野坂浩賢
野坂浩賢 のさか こうけん | |
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生年月日 | 1924年(大正13年)9月17日 |
出生地 | 鳥取県 |
没年月日 | 2004年4月18日(79歳没) |
死没地 | 鳥取県米子市 |
出身校 | 法政大学専門部 |
前職 | 日本通運従業員 |
所属政党 |
(日本社会党→) 社会民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 |
配偶者 | 妻・野坂恵美子 |
第59代 内閣官房長官 | |
内閣 | 村山改造内閣 |
在任期間 | 1995年8月8日 - 1996年1月11日 |
第61代 建設大臣 | |
内閣 | 村山内閣 |
在任期間 | 1994年6月30日 - 1995年8月8日 |
選挙区 | 鳥取県全県区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1972年12月11日 - 1983年11月28日 1986年7月8日 - 1996年9月27日 |
野坂 浩賢(のさか こうけん、1924年(大正13年)9月17日 - 2004年(平成16年)4月18日)は、日本の政治家。
衆議院議員(7期)、建設大臣(第61代)、内閣官房長官(第59代)、日本社会党国会対策委員長、社会民主党副党首・国会対策委員長、鳥取県議会議員等を歴任した。
概要
労働運動に入り、鳥取県総評議長、同事務局長、西部地評議長を歴任[1]。1955年(昭和30年)から鳥取県議4期[1]。1969年(昭和44年)から社会党鳥取県本部委員長を2期務めた後、1972年(昭和47年)衆院議員に当選[1]。1994年(平成6年)村山内閣の建設相に就任[1]。
1995年(平成7年)の改造内閣では官房長官となる[1]。通算7期つとめ、1996年(平成8年)引退[1]。
経歴
鳥取県議会議員当選。このころ、鳥取県警察本部警務部部長亀井静香と親交を深める。
衆議院旧鳥取全県区より1972年に立候補し初当選。当選7回(通算)。日本社会党に所属。社会党内の派閥「新生研究会」の代表を務める。この間、日本社会党国会対策委員長等歴任。
1994年(平成6年)村山内閣が成立すると建設大臣[3]。自民党、さきがけとの連立政権の中、従来の党見解に反して長良川河口堰運用を強行し、建設反対派の憤激と失望を招いた。翌年の内閣改造で内閣官房長官に横滑りした。
1996年(平成8年)日本社会党の社会民主党への新党移行により、同党副党首・国会対策委員長に就任した。同年の第41回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退。
2004年(平成16年)4月18日、腎不全のため鳥取県米子市の病院で死去。享年79。
人物像
部落解放運動
部落解放運動とも深く関わり、「人権擁護施策推進法」制定への道筋をつくったことでも知られる。『野中広務 差別と権力』、256頁に野坂の秘書だった松原和範の証言が出ている。
- 松原によれば、「野坂は解放運動をやっていたから、部落解放基本法をつくるかどうかの問題をめぐって野中(広務)さんと地下水脈で付き合いがあったんです。自社さ政権の絵を描いてそれを実行していったのが亀井(静香)さんなら、野中さんは裏の掃除役。他の派閥は個人プレーで動いていたのに、旧竹下派は反小沢(一郎)で結集して自社連立のために組織的な動きをしていましたから、その意味でも野中さんは(野坂の)カウンターパートとして重要な存在だったんです」という。
その他
家族
- 妻・恵美子(伯仙町河岡、物品販売業・山本磯吉の長女[2])
- 岳父山本磯吉の略歴 - 明治31年(1898年)3月6日生[4]。大和村小波・松井亀治郎二男[4]。倉吉農学校卒[4]。養良校教員、選挙管理委員歴任、幼少より書道を愛し磯峰と号す書道に精進す[4]。【趣】書道、華道、園芸【研】日本書道に関する研究【宗】日蓮宗[4]。
- 息子、娘[2]
参考文献
- 『新日本人物大観』(鳥取県版)人事調査通信社 1958年 ノ…216頁
- 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)402頁
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)473頁
- 魚住昭 『野中広務 差別と権力』 講談社 240-241頁、251-259頁
関連項目
脚注
- ^ a b c d e f g h 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』473頁
- ^ a b c d 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 ノ…216頁
- ^ 2005年1月16日 テレビ朝日「阪神淡路大震災10年目の証言 あの日 官邸応答せず」にて、阪神淡路大震災が発生した日と同時に、社会党の山花貞夫議員が会派離脱届を提出するに当たって、マスコミから社会党分裂についての意見を聞かれた際に「そっちの方は関心はありますけども、何とか善処してもらって、地震が起こらないようにしてもらいたいと思っています。マグニチュード2ぐらいなところで」と発言。場内からは神戸の地震とかけたと言う事で笑いが漏れたが、この時点でも現職閣僚の危機意識の無さが垣間見られると同時に、被災住民に対し、誠に不謹慎な発言として批判を浴びた。
- ^ a b c d e 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 1958年 ヤ…285頁
外部リンク
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