、ファレックス62に関する記事は、従来公表されていた資料を基に掲載された記事で軍事機密漏洩などではなかった[272]。連立与党を組んでいたFDPは閣僚5人が抗議の意味で辞職し、連立与党復帰の条件としてシュトラウスを国防相から辞任させることを要求した[256][269]。こうして、シュトラウスは国防相を辞任した。そして、アデナウアーは翌年1963年秋の議会終了後に首相退任を約束させられている[262][269]

テレビ局設立構想[編集]

アデナウアーは政府傘下で、テレビ局を設立しようとしたが、ドイツ連邦憲法裁判所は、テレビは州レベルの管轄事項であると判断し、テレビ局設立は失敗した[273]

ドゴールとの関係構築[編集]

仏独協力条約に調印する独仏首脳
左からアデナウアー、ド・ゴール、ポンピドゥー

1958年9月にシャルル・ド・ゴールと初対談を果たし、ヨーロッパ統合と共同市場の関税の削減について話し合った[274]。初対面時には、政治的決定は特になされず、雑談をするなどして親交を深める[274]。アデナウアーは、ドゴールを西ドイツにとって必要な盟友と考えており、ドゴールと6回ほど面談し、1963年1月22日、パリのエリゼ宮殿仏独協力条約を調印する[275][276][277]。条約調印により、ドイツとフランス両国の対立は終了した[276]。仏独協力条約では、西ドイツとフランスの両国の国家元首と外務大臣、国防大臣が定期的に協議することが求められた[276][262][275]

首相退任と死去[編集]

アデナウアーの死の直後に発行された切手(1968年

1963年10月15日、アデナウアーは首相を退任する[278][279][280]。しかし、アデナウアーは首相を退任したものの、議席は連邦議会に置き、CDUの党首も引き続き務めた[281][278][279]。首相退任後は、回顧録の執筆に時間を割き、回顧録は1945年から1953年までの第一巻、1953年から1955年までの第二巻、1955年から1959年までの第三巻、1959年から1963年までの第四巻が刊行されたが、第四巻は未完の状態でアデナウアー死後の1968年に出版された[282]

アデナウアーは90歳を過ぎるとさすがに体調を崩すことが増えていた。そして1967年4月19日に死去[283]。死去後、国葬が4月25日に執り行われた[283][279]

エピソード[編集]

エアハルトとの関係[編集]

アデナウアーは、経済に素人であったため、経済の専門家であるエアハルトをCDUに引き入れて、経済相に任命するなど重用したが、両者の関係は良好とは言い難かった。両者は早くも1950年に衝突し始め、ことあるごとに意見が合わず衝突していた[284]。アデナウアーは、エアハルトを政治家としての資質に欠けていると論じていた[285][286][287] [288]。アデナウアーは首相退任後もエアハルトを批判し続けていた[289]。エアハルトのあだ名はゴム製の獅子であった[290]。その心は、エアハルトはアデナウアーがいない場所では、エアハルトは反抗したり怒ったりするが、アデナウアーがそばに来るとおとなしくなるからである[290]。しかし、エアハルトは(アデナウアー以外の)CDU党内や国民の間では経済成長の父として人気があった[291]

趣味[編集]

コンラート・アデナウアー薔薇

アデナウアーの趣味に発明があり、第一次世界大戦時の食糧問題時にその発明の才能を活かし、ケルンパン(とうもろこしとじゃがいもの粉の混合パン)や、ケルンソーセージ(主原料が大豆)を発明した[292][293][42]。ただし、これらは美味しくなかったそうである[293]。その他の発明品としては、曲がらないヘアピンや、輝くストップウォッチ、自動車運転用のサングラスなどがあったが、いずれも珍発明の域を出ないものであった[292]

アデナウアーは、庭いじりが趣味であり、バラをこよなく愛しており、もし政治家にならなければ、庭師になっていたほどであった[294][96][92]

評価や顕彰[編集]

2ドイツマルク硬貨の裏面にあしらわれたアデナウアーの横顔(1969年発行)
ベルリンにある独仏関係修復記念碑
右がアデナウアー、左がド・ゴール

ドイツの調査機関、アレンスバッハ研究所英語版が1950年から1993年まで毎年、「最もドイツに貢献した偉大なドイツ人は?」というアンケートを取っていた[295]。第一回目の1950年のアンケートでは、アデナウアーは圏外で、ビスマルクが35%で一位、ヒトラーが10%を獲得していたが、1952年の同アンケートでは、アデナウアーは3%を獲得し、アデナウアーは首相在任10年目に当たる1958年には26%の票を獲得し、ビスマルク(23%)を抜いて一位に立ち、以後一位をキープした[296][297][295]。ベルリンの壁崩壊時(1989年)には約30%がアデナウアーを支持していた。ドイツ第二テレビ(ZDF)の「わたしたちのベスト(Unsere Besten)」という視聴者参加型のランキングテレビ番組の第一回放送(2003年11月28日)では、最も偉大なドイツ人の順位を約182万人からアンケートを取った結果、一位はアデナウアーだった[295]。なお、ビスマルクは九位だった[295]。2009年にもアレンスバッハ研究所が「これまでで最も重要だった連邦首相は誰だと思うか?」というアンケートではブラントやヘルムート・コールが挙げられたが、全体としてはアデナウアーが最も多かった[295]

アデナウアーの政治スタイルには批判もある。アデナウアー自身は経済に明るくなかったため、ケルン市長時代は湯水のごとく金を使っていた[65][78][298]。首相就任後は、外国人記者の取材には気軽に応じ、だが、政治決定はアデナウアー自身が一人で決断することが多々あったため、閣僚たちは翌日の新聞報道によって、政策を知る始末であった[299][300]。アデナウアーの政治スタイルを受けて、宰相民主主義や首相部隊という新語が作られた[300]。首相部隊というのは、排他的な顧問グループのことである[300]

アデナウアーはケルン大学創設により、ケルン大学より政治学、法学、医学及び、哲学の名誉博士号を授与された[301]。また、1953年4月、訪米した際には、メリーランド大学ジョージタウン大学で法学の名誉博士を授与された[301][302]

アデナウアーは、メルセデス・ベンツの当時の高級車300」を公私に渡り愛用しており、この車種は「アデナウアー」の異名で呼ばれた[303]

脚注[編集]

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  297. ^ プリティ、124-125頁
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  303. ^ 板橋,妹尾、283頁

注釈[編集]

  1. ^ ドイツ語での発音に従えば「アーデナウア」と表記したほうが正確だが、日本では慣用的に「アデナウアー」と表記されている。
  2. ^ 工場の解体や生産設備の接収などのこと
  3. ^ つまり、1933年1月にヒトラー政権が誕生した時点で亡命した場合は補償を受けられないことになる
  4. ^ 被追放民とは、第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて、東部ドイツ領、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーなどから追放されたドイツ系住民をさし、これらの住民は1950年時点で800万人もいた[209]
  5. ^ 西ドイツの連邦大統領は事実上の名誉職である

参考文献[編集]

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外部リンク[編集]