中川智正

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中川智正
誕生 1962年10月25日(52歳)
岡山県岡山市
ホーリーネーム ヴァジラティッサ
ステージ 正悟師
教団での役職 法皇内庁長官
入信 1988年
関係した事件 坂本堤弁護士一家殺害事件
松本サリン事件
地下鉄サリン事件
判決 死刑(上告棄却)

中川智正(なかがわ ともまさ、1962年10月25日 - )は、元オウム真理教幹部。確定死刑囚岡山県出身。ホーリーネームヴァジラ・ティッサ。中学校時代のあだ名はケツ麻原彰晃の主治医。

人物[編集]

1977年3月岡山大学教育学部附属中学校1980年3月岡山県立岡山朝日高等学校1988年3月京都府立医科大学医学部医学科卒業。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。1988年2月にオウム真理教に入信。オウムとの出会いは、医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場を覘いたことが発端となっている。

1988年5月に医師免許を取得し、研修医として一年ほど勤めた後の1989年8月末、周囲の反対を押し切り退職し出家

1995年8月22日、自ら申請して医師免許取消処分。自ら申請というのは前例はなかった。

オウム真理教での略歴[編集]

出家してわずか2ヵ月後の1989年11月、坂本事件に関わることになる。

1989年11月2日夜、富士山総本部の麻原の部屋へ呼びつけられる。部屋には早川紀代秀村井秀夫など主だった幹部が集まっていた。「坂本は教団批判をしている。あいつは許せない。殺さなければ。家に帰る途中でさらって注射を打つのはどうだ」と麻原に言われる。中川が坂本弁護士の名を聞いたのはこのときが初めてであった。翌朝、中川は5人の幹部とともに富士山総本部を出発。坂本弁護士を外で待ち受ける計画は失敗。報告を受けた麻原は家に押し入り、一家を殺害するよう指示(坂本堤弁護士一家殺害事件)。午前3時、中川は他の幹部のあとより坂本の自宅へ入る。先頭は新実智光端本悟、中川は一番後ろだった。ドアは開いており、最後に入った中川はドアを閉めた際に音を立ててしまい、他の幹部に「静かにしろ」と叱られる。家族3人が川の字になって寝ていた。緊張で胸がどきどきしどおしだった。中川はまずはじめに成人男性の坂本の抵抗力を封じるために薬剤を注射。その後、1歳の長男龍彦にも手をかける。このとき坂本の妻に「せめて子供だけは」と懇願されるがその願いに耳を貸すことはなかった。そうこうするうちに龍彦は目を覚まして泣きだした。これに対し誰かになんとかしろと言われ、あやして宥める手段は講じず、座布団をかけたのち、口をふさぎ殺害した。3人の遺体を車に乗せ富士山総本部へ向かうが、その車中、中川は怖くて何がなんだか分からず目をつぶっていたが体の震えが止まらなかった。総本部に到着した時には呆然としていたが、麻原から平然と「顔色が悪いね」と労われる。この事件の功績を認められ、中川は麻原の側近に取り立てられ、その後の一連の事件に関わっていくことになる。坂本弁護士の事件はいちばんショックであったが、そのあとは断れば自分もそういう目に遭うのだと思うようになる[1]

1990年第39回衆議院議員総選挙には真理党から旧神奈川3区で立候補し落選。

教団が1994年省庁制を採用すると、法皇内庁長官になった。1995年には地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格することになった。1995年5月17日逮捕される。

公判[編集]

一連のオウム真理教事件で計11件25人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われている。

1995年10月24日に開かれた第一審(当時池田修裁判長)初公判では、ロッキード事件田中角栄の第一審判決公判(3904人)を超える4158人の傍聴希望者が集まった。公判では当初、事件そのものへの証言を避けていたが、一審途中から供述を行った。

地下鉄サリン事件で使用されたサリンは、教団としてサリンの材料の殆どが証拠隠滅のために処分される中で、中川が密かに所持していた一部の原料から生成されたと検察側は主張した。中川とその弁護団はこれを否定、中川らが処分できなかったサリン原料の一部を井上嘉浩が保管していて、それが地下鉄サリン事件のサリン原料になったと主張した。中川の一審判决はこのサリン原料の由来を「不明」とし、最終的にこの判决が確定した。

2003年10月29日東京地方裁判所での第一審(交代した岡田雄一裁判長)で死刑判決、2007年7月13日東京高等裁判所での控訴審植村立郎裁判長)でも死刑判決を受けている。控訴審では、2組3名の医師が、入信・出家から各犯行時における彼の精神状態について意見書を提出した。それらによれば彼は入信直前から解離性精神障害ないし祈祷性精神病を発症していた。犯行時の責任能力については、「完全責任能力」「限定責任能力」と医師の判断が分かれた。高裁の判断は、彼が精神疾患にかかっていた可能性を認めたが、責任能力はあったとした。

中川の状態は文化人類学シャマニズムでいう巫病の状態であったとの指摘もされている[2]

その後、弁護団上告したが、その上告趣意書の中で、オーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士の意見書や絞首刑に関する過去の新聞記事を引用し、「絞首刑では死刑囚はすぐ死亡するわけではない」「首が切断される場合もある」などとして、絞首刑は憲法36条が禁止した残虐な刑罰である、首が切断された場合は絞首刑ではないから憲法31条に反するなどと主張した[3]

2011年11月18日最高裁第2小法廷は被告側の上告が棄却され、死刑が確定した[4]オウム真理教事件で死刑が確定するのは12人目。2015年現在、東京拘置所収監されている。

中川は、麻原の公判に証人として出廷した際、「サリンを作ったり、ばらまいたり、人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫んだ。また最終意見陳述では「一人の人間として、医師として、宗教者として失格だった」と謝罪した[5]

その他[編集]

甲本ヒロト水道橋博士らとは付属中学校時代の同期生である。

リチャード・ダンジック(en:Richard Danzig)元米海軍長官のオウム真理教に関する研究に協力し、ダンジックが中心になって発行したレポートの中で、中川に対しては「特に、中川智正博士(ママ)の惜しみない情報提供には恩義を感じていることをここに記しておきたい。本稿がもし、この種の攻撃脅威に対する理解を深め、防止につながるものになるとすれば、それはこれらの多大なご協力によるものである。」と評されている[6]

死刑確定後は、俳人の江里昭彦と俳句同人誌「ジャム・セッション」を創刊し、独房での内省の句を詠んでいる[7]

脚注[編集]

  1. ^ NHKスペシャル『深き闇の中から~オウム真理教 信者の供述』[1][2]
  2. ^ 藤田庄市 「彼はなぜ凶悪犯罪を実行したのか ルポ オウム真理教・中川智正被告裁判」『世界』2004年4月号、岩波書店
  3. ^ 中川智正弁護団・ヴァルテル・ラブル 『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか』 現代人文社、2011年
  4. ^ “オウム中川被告、死刑確定へ 最高裁が上告棄却”. 朝日新聞. (2011年11月18日). オリジナル2011年11月20日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20111120001307/http://www.asahi.com/national/update/1118/TKY201111180276.html 2013年11月14日閲覧。 
  5. ^ オウム全公判終結
  6. ^ オウム真理教:洞察―テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか "Richard Danzig, Marc Sageman, Terrance Leighton, Lloyd Hough, Hidemi Yuki, Rui Kotani and Zachary M. Hosford"(Doreen Jackson、アラキ・タカヒロ訳)
  7. ^ 『東京新聞』2012年11月4日「オウム中川死刑囚が俳句同人誌 独房の内省詠む」

関連事件[編集]