豊田亨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オウム真理教徒
豊田 亨
誕生 (1968-01-23) 1968年1月23日
兵庫県加古川市
死没 (2018-07-26) 2018年7月26日(50歳没)
日本の旗 日本東京都葛飾区小菅東京拘置所
出身校 東京大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程修了
ホーリーネーム ヴァジラパーニ
ステージ 正悟師
教団での役職 科学技術省次官
入信 1986年9月
関係した事件 地下鉄サリン事件
判決 死刑(執行済み)
テンプレートを表示

豊田 亨(とよだ とおる、1968年1月23日 - 2018年7月26日[1][2])は、オウム真理教元幹部・元死刑囚兵庫県加古川市出身。ホーリーネームヴァジラパーニ

人物[編集]

教団内でのステージは師長だったが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。教団が省庁制を採用した後は科学技術省次官の一人となる。東京大学准教授の伊東乾は大学時代の同級生で友人で、死刑確定後も特別交通許可者として交流を続けた[3]。元オウム車両省大臣・アレフ幹部だった野田成人は高校・大学の先輩にあたる[4]

来歴[編集]

祖父の代からの教員一家に生まれる。家の前は禅宗の寺で、死の恐怖を身近に感じていた[5]。校則に違反するからといって喫茶店にも寄らなかったり、事故を起こすリスクを考えて自動車免許をとらないなど、真面目で慎重な人柄だった[6][7]。父親が教員を勤めていた[8]東京大学理学部物理学科卒業。素粒子理論を専攻し、東京大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程修了。

東大時代は、「必ずノーベル賞を取る」と学業で多忙を極める中、寮の行事にも率先して参加していた。性格は誠実で温厚で明るいナイスガイ、関西弁でジョークをとばす好人物であった[9][10]。物理学の他にもギターを嗜んでいた[11]。研究室で尊師マーチをギターでひいてみせたともされる[12][注釈 1]

入信・出家[編集]

麻原彰晃の著書『超能力秘密の開発法』を東京駅の本屋で見つけたことをきっかけに[13][5]、大学入学年の1986年9月からまだヨガ教室であったオウム真理教の前身オウム神仙の会に入会。当時豊田は「カレーとヨガのサークルに遊びに来ませんか」と女の子のオルグ要員に誘われていたという[14]1992年4月には博士課程に進学するが1ヶ月経たないうちに中退、出家信者となった。出家番号は962。豊田に出家を勧めたのは、高校・大学時代の先輩にあたる野田成人である[15]。 野田が生活していた寮に遊びに来ていた際に部屋にあった本を読んでおり、オウムのセミナーでばったり会う[16]。 友人の伊東乾は、豊田の出家の背景の1つに素粒子理論の研究室に属し、豊田は宇宙の本質的メカニズム、力の統一理論や宇宙論などに興味を持っていたが、当時の東大素研がオリジナルな研究をさせない指導力量不足で指導体制に大いに失望したことを挙げている[17]

周囲には「女の子の看病をする」と手紙を残し行方不明になり[7]、その後オウムの本を送ってきたため出家していたことが分かった[4]

1990年2月の総選挙の時はお面をかぶりながら、麻原彰晃の側で歌って踊っていた。豊田自身は当時22歳で被選挙権がなかったこともあり、立候補はしていない。

教団にいた頃、乗っていた車が交通事故に遭って怪我をしてまぶたに傷が残ったが、豊田はこの怪我について一切の不平不満を言わなかったという[18]

事件への関与と裁判[編集]

教団の核開発を担当し、オーストラリアに「豊田研究所」を持っていた[19]

1995年3月20日地下鉄サリン事件ではサリン散布の実行犯に指名され東京の地下鉄日比谷線を担当、1人を死亡させ、358名に重傷を負わせた。

同年5月15日井上嘉浩と共に秋川市(現:あきる野市)で逮捕[19]。同日発生の東京都庁小包爆弾事件4月30日5月3日5月5日新宿駅青酸ガス事件、この他自動小銃密造事件にも関与し、以上4つの事件で起訴された。

豊田は淡々と冷静に証言するだけだった。豊田は「自分がした行為は人間として許されない」「このような事件が2度と起こらないようにするのが極めて当然である」「罪の重さに目の前が真っ暗になる。償いの言葉すら残されていない」「私のような者が生きていること自体が申し訳なく、浅ましい」と自己責任を主張した[20]。これに関して豊田は地下鉄サリン事件の遺族に宛てた手紙の中で「裁かれる者として、遺族・被害者の方の不快感を増大させる言動を慎むことが最低限のとるべき態度だと考えます」と述べた。

1999年に豊田、杉本繁郎公判に麻原が証人として出廷した際には、麻原が意味不明な発言などを繰り返したため「松本被告、僕は今日何も言わないつもりできたんですけれども、今日のあなたの態度を見て考えが変わりました。あなたは本当にグルなんですか」と麻原に問いかけた。麻原は黙っているだけだった[21]

また検察官に「麻原に対して現在の心境は」との問いに「広瀬証人として出廷した公判での言動(麻原は宣誓書の署名に関して英語で対応し続け裁判長に退廷を命じられた)については怒りを通り越して哀しい」と共犯への心遣いも見せた。

2000年7月17日の第一審では「人格優秀、学業優秀、しかしながら人格等において優れていたとしても、それは、地下鉄サリン事件等の被害者にも言えること」として死刑判決[22]2004年7月28日控訴審ともに死刑判決を受け上告していたが、2009年11月6日に上告棄却が決定し、死刑が確定した[23]

2015年の地下鉄サリン事件の公判では、他の死刑囚が出廷する中、拘置所での証人尋問となったが、その理由は「自分は拘置所から一歩も出てはいけない。それが贖罪だ」だったという[24]。2018年7月26日に東京拘置所死刑が執行された[1][2]。50歳没。

友人の伊東乾によると、豊田は2018年7月6日に麻原彰晃ら7名が死刑執行されたあと、身辺整理を始め、匿名で手元にあった現金を2018年西日本豪雨被害者救済の義援金に全額寄付したという[3]

人物評[編集]

  • 「"約束したこと、決めたことは絶対にやる"というのがポリシーの人」-早坂武禮(元オウム自治省次官)[25]
  • 「オウムの人たちは基本的にまともでした」「豊田さんは、物理なのか、数学なのか分からないですが、いつもめちゃくちゃ勉強していました。たまに接する機会もありましたが、話し方が丁寧な人でした」-衛生夫[26]

関連事件[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 伊東乾は聴いたというが、豊田は否定している[12]

出典[編集]

  1. ^ a b “オウム真理教の死刑囚6人に刑執行”. NHK NEWS WEB (日本放送協会). (2018年7月26日). オリジナルの2018年7月26日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/F9I7m 2018年7月26日閲覧。 
  2. ^ a b “オウム全死刑囚の刑執行【オウム死刑囚の刑執行 速報中】”. 共同通信社. (2018年7月26日). https://this.kiji.is/395004923966309473 2018年7月26日閲覧。 
  3. ^ a b “オウム豊田亨死刑囚 執行までの3週間に親友が見た苦悩 麻原執行後に筆記具を取り上げられた (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)”. 朝日新聞出版. (2018年7月28日). https://dot.asahi.com/articles/-/126242 2018年10月23日閲覧。 
  4. ^ a b 降幡 2002, p. 60.
  5. ^ a b 江川紹子 『魂の虜囚』p.292-293[要文献特定詳細情報]
  6. ^ 降幡 2001, p. 205.
  7. ^ a b 降幡 2002, p. 19.
  8. ^ 杜祖健『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』角川書店、2018年、165-166頁。ISBN 9784041029701 
  9. ^ 佐木隆三 『大義なきテロリスト』 日本放送出版協会、2002年11月、pp.34-51。
  10. ^ 伊東 2006, p. 197.
  11. ^ 降幡 2002, p. 49.
  12. ^ a b 伊東 2006, p. 202.
  13. ^ 降幡 2001, p. 207.
  14. ^ itokensteinのツイート(376133495728263168)
  15. ^ 13名の命を奪った「地下鉄サリン事件」実行犯たちの今|デイリー新潮”. 新潮社. 2018年8月5日閲覧。
  16. ^ 早坂武禮『オウムはなぜ暴走したか。―内側から見た光と闇の2200日』ぶんか社、1998年、208頁。ISBN 4821106396 
  17. ^ itokensteinのツイート(468884898728919040)
  18. ^ 『カナリヤの詩』カナリヤの会会報『カナリヤの詩』第9号より
  19. ^ a b 西村雅史・宮口浩之監修 『オウム真理教大辞典』 東京キララ社編集部編、東京キララ社、2003年10月、p.99。
  20. ^ オウム元信者・豊田亨死刑囚とは TBS NEWS”. TBS. 2018年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  21. ^ 降幡 2002, p. 211.
  22. ^ 降幡 2002, p. 270.
  23. ^ “地下鉄サリン散布役の2被告、死刑確定へ…上告棄却”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). オリジナルの2013年8月28日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/44Qjs 
  24. ^ “<オウム>6人それぞれの贖罪 水墨画で実母への思い”. 毎日新聞. (2018年7月27日). オリジナルの2018年7月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180727024324/https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180727-00000001-mai-soci 
  25. ^ 『「オウム死刑囚」13人の罪と罰(8)』週刊新潮2018年4月12日号
  26. ^ 『週刊実話』2023年4月20日号

参考文献[編集]

  • 伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー ―地下鉄に乗った同級生』集英社、2006年。ISBN 4-08-781368-1 
  • 降幡賢一『オウム法廷〈10〉地下鉄サリンの「実行犯」たち』朝日新聞社、2002年。ISBN 4-02-261397-1 
  • 降幡賢一『オウム法廷〈7〉「女帝」石井久子』朝日新聞社、2001年。ISBN 4-02-261330-0