都裕次郎

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都 裕次郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 滋賀県大津市
生年月日 (1959-02-25) 1959年2月25日(65歳)
身長
体重
180 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1979年8月2日
最終出場 1989年10月14日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2002 - 2003, 2018)

都 裕次郎(みやこ ゆうじろう、1959年2月25日 - )は、滋賀県大津市出身の元プロ野球選手投手)、スコアラー、野球指導者。

経歴

プロ入り前

当時の滋賀県滋賀郡堅田町(現大津市)真野で出生し、農業を営む父が映画スターの石原裕次郎ファンであったため、「裕次郎」と命名された。

大津市立真野小学校を経て、大津市立堅田中学校[1]時代に野球を始め、滋賀県立堅田高等学校時代は、硬式野球部に所属しエースとして活躍。滋賀県大会で当時の記録となる7連続三振を記録したが[2]、甲子園大会への出場はなく全国的には無名の存在であった[3]

1976年プロ野球ドラフト会議において、中日ドラゴンズから1位指名され入団[4]。滋賀県内の高校生として初のドラフト1位指名となった。

現役時代

プロ入り当時の投手コーチであった権藤博からは、「とてもプロで続けられるフォームではない」と言われた。選手の個性を重んじ投球フォームに口を出さないことで知られた権藤が、都に対してはフォーム矯正を施した。このフォーム矯正が功を奏し、速球とスライダーを武器に頭角を現し、1978年の第15回ジュニアオールスターゲームに出場。3年目の1979年に一軍デビューし2勝を挙げた[3]

1981年には、先発ローテーションに定着し、夏場以降は失速し中継ぎになったものの初めて規定投球回に到達[3]1982年オールスターゲームに出場。同年は16勝5敗、勝率.762で最高勝率を記録し、中日のリーグ優勝に大きく貢献した[3]。同年の西武との日本シリーズでは4試合に登板。第2戦で先発するが、先頭打者だった石毛宏典の打球が足に当たり降板。翌々日の第3戦も先発するが、1回に2点を失い、2回途中で交代を余儀なくされた。

1983年は、一時リリーフに回ったこともあり6勝止まりであったが、1984年は、開幕7連勝を含む13勝をマークした[3]1985年以降は腰痛や肩の怪我に苦しみ[3]1986年に2勝を挙げたのを最後にその後3年間は勝ち星がなく、1989年限りで現役を引退した。

現役引退後

引退後は中日球団に残り、打撃投手スコアラーを務めたほか、2001年にはテレビ愛知のゲスト解説者を務めた。2002年のシーズン途中に二軍投手コーチに就任し、2003年限りで退任。コーチ退任後の2004年からは中日スカウトを務め、2007年からは再びスコアラーとなった。チーム付のスコアラーであり、野球中継では都のコメントがリポートされることがあった。その後はチーフスコアラーに昇格した。

2017年11月の秋季キャンプからは二軍投手コーチに就任し[5]、背番号は88となった[6]。なお後任のチーフスコアラーは佐藤秀樹が就任した。2018年シーズン後に退任し、2019年から再びスコアラーに復帰したが、以前のチーフではなく映像担当兼任スコアラーとなった。2022年からは査定担当へ異動。

選手としての特徴

プロ野球の珍プレーといえば、同期入団の宇野勝のイメージが定着しているが、実は都自身も多く、ランナー無しの時に無人の二塁ベース上に牽制球を投げたり、カーブの握りのまま牽制球を投げたことがある。

人物

次男は2020年愛知県立小牧南高等学校のエースとして活躍し、高校卒業後は日本福祉大学で野球部に所属している[7]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1979 中日 25 2 0 0 0 2 2 3 -- .500 201 50.1 38 3 18 1 0 37 0 0 19 14 2.50 1.11
1980 19 5 2 0 0 3 1 0 -- .750 216 48.1 50 6 19 0 0 33 0 0 22 15 2.79 1.43
1981 36 24 0 0 0 6 8 1 -- .429 567 131.1 140 24 44 4 1 84 1 0 75 65 4.45 1.40
1982 43 29 8 2 2 16 5 0 -- .762 919 221.1 211 28 59 5 6 141 5 1 85 77 3.13 1.22
1983 43 14 2 1 1 6 9 5 -- .400 535 126.0 139 24 32 9 2 64 1 0 68 64 4.57 1.36
1984 34 26 5 1 0 13 8 1 -- .619 803 187.2 201 34 57 2 4 96 1 0 93 85 4.08 1.37
1985 7 3 0 0 0 0 2 0 -- .000 108 25.1 22 3 12 0 0 15 0 0 13 9 3.20 1.34
1986 23 2 0 0 0 2 1 0 -- .667 171 40.2 30 3 20 2 0 28 0 0 17 15 3.32 1.23
1988 12 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 49 11.1 10 0 4 0 1 8 0 0 7 4 3.18 1.24
1989 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 2.0 5 0 0 0 0 1 0 0 2 2 9.00 2.50
NPB:10年 243 105 17 4 3 48 36 10 -- .571 3579 844.1 846 125 265 23 14 507 8 1 401 350 3.73 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし

タイトル

記録

初記録
  • 初登板:1979年8月2日、対横浜大洋ホエールズ18回戦(ナゴヤ球場)、6回表2死に2番手で救援登板、2/3回無失点
  • 初奪三振:同上、7回表に長崎慶一から
  • 初先発登板:1979年8月18日、対阪神タイガース18回戦(ナゴヤ球場)、4回3失点(自責点2)
  • 初セーブ:1979年8月30日、対読売ジャイアンツ21回戦(後楽園球場)、7回裏に2番手で救援登板・完了、3回無失点
  • 初勝利:1979年9月20日、対ヤクルトスワローズ23回戦(草薙球場)、5回裏に2番手で救援登板、4回無失点
  • 初先発勝利:1980年9月28日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、8回1/3無失点
  • 初完投勝利:1980年10月19日、対ヤクルトスワローズ24回戦(草薙球場)、9回2失点
  • 初完封勝利:1982年4月7日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤ球場)
その他の記録

背番号

  • 28 (1977年 - 1989年)
  • 90 (1990年)
  • 85 (2003年)
  • 88 (2018年)

脚注

関連項目

外部リンク