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肥後国

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肥後国

-肥後国
-西海道
別称 肥州(ひしゅう)[注釈 1]
所属 西海道
相当領域 熊本県
諸元
国力 大国
距離 遠国
14郡99郷
国内主要施設
肥後国府 1.(推定)熊本県熊本市南区
2.熊本県熊本市中央区
3.(推定)熊本県熊本市西区
肥後国分寺 熊本県熊本市
肥後国分尼寺 熊本県熊本市
一宮 阿蘇神社(熊本県阿蘇市
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肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、熊本県に属する。

沿革

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元来は肥前国と合わせて火国・肥国(ひのくに)であった。「肥後国」として初めて文献に現れるのは持統天皇10年(696年)頃であり、7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。

近世以降の沿革

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領域

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明治維新直前の領域は、現在の熊本県全域に宮崎県の一部(下記)を加えた区域に相当する。ただし、宮崎県内の区域は1872年明治5年)に日向国に移管されている。

肥後国から薩摩国へ移った地域

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室町時代の後期まで長島伊唐島諸浦島獅子島(現在の鹿児島県出水郡長島町)は、肥後国天草郡に属していたが、1565年永禄8年)から1581年天正9年)にかけて島津氏から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。

国内の施設

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

国府

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国府所在地を記した文献は次の通り。

国府は託麻郡、益城郡、飽田郡と変遷したとされる[4]。それぞれ託麻国府は熊本市中央区国府(北緯32度47分14.25秒 東経130度43分22.66秒 / 北緯32.7872917度 東経130.7229611度 / 32.7872917; 130.7229611 (第一次肥後国府(託麻国府)))、益城国府は未詳(諸説)、熊本市西区二本木の二本木遺跡と推定されている[4]

国分寺・国分尼寺

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国分寺七重塔心礎

神社

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延喜式内社

延喜式神名帳』には、次に示す大社1座1社・小社3座3社の計4座4社が記載されている(肥後国の式内社一覧参照)。大社1社は次に示すもので、名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく総社・一宮以下の一覧[5]

以上のほか、郡浦神社宇城市三角町郡浦)が三宮を称する[7]

安国寺利生塔

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  • 安国寺 - 熊本県熊本市西区横手。
  • 安國寺 - 熊本県宇土市花園町佐野。
  • 安国寺 - 熊本県菊池市豊水。
  • 利生塔 - 如来寺(熊本県宇土市岩古曽町)内に設置。

地域

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江戸時代の藩

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人物

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国司

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※日付=旧暦

肥後守

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肥後介

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  • 豊宗広人809年(大同4年)1月23日 - 812年(弘仁3年)4月19日)従五位下
  • 菅原清人(812年(弘仁3年)4月19日 - )従五位下
  • 橘真直842年(承和9年)頃)従五位下
  • 菅原梶吉(843年(承和9年)8月11日 - )外従五位下
  • 山池作(848年(嘉祥2年)1月13日 - 2月27日)外従五位下
  • 高丘貞雄(848年(嘉祥2年)2月27日 - )外従五位下
  • (権介)県犬養氏河(853年(仁寿3年)8月8日 - )従五位下
  • 橘仲宗(854年(斉衡元年)5月11日 - )従五位下
  • 大原真室(855年(斉衡2年)1月15日 - )従五位下
  • 藤原正峯(858年(天安元年)1月16日 - )従五位下
  • (権介)大原真室(859年(貞観元年)1月13日 - )従五位下
  • 橘朝雄(864年(貞観6年)1月16日 - )従五位下
  • 平住世(866年(貞観8年)1月13日 - )従五位下
  • 橘子善(869年(貞観11年)1月13日 - )従五位下
  • 藤原智泉(877年(元慶元年)頃)従五位下
  • 大神良臣(886年(仁和2年)1月16日 - 2月21日)外従五位下
  • 三善清行891年(寛平3年)1月30日 - 893年(寛平5年)1月11日)従五位下
  • 藤原令門(925年(延長3年)頃)
  • (権介)藤原遠美( - 978年(天元元年)秋)
  • (権介)藤原頼兼(978年(天元元年)秋 - )正六位上
  • 源家基

守護

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鎌倉幕府

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(安達泰盛と竹崎季長蒙古襲来絵詞』前巻、絵九)

室町幕府

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戦国時代

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戦国大名

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  • 菊池氏:肥後国守護。1504年、22代菊池能運が没すると、急速に没落
  • 阿蘇氏:阿蘇神社大宮司家で鎌倉以来の名門だが、1585年島津氏に降伏
  • 相良氏:最盛期には球磨・八代・葦北を領するが、1581年島津氏に降伏。後に豊臣政権の小大名として復活

豊臣政権の大名

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  • 佐々成政:肥後一国、1587年 - 1588年(肥後国人一揆の鎮圧に失敗し、改易・死罪)
  • 加藤清正:肥後北半国19万5千石(熊本城)、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、肥後一国52万石の熊本藩に)
  • 小西行長:肥後南半国20万石(宇土城)、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易・死罪)
  • 相良頼房:人吉2万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、人吉藩に)

武家官位としての肥後守

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江戸時代以前

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江戸時代

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肥後国の合戦

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脚注

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注釈

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  1. ^ 別称「肥州」は、肥前国とあわせて、または単独での呼称。

出典

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  1. ^ 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)29コマ参照。
  2. ^ 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)59コマ参照。
  3. ^ 『節用集 易林本』(国立国会図書館デジタルコレクション)144コマ。
  4. ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, p. 621.
  5. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 618-621。
  6. ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, p. 620.
  7. ^ 三角町史編纂委員会編纂 『三角町史』 三角町役場、1987年。

参考文献

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  • 中世諸国一宮制研究会編 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708 
  • 角川日本地名大辞典 43 熊本県
  • 旧高旧領取調帳データベース

関連項目

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