土方歳三

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土方歳三
箱館戦争時の肖像写真
田本研造撮影、1868年)
時代 江戸時代末期- 明治初期
生誕 天保6年(1835年
死没 明治2年5月11日1869年6月20日
別名 義豊(諱)、内藤(受領名)隼人(世襲名)
戒名 歳進院殿誠山義豊大居士
墓所 碧血碑北海道函館市
石田寺東京都日野市
寿徳寺境外墓地(東京都北区
円通寺(東京都荒川区
天寧寺福島県会津若松市) ほか
主君 松平容保
氏族 土方氏
父母 父:土方義諄(隼人)、母:恵津
兄弟 為次郎(長兄)、喜六(次兄)、佐藤のぶ(姉)、歳三、他6人
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土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣新選組副長。蝦夷島政府 陸軍奉行並。 は義豊、雅号は豊玉、家紋左三つ巴

新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。明治2年5月11日(1869年6月20日)、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。

生涯

多摩・試衛場

天保6年(1835年)、武州武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)に農家の土方義諄(隼人)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方は幼いころ薔薇餓鬼と呼ばれていた。土方家は「お大尽(だいじん)」と呼ばれる多摩豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前の2月5日結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年7月1日(1840年7月29日)に結核で亡くなっている。また長兄の為次郎眼疾のため、次兄の喜六が家督を継ぎ隼人を襲名、その妻・なかによって養育された。生家には、歳三が少年のころに「我、壮年武人と成りて、天下に名を上げん」と言って植えたという「矢竹」がある。

これまで、11歳のときに江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現・松坂屋上野店)へ奉公に上がり、すぐに番頭と喧嘩をして郷里に戻ってきたと伝えられていたが、近年発表された石田村の人別帳控により、数え年11歳のときは石田村に在住しており、奉公には出ていないことが判明した。欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳〜24歳の10年間と考えられるようになった。また17歳のときに松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして(番頭衆道関係を迫られたとも言われる)郷里に戻ったという説もあるが、前述の人別帳の存在から現在ではその信憑性が疑問視されており、どこへ奉公していたかは詳しく判明していない[1]

その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で試合を重ね、修行を積んだ。

姉・らんは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われる。彦五郎は大火に乗じて祖母を目の前で殺害され、周囲や自らの身の危険を感じたことを契機に井上源三郎の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は試衛館近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した。

歳三はその稽古場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年3月29日、天然理心流に正式入門している。文久元年(1861年)、近藤が天然理心流4代目宗家に襲名。記念に紅白の野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場した。

文久3年(1863年2月、試衛館の仲間とともに、江戸幕府第14代将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し、京都へ赴く。

新選組副長

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高幡不動にある土方歳三像

文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組(正式な名称ではない)の活躍が認められて新選組が発足。その後、新見錦切腹(最期については諸説あり)。芹沢鴨も土方らによると見られる暗殺で横死し、権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持等にあたった。新選組は副長助勤監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

元治元年(1864年6月5日池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して回ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、ただちに突入せずに池田屋の周りを固めた。池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。さらに幕府から、近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、その時は実現には至らなかった。

その後、副長の山南敬助を総長に据え、副長は土方1人となる。後に山南が脱隊して切腹となった事件では、土方との対立があったとされるが、「水の北 山の南や 春の月」のを山南にあてたものとし、これには土方の好きな「春の月」が入っている為、山の南=山南とされて仲のよかったとする説もある。その後も隊の規律を守るために河合耆三郎谷三十郎武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させたとされる事もあるが、谷と武田に関しては死因の詳細は不明であり、隊規との関連性も判明していない。伊東甲子太郎が分離結成した御陵衛士間者として斎藤一を送るなどして近藤暗殺計画を未然に防ぎ、伊東、藤堂平助を暗殺して御陵衛士を壊滅させた(油小路事件。御陵衛士および伊東、斎藤に関しては異説あり)。

戊辰戦争

慶応3年(1867年6月、幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日徳川慶喜が将軍職を辞した(大政奉還)。12月9日王政復古の大号令が発せられるに至り、江戸幕府は事実上終焉した。慶応4年(1868年1月3日鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の攻勢の前に敗北する。その後、江戸城に登城した歳三は、佐倉藩江戸留守居役の依田学海に戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感したとされる[2]。もっとも、歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の文久3年にはすでに壬生寺の境内において銃や大砲の洋式訓練を行っており、その年の八月十八日の政変では実際に銃を使用し、果敢に長州勢を打ち払ったという記述も存在する。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退したあと、近藤は大久保剛、歳三は内藤隼人と偽名を名乗り、新撰組を「甲陽鎮撫隊」に改名して甲斐国に向かう。しかし3月6日甲州勝沼の戦いにて大敗。歳三は戦争前に急ぎ援軍要請へ向かったが成功しなかった。その後、流山で再起を図っていたが、4月3日、新政府軍に包囲された近藤が大久保大和と名を偽り投降。このとき、歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたと言われている。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場にて斬首に処せられた。

近藤投降後、助命嘆願のかたわら新選組を斎藤一改め山口二郎に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流。4月11日江戸開城が成立すると江戸を脱出し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。下館下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。しかし壬生の戦いに敗れ、新政府軍と宇都宮で再戦した際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津で約3か月間の療養生活を送り、この間に近藤の墓を天寧寺内に建てたと言われる。

全快して戦線に復帰したあとは、その指揮を山口二郎に委ね、山口の支援をしつつ会津の防戦に尽力するが、8月母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、すでに新政府軍への恭順に転じていた庄内藩においては入城さえ叶わなかった。歳三は会津から仙台藩へ向かうことを決めた。同じように戦列を離れた大鳥に対して、山口らは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えたということが、箱館戦争後に現在の青森県で記録された古文書にある。土方は、会津藩領では新選組に復帰してはいなかった。そして、城下に残る山口らと、仙台へ天寧寺から離脱した隊士たちとに新選組は分裂する。

仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本とともに奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。まもなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏したあとは、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らとともに10月12日仙台折浜(現宮城県石巻市折浜)を出航し、蝦夷地に渡った。

箱館戦争と死

土方歳三像(函館市五稜郭内)
土方歳三最期の地碑(函館市若松町)
土方歳三義豊之碑(日野市石田寺

10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は総督大鳥圭介のもとで本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。

箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。このとき、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。江差を無事占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。

その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は酒を飲み浮かれるときではない」と言っていたと伝わる。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。しかし作戦は不運続きで失敗。多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

明治2年(1869年4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとった。これに土方軍の将兵は動揺したが、歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に歳三は部下たちに自ら酒を振る舞って回った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったため、部下は笑って了承したという。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝したが、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれ包囲される危険性があった為、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。

そして明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣。新政府軍艦「朝陽丸」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機失するべからず」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。

最期については諸説あるが、歳三は乱戦の最中に腹部に銃弾を受け、落馬したとされる。彼の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは、一時勢力を盛り返していたが、必死の指揮も空しく総崩れとなった。彼がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三が撃たれたことを知らされたという。大野は急いで駆けつけたが、彼は既に絶命していたとされる。

歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られ、ほかの戦死者とともに五稜郭内に埋葬されたとも、別の場所に安置されたとも言われ、未だに埋葬場所は判明していない。享年35(満34)。奇しくも盟友・近藤と同じ享年であった。榎本軍が降伏したのはその6日後のことだった。

辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わっていたが、島田がまとめたとされる和歌集の巻頭歌「鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと」が、土方の辞世と考えられるとの説を、霊山歴史館木村幸比古が述べている[3]

墓所や慰霊碑が以下の各地にある。

歳三が銃弾に倒れたという一本木関門跡に近い若松緑地公園には、土方歳三最期の地碑が建つ。

剣術の実力

天然理心流試衛館に入門した翌年の万延元年(1860年)に刊行された『武術英名録』(江戸を除く関東地方の剣術家名鑑)に土方歳三の名が掲載されており、すでに一定の実力に達していたことが窺える。ただし、天然理心流道場では歳三は中極位目録までの記録しか現存していない。しかし、多様なバックボーンを備えていたためか、路上での実戦では滅法強かったと言われている。斬り合いのとき、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど、剣術修行の型にとらわれず縦横無尽に戦闘をしていたという。実際に戦地でも常に最前線で戦い、多数の修羅場を体験しながらも剣戟で斬殺されてはいないことからも、相当な実力を誇っていたと見られる。永倉や斉藤、沖田や近藤も同様である。

真紅の面紐に塗りの皮胴など洒落た防具を使用していたと云う[4]高幡不動の境内をよく稽古場所として使っていたともいわれる。新選組が屯所としていた八木邸八木為三郎の述懐によれば、新選組の剣術稽古で、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら指導していたという[2]

逸話

  • 幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたという。その柱は土方歳三資料館に現在でも残っている[5]
  • 幼少期は菩提寺である高幡不動尊の山門から通行人に野鳥の卵を投げつけて遊ぶ等、やんちゃな子供であった。
  • 甥(佐藤彦五郎の三男・為吉)が庭先で転んで額を切ったときにはすぐさま駆けつけて「男の子の向かい傷だ。めでたいめでたい」と笑ってあやしたという[6]
  • のちの洋装の写真などから、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さを持っており、舶来懐中時計なども持っていたという。また戊辰戦争において、宇都宮城を一時ながら陥落させ、二股口を守備したときには味方が敗走を続けるなかで勝利を重ねるなど、西洋軍学にも理解を示して実践し、成果を上げている。
  • 容姿が良く女性に人気だったために、京都にて新選組副長として活動していたときなどは、日野の親戚に向けて多数の女性からの恋文をまとめて木箱に入れ「つまらぬ物」と書き記し、送って自慢するほどであった。
    • 上洛間もないころ、小島鹿之助へ(一説に近藤道場の弟子たちにとも言われる)宛てに大きな荷物が届く。京土産でも送ってきたかと開けてみると、彼を慕う芸者舞妓からの恋文がびっしり詰められており、「報国の心ころわするゝ婦人哉」という発句が手紙に添えられていたという[7]
  • 宇都宮の戦いで足を負傷していた歳三は、慶応4年(1868年)4月ごろから7月ごろ(異説あり)まで、会津若松城下の宿で病床に伏していた。ある日、同じ宿にいた幕臣で文官望月光蔵が訪ねてきたが、歳三は寝ころんだまま「俺たちとともに戦え」と言った。その傲慢な態度にムッときた望月は「自分は文官だから戦うことはできない」と拒否。すると歳三は「じゃあお前は何をしにこんな遠くまで来たんだ。臆病者め」と言い放った。望月も黙っておれず「幸いにもあなたたちは宇都宮城を奪ったが、それをすぐに奪われたではないか。再び奪うことはもう難しいだろう。実に惜しいことだ。あなたもまた臆病者と言わざるを得ない」と言い返した。歳三は「うるさい、俺の病床に障る。もう聞きたくない。出て行け」と叫んだため、望月は部屋を去った。このとき歳三は怒りのあまり望月に枕を投げつけたという[8]
  • 江戸で定宿としていたのが幕府御用達釜屋。品川宿の中でも大変賑わっていた茶屋で「慶応三年卯十月廿一日登(上)新撰組土方歳三御家族 門人共上下三十一人(休)釜屋半右衛門 九貫三百文」という記録が残っている。現在、釜屋の跡地(現在の品川区にある青物横丁駅近く)には新選組の記念碑が建てられている。
  • 死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じる。それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否する。それを聞いた歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と鋭い眼光を向けて言い放った。その歳三の気迫に圧されて市村は首を縦に振った。日野に旅立つとき、市村は窓に人影が写っていることに気づく。「誰かは解りませんでしたが、おそらく(土方)先生だったろう思います」と語り残している。その後、市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に遺髪と写真を無事に届けている。
  • 土方歳三資料館に現存する歳三の佩刀・和泉守兼定は刀身2尺3寸1分(70.3cm)が遺されている[9]。この現存する兼定を誰がいつ日野に届けたのかは不明。明確な史料は未だ発見されていない。しかし、上記の手紙が書かれたのは文久3年の10月であるため、このときはまだ会津十一代兼定は和泉守を受領していない。そのため、上記の手紙に書かれている兼定は関二代和泉守兼定ではないかという説もある。また、現在は所在不明であるが刃長28和泉守兼定作の刀も所持していた[9]
  • 歳三の刀はほかにも佐藤彦五郎資料館に葵御紋の越前康継が現存する。甲州勝沼戦後に歳三から佐藤源之助(彦五郎の長男)へ贈られた[10]
  • 和歌俳諧を嗜むなど、風流人の面もあった。書き溜めた句は自らまとめており、『豊玉発句集』として残されている。
  • 歳三は政府軍の狙撃で戦死したというのが通説だが、降伏派の幕府軍将兵の意見を聞かずに徹底抗戦を命じたため、これを恨んだ兵士に撃たれたのではないかという異説がある。
  • 歳三は箱館戦争後も生き延びた説がある。「箱館降伏図」には、6日前に死んだはずの歳三(降伏は5月17日)の姿が描かれている。他には、ロシアまで落ち延びたという説まである。
  • 沢庵が大好物だったとされており、特に小野路村で剣道場を開いていた小島鹿之助の隣の親戚・橋本家の沢庵がお気に入りで、食事の際には山盛りの沢庵をおいしそうに食べ、あまりにも気に入ったため、そのまま樽ごと担いで帰ったと言われている。

評価

  • 江川太郎左衛門「豪邁不屈、胆気非常の男」[11]
  • 忠介(土方下僕)「知勇兼備の名将とは、土方殿の謂いなるべし。この人をして徳川全盛の時にあらしめば、必ず数十万石の大名となるべきに、惜しむらくは幕末に生まれ、かかる名将もその知勇を発揮する能わず」[12]
  • 藤田和三郎「土方氏者中々賢才有之候得共短期成気質」[13]
  • 中島 登「年ノ長スル二従ヒ温和ニシテ人ノ帰スル事赤子ノ母ヲ慕フカ如シ」[14]
  • 榎本武揚「入室伹清風」

日野と土方歳三

出身地の東京都日野市は、街を挙げて土方歳三を追悼・顕彰している。市内の高幡不動尊金剛寺は大日堂に位牌が安置され、菩提寺とされている[15]

生家跡は土方歳三資料館となっている[16]

土方歳三の命日(5月11日)に近い5月の第2土・日曜日に「ひの新選組まつり」を開催している[17]。2019年は没後150周年行事を展開している[18]

土方歳三を主人公とした作品

土方歳三が登場する作品は、新選組#新選組を主題にした作品Category:新選組を題材とした作品も参照のこと。昭和40年代には『新選組血風録』や『燃えよ剣』で栗塚旭が演じて以降、国民的な人気を得た。

小説

楽曲

漫画

テレビドラマ

アニメ

ゲーム

デジタルコンテンツ

舞台

  • 宝塚歌劇団『誠の群像』
  • ミュージカル薄桜鬼

脚注

  1. ^ 日野市立新選組のふるさと歴史館叢書第一輯『特別展 新選組誕生』(日野市)
  2. ^ a b 新・歴史群像シリーズ13『土方歳三』(学習研究社
  3. ^ 『土方歳三辞世に新説「鉾とりて月見るごとに…」』はてなブックマーク/YOMIURI ONLINE(読売新聞)2012年6月15日(水)14時49分
  4. ^ 『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社
  5. ^ 『子孫が語る土方歳三』参照
  6. ^ 佐藤昱著 『聞きがき新選組
  7. ^ 小島政孝著 『新選組余話』
  8. ^ 望月光蔵著 『夢乃うわ言』および望月始著『告白の告発』
  9. ^ a b 土方歳三と刀 - 刀剣ワールド 2020年1月11日 閲覧
  10. ^ 土方歳三愛刀「越前康継」 デジタルアーカイブシステムADEAC(2019年8月7日閲覧)
  11. ^ 『活文字』明26.1
  12. ^ 『近世偉人百話[正編]』国立国会図書館デジタルコレクション
  13. ^ 『新選組金談一件』
  14. ^ 『戦友姿絵』
  15. ^ 高幡と土方歳三高幡不動尊金剛寺(2019年1月24日閲覧)。
  16. ^ 新選組のふるさと日野 土方歳三資料館日野市観光協会(2018年11月23日閲覧)。
  17. ^ ひの新選組まつり日野市観光協会(2019年1月24日閲覧)。
  18. ^ 2019年は土方歳三が箱館(函館)の激戦でその生涯を閉じてから150年日野市役所(2019年1月24日閲覧)。

参考文献

関連項目

外部リンク