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用字については、『日本書紀』では蝦夷の夷の字に[[むしへん|虫偏]]をつけた箇所も散見される{{Sfn|高橋|1986|ps=(81例中14)|pp=12-13}}。蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「'''蝦狄'''」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある<ref>『日本後紀』延暦16年2月己巳(13日)条。</ref>。一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国([[令制国]])による人工的区分で、[[越後国]](後に[[出羽国]])所轄の日本海側と北海道のえみしを'''<u>蝦狄・狄</u>'''、[[陸奥国]]所轄の太平洋側のえみしを'''<u>蝦夷・夷</u>'''としたのである{{sfn|熊田|1986|pp=162-165}}。
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== えみし ==
== 蝦夷(えみし ==
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した<ref name=":0" />。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわち[[アイヌ]]につながり、一部は[[和人]]につながったと考えられている。蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)とは連続性を有すると考えられてきたが、昭和に入ってから東北地方に弥生時代の稲作遺跡が発見されたことから、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)を、人種的にはともかく、民族的には区別する説が有力となった。
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した<ref name=":0" />。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわち[[アイヌ]]につながり、一部は[[和人]]につながったと考えられている。蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)とは連続性を有すると考えられてきたが、昭和に入ってから東北地方に弥生時代の稲作遺跡が発見されたことから、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)を、人種的にはともかく、民族的には区別する説が有力となった。



2022年1月17日 (月) 01:20時点における版

アテルイ、モレの顕彰碑
京都市清水寺

蝦夷えみしえびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島東国(現在の関東地方東北地方)や、北方(現在の北海道樺太)などに住む人々の呼称である[1]

大和朝廷による支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した[1]近世以降は、北海道樺太千島列島カムチャツカ半島南部にまたがる地域の、アイヌ語母語とするアイヌ民族を指す。

大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。

大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷は、俘囚と呼ばれた。

語源と用字

蝦夷は古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる[2]。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である[3]

えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)をしていたことが分かっている。

古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)[4] と歌われたこと、蘇我蝦夷小野毛人佐伯今毛人鴨蝦夷のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、平安時代後期には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する豪族安倍氏清原氏)が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている[5]。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測もある[6]

他方でアイヌ語に語源があると考えた金田一京助は、アイヌ語の雅語に人を「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが、日本語で「えみし」になったか、あるいはアイヌ語の古い形が「えみし」であったと説いた[7]

文献的に最古の例は毛人で、5世紀の倭王武の上表文に「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」とある。蝦夷の字をあてたのは、斉明天皇5年(659年)の遣唐使派遣の頃ではないかと言われる[8]。後代に人名に使う場合、ほとんど毛人の字を使った。蘇我蝦夷は『日本書紀』では蝦夷だが、『上宮聖徳法王帝説』では蘇我豊浦毛人と書かれている。毛人の毛が何を指しているかについても諸説あるが、一つは体毛が多いことをいったのだとして、後のアイヌとの関連性をみる説である。また、中国の地理書『山海経』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある[9][10]

人名に使った場合であっても、佐伯今毛人が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく)と書かれた例がある[11]。蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある[12]喜田貞吉は、意味ではなく音「かい」が蝦夷の自称民族名だった[13]のではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」、ロシア人からは「クリル」と呼ばれた。斉明天皇5年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという[注 1]。金田一京助は喜田の説を批判して、「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた[15][注 2]。夷の字を分解すると「弓人」、上代日本語で(ユミシ)になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある[17]

諸説ある中で唯一定まっているのは、「夷」が東の異民族(東夷)を指す字で、中華思想を日本中心にあてはめたものだということである。「夷」単独なら『古事記』などにも普通にあるが、その場合古訓で「ひな」と読む。多くの学者は用字の変化を異族への蔑視の表れとし、蘇我毛人を蘇我蝦夷としたのも『日本書紀』編者が彼を卑しめたものとする[18]。だが、佐伯今毛人の例を引いてこれに反対する意見もある[19]

用字については、『日本書紀』では蝦夷の夷の字に虫偏をつけた箇所も散見される[20]。蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「蝦狄」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある[21]。一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国(令制国)による人工的区分で、越後国(後に出羽国)所轄の日本海側と北海道のえみしを蝦狄・狄陸奥国所轄の太平洋側のえみしを蝦夷・夷としたのである[22]

蝦夷(えみし)

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した[1]。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)とは連続性を有すると考えられてきたが、昭和に入ってから東北地方に弥生時代の稲作遺跡が発見されたことから、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)を、人種的にはともかく、民族的には区別する説が有力となった。

「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一なアイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。

歴史

弥生時代

蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀神武東征紀中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。

えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず
(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)
「愛瀰詩烏 利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毛勢儒」[注 3]

しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。概ね関東地方から東北地方北海道にかけて、広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている。

古墳時代

5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、478年順帝昇明2年)倭王武が宋 (南朝)に届けた上表文として以下の記述がある。

「昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」

これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することが出来る。

日本書紀景行天皇条には、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察した際の記述とし「東の夷(あずまえびす)の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という」とあり、荒々しく勇猛な者、情を理解せず教養や文化に欠ける者としている。40年条には、天皇が日本武尊東夷の征討を命じる際、蝦夷の特徴として「冬は穴居、夏は樹上家屋の生活」「山に登るときは飛ぶ鳥のように速く、草原を走るときは逃げる獣のように速い」「束ねた髪の中に矢を隠し、刀は衣の中に隠し持つ」「攻撃すると草原に隠れてしまい、追いかけると山中に逃げてしまう」と記述がある。

蝦夷は、その優れた狩猟の弓術(和人の伝統の長弓に比べると短弓を用いた)に、古墳時代に日本へもたらされたを和人から取り入れ、飛鳥時代・奈良時代には狩猟における騎射の技を磨いた[23]。戦闘が起きた場合には、優れた騎馬戦闘術(および蕨手刀などの騎乗武器)を生み出した。

古墳の分布

古墳の分布は和人文化の範囲を示し、蝦夷との境界が北限となる。これまでの発掘調査により、古墳時代前期における最古級の前方後円墳の北限は、現在の新潟県越後平野中部、福島県会津盆地宮城県仙台平野であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は、日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ中越地方に後退するが、日本海側内陸では山形県村山地方中部まで、太平洋側では岩手県北上盆地南部まで北進した。

前方後円墳の北限[24][25][26][27][28]

日本海側 太平洋側
島嶼 沿岸 内陸
佐渡 新潟県(佐渡除く) 山形県庄内除く)
福島県会津
岩手県
宮城県
最北端 なし 菖蒲塚古墳北緯37度46分3.7秒 東経138度51分57.5秒 / 北緯37.767694度 東経138.865972度 / 37.767694; 138.865972 (菖蒲塚古墳(4世紀後半))[29] 坊主窪古墳群第1号墳
北緯38度18分40.9秒 東経140度15分10.5秒 / 北緯38.311361度 東経140.252917度 / 38.311361; 140.252917 (坊主窪古墳群第1号墳(6世紀後半))[30]
角塚古墳北緯39度8分29.2秒 東経141度5分37.4秒 / 北緯39.141444度 東経141.093722度 / 39.141444; 141.093722 (角塚古墳(5世紀後半))[31]
最大 菖蒲塚古墳(北緯37度46分3.7秒 東経138度51分57.5秒 / 北緯37.767694度 東経138.865972度 / 37.767694; 138.865972 (菖蒲塚古墳(全長:53m))
全長:53m[29]
亀ヶ森古墳北緯37度35分34.8秒 東経139度49分44.8秒 / 北緯37.593000度 東経139.829111度 / 37.593000; 139.829111 (亀ヶ森古墳(全長:127m))
全長:127m[32][33]
雷神山古墳北緯38度9分4.1秒 東経140度52分46.9秒 / 北緯38.151139度 東経140.879694度 / 38.151139; 140.879694 (雷神山古墳(全長:168m))
全長:168m[34]
最古級 稲場塚古墳北緯37度41分14.8秒 東経138度50分31.4秒 / 北緯37.687444度 東経138.842056度 / 37.687444; 138.842056 (稲場塚古墳(前期)) 杵ガ森古墳北緯37度33分58.8秒 東経139度48分35.1秒 / 北緯37.566333度 東経139.809750度 / 37.566333; 139.809750 (杵ガ森古墳(前期)) かめ塚古墳北緯38度7分17.6秒 東経140度52分9.9秒 / 北緯38.121556度 東経140.869417度 / 38.121556; 140.869417 (かめ塚古墳(前期))
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飛鳥時代

飛鳥時代7世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。平時には和人と交易を行い、昆布毛皮・羽根などの特産物と引き換えに、・鉄器・工芸品を得ていた。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、また和人の築いた城柵を襲撃したため、日本書紀には襲撃や討伐の記録が記録されている。大和に帰順した蝦夷の集団は俘囚と呼ばれ、関東地方へ移住させられたり、西日本で兵隊集団を勤めるなどした。

蝦夷と接する地域(陸奥国出羽国越後国)では、国内の行政・司法・軍事を管掌する国司の守と介が饗給(慰撫)、征討、斥候などの外交・軍事も担当していた。特に陸奥国は面積が広く軍事的衝突が頻繁におきるため、陸奥国司には大宝律令が定める特例が多く、自らの判断で征討に出ることも許されていた。なお同じ辺境でも西国の国司は、征討のかわりに防守、饗給ではなく蕃客(外国使節の接待)と帰化が任務であった(鎮西府)。

当初は大和側では秋田城などの城柵で儀礼的な会食(饗応)や物資の提供を行い服属を促していたが、蝦夷には中央政権が無いため恭順する集団と支配に抵抗し襲撃を行う集団が混在し、長期間にわたり交易と征伐が並行して行われる事態となった。

『日本書紀』斉明天皇元年(655年)7月11日条には、難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応したとある。そこでは「北」と「東」にそれぞれ「北越」「東陸奥」と注があり、北は越の方面、東は陸奥の方面と解せる。このうち越国陸奥国の西に位置するが、越(高志)は都からみて北に位置するので北蝦夷としている[35]。これらの語は当時の蝦夷が二大集団に分かれていたという意ではなく、応対する国(令制国)の管轄によって朝廷が用いた分類であると考えられている。この区別は後に出羽国陸奥国の管轄になって平安時代まで踏襲されたが、字は北の異民族を指す「」に変わり「蝦狄」とも書かれるようになった[36]

『日本書紀』斉明天皇4年(658年)4月には阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討伐している。また日付は不明であるが同年には渡島に渡り粛慎の討伐とヒグマの献上を受けた記録がある。この渡島(渡嶋)とは外が浜陸奥湾沿岸の一部)から海を渡った先にある島(北海道)と推定される。粛慎と呼ばれる集団の詳細は不明であり本州以外に住んでいる蝦夷の別称という説もあるが、後には蝦夷と粛慎が別の集団であるかのような記述も登場する。

『日本書紀』斉明天皇5年(659年)には朝廷に従った蝦夷が遣唐使に同行し高宗に紹介されている。ここで引用された『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。津軽)がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であること、蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明したところ、高宗は珍しく思ったと感想を述べたとしている。しかしこのような生活は他の史料にある記述や現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張しこれを従える大和の力を誇示するための創作と思われる。信憑性に欠けるこの説明から推測されるのは、稲作を行わず狩猟を中心とした食生活、北に行くほど恭順しない勢力が強く、都加留が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。続けて引用された『難波吉士男人書』では遣唐使の蝦夷の頭上にを乗せ、40歩離れた位置から別の蝦夷が射るという実演をしたところ、百発百中で瓢を射貫いたという記述があり、弓術に優れていたことがうかがえる。また齶田(あきた、あぎた。秋田)蝦夷の長であった恩荷は阿倍比羅夫に降伏した際、弓矢は武器ではなく狩猟の道具だと証言している。

『日本書紀』斉明天皇6年3月には、阿倍臣が粛慎を討伐する際、陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて河を越え渡島に渡ったが、到着後に渡島に住む蝦夷から粛慎の水軍が多数襲来するので、河を渡って朝廷に仕えたいと申し出る記述があり、この時代には熟蝦夷の一部が朝廷軍として働いていたと見られている。また13世紀半ばから14世紀初頭にかけてモンゴル帝国樺太アイヌ攻撃しているが関連は不明である。

蝦夷は、産馬、産金の地である陸奥で経済力および戦闘力を付けていったのに対し、朝廷は産出物に依存する形となるなど、次第にその王権外の存在が問題視され、完全に大和化する政策に次第に舵が切られていった(蝦夷征討)。

奈良時代

扶桑略記養老2年(718年)8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷が78人が馬1000頭を献納したので位と録を授けた記録がある[37]

光仁天皇以降、蝦夷征討政策が本格化した。蝦夷も組織的に朝廷軍と戦うようになっていった。

宝亀11年(780年)には多賀城を一時陥落させた宝亀の乱伊治呰麻呂延暦8年(789年)に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。

延暦6年(787年)の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述[38] があり、不正な交易が行われていたことがうかがえる。

平安時代以降

延暦20年(801年)には征夷大将軍坂上田村麻呂が遠征し勝利した。延暦21年(802年)に胆沢城を築き、その周辺の蝦夷との戦いは記録に残っている中でも最大である。延暦22年(803年)には志波城を築城し、蝦夷征討の目的がほぼ達成されたと見なされた。

その後、朝廷は蝦夷に対する積極的な征服政策を転じ、民衆の負担を減らすことととし、朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止する。延暦24年(805年)、藤原緒嗣から蝦夷征討と平安京の造営の一時中止を奏上され、桓武天皇は蝦夷への遠征を中止した。また軍団を廃止し健児制へと移行したが、陸奥・出羽のみ蝦夷対策として軍団が維持された。

その後は、現地の朝廷官僚や、大和に帰順した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。

その後、前九年の役後三年の役などが勃発し、平安後期東北北部は戦乱の時代であったが、当事者のうち安倍氏清原氏は俘囚の長を自称し蝦夷との系譜的関連性を主張しているが、他方、源氏は蝦夷の系譜とは関係なく東北に乗り込んでいる。平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶことになる。

藤原氏3代は中尊寺金色堂でミイラになっている。「東夷之遠酋」や「俘囚之上頭」を自称する藤原氏のミイラの調査は注目された。調査の結果、このミイラには指紋には渦紋が多く頭は丸顔で歯のかみ合わせも日本人的であり、藤原氏の骨格は日本人の骨格であるとされた。また、ミイラには内臓や脳漿は全く無く、腹部は湾曲状に切られ後頭部に穴が開いていた。ただ、裂け目にネズミの歯形が付いており、長谷部言人はミイラは自然発生したと主張し藤原3代は日本人であったとした。それに対し、古畑種基はミイラの人工加工説を主張した。木棺3個とも後頭部と肛門にあたる板に穴が開けられていたが、切り口は綺麗で汚物が流出した跡は無く、また男性生殖器は切断されており、加工の跡は歴然だとした。これは極めてアイヌ的な慣行で、樺太アイヌは偉大な酋長が死ぬと近親者は遺体の脳漿と内臓を除去し、何度か塩水を付けて天日で乾かしウフイ(ミイラ)を作る。森嘉兵衛は、和人との何代かにわたる婚姻で骨格は日本人化していたが、精神や葬祭の慣行はアイヌ的なものが変わらず残っていたのではないかとしている[39]

奥州藤原氏が源頼朝率いる関東地方鎌倉政権によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国武士を派遣し、ここに蝦夷の系譜ではなく、朝廷の系譜による鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及び、大和化が成ったことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。

民族系統

蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を和人の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北にアイヌ語で説明できる地名が集中しているから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である。中央政府側に通訳がついていたことから蝦夷の言語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される[40]古墳時代寒冷化に伴い、北海道道央道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達し、西南日本から北上して来た古墳文化の担い手と接触・交流していたことが、考古学的に明らかとなっている。彼らが文献上の蝦夷そのものであり、その後、北海道の蝦夷は最終的にアイヌに継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は和人に合流したとされる。

一方で、蝦夷(えみし)は「ズーズー弁」(現在の東北方言の始祖)を話し、アイヌとは異なった民族であるとする説[41] もある。特に東北方言出雲方言の類似性から、古代出雲系の民族のうち国譲り後も大和王権に従わなかった勢力が蝦夷(えみし)となったとする見方[42] もある。Boer et al.2020は、蝦夷は出雲と同様のズーズー弁を話しており、それは弥生時代(稲作の拡大に伴い)または古墳時代に出雲から東北北部にもたらされたと推定した[43]。出雲弁とツングース諸語の類似[44] などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイド騎馬民族とする説もある。『吾妻鏡貞応3年(1224年)2月29日条にある難破した高麗船の荷物の調査記録では、高麗の弓について「(本朝の弓と比べて)短く、夷弓(蝦夷の弓)に似ていて、皮製の弦である」と記されており、長弓を用いる和人に対し、短弓を使用していた。このような蝦夷の武器(短弓、毒矢)や戦術(騎射、軽装甲)はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。

しかし、北方系の騎馬民族には刺青の風習はなく、日本在来馬の起源は蒙古馬から対州馬を経て、拡散されたものであり、この説も空想の域を出ない。 北米のネイティブ・アメリカンの例でもある様に、渡来した集団(この場合白人)からを手に入れ、文化に組みこまれたものと思われる。

民俗資料に見えるエミシ

東北地方に伝わる坂上田村麻呂伝説を始め種々の伝説中に、エミシの族長クラスの名として、悪路王阿弖流為大武丸赤頭の名が残る。

民俗学者・柳田国男はこの「赤頭」について、赤髪か、または赤い顔の事だろうとしていた[45]。柳田は同時にエミシの伝説として、東北人は「赤頭太郎などと称して赤い大人(おおひと)がたくさんに来たと信じていた」というものを挙げていた。この「赤い大人」というのも、赤髪か赤い顔が考えられ、また、大きな人であったという事らしい[注 4]。さらに、蝦夷の語の「蝦」の漢字はエビまたはガマガエルの意だが、ここから蝦夷を、エビの様な赤い色をした異族とする解釈もある[47](夷は異民族を指す語)。

一方、エミシは、当時の東北人からと呼ばれていたらしい[47]。例を挙げると、大武丸の生誕地が「鬼生田(福島県)」の地名、討ち取られた首が落ちた場所が「鬼首村(宮城県)」、体を埋められた場所が「鬼死骸村(岩手県)」、エミシの子孫を自称していた安倍一族と政府軍の戦闘(前九年の役)が「鬼切部」という具合である。鬼は、例えば今に残る酒呑童子(しゅてんどうじ)の絵を見れば、髪色は金色か赤色-茶色で、体格も大きく、絵によっては眼も明るい色になっている。そして肌色は赤である。エミシ伝説にまつわる「赤」と「大人」(おおひと)、これらに共通した特徴を持っている事が分かる。

鬼#正体も参照。

えぞ

中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である[注 5]鎌倉時代後期(13世紀から14世紀)頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。「エゾ」の語源についてはアイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説がある[41]

アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる[48])と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。

鎌倉時代後期(14世紀)には、「渡党[注 6]、「日の本[注 7]、「唐子[注 8]に分かれ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている。また、鎌倉時代には陸奥国の豪族である安東氏が、幕府執権北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。

室町時代15世紀から16世紀にかけて)、和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き、和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏豊臣秀吉徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列した。

クリル

蝦夷全体をクリルとしているものもある。昔のアイヌ民族は居住地にクリルという名前を使用していた。現在、ロシア連邦では千島列島や歯舞諸島や色丹島を指しているとされているが、またロシア連邦領土北海道を指す用語としてという説もあり、北海道全体や東北地方などの北日本をさす用語としても使用されている。クリルはロシア連邦では範囲がいろいろである。

脚注

注釈

  1. ^ 高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く[14]
  2. ^ 工藤雅樹もこれを支持する[16]
  3. ^ 下線部「「」は田へんに「比」の一文字、「」は「」(にんべん)に「嚢」の一文字。
  4. ^ 東部日本では、山中の背の高い「異人」を大人(おおひと)と呼んでいたという[46]
  5. ^ ただし中世の蝦夷に含まれる渡党という集団は、文化的には近世アイヌに酷似しているが、その実体については諸説あり、青苗文化人の後裔とも、和人が土着化したものとの説もある。渡党の出自が何であれ、かれらは道南で和人の支配体制に取り込まれ、次第に和人化していったとも言われる。
  6. ^ 北海道渡島半島の住民で、津軽海峡を往来する交易集団。
  7. ^ 北海道太平洋側(近世の東蝦夷)の住民で、千島方面の産物をもたらした交易集団と推定される。
  8. ^ 北海道日本海側(近世の西蝦夷)の住民で、樺太(唐太)とつながり、中国の産品をもたらした交易集団と推定される。

出典

  1. ^ a b c 「エミシ」と「エゾ」”. 青森県立郷土館. 2021年4月5日閲覧。
  2. ^ 高橋 1974, p. 33.
  3. ^ 高橋 1986, pp. 25–26; 工藤 2001, p. 26.
  4. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀。
  5. ^ 高橋 1974, p. 23; 高橋 1969, p. 49; 工藤 2001, p. 33.
  6. ^ 高橋 1974, p. 23; 高橋 1969, pp. 49–50.
  7. ^ 金田一 2004, pp. 64–65, 110–116, 126.
  8. ^ 高橋 1974, pp. 27–28; 高橋 1969, pp. 52–53.
  9. ^ 『山海経』第9海外東経(平凡社ライブラリー 132-133頁)。[要文献特定詳細情報]
  10. ^ 工藤 2001, pp. 46–47.
  11. ^ 高橋 1986, p. 16.
  12. ^ 高橋 1974, pp. 32–33.
  13. ^ 松浦武四郎『天塩日記』
  14. ^ 高橋 1986, pp. 20–21.
  15. ^ 金田一 2004, pp. 116, 127.
  16. ^ 工藤 2001, pp. 117–118.
  17. ^ 高橋 1974, pp. 32–33; 高橋 1969, p. 50.
  18. ^ 高橋 1969, p. 53.
  19. ^ 高橋 1986, pp. 22–24.
  20. ^ 高橋 1986, pp. 12–13(81例中14)
  21. ^ 『日本後紀』延暦16年2月己巳(13日)条。
  22. ^ 熊田 1986, pp. 162–165.
  23. ^ 蝦夷は、倭・高句麗戦争直後から日本へもたらされたおよび高句麗由来もしくは類似した騎射の技を、和人よりも上手に習得していった。
  24. ^ 滝沢規朗. “概説2 新潟県の弥生時代後期~古墳時代前期” (PDF). 新潟県. 2019年6月2日閲覧。
  25. ^ 春日真実. “概説3 新潟県の古墳時代中期~後期” (PDF). 新潟県. 2019年6月2日閲覧。
  26. ^ Ⅱ-2 考古学” (PDF). 新潟大学附属図書館. 2016年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月2日閲覧。
  27. ^ 記念講演2「東北からみた古津八幡山古墳」 菊地芳朗(福島大学) (PDF) [リンク切れ], シンポジウム「蒲原平野の王墓古津八幡山古墳を考える‐1600年の時を越えて‐」を開催しました”. 新潟市. 2014年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月2日閲覧。
  28. ^ 藤澤敦「小規模墳の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の研究」平成15年度-平成17年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書,課題番号:15520473、2006年3月、2021年10月1日閲覧 
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  35. ^ 熊谷 1986, p. 90.
  36. ^ 熊谷 1986, pp. 87–90.
  37. ^ ただし渡嶋については、北海道南西部は、考古学的に古代の馬の骨は発見されておらず詳細は不明である。
  38. ^ 類聚三代格』巻19
  39. ^ 森嘉兵衛『県史シリーズ』 3巻、山川出版社、1972年。 [要ページ番号]内容:岩手県の歴史。
  40. ^ 宇野俊一ほか 編『日本全史(ジャパン・クロニック)』講談社、1991年、141頁。ISBN 4-06-203994-X 
  41. ^ a b 小泉保『縄文語の発見』青土社、1998年。ISBN 4791756312 [要ページ番号]
  42. ^ 高橋克彦『東北・蝦夷の魂』現代書館、2013年。ISBN 9784768457009 [要ページ番号]
  43. ^ De Boer, E., Yang, M., Kawagoe, A., & Barnes, G. (2020). Japan considered from the hypothesis of farmer/language spread. Evolutionary Human Sciences, 2, E13. doi:10.1017/ehs.2020.7.
  44. ^ 古田史学の会 編『古代に真実を求めて』 第7集、明石書店〈古田史学論集〉、2004年。ISBN 4750318981 [要ページ番号]
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  46. ^ 柳田国男『山の人生』第29章。[要文献特定詳細情報]
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参考文献

関連項目

外部リンク