択捉島

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択捉島(イトゥルップ島)
所在地 領土問題あり
ロシアの旗 ロシアサハリン州) 領有権主張、実効支配
日本の旗 日本北海道) 領有権主張
所在海域 オホーツク海
所属諸島 千島列島南千島
座標 北緯45度3分53.5秒 東経147度50分25.04秒 / 北緯45.064861度 東経147.8402889度 / 45.064861; 147.8402889座標: 北緯45度3分53.5秒 東経147度50分25.04秒 / 北緯45.064861度 東経147.8402889度 / 45.064861; 147.8402889
面積 3185.65 km²
最高標高 1,634 m
最高峰 単冠山
最大都市 クリリスク紗那村
プロジェクト 地形
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択捉島(えとろふとう)は、千島列島南部に位置する島。

地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・オロ・(岬の・ある・所)」から。ロシア名はイトゥルップ島ロシア語: Итуруп)、英語表記は Iturup。

地理

面積3185.65km2、長さは約214kmに及ぶ細長い島であり、千島列島で最大の面積を誇る。

国後島の北東にある国後水道: エカチェリーナ海峡 пролив Екатерины)を隔てて位置し、択捉島の北東にある択捉海峡(露: フリーズ海峡 пр. Фриза)を隔てて得撫島(露: ウルップ島 остров Уруп)へと連なっている。

人口6,739人[1]。中心集落は、紗那(露: クリリスク Курильск - 「千島の町」の意)、2006年の人口は2,005人)。

いわゆる「北方領土」の中で最大のであり、その面積は全体の63.4%である。日本の主な島では最大の大きさをもつ[2]。日本の領土としては、北海道根室振興局管内に所属する日本最北端の島であり、島の大きさは、本州北海道本島・九州四国に次ぐ。国後島の2.1倍強沖縄本島のおよそ2.7倍ある(四島以降の大きさは、大きな方から順番に、択捉島-国後島-沖縄本島-佐渡島-奄美大島-対馬-淡路島-)。

択捉島最北端のカモイワッカ岬(露: コリツキー岬 М. Корицкий)は、北緯45度33分28秒 東経148度45分14秒 / 北緯45.55778度 東経148.75389度 / 45.55778; 148.75389 (カモイワッカ岬)の位置にあり、日本政府が領有権を主張する領域内で最北端の地である。

第二次世界大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍により武力占領され、現在はロシア連邦実効支配下にある。ロシア側行政区においては、国後島や色丹島とは別の行政単位であるサハリン州クリル管区に位置付けされている。日本政府の見解では、上記は国際法違反であるとし、不法占拠下にあるとしている(北方領土問題)。

散布山(1,585m)、北散布山(1,563m)

北東から南西方向に伸びる細長い島であり、幅は約20-30kmであるの対し、長さは約214kmとなっている。北東端はラッキベツ岬、南西端はベルタルベ岬である。島の北側には散布半島が突き出している。また、中部には単冠湾(ひとかっぷわん、露: カサトカ湾 Зал. Касатка)、南部には内保湾(ないぼわん)がある。平地は少なく、火山が多い。火口湖得茂別湖(うるもんべつこ)も島の南部に位置している。

主な活火山は次のとおりである。

  • 散布山(ちりっぷやま、露: ボクダン・フメリニツキー火山、Богдан Хмельницкий、英: Chirip)1,585m - 1843年に噴火したが、1860年は不明。
  • 神威岳(かむいだけ、英: Demon)1,322m
  • 茂世路岳(もよろだけ、1,124m、露: クドリャブイ火山 Влк. Кудрявый、英: Medvezhia)- 先史時代から噴火していた可能性があり、1778年1883年1946年1958年1999年に噴火が確認されている。
  • 指臼岳(さしうすだけ、英: Baransky)1,125m - 1460年1570年の噴火は30年ほど、1951年に噴火。
  • 小田萌山(おだもいやま、露: Грозный、英: Grozny )1,208m - 1968年1970年1973年に2回、1989年に噴火。
  • 焼山(やけやま)1,158m - 名称や噴火の歴史は上に同じ。
  • 阿登佐岳(あとさだけ、露: Атсонупури、英: Atsonupuri)1,206m - 1812年1932年に噴火。
  • 単冠山(ひとかっぷさん、露: Богатырь、英: Bogatyr )1,566m
  • 西単冠岳(にしひとかっぷだけ、他は上に同じ)
  • ベルタルベ山(ベルタルベざん、英: Berutarube)1,221m - 1812年に噴火があったかどうか、はっきりしていない。

行政区分

A.歯舞諸島(歯舞群島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村5.紗那村6.蘂取村

日本

ロシア

歴史

アイヌが先住しており、17世紀後半にはメナシクルの勢力がのびた。

  • 寛永12年(1635年)、松前藩は藩士に命じ国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成。
  • 1643年、オランダのフリースは、ウルップ島に上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名して、領土宣言をした。エトロフ島には「スターテンライト」(オランダ国の島)と名付け、クナシリ島に上陸した[3]
  • 正保元年(1644年)、『正保御国絵図』にエトロホと記された島があり、択捉島が日本地図に記載された最初とされている。
    • 1661年勢州船北海漂着記』にはに伊勢国松坂の七郎兵衛の船が漂流の末に同島に到達していたこと、『恵渡路部漂流記』には1712年に薩摩国大隅の船が同島に漂着していることについての記述がある[4]。よって、「択捉島には、日本人よりも先にロシア人が到達した」という説明が見受けれられたが、誤りである。
  • 正徳5年(1715年)、松前藩主は幕府に「北海道本島、樺太千島列島勘察加は自藩領」と報告。
  • 享保16年(1731年)、国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。
  • 宝暦4年(1754年)松前藩によって家臣の知行地として開かれた国後場所に属する。(当初、国後場所の領域には択捉島や得撫島も含まれていた。)
    • ロシア人の足跡としては、1766年にウルップ島のイワン・チョールヌイ(Иван Черный)が、同島アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てているのが、文献上でのロシア人最初のものである。さらに、その10年後には、ロシア商人シャパーリンも同島アイヌからサヤークを受け取っている。
    • 天明6年(1786年)に最上徳内が同島を探検した際、上陸時に3名のロシア人が居住し、アイヌの中には正教を信仰するものもあったことが確認されている(ロシアでは、国家に帰属し納税意識をもたせるため、進出した地で正教の布教がなされていた)。
  • 寛政10年(1798年)、同島を影響下に置く意図をもつロシアに対抗するため、近藤重蔵がアイヌのエカシ(首長)の了承のもと、「大日本恵土呂府」の木柱を立て日本領を主張した。その翌年には蝦夷地を幕府の直轄地(天領)にし、高田屋嘉兵衛に航路を運営させる。
  • 寛政12年(1800年)には国後場所から新たに択捉場所が分立し、「エトロフ会所」を振別に開設したほか、ほとんどがアイヌである当時の同島住民1,118人の人別帳を作成した。さらに高田屋は老門に番屋を建て、漁場10ヶ所を開き和人による漁業・越年を始めるなど、各村の礎が築かれていった[5]
  • 文化4年(1807年)4月、紗那と内保(留別村)の集落が、ロシア海軍大尉のフヴォストフ(Хвостов)率いる露米会社の武装集団によって襲撃されるという「シャナ事件」が発生。
    • 紗那は、弘前藩盛岡藩が警固を行っていたが、火力の差に圧されて奥地へ退避している。なお、会所に赴任中だった間宮林蔵も参戦し、徹底抗戦を主張している[6]。この時、日本側に動員されたアイヌもいる中で、日本側を攻撃してきたアイヌもいた。その後も、盛岡藩など東北諸藩が警備にあたった。
  • 安政2年(1855年)、日露和親条約が締結される。この時日本はアイヌを日本国民としたうえで、アイヌの生活圏が日本領であると主張し、同島の領有をロシアに認めさせた。
    • 開国後は、同島は仙台藩の領地となり、仙台藩兵が駐留し警固した。
戦前の紗那

同島には北海道二級町村制が施行された際、択捉郡留別村紗那郡紗那村蘂取郡蘂取村の3郡3村が設置され、紗那村の中心地である紗那が同島の中心地となって、警察署小学校郵便局などの官公署が置かれた(現在も日本の制度上は、この3郡3村は存続している)。周辺は、親潮(千島海流)と黒潮(日本海流)とがぶつかる海域であって、水産資源が豊かである優良な漁場であったので、漁業が主たる産業となり、入植者が増加した。

太平洋戦争の開戦時に真珠湾攻撃を行った南雲忠一中将率いる機動部隊が、出撃直前に単冠湾に最終集結した。

1945年8月15日当時、留別村2,258人 紗那村1,001人 蕊取村349人の合計3,608人の住人が、択捉島に居住していた。

ソビエト時代

  • 1945年8月28日太平洋戦争終戦間際に、降伏文書調印(9月2日)直前にソ連軍が同島に上陸し占領した(この日は、米軍先遣隊が厚木に上陸し、本土の占領が開始されたのと同日である)。ポツダム宣言第7条により、日本国の諸地点は連合国に占領されたが、一般命令第1号により、同島を含む千島列島は、ソ連占領地となった。
  • 1946年1月29日GHQからSCAPIN-677が命令され、この結果、日本は同島を含む千島列島の施政権を停止させられ、直後の2月2日、ソ連はこれらの地域を自国領に編入した(ただし、SCAPIN-677は領有権の放棄を命じたものではない)。それ以降、ソ連とその後継国家であるロシア連邦による実効支配が続いている。
    • ソ連軍上陸後は、ソ連軍兵士による強盗・殺人・強姦や略奪行為などが横行した。また、1945年9月以降しばらくの間は、日本人の本土引き揚げは禁止されていたにもかかわらず、北海道本島に渡航する人が続出した。しかしある時期から、ソ連軍兵士の略奪行為などに対して、死刑執行も含めた厳罰が下されるようになった。日本人とロシア人との混住状態が1年以上続いたが、同島からの日本人の本土引き揚げは、1946年12月から本格的に始まり、1948年までにおおむね終了した。
  • かつての中心地である紗那は、引き続き同島の中心地となっている。他の主要集落として、軍民兼用の飛行場がある天寧(露: ブレヴェスニク Буревестник、2006年の人口は3,105人)などがある。これより島の南部や、別飛より北東部は、自然保護区域として地元のロシア人でさえも立入りが制限されている。留別(露: クイビシェフ Куйбышев)や蘂取(しべとろ、露: スラブノエ Слабное)はロシア人集落となったが、現在は両村とも廃村状態である。Google Earthの解析[7]によれば、紗那から蘂取までの道路は、(途中のも架かっていないような悪路ではあるが)戦前に日本が作ったものが残っており、走行する自動車も認められる。また、蘂取には漁業施設と思われる建物が数軒認められる。

ソ連崩壊後の択捉島

1991年に、後に成立したロシア連邦実効支配を継承した。1994年秋に発生した北海道東方沖地震後、人口は減少傾向にあった。

そのような状態の中、ユダヤ系ロシア人のアレクサンドル・ベルホフスキーが創業した水産加工のギドロストロイГидрострой)社(本社はユジノサハリンスク)が、周辺の豊富な水産資源と北米の冷凍食品市場とを結びつけて、1990年代後半以降瞬く間にめざましい成長を示し、同島の経済基盤は強固なものとなり現在に至る。なお、同社は現在、別飛(露: レイドヴォ Рейдово)に、米国製の機械を備えた日産400tの加工が可能な大工場をもつほか、蓄積した豊富な資本を元に択捉銀行БАНК ИТУРУП)を設立し、金融業にも乗り出している。しかし、日本政府が領土問題に関連して取引きの規制を行っているので、日本企業はこのビジネスチャンスに公式には協力できていない。

地下資源もあり、北部の茂世路岳(1124m、露: クドリャブイ火山 Влк. Кудрявый、英: Medvezhia)は、その火山ガスレアメタルであるレニウムを大量に含有している。このため、ロシア科学アカデミー科学者たちは、レニウムの世界有数の産出源になり得る火山と見なしている。また、金鉱開発の可能性も指摘されている。

2015年を目標年次とするロシア連邦政府の「クリル諸島社会経済発展計画」の目玉として、工費12億ルーブル(約55億円)の公共投資により、中心都市の紗那付近に全天候型、滑走路1,530mの国際空港が建設されている(2008年3月 ギドロストロイ社によって着工、2010年完成予定[8])。完成後はこの空港から、サハリン島やロシア本土のウラジオストクおよびハバロフスク、そして事情が許せば日本本土からの航路が就航する予定であり、これによって「発展計画」の柱の一つである観光開発に大きな弾みがつくことが期待されている。

現在ロシアは択捉島にMiG-31戦闘機を20機程度展開しており、ロシア防空軍の極東最東端の防空基地として機能している。

2012年05月 韓国企業、択捉島最大都市、クリリスクの港湾整備工事着工。 えとろふ島の西側中央に位置している。 ロシアの水産会社が中心になり、日本や、中国、韓国などに投資を呼びかけている。 その拠点となる。(毎日新聞 2012年05月29日)

交通アクセス

北海道本島から

戦前は、中心集落であった紗那まで定期の船便があったが、戦後は、北海道本島から択捉島への定期公共交通は、船便・航空便ともに存在しない。北海道本島から島に直接渡る場合は、「ビザなし交流」に参加し、チャーター船で根室港から出発、紗那に入港する。(「ビザなし交流」の場合であっても、チャーター船がロシアが主張する領海に入ると国際航路を通航する船舶の慣例によってロシア国旗をマストに掲げるほか、クリリスクに到着後はロシアの税関当局による入域審査を受ける。)なお、このチャーター船の利用は、旧島民とその子孫、返還運動を行う団体から推薦された者などに限定され、一般の日本人が自由に利用することはできない。

サハリン島(樺太)から

現在の択捉島にアクセスする定期公共交通は、ロシアが実効支配する南サハリン(樺太)を拠点に運航されている。

ユジノサハリンスク豊原)空港からは、サハリン航空のプロペラ機が週4便(月、水、木、金曜日の午前発)、択捉島留別村のブレヴェスニク空港(旧:天寧飛行場)まで就航している。しかし、有視界飛行なので、霧がかかりやすい夏季には欠航となる率が高い。また、この空港は、戦前の日本の海軍飛行場を改装したロシア軍基地と共用になっており、中心都市のクリリスクから砂利道を自動車で片道2時間半かかる不便な場所にある。

コルサコフ大泊)港からは、サハリンクリル海運の貨客船「イゴール・ファルハトディノフ」号が週2便就航している。この船は、月曜日にコルサコフを出港し、火曜日に択捉島、水曜日に色丹島および国後島に寄港したあと、木曜日にコルサコフに帰港し、金曜日に再びコルサコフを出港し、土曜日に国後島と色丹島、日曜日に択捉島に寄港したあと、月曜日にコルサコフに帰港するというスケジュールで、3〜12月に運航される。

一般の日本人・外国人が択捉島を訪問するには、ロシアのビザを取得したあと、稚内または新千歳、あるいは函館からサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで択捉島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。この方法は、北方領土においてロシアの主権に服する行為であるとして内閣1989年以来自粛を要請しているが、この自粛要請に法的強制力は無く、ギドロストロイ社への技術支援のための入境のほか、多くの書籍やホームページなどで、この方法によって同島に入境した日本人旅行者の体験記が確認できる。いうまでもなく、EU、米国、韓国はじめ多くの外国人ビジネスマンや技術者は、ギドロストロイ社との取引・技術支援などのため、ごく普通にロシアのビザを取得し、同じ方法で同島に入域している。

通信

択捉島の居住者は衛星を通じて送られてくるロシアのテレビ番組を見ているものと思われる(SECAM方式 ロシアチャンネル)日本のBS放送を除き、距離的に日本の地上波テレビの受信は難しい地域とされる。

ラジオ放送についてはクリルスク中継局 1602KHz 1Kw 70.64MHz 放送時間は日本時間で4:00-23:00とされているが確認は出来ていない。放送系統はRadio Mayakとのこと。   携帯電話はロシアの携帯電話会社(MegaFan MTS)が参入し、方式はGSMである。 日本の携帯電話はローミング可能機であれば接続可能と推定されるが、確認はされていない。 エリアはクリルスクとBurevestnikの周囲とされている。

電力

択捉島は2007年から、地熱発電をはじめ、全電力を地熱発電で供給している。

択捉島を題材にした著作物・映画・テレビ番組

脚注

  1. ^ 2006年現在、ロシア統計より。
  2. ^ 国立天文台(編)平成19年 理科年表 p.565 ISBN 4621077635
  3. ^ 「最初の千島探検」根室市公式HP
  4. ^ 伊勢国松坂の船北海を漂流する
  5. ^ 根室管内視察記(大正2年、北海タイムス) 新聞記事文庫 神戸大学電子図書館
  6. ^ 吉村昭、間宮林蔵
  7. ^ 2006年に新バージョンとなり、写真の半分以上が高解像度画像となっている。
  8. ^ 毎日新聞朝刊、2008年9月17日。

関連項目

外部リンク