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アルカーイダ

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アルカーイダ
القاعدة
アルカーイダの旗
設立 1988年
公用語 アラビア語
ほか
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アルカーイダアラビア語: القاعدة‎, al-qāʿidah, 英語: Al-Qaeda)は、イスラーム主義イスラーム原理主義)と反米反ユダヤを標榜するスンニ派ムスリムによるイスラーム過激派国際ネットワーク。1990年代以降、主としてアメリカ合衆国を標的とした数々のテロ行為を実行したとされ、特に2001年に実行したアメリカ同時多発テロ事件は世界に大きな衝撃を与えた。

語源

アラビア語で「アル(ال, al)」は定冠詞、「カーイダ(قاعدة, qāʿidah)」は「座る」を意味する動詞「カアダ(قعد, qaʿada)」の派生名詞で「大本」、すなわち「基地・基盤・座」を意味し、英訳するとThe Base。日本ではアルカイダと書かれることも多く、外務省では団体名をアル・カーイダで特定している[1]

またアルカーイダは、その句の使用者にとって警鐘として使用していると解釈することもできる。ヒジュラ暦の第11月はズー・アル=キッダذو القعدة, Dhū al-Qiʿdah)である。この月の名称は、前述の翻訳の句と「ズー」という所有格とから構成され、「(神が)所有する(安住の)基盤」という意味合いで、「安住の月」と和訳されることが多い。したがって、アラビア語文化圏の視点からアルカーイダを解釈すると、「神の所有にない基盤」と訳すことができる。すなわちそれは「異教の基盤(The matrix)」を意味し、アルカーイダが異教の文化圏から侵略を受けた人々並びに世界のムスリムに呼びかける警鐘として使用されているとも解釈できる。[要出典]

組織

ウサーマ・ビン=ラーディンはアルカーイダの精神的指導者であり、財力をもちいて初期の反米闘争の組織を起ち上げた。アルカーイダのナンバー2とされていたアイマン・ザワーヒリーはイスラム神学者。1986年、二人はサウジアラビアジッダで初めて会ったとみられている[2]。組織づくりや資金集め、組織の代表として声明などを出す役割はビン=ラーディンが担い、テロに関する宗教的な理論面や作戦面は、学識のあるザワーヒリーが担っていたとされる[3]。2011年5月にビン=ラーディンがアメリカ軍によって殺害されると、翌6月、アルカーイダはザワーヒリーが新たな指導者に選出されたと発表した[3]

アルカーイダの組織の実態についてははっきりしないことが多く、現在では、アルカーイダが一つのまとまった組織として存在しているかどうかは議論がわかれている。CIAの元工作員でイスラム過激派テロの専門家であるマーク・セイジマン(Marc Sageman)は、アルカーイダとは軍隊のような明確なヒエラルキーの存在する指揮命令系統を有する組織ではなく、人々が自発的に集合する社会運動のようなものであって、明瞭な境界や構成員が存在せず、特に2001年のアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻以降、ビン=ラーディンによるリーダーシップが失われ、地域ごとに自発的に集まった人々によってアルカーイダの名の下に勝手にテロが行われていると指摘した[4]。また、軍事力は明確なターゲットに対しては有効であるが、アメリカ軍と同盟国によってそれらが破壊され組織が拡散してしまった現在では、軍事力の行使とは異なる対策、すなわち人々が暴力的なテロ運動に参加することを阻止する必要があると指摘した[4]

起源

アルカーイダの起源は、アメリカ中央情報局(CIA)パキスタン軍統合情報局(ISI)1978年以降のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に対抗させるために、サイクローン作戦の名の下でムジャヒディーン(イスラム義勇兵)を訓練・育成し武装化させたことに始まる。

1984年には、アフガニスタンでのアラブ人ムジャーヒディーンを理論的に指導してきたムスリム同胞団アブドゥッラー・アッザームが教え子のビン=ラーディンをパキスタンペシャーワルに呼び入れ、アラブ諸国からアフガニスタンへ義勇兵を送り込む組織マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)を結成した。この動きにイスラム集団の精神的指導者であるオマル・アブドゥル=ラフマーンジハード団指導者のアイマン・ザワーヒリーなどが合同し、35000人のムジャーヒディーンが世界各地からアフガニスタンに集まった。MAKはペシャーワルにゲストハウスを設けアフガニスタンのジャラーラーバードなどに軍事訓練キャンプを建設しゲリラ戦を主体としてソ連軍と戦った。富豪であったビン=ラーディンはCIAやサウジアラビア政府と共にMAKの運営やムジャヒディーンによる対ソ戦の資金元となった。

ソ連軍のアフガニスタンからの撤退後、闘争の舞台をイスラエルカシミールコソボアルジェリアなど世界各地の紛争地に求めるムジャーヒディーンが中心となって1988年にアルカーイダを組織した。ここにおいてアブドゥッラー・アッザームはソ連軍撤退後に勃発したアフガニスタン内戦を最優先するのに対し、経済的な側面での実力者であった弟子のビン=ラーディンは世界各地でのテロ作戦を主張し両者の路線対立が表面化した。1989年にアブドゥッラー・アッザームは何者かに子供たちと一緒に爆殺されMAK体制は崩壊し、アルカーイダのメンバーはビン=ラーディンの傘下となった。ビン=ラーディンはアラブの英雄としてサウジアラビアに帰国した。

1991年湾岸戦争が勃発しイスラム教の2大聖地・メッカマディーナを領有するサウジアラビアがアメリカ軍を常駐させたことが、当時サウジアラビアに帰国していたビン=ラーディンや諸国のムジャーヒディーンたちの反米意識を高めさせた。

1992年、宗教指導者で民族イスラム戦線ハッサン・アル=トゥラビの招きでビン=ラーディンは密かにサウジアラビアを抜け出しスーダンに移った。スーダンではオマル・アル=バシールのクーデターが成功、ビン=ラーディンはスーダン滞在中に建設事業などを進める一方でアイマン・ザワーヒリーなどと組織を強化した。しかしテロを続けるアルカーイダはスーダンの厄介者となり、1995年にアイマン・ザワーヒリーはスーダンを離れ世界各地を転々とし、ビン=ラーディンは1996年にアフガニスタンに拠点を移した。

反米闘争とテロリズム

アメリカ同時多発テロ事件へ

1990年代に始まったアルカーイダの闘争は年を追って過激になった。1993年には、思想的指導者となったオマル・アブドゥル=ラフマーンや幹部のハリド・シェイク・モハメド、実行犯ラムジ・ユセフらがニューヨーク世界貿易センタービル爆破事件を引き起こした。1995年には、ウサーマ・ビン=ラーディンの資金提供の元にハリド・シェイク・モハメドが起案しラムジ・ユセフが実行する予定だったアジア各国空港発アメリカ行き旅客機の同時爆破を狙ったボジンカ計画が発覚している。また、これに続く計画では小型航空機をシアーズタワーアメリカ合衆国議会議事堂ホワイトハウスCIA本部等に突入させることも計画されており、これらの計画がアメリカ同時多発テロ事件の原案になっているとされる。

1996年には、在サウジアラビア米軍基地爆破事件を引き起こした。

1998年には在ケニアと在タンザニアアメリカ大使館爆破事件を引き起こし、アフガニスタンターリバーン政権は同年12月に採択された国際連合安全保障理事会決議1214で匿っているテロリストを国際司法機関へ引渡すよう求められ、1999年の安保理決議1267[5]で初めてビン=ラーディンとアルカーイダを名指ししてテロリストの引き渡しが求められた。

2000年にはイエメン沖の米艦コール襲撃事件を引き起こし、同年の安保理決議1333[6]でも再度ターリバーン政権に対してビン=ラーディンとアルカーイダを名指しでテロリストの引き渡しが求められた。しかしターリバーン政権はこれらの決議に応じなかったため経済制裁を受けた。

アメリカ同時多発テロ事件からアフガニスタン紛争へ

2001年にハリド・シェイク・モハメド起案によるアメリカ同時多発テロ事件を引き起こした。これに対して同年10月にアメリカを中心とした有志連合諸国と北部同盟不朽の自由作戦を発動し、ビン=ラーディンとアルカーイダ勢力を匿うターリバーン政権への軍事攻撃を始めたことによりアフガニスタン紛争が開始された。同年12月にターリバーン政権は打倒されハーミド・カルザイ暫定政権が発足した。これによりアルカーイダは資金的・人的に打撃を受けたとされ、これ以降はアルカーイダは小さな組織に分離しそれぞれが活動を行っているとされている。また、2002年の国際連合安全保障理事会決議1390で、ビン=ラーディンとアルカーイダ関係者とターリバーン幹部らの資産凍結が決定されている。

アフガニスタン紛争勃発以後、ビン=ラーディンとアイマン・ザワーヒリーは、アフガニスタンとパキスタンの国境線(デュランドライン)付近のパキスタン側のカイバル・パクトゥンクワ州やパキスタン政府の実効支配が限定的にしか及ばない連邦直轄部族地域付近を逃亡中であると考えられていたことから、アメリカ軍はアフガニスタン新政権樹立後も、ビン=ラーディンやアイマン・ザワーヒリーを捕獲しターリバーンやアルカーイダ残党や現地武装勢力を掃討するために不朽の自由作戦を継続した。この戦いは主に国境をはさんだパキスタン側の連邦直轄部族地域の中のワジリスタン地域で行われていることからワジリスタン紛争とも呼ばれている。2010年5月21日にはアルカーイダのナンバー3でアフガニスタンでアルカーイダを指揮するサイード・アル=マスリー(別名:ムスタファ・アブ・アルヤジド)がアメリカ軍の無人攻撃機により殺害された。2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、「アメリカ軍特殊部隊が潜伏先と見られていたイスラマバード北東のアボッターバードにある邸宅でビン=ラーディンを殺害した」とCNNが報道した[7][8]。これに関してアメリカ合衆国大統領バラク・オバマがCNNの報道直後に声明を発表[9]しており、ビン=ラーディンとされる遺体をアメリカ当局が回収した事、及びDNA鑑定の結果遺体がビン=ラーディンである事も判明した。

イラク占領統治に対するイラク国内におけるテロリズム

2003年末以降、イラク戦争後のアメリカ・イギリスの占領統治下にあるイラクに、アルカーイダ系テロリストが多数潜入・潜伏した。2004年春以降、アルカーイダ系テロリストはアメリカ人やその同盟国の民間人を標的とした数々の誘拐・殺害事件を実行した。2004年10月には、その残忍さから世界中に悪名を轟かせているアブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィー率いるアルカーイダ系のスンニ派武装組織であるイラクの聖戦アルカーイダ組織イラク日本人青年殺害事件を引き起こし、日本全土に衝撃を与えた。同組織は構成員にイラク国外出身者のムジャヒディンを多く含み、外国人の首を切断して殺害したりイラク国内のシーア派住民を無差別に殺害するなどの極端に過激な闘争路線をとっていたことから、他のイラク国内の武装勢力としばしば対立した。

2006年10月には、イラクの聖戦アルカーイダ組織を中心とした5つのスンニ派武装組織が結集して、イラク中部を一方的に自国領土だと主張する過激派の統一機構であるイラク・イスラム国を結成した。

しかし、イラクの聖戦アルカーイダ組織の指導者であったザルカウィと、イラク・イスラム国の指導者であったアブー・オマル・アル=バグダーディー(首長)、アブ・アイユーブ・アル=マスリ(戦争大臣)は、既に米軍イラク治安部隊の合同作戦で死亡しており、現在ではイラク国内のアルカーイダ系勢力は弱体化が進んでいると見られている。そして、イラク・イスラム国の新たな指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーによる新指導体制について、イラクのマリキ首相は「早期に終結させる」と宣言している。

イラク占領統治に対するイラク国外におけるテロリズム

2004年3月11日には、スペイン列車爆破事件が発生した。これに対してアルカーイダの欧州軍事報道官を名乗る「アブ・ハフス・アル・マスリ隊」がアメリカ同時多発テロを引き合いに出しながらスペイン軍のイラク駐留を十字軍に準えて犯行声明を出した。このテロ攻撃は総選挙の3日前に実行されたため選挙結果に決定的な影響を与えることになった。アルカーイダの思惑通り、元々反戦世論の強かったスペインでは事件直後からイラク政策におけるアメリカ追従を続けてきた国民党ホセ・マリア・アスナール政権に対する国民の批判が殺到、イラク撤退を求める市民のデモが相次ぐことになった。またイラク駐留を推進するアスナール政権が事件発生直後からバスク祖国と自由(ETA)による犯行を示唆していたことにより、「イラク撤退を避けるためETA犯行説を捏造したのではないか」という国民の不信を招いた。これに乗じてイラクからの即時撤退を公約に掲げる野党のスペイン社会労働党は国民党を非難、劇的な逆転勝利による政権交代を成し遂げた。4月16日に首相に選出されたホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロは直後に公約通りにイラクからの撤兵を決定、4月18日から5月までに撤退を完了させた。

2005年7月7日には、ロンドン同時爆破事件が発生し、「欧州の聖戦アルカーイダ組織」名義でイラクとアフガニスタンからの各国軍の撤退を求める犯行声明が出された。後にこの犯行声明は信憑性が薄いとされたが、同年9月1日にアルカーイダが公式に犯行を認める声明を発表した。犯行は海外にいるアルカーイダ首謀者の計画によって進められ、イギリス国内のムスリムが実行したものと見られている。

アジアでのテロリズム

一連のボジンカ計画はフィリピン警察が1995年にマニラにあるアルカーイダのアジトに踏み込んだことにより発覚した。ボジンカ計画には、東南アジア各国から出発したアメリカ航空機を同時爆破する計画の他にも、フィリピンに訪問したヨハネ・パウロ2世を暗殺する計画も含まれていた。

1997年にはアルカーイダの母体となったイスラム集団ルクソール事件を引き起こし日本人観光客も死亡している。

イスーラム過激派「ジェマ・イスラミア」(JI)が主導した2002年のバリ島爆弾テロ事件では、アルカーイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドらが関与したことが判明しており、ジェマ・イスラミアは2005年にもバリ島爆弾テロ事件を起こしている。

ラシュカレトイバが主導したと見られる2006年のムンバイ列車爆破事件と2008年のムンバイ同時多発テロでもアルカーイダの関与が疑われている。

また、パキスタンで起こった、2007年のパキスタン・モスク立てこもり事件と2008年9月のイスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件でもアルカーイダの関与が疑われている。

東トルキスタンとの関わり

新疆ウイグル自治区では中華民国時代から、イスラム教徒のウイグル人による東トルキスタン独立運動がある。そのうち東トルキスタンイスラム運動は、中華人民共和国共産主義政権からの独立を目指すために「あらゆる手段を講じても独立を勝ち取る」と宣言しているが、その中でアルカーイダとの係わりを示唆している。2008年4月11日の夕刊フジでは、中国政府が中国全土がテロのターゲットになる恐れがあることを懸念していると報じられた。東トルキスタンイスラム運動は、2008年7月21日に発生した昆明バス爆破事件や、カシュガルで発生した警察に対するテロ事件にも関わっていると見られ、アメリカ、中国両政府からアルカーイダとの強いつながりが疑われる組織として認定されている[10]

日本との関わり

ボジンカ計画の予行演習としてラムジ・ユセフが実行した1994年のフィリピン航空434便爆破事件では、日本人一人が死亡した。

アメリカで逮捕されたアルカーイダ構成員からの証言によると、2002年に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでテロ活動を計画したが、日本にイスラム教徒が少なく協力者が得られないなどの理由で白紙化されたという。また2002年から2003年にかけてにアルカーイダ系組織「ルーベ団」の幹部のアルジェリア系フランス人リオネル・デュモンが偽造旅券で日本へ4回入国し、新潟に潜伏していた事が判明している。

2004年10月にはイラクで、イラクの聖戦アルカーイダ組織がイラク日本人青年殺害事件を引き起こしている。

2007年2月、米ABCテレビはパキスタン情報筋の話として日本国内でアルカーイダと関係の深いパキスタン人武装組織によるネットワーク化が進んでいると伝えた。

2007年10月29日、日本外国特派員協会で行われた講演の中で、鳩山邦夫法務大臣が「私の友人の友人がアルカーイダ」と発言。「2、3年前は何度も来日していたようだ」とも語った。現役閣僚の発言として大きな波紋を呼び、のちに一部発言を訂正した。詳しくはアルカーイダ発言を参照のこと。

テロの特徴

事前にテロの予告を行うことは少ない。予告されることはあるが、これまでに実際にテロが行われたことは無い。ただしこれが本当に予告であったのか、アルカーイダから発せられたものであるのかは検証のしようが無く、また、警戒によって阻止されたものであるのかどうかも確めることはできない。

一方で実行後にインターネット等により犯行声明を行う例が多く見られるが、「アルカーイダの公式サイト」というものは厳密には存在せず、あくまでも「アルカーイダ系とされる組織のサイト」である。また、これらのウェブサイトは攻撃を受けやすい傾向にあり、閲覧しづらいこともある。更に突然閉鎖、もしくは消滅することや、逆に突然開設や再開されることも多い。こうしたウェブサイトは一般にレイアウトが整備されており、組織によっては複数のミラーサイトを有することもある。これらのサイトにはメールアドレスを載せてあることもあるが、多くの場合はアカウントもしくはドメイン名の失効などにより使用できない。また、このようにアカウントを作っては削除されるといった繰り返しは頻繁に行われていたと見られ、ドメイン名やアカウントには組織名に数字を付け足したものが使われていることもある。

こうした事情ゆえか、予告・犯行声明の別を問わず、自らのウェブサイトではなく既存するほかの全く関係の無い掲示板などが使われることもある。特に日本は掲示板アップローダーを有するサイトが多くあること、その使用方法が整備されており初心者にも使いやすく日本語に精通せずとも扱うためのハードルが低いこと、更にはそうした書き込まれた情報やアップロードされたファイルが周知されやすいといった理由からか、使用される傾向が一時期は頻繁に見られた。

テロの手段は、自爆テロ自動車爆弾が特徴である。また、人を最大限殺傷するために基本的に複数の爆弾を同時爆発させ、事件が注目されるよう考慮して早朝に犯行を行う。

イスラム圏での評価

久しくイスラム教の指導者はテロがあるたびに「テロはイスラム教の教えに反する」との声明を出している。

2005年12月9日に閉幕したイスラム諸国首脳会議でも、あらためてテロはイスラム教の教義に反すると明確化された。しかし、イスラム教として、テロ指導者が背教者であるとのファトワは出していない。また、殺害への懸賞金どころか、首謀者等の逮捕についての努力も見られない。

一般的に、ムスリムの多数派、とくにイスラム諸国の政府や宗教指導者はアルカーイダの破壊行為をテロと批判している。しかし、イスラエルやアフガニスタン、イラクの情勢に関して日常的に反米意識を募らせているムスリムの中にはアルカーイダに心情的な共感を寄せる向きがあるとも言われる。アメリカ同時多発テロ事件の際には狂喜乱舞するパレスチナ民衆の映像がマスコミを通じて全世界に流れた。構成員に関しては、異教徒・非イスラム的な生活習慣に取り囲まれ、孤立を感じたヨーロッパなどのムスリム移民の間からアルカーイダに身を投じる者があったことが指摘されている。

その一方、いわゆる「イスラム原理主義過激派」の起こすテロが一般のムスリムをも巻き込んできたこと、またイスラム教が説く慈悲・寛容の精神から外れているとして、「過激派」は現地でもムタタッリフィーン(過激主義者)と称され、社会から異端視されることが多いとされる。

出典

  1. ^ 2012年(平成24年)4月24日外務省告示第158号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象となるタリバーン関係者等を指定する件の一部を改正する件」
  2. ^ Atkins, Stephen E. (May 31, 2011). The 9/11 Encyclopedia. ABC-CLIO. pp. 456–. ISBN 9781598849219. http://books.google.com/books?id=PDDIgWRN_HQC&pg=PA456 2011年5月6日閲覧。 
  3. ^ a b 貫洞欣寛 (2011年6月17日). “ザワヒリ容疑者が後継 アルカイダ、テロ続行か”. 朝日新聞 
  4. ^ a b Marlena Telvick. “Al Qaeda Today”. PBS. 2011年12月30日閲覧。
  5. ^ 安保理決議1267(訳文) 外務省
  6. ^ 安保理決議1333(訳文) 外務省
  7. ^ Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT
  8. ^ ビンラディン容疑者が死亡、米大統領演説へ 2011年5月2日日本時間午後12時08分
  9. ^ President Barack Obama is expected to announce that Osama bin Laden is dead. Movie Stream2011/5/1 EDT. CNN.com
  10. ^ Eastern Turkistan Islamic Movement”. MIPT Terrorism Knowledge Base (2007年5月17日). 2007年8月23日閲覧。

関連項目

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